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水底での目覚め

作者: ろろピーナ

静寂。もの寂しい冬の、乾燥した朝によく似合う無音の部屋。

仄かに青い光で満たされたその部屋は、勉強机に、椅子、大きなクローゼットに、シングルベッドが置かれているだけのシンプルな部屋だった。

生命の息吹が遠くにあるような、なんとも言えない無機質なその部屋の様子を変えたのは、耳障りな電子音。

ベッドの枕元に置かれたスマートフォンが振動し、その部屋の主に起きる時間が訪れたのだと知らせる。

部屋の主たる少女は、寝癖のついた頭を布団から出して、ようやくスマートフォンを止めた。途端に、部屋には静寂が戻る。

先程までと違うのは、のそのそと起き出した少女が、ベッドの上で座り込んでいることだろうか。

「早く起きなさい!」

下の階からそんな声が聞こえたのは、少女がアラームを止めてから実に30分ほどの時間が流れたあとのことだった。


「おはよぉ」

「おはよう」

ご飯出来てるよ、と台所から顔を出して言った母に曖昧な返事をしてさっさと洗面所に向かう。

今日は土曜日だ。友人たちと遊びに行く約束がある。

少女は顔を洗い、歯を磨く。

髪を結ぼうとして、その前に服を着替えることにした彼女は2階にある自室へと引き返す。

クローゼットを開けて、中の服を眺める。

二つの候補にまで絞った彼女は、両手に服を持って階段を駆け降りる。

「おかーさーん!どっちがいいかなー?」

母親の前で、二つを見せるように掲げた彼女。母は娘が両手に持つ服を見る。

片や、ゆったりしたシルエットのパーカーに、黒いミニ丈のプリーツスカート。

片や、ニット生地のワンピース。

母は顔を顰めていた。

「アンタそれ寒いよ。ズボンないの?」

「えー?タイツ履くし寒くないよー」

「それなら良いけど…どこ行くの」

「うんとね、映画館行ってお昼食べてカラオケ行く予定ー」

「じゃあどっちでも良いんじゃない?」

「困るー!」

「じゃあワンピース」

「わかったー、パーカーにする」

「わざわざ聞いた意味ないじゃない」

半目で娘を見やる母に、少女は笑う。

「おかーさんが考えた逆にするつもりだったの」

母はため息を吐いて、はいはい、と適当に相槌を打つ。そんな母が面白くないのか、少女は僅かに頰を膨らませて、さっさと着替えを済ませる。

母が作った朝ごはんを食べながら、母に今日の予定を聞く。母は1日家にいるそうだ。

適当に聞き流し、朝ごはんを食べ終えた彼女は再び洗面所へと向かう。

丁寧に手入れをしている黒髪をハーフアップにして、軽く化粧を施す。薄く紅やチークを乗せるだけの薄化粧だが、未だ義務教育の域を出ない少女にとっては精一杯の背伸びと言えよう。

たっぷり20分ほどの時間をかけて身支度を整えた。

玄関にある姿見の前で一周回転する。変なところはないはずだ。

足首あたりにモコモコのついているブーツを履いて、荷物を確認する。

財布、鍵、ハンカチ、ティッシュ、折り畳み傘、スマホ。

忘れ物がないことを確認して、少女はようやく家を出た。

朝に彼女が起きてから、実に1時間半という時間が経過していた。


楽しい時間というものは過ぎるのが早いものだ。

あっという間に夜の9時になっていた。

少女はとても楽しめたようだった。顔に喜色を浮かべて軽い足取りで家に向かう。

電気のついた家。

鍵の開いている家。

違和感はなかった。

母は予定がないと言った。家にいると。

だから、少女はごく普通に、ただいまという帰宅を知らせる挨拶をしたのだ。

帰ってきたのは沈黙だけだった。

そして初めて、少女は訝しんで眉を顰めた。

「おかーさーん?」

リビングには誰もいない。

風呂場にもいない。

トイレにも、母の寝室にも、仕事場にも、自身の部屋にも、母の存在はない。

おかしいと思ってスマホを確認する。連絡アプリを開き、母にメッセージを送る。

既読がつかない。

「……どこ行ってるの?」

少女は電話をすることにした。焦りが募っているのか、ほとんど無意識のうちに貧乏ゆすりが始まっている。

スマホを耳に近づけようとして、気づく。

着信を知らせる音が、"家の中"から聞こえた。

音のする方へ向かい、扉を開ける。その部屋___風呂場は、確かに先程確認したはずだというのに、先程まではなかったはずの、母のスマートフォンが、浴槽の縁に置かれていた。

「…なんで……」

困惑のまま、それを取ろうと足を踏み入れ……思わず引っ込めた。

足の裏が濡れたからだ。

よく見れば、風呂場の床が濡れている。つい先程まで、誰かが風呂に入っていたかのような風呂場は、まだ微かに温かく湿った空気に満ちている。

とりあえず、母のスマートフォンを回収してリビングに戻った少女はソファに座って、その緑のケースに身を包むスマートフォンを見つめる。

母がスマホを風呂場に持っていく姿など見たことがない。どうしてあんな水場に電子機器を持ち込んだのか、と少女はその白く細い首を傾げる。

何より、こんな時間になっても帰って来ないこと自体が変だ。

少女は改めてリビングを見回す。大きな窓のカーテンが閉まっていないことに気づいて手を伸ばし、シャッという音と共にカーテンを閉める。

その時に、ふと違和感を感じて窓の外を見た。

(……気のせいかな?)

誰かに見られてたような気がしたんだけどなぁ、と。

少女は心細く思いながらも風呂場に向かう。

もしかしたら、何か急用があったのかもしれない。

明日には、帰ってきているだろう。

そんな思考のもと、少女は風呂に入り、自室へ向かう。

布団に潜り込んで、目を閉じた。

___ぴちょん、ぴちょん、と。

水が滴るような音が、聞こえた。



静寂。無音と、仄かに青い光に満ちた部屋。

その広くも狭い部屋は、勉強机に、椅子、大きなクローゼットに、シングルベッドが置かれているだけの、無機質な部屋だった。

海中を思わせるようなその部屋の様子を変えたのは、耳障りな電子音。

少女は、枕元に置いたスマートフォンに触れる。アラームを止めて、むくりと起き上がった。

目の下には薄らとくまが付いている。

スマートフォンの画面を見て、今の時間を確認する。

今日は、母と母の実家に行く日だ。

少女はさっさとベッドから降りて着替えを済ませる。母が昨日選んだ、ニット生地のワンピースを着て、階段を降りた。

いつも通り、少女よりも早くに起きて朝ごはんを用意している母の姿を期待して、リビングに入る。

「おはよう」

少女の独り言が、虚しくも地に落ちて消えた。

無人なそこは、やはり、昨日の夜に少女が帰宅してからなんの変化も見られない。

洗面所に向かい、顔を洗って歯を磨く。目の下のくまを見て苦笑し、それから髪をポニーテールに結んだ。

母は常々、朝ごはんはちゃんと食べるように言っていたから、少女は食パンを焼き、バターを塗って、それを朝食とした。

生憎と家にトースターはなく、オーブンで焼いたは良いものの、上手く焼けずにだいぶ焦がしてしまったが、文句を言うこともなく食べて、流しの水に浸して置いておく。

母方の実家は、車で2時間ほどの距離にある。しかし高速に乗る必要があり、その高速を利用した道順ならばある程度わかるものの、下道だけを使用するとなると、いきなり自信がなくなってしまう。

「…おかーさん、何時に行くって言ってたっけ」

連絡して、事情を話し、助けを乞おう。

少女はそう決意して、祖母に連絡を入れる。

既読は、すぐについた。

『あら、お母さんいないの?』

『うん。帰って来てないみたい』

『おばあちゃんたちがそっちに行くから、良い子で待っててちょうだいね。』

『わかった』

ひとまず、これで平気だろう。

少女は安堵してソファに座り込んだ。

昨日の朝に見た母の顔を思い出す。

___思い出そうとして、気づいた。

(……思い出せない…?)

服装は、覚えている。

何をしていたかも、覚えている。

顔だけが、その記憶だけが、すっぽりと抜け落ちているのだ。

母の顔を見ていなかったのだろうか。もし仮に見ていなかったとして、顔だけを綺麗に忘れることなど、果たしてあるのだろうか。

ゾッとした。

背筋が薄寒くなって、思わず身を丸める。

(おばあちゃん…おじいちゃん……!)

早く来て。

その細やかな願いが果たされたのは、実に2時間と半分もの時間が経過した後だった。


「おばあちゃん…」

「大丈夫よ。おばあちゃんがいるからね」

警察署からの帰り道。

皺だらけの祖母の手を握りながら、少女はか弱い声で祖母を呼ぶ。

少女の右手を優しく包む祖母は、いつも通りの穏やかで柔らかい笑みを浮かべていた。

「のう、母さんは昨日、何も言っておらんかったのかい?」

祖父が聞いた。少女は自身の左側を歩く祖父に、首を縦に振って答えた。

祖父と祖母が顔を見合わせたのが、雰囲気でわかった。

「お父さんに連絡したほうがいいわよねぇ」

「そうだなぁ。わしが連絡しておこうかの」

「お願いねお爺さん」

少女は地面を見ながら歩き続けた。

___母の捜索願を出した。

警察署の人間は、少女のことを傷ましそうに見つめて承諾し、尽力すると誓ってくれた。

それでも、少女は不安だった。

普通じゃなかった。

母がスマホを忘れて出歩くとは思えない。だからと言って、風呂場に持ち込むとも考えにくい。

たった1日だ。その間に、母は何事もなかったかのように姿を消してしまった。

祖父母は、母が見つかるまで共に暮らしてくれるらしい。

その日の夜、少女は早くにベッドの中へ潜り込んだ。

夕方、祖母と共に夕食のための買い物に行って、帰った時。リビングから聞こえた言葉。

「そうか…帰れんか……いや、わしらがついとるよ。構わなくていいからの。すまんのぅ、仕事中に変な話をして」

父は、帰ってこない。

母がいなくなっても、仕事優先の父のことを、少女は果たしてどのように認識したのだろう。

枕に顔を埋めて、目を閉じる。

___ぴちょん、ぴちょん、と。

水が滴るような音が、聞こえた。



静寂。海中を思わせる無音と、青い光に満たされた部屋。

その不気味な部屋は、勉強机に、椅子、大きなクローゼットに、シングルベッドが置かれているだけの、無機質なものだった。

その不気味で底冷えのする雰囲気を払拭するような電子音が、今日も鳴り響く。

少女は枕元のスマートフォンに手を伸ばし、アラームを止めた。

スマホの画面を見て、今日が平日なことを思い出した。

学校の制服を着て、部屋を出る。

「おはよ」

「おはよう、早いねぇ」

「おはよう、いい朝だねぇ」

祖父と祖母が笑顔を浮かべて答えてくれた。少女はホッとする。

「今日午前授業だから、早く帰ってくると思う」

「わかったわぁ、お昼はどうするの?」

「家で食べる」

「そうなのね、わかったわ。朝ごはん出来てるわよ」

穏やかな祖母の笑みに笑顔を返して、少女は席につく。

いただきます、と手を合わせて箸を手に取った。

ごちそうさま、と手を合わせて少女は席を立つ。流しに食器を持っていく。水に浸そうとして、それに触れることを躊躇った。何故だろうかと考えようとして、それはやめた。とりあえず流しに食器だけを置いて、台所を後にする。

洗面所に向かって顔を洗い、歯を磨き、髪を整えた。櫛で髪を梳き、寝癖をなくす。満足して、櫛を置いた。

自室に戻って荷物を取り、一階へ戻る。

スマホを見ればちょうど良い時間だ。いつもよりも少し早い出発になるな、とぼんやり思いながら玄関の扉を開けた。

「いってきます」

背にした扉の向こうから、2人分のいってらっしゃいという声が聞こえた。


太陽がまだ南の空に居座っているような時間帯に、少女は家へと帰って来た。

普段ならば、そういう日こそ友人と遊んで帰るのだが、今日はとてもそういう気分にはなれなかった。

「ただいま」

鍵のしまっていた扉を開けて、家に入る。

リビングまで行って、祖父母の姿が見当たらないことに気づいた。

焦って周囲を見渡し、机の上にメモが残されているのに気づく。

『お買い物に行ってきます』

連絡してくれればいいのに、と少女は思いながら微かに笑う。祖母も祖父も、抜けているところがあるから、と。ほんの少し心が軽くなった気がした。

いつ帰ってくるかな、と思いながら2階へ向かう。荷物を置くついでに着替えを済ませてからリビングに戻り、ソファに腰掛けた。

時計の針が1時を回り、2時を回り、3時を回った頃、少女のスマホに電話が来た。

見慣れない電話番号の、不審に思いながらも警察かなと思って応答する。

「もしもし…………はい、そうです。昨日捜索願を出した……はい、はい。そうです…………え?うそ、おばあちゃんが?おじいちゃんは……え、家に?いませんよ?てっきりおばあちゃんと一緒だと………はい、はい……駅前の総合病院ですね?わかりました……すぐ行きます」

電話を切る。

少女は呆然としたまま、5分ほどその場に立ち尽くし、それから、部屋着のまま、財布と鍵とスマホだけを持って家から飛び出した。


家に帰った頃には既に8時だった。

未成年だから、と警官が帰してくれたのだ。

家には誰もおらず、やはりと言うべきか、祖父も帰っていない。

少女は疲弊していた。風呂に入る気力もなかった。ふらふらと半ば自動的に階段を登り、ベッドに身を投げる。

祖母が死んだ。

交通事故だそうだ。相手は普通の軽自動車。白い相手の車は、祖母の血で真っ赤に染まってしまったらしい。

相手方が言うには、祖母が突然道路に飛び出したらしい。やむを得ずブレーキを踏もうとしたものの、祖母が自ら突っ込むように駆けてきたため、避けきれなかったようだ。

顔色を悪くした相手を責める気も起きず、とうに冷たくなり血の気の引いた祖母の皺だらけの左手を握って、30分ほどぼーっとしていた。その後は、警察と色々な話をすることになった。

母のことや父のこと、祖父のこと、頼れる大人のこと。

母については、まだ何もわかっていないらしい。昨日の今日だ。少女も期待はしていなかった。

父のことを話せば、警官たちが顔を顰めていた。海外出張で長らく家に帰ってきていない父は忙しい。多分、帰ってきてはくれないだろう。婚姻関係が破綻しているだとかなんとかと酔っていた母が口にしていたのを思い出して、そのまま警官に伝えることにした。

祖父は、帰ってきてから見ていないことを話した。連絡を入れたが、未だ既読にさえならない。祖母と一緒かと思っていたが、軽自動車に乗っていた人らが言うには、彼らが見たのは祖母1人だけだとのことだった。

他に頼れる大人はいないかと聞かれたが、わからないと答えた。父方の祖父母は既に死んでいると聞かされている。連絡先も住所も知らないため、仮に生きていても頼れそうにない。

少女は目の前が真っ暗になった心地だった。

つい最近まで、普通に起きて普通に生活していたはずなのに、そんな日常が遠い昔のように思えてならなかった。

祖母が死んだ。

その事実に手足の指が冷えていくのを感じる。

布団を頭からすっぽりと被って目を固く瞑る。

___ぴちょん、ぴちょん、と。

水が滴るような音が、聞こえた。



静寂。深海のような無音と仄暗い青に満たされた悍ましい部屋。

そのおどろおどろしい部屋は、勉強机に、椅子、大きなクローゼットに、シングルベッドがあるだけの、どこにでもあるようなものだった。

そんな忌まわしい妄想を少女の脳内から追い出したのは、やはり耳障りな電子音。

布団からのそのそと顔を出し、やっとの思いでスマホのアラームを止める。

ブルーライトが眩しい画面を見て、息を吐く。

学校に電話をかける。

暫くして電話が繋がる。少女が手短に要件を伝えると、電話を取った教師は驚いたように短く声を漏らし、その後、少女を気遣うような言葉を投げかけて、実にあっけなくその電話は終わった。

少女は私服に着替えて、寝癖も気にせず飛び出した。

駆けて駆けて、祖母が安置されている総合病院へ駆けていく。

家には、もしかしたら帰ってくるかもしれない祖父に、自身がどこにいるかを書いたメモ書きを残してある。入れ違いになることはないだろうと願いながら、少女は病院に入り、昨日も世話になった警官に連れられて、祖母の顔を見てから警察署に移動した。


母は見つからず、父も帰ってこれそうにないらしい。父の親は亡くなっているため、葬儀を行えるのは現状血縁者の中では、大人の庇護下にいるべき少女だけとなっていた。

祖母には悪いが、葬儀は行えそうになかったので、遺体を焼き、納骨だけすることになった。

予約は入れたが忙しいようで、一週間後になるのだと聞いた。それまでは会いに来れるようだと知って、少女は毎日会いに来ないとなぁ、とどこか他人事のように思うばかりだった。

祖母の顔を思い出す。優しい目元、にこやかな口、皺だらけの笑み。

ボロボロと涙が溢れるのを我慢しようとして失敗した。

母の居場所はわからず、父は帰ってこず、祖母を亡くし、祖父の行方もわからない。

たった数日で、少女は家族を失った。

実感が湧かず、やはりとぼとぼと1人で帰路を辿った。


「ただいま」

無機質な声だった。機械的に、習慣と化していたそれを口にしただけだった。

返事は期待していなかった。家に誰かがいるはずもない。

少女は、そう思ってリビングに向かい、そして足を止める。

台所から聞き慣れた声がして、目を見開く。

ソッと扉を開けて、台所を覗く。

「あら、おかえり」

パズルのピースがハマったように、少女は思った。記憶から抜け落ちていた母の顔と、目の前の女性の顔が、一致する。

「お、かー…さん?」

「なによ、母親の顔も忘れたの?」

「おかーさん……?」

母は怪訝な顔をして少女に歩み寄った。

「どうしたのよ、熱でもあるの?」

濡れて冷たくなった手が少女の額に触れる。

「おかーさん…っ!」

少女は感極まって抱きついた。

「…本当にどうしたのよ?」

母はただ困惑して…けれど少女の好きなようにさせることにしたらしい。少女が事情を話せるようになるまで、ただ静かに待つばかりであった。


母は、幾分か落ち着いた少女から事情を聞いて、困ったように頰に濡れた手を添えていた。

「あら、お母さん死んじゃったの。葬儀はしないんでしょう?じゃあ遺骨は海に撒かないとね」

少女は驚きに目を見張り、母を見上げた。

「おかーさん?」

その目には恐怖と、信じられないという思いがあった。

「ふふ、死んじゃったものは仕方ないわよ。だから、遺骨は海に撒くの」

少女は、母の支離滅裂な話に気が遠のいていくのを感じていた。

会話が成り立たない。

気分が悪くなって、少女は母に背を向けた。

風呂に入る気にはならなかった。何故だか、水に触れるのは嫌だった。

少女は一言だけ言って、自室へと戻った。

母は、そんな娘の様子に首を傾げながらも追及することはなかった。

「……あら、あの子、お風呂に入らないのかしら?」

顔に影を落として、彼女は風呂を見た。その視線には、どこか惜しむような、執心しているかのような色が含まれていた。

その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。


少女はさっさと階段を駆け上がる。

様子のおかしい母と、一緒にいたくなかった。少なくとも以前の母ならば、自身の母が…少女の祖母が亡くなったと聞いて、穏やかな微笑を浮かべながら「遺骨を海に撒く」などと口にはしないだろう。

せめて、顔を悲しみに歪めるくらいの情はあるはずだ。少なくとも、少女はそう信じていたかった。

真っ暗な部屋の中で、ベッドに身を預ける。

布団を被ろうとして、やめた。

肌を刺すような寒さの中。目は冴えていた。

布団を下敷きにして、目を閉じる。

より暗くなった視界の中で、少女はここ最近ずっと耳にする音を聞いていた。

落ち着くような、恐ろしいような、そんな不思議な心地になる音。ある意味、よく聞くようなごく普通なそれ。

___ぴちょん、ぴちょん、と。

水が滴るような音が、聞こえた。



静寂。生物の気配がどこか遠くに感じられるような無音と、仄かに青い闇が満ちている部屋。

穏やかなそこは、勉強机に、椅子、大きなクローゼットに、シングルベッドだけが置かれている、つまらない部屋だった。

そんな無機質な世界を終わらせたのは、やはり耳を劈くような電子音だった。

少女は、それを止める気にならなかった。

1分、2分…5分、と。アラームはただ騒がしく喚くばかりだ。

「ちょっとうるさいよ!何をやっているの。起きなさい」

そしてようやく身体を起こした少女は、寝ぼけ眼で母を見上げた。

足元から、少しずつ。

ふと視界の中に違和感を感じた。

どこだろうと視界を揺らす。

そして気づく。足だ。

足の指、その間に、なにか、薄っぺらい皮のようなものが付いている。

「……おかーさん?」

勢いよく、少女は上体を起こした。

ベッドから降りて、母に駆け寄る。

少女は母にその足をどうしたのかと問おうとして、生臭さに顔を覆った。

「…っおかーさん臭いよ……」

「あら、そうかしら?」

言いながら、母はさっさと階段に向かう。少女も生臭さに耐え、嫌々ながらそのあとを追おうとして…その背中に突っ張りがあることに気づく。まるで、魚の背鰭のような。

そこで、少女の頭の中には一つの仮説が出来上がった。

……母の足は、水かきのような形をしていた。そして、いつも長い髪で隠されている母のうなじには___

「……鱗?」

魚鱗のような、それ。

少女は、そこを凝視して、慌てて目を逸らした。

気づいたことに、気づかれてはいけないと思った。

これからは、水を浴びることも避けないと、と本能的に思いながら、少女は足を踏み出す。

「おばあちゃんの遺骨、どこの海に撒くの」

「どこでもいいけれど……深く深くに行けるようにしてあげたいわよね」

「そうだね」

___ぴちょん、ぴちょん、と。

頭の中に、水が滴る音が反響した。



終わり

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