淘汰-ケデム(東)
東のケデムへの航路――
アザリアとハーリールが乗る船<光のケデム号>は風もなく、漕ぎ手もいないのに一定速度で進み続けていた。
空はどんよりと曇り、海も輝きを失い黒く淀んでいる。この数日、全く波が感じられない。
「これも魔法?」
アザリアは甲板でハーリールに問いかけた。二人ともフードを深く被り、用心深く周囲を窺いながら海を眺めていた。
「通常の航海魔法ではないわ。どちらかというと、呪い…」
空気が重くのしかかってくる。ケデムへ近づくにつれて何かの濃度が上がる。魔力というよりも呪いだ。船に乗っているのは荒っぽい家業の者も多いはずなのに、争いも怒鳴り声も聞こえない。皆一様に声を潜めている。何かが起こる。それは誰にでも分かる。
ただ、いつ、何が起きるのかが分からない。
淘汰。
ハーリールは笛を握り締めた。どうやったらアザリアを守りながら淘汰を乗り越えられるか。アザリアは賞金稼ぎでそれなりの剣の使い手だ。<波寄の国>での戦いっぷりはなかなか良かった。それでも園の住人と比べるとかなり見劣りする。黒竜など到底狙える腕ではない。そうなると淘汰を乗り越えられるかどうかは賭けだ。
「灯台だ!もうすぐ、ケデムに着くぞ!」
誰かが大声を上げた。誰もがこの船を一刻も早く降りたいのだ。朝か夜かもわからない暗い海上の彼方に揺らめく灯台の明かりは確かにあった。
それなのに、幾時が過ぎても、明かりはずっと同じ場所、同じ大きさで瞬いていたい。まるで近づかない。
「これは、来るかも」
「何が?」
ハーリールの呟きにアザリアは首を傾げた。ハーリールの声は慎重でどこか覚悟を感じさせた。
「海上では人間は不利。その魔装備を絶対に放さないで」
アザリアの着ているフード付きマントはダベルネの一級品の魔装備だ。身に着けている人間が海に落ちても沈むことは無いだろう。
ハーリールの言葉にアザリアはマントの端を握り締めた。自分では理解できない何かが起ころうとしている。それは何となく感じられた。冷静さを保つため深呼吸すると外気が喉をひりつかせた。
ふいに、アザリアは激しい頭痛に襲われた。
北の山岳地帯でも感じた頭を殴られるような痛みだ。咄嗟にアザリアは船の縁を握り締めながら歯を食いしばった。目の前が真紅に染まり、頭の中でトレスの叫び声が響き、海にいるはずが森の木々のざわめきが頭の中にこだまする。
トレスが助けを求めている。トレスは必死に降りかかる血を払いのけようとしている。そんなトレスを黒い影が包んでいる。真紅の血は尽きることのない雨のようにトレスに襲い掛かってきた。
これは、何?
トレスは血から逃げている。
でも、違う。トレスの命を削っているのは纏わりついている黒い影の方。
トレスから黒い影を取り除かなければ…。
そう思った瞬間、幻もトレスの叫びも消えていた。
頭痛が治まっていた。
傍らのハーリールは何も気づかなかったらしく、ずっと海を見つめている。
「黒い影と血が降る森は何だと思う?」
アザリアは今見た幻について、答えなど期待せずに問いかけた。
ハーリールは眉を潜めてから、アザリアを見てため息をついた。
馬鹿げた質問をした。
アザリアが誤魔化すように首を振ろうとするとハーリールは真面目に回答してくれた。
「呪い。呪詛にはいろいろあるの。黒い影は魔物でもあることが多いけど、血が降る森が関わるということは呪いだと思う」
ハーリールは戸惑うアザリアに真剣な瞳を向けた。
アザリアが何故、そんなことを聞いてきたのかは分からないが血が降る森は【血の洗礼】に違いない。
その場にいた赤子。
彼女は<涙枯の森>で起きた何かに関わっている。
彼女が持つ赤い結晶のペンダントは黒い呪いも赤もすべてを封じ込めた塊。完璧な封印。赤子にできるわけがない。何者かの作為を感じる。門番?リベルデンは何も言っていなかった。魔力操作系ではないラハブやカーファルには無理だろう。老ハギオイ?
船の周囲は霧が深く立ち込め、視界が悪くなるばかりで、灯台の明かりも一向に近くならない。
昼か夜かもわからないくらい厚い雲が空を覆い、空と海の違いも分からないくらい闇が取り巻いた。
来る。
ハーリールは手に持つ笛を杖に変化させた。
「アザリア、絶対に海に落ちないこと!」
その言葉と同時に海面から水しぶきが上がり巨大な何かが甲板を激しく打ち付け叫び声が上がった。
黒い触手が暴れるように甲板にいる乗員達を薙ぎ払った。
「魔物だ!」
「マストが倒れるぞ!!」
慌てて逃げるアザリアの目に海に浮かぶ赤い双の眼が映った。次の瞬間、マストが目の前に倒れてきた。
「アザリア!」
ボケっとするアザリアのマントを引っ張りハーリールが結界を張る。
気が付けば、船は赤い眼に囲まれていた。海の中は魔物だらけだ。
「淘汰だ!淘汰が始まったんだ!」
「戦え!」
傭兵たちが口々に淘汰を口にして甲板に上がってきた魔物を切りつける。
船が大きく揺れて、巨大な波が船を飲み込んだ。
アザリアは両手で必死に縁を掴み、流されまいと歯を食いしばった。
船は何かがぶつかる激しい衝撃を何度も受けたが、甲板部分は海上に再び上がり、アザリアは大きく息を吸った。
すぐ隣でハーリールが杖を振るって魔物を撃破する姿を確認すると、アザリアも剣を抜き放って、襲い掛かる魔物を切りつけた。
「こいつも魔物だ!」
いきなり傭兵たちがアザリアに切りかかってきた。ハーリールが驚いてアザリアを振り返るとアザリアの瞳が赤く光っていた。魔物と同じ赤だ。
アザリア自身は、魔眼と言われ慣れているため、まさか自分の眼が闇の中、赤く光っているとは思わず、鼻で笑ってしまう。まさか、魔物だらけの中でも自分の魔眼が魔物と言われるとは。
その時、再び大きく船体が揺れ、ハーリールが慌てて安定の魔法を放つ。が、魔法はアザリアには届かず、アザリアは甲板の反対側に勢いよく滑っていった。傭兵や船員たちが体制を崩したアザリアに一斉に切りかかる。
躱し切れる数ではない。
アザリアが何とか片膝をつきながら剣を構えた瞬間、その異変は起きた。
「う、そ…」
ハーリールは魔法を放つことも忘れて、アザリアの赤い眼を見つめて呟いた。
鮮血が甲板に降り注いだ。
魔物も傭兵も船員も、アザリアに襲い掛かった全てが首を刎ねられて絶命していた。
空や海の暗闇までが赤く見える。
アザリアは剣を構えた格好から動いていない。
「化け物め!」
物陰に隠れていた傭兵二人が一斉にアザリアに切り掛かり、一瞬にして首を飛ばされた。
魔物が海からアザリアに手を掛けようとして霧散した。
アザリアは動かない。
アザリアの周囲に異質な力が発生しているとしか思えない。
ハーリールは試しに、近くにあった魔物の死骸の一部をアザリアの方に投げてみた。凄まじい圧力が返ってきて死骸の一部が霧散した。
「ちょっと、近づけない、かも?」
アザリアは敵味方とか判断していない。おそらく、本人も分かっていない何かが起きている。
船が岩にぶつかるような衝撃が起き、いきなり灯台の明かりが真横から船を照らし出した。
甲板上は血の海だ。
「港だ!」
誰かがそう叫んで船から飛び降りた。
いつの間にか埠頭に入ったようだ。
ハーリールはゆっくりと船上から埠頭を見下ろした。
飛び下りた人間が魔物に喰われていた。
「嘘でしょ」
埠頭は足の踏み場もないほどいろいろな形の魔物で埋め尽くされている。
ハーリールが茫然としていると、アザリアはゆっくりと立ち上がり、魔物蠢く埠頭へと飛び下りた。
次の瞬間、彼女の周囲の魔物が赤い閃光によって切り刻まれた。
ハーリールの攻撃魔法より遥かに威力がある。
「アザリア!」
呼びかけと同時に凄まじい攻撃波が返ってきた。アザリアは今、すべてを攻撃対象にしている。これではアザリアに近づけない。
どうすればいい?
ハーリールが躊躇していると、アザリアがいきなり領都の奥へと駆け出した。
慌ててハーリールは、船を飛び下り、後を追うが、魔物やアザリアの纏う変な赤い力によって追いつけない。
魔物はどんどん湧いてくる。
海からも上がってくるし都中心でも大量発生しているようだ。
こんなところで止まっていられない。
なんとしてでも王都に入らなくては!
ハーリールは大きく杖を振り回した。あの呪いがあればアザリアは最悪でも、何とか生き残るだろう。
そして、例え敵の手に落ちても、黒竜という餌を蒔けばやってくるに違いない。
その後の事は考えても仕方がない。
ハーリールは最短ルートで領都ケデムを駆け抜け、王都門へと向かった。
暗闇の中、王都門だけがぼんやりと浮かび上がっていた。
「開けろ!」
ハーリールの怒鳴り声に、門の上に居た黒い鳥が羽をバタつかせた。
「まだ、淘汰中だぞ。戦え」
「私の敵などここにはいない!お前を狩るぞ!」
脅してみる。
案外、黒い鳥は気が小さいのか、さっさと門が開かれた。
「北の宴で餌になってしまえ!」
「私は戦士だよ!」
悪態をつきつつも入れてくれるらしい。
ハーリールは素早く門を潜ると拠点に向けて駆け出した。
アザリアの事は、今はどうしようもない。
割り切りの良さが長くこの世で生き延びてきた処世術だ。
アザリアはぼんやりとしていた。
船上で傭兵や魔物に一斉に挑まれ、死を覚悟した。傭兵黒竜を倒す以前に未熟すぎた自分が許せなかった。
その時、トレスの叫びが頭に響いて周囲の喧騒が消えた。
そして…目の前が赤く染まった。
周囲の動きが緩慢になり、襲い掛かってくる魔物や傭兵たちが死んでいった。
遠くでハーリールの声がした。
何が起きているのか。
襲い来る者達が勝手に首を飛ばされて死んでいくのだ。自分は全く動いていないのに。
ふいに何かに呼ばれた気がした。
アザリアはその何かに会うために駆け出した。
船から降り、魔物の中を駆け抜ける。
全ての魔物が簡単に散っていく。
気がつくと巨大な王都への門の前に立っていた。初めて見るのにその門が王都への入口だと分かるのは直感とでもいうのだろうか。
門は開いていた。
見覚えのある黒い鳥が門の上に留まっている。
「また会ったな。同類。北の宴はもうすぐだ」
「…傭兵黒竜を見かけたか?」
「門を潜った」
アザリアは頷くと門を潜った。
黒竜はいるのだ。
先へ進もうとするアザリアの前に人影が揺らめいた。
「船での戦い、見事であった。褒美をとらそう」
アザリアは眉を顰めた。褒美?
目の前の人物は、魔法使いの類だろうか。足音もしないのに現れた。漆黒のフード付きマントは地につくほどの長さで、その人物が持つ杖は老ハギオイの作る杖よりも長かった。フードを深く被っているせいで顔は見えないが知人にこんな奴はいない。
「私は黒竜を追っている。黒竜を討つこと以外に興味はない」
「その願いを叶えよう。黒竜を討つだけの力を授ける」
黒竜を討てる?!
アザリアは目を輝かせて目の前の人物を見つめた。
何者かは知らない。
そんなことはどうでもいい。誰もが無理だと言った黒竜を倒せるのなら悪魔とも取引する。
その人物はアザリアの肩に杖の先を当てた。
「我が呪詛を身に着ける者よ。魔王に従う者となれ」
アザリアの首にかかるペンダントの石が熱を持ち、周囲に黒い影が湧きアザリアを包み込んだ。アザリアは驚き戸惑う間もなく意識を失い倒れ込んだ。
魔導士はフードを少し上げて、倒れるアザリアを見下したその顔は紛れもなく大祭司アベンだ。
彼は思案気に首を少し傾げた。
何故、トレスに憑けた呪詛がこの女に付いているのか。戦場でいきなり発生した呪詛はかつてトレスを唆して覇王門へ挑ませた時に使った呪詛だ。あれがまだ機能しているとは思ってもみなかった。あの呪詛は完成度も高く、上手くいけば覇者の園を毒することが出来ただろう。そこまで望んではいなかったが、門を閉ざすことには成功した。その成功と引き換えに封印されたと考えていたというのに、今回の淘汰で機能した。
アベンは自らの呪詛が淘汰の中で猛威を振るったことに気づき、大神殿から出て一部始終を見ていた。
全てを呪う呪詛の力は衰えていない。あの日から封印されていて、その封印が淘汰で解けた。あの時の門番の力が関係しているのかもしれないが、どちらにしろ、この呪いは我が手に戻ってきた。戻った以上、活用しない手はない。
「覇者どもを惑わすおもちゃくらいにはなるだろう」
そう呟きながら、アベンはアザリアと共に闇の中に消え去った。




