動き出す魔物
アザリアは東へ行く船着き場の近くで河を眺めていた。向こう岸が見えないくらい大きな河は、酒場の屋上から見た時よりも迫力があった。
東へ行く船は停泊していたが、積荷を運び込む人夫が忙しなく行き来していて船に近づくどころか桟橋にも近づけなかった。
船はテーマーンの港町で見た商船と同じくらいの大きさの帆船だったが、停泊中は帆がたたまれ帆柱がどこか寂しげに佇んでいた。よく見ると目の前の船にはテーマーンの商船についていたようなオールが無い。
ずっと風は凪いでいる。
「あの船が動くかどうか心配っていう顔をしているわね」
突然、声を掛けられアザリアは驚いて振り返った。
全く気配を感じなかったのに、いつの間にか幅広の帽子をかぶった女性が隣に立っていた。
女性はオレンジ色のローブを着ていて、紺色のつば広帽に紺色の靴を履いている。手には棒のような筒を持っている。
「あら、これを知らない?」
不信がっているアザリアに女性は棒をクルクルとまわして見せた。
「これは管楽器。笛よ」
「笛?…角笛とは違うみだいだけど」
アザリアは笛を知らなかった。管楽器と言われてもその単語を知らない。角笛は軍隊などの合図に使われていたので知っている。
「あらあら、どんな世界から来たの?音楽に興味ゼロ?」
音楽?
「歌なら聞いたことがあるし、琴や太鼓は知っている」
「そう。これは笛。聴いて」
女性は、帽子を取ってひっくり返して地面に置くと、笛を横に構えて縁の方に口を添えた。
息を吹きかけると音が響いた。
高い音。低い音。やがてそれはメロディーになった。
楽器。棒のようなものが様々な音色を響かせることにアザリアは目を見開いて驚いた。
凄い。
笛の音に、船に乗ろうとしていた者たちが興味深げに足を止めて聞き入った。
いつの間にか、人垣もできていた。曲が終わると、ひっくり返して置かれた帽子に銅貨や銀貨が投げ入れられた。女性はにこやかに礼を言いながら手を振っている。そして、感動しているアザリアを振り返ってウインクした。
「これが、笛、よ」
「驚いた。いろんな音が出るなんて」
呆けているアザリアに笑みを向けてから彼女は帽子を拾い中の硬貨をローブの内側にある小さな鞄に押し込んだ。そして、帽子を被る。
「私はハーリール。笛吹ハーリールよ」
「魔眼のアザリア。賞金稼ぎだ」
「知ってる。有名だから」
白い髪と紅い瞳の剣士。今では有名な賞金稼ぎだ。瞳は本当に魔眼と呼ぶに相応しいくらい紅い色だ。
「船に乗るの?」
「東のケデムに行く」
「あら、行き先を簡単に他人に教えてはいけないわ。特にここから先は油断できない土地柄になる」
ハーリールは一瞬周囲に視線を向けてから怪しい笑みをこぼした。ダベルネは防衛魔法が張り巡らされた安全が売りの国だ。しかし、一歩外に出たら野蛮な生き物だらけだ。人の皮を被った悪鬼どもだ。
ハーリールの妖艶な笑みの迫力の前にアザリアは無意識に剣に触れていた。
「この船はまだマシかしら?さぁ行きましょう。積み終わったみたい」
「あなたも乗るの?」
「ええ。ケデムを通って王都へ行くの。船旅に女の一人は危険なのよ。女は気を付けないと。さぁ一緒に乗り込みましょ」
え?
アザリアは間の抜けた声を漏らしてハーリールを見た。ハーリールと名乗った笛吹がアザリアの腕を掴んだ瞬間、二人は既に船の甲板に立っていた。
どういうこと?何が起きたの?
「これは、魔法、よ」
ハーリールがウインクした。魔法?魔法って移動できるものなの?
「私は魔術師なの」
「魔、術師?魔法使いではないの?」
魔法使いは杖を持っていた。彼女は笛しか持っていない。だから魔術師というものなのだろうか?
「まぁ魔法使いでも魔術師でも魔導士でも何でもいいわ。魔力というものを使いこなしている人間ってことね」
「杖は?」
「杖?私は使わないわね。笛があるもの」
「笛」
楽器ではないということ?
「まぁ私は特殊だから、標準的な魔法使いと一緒にされても困るけど」
「標準的なものと言われても、それを知らない」
「なんにも知らないの?」
「魔法文字なら少しは読める」
ちょっとムキなるアザリアに対してハーリールはクスクスと揶揄うような笑みをこぼした。
まだまだ子供だわ。これで賞金稼ぎというのだから人って分からないわね。ハシーディムの奴、人を寄せ付けない雰囲気って言っていたけど、人懐っこいじゃない。
二人は甲板の縁まで来ると河岸を行きかう人々を眺めながら話をした。フラッと現れてあっという間にアザリアの隣にいるのが当たり前という顔をしているハーリールにアザリアはあっけにとられていた。警戒心の強い自分がこの笛吹に対して距離を取れないことが不思議だった。ごく自然に隣に存在している。それが当たり前のように。
「ずっと旅をしているの?」
アザリアは逆に問いかけてみた。ハーリールは明らかに旅慣れている。さっきの帽子と笛。稼ぎは船賃を生み出していた。
「船賃…。」
そういえば、アザリアには払った記憶が無い。ハーリールの答えを待たずにアザリアは焦り始めた。どうやって乗ったのかも分からないが船賃を払った記憶はない。
「船賃なら払ったわよ。桟橋に居る船員が木箱を持っているでしょ。あそこにちゃんと二人分入れたから大丈夫」
辺りをキョロキョロと見回すアザリアをハーリールはいたずらっ子のように面白がっていた。
「でも、それ」
アザリアは自分のお金を取り出そうとして、ハーリールに止められた。
「金貨なんて見せては駄目ね。船賃は大丈夫。その代わり、船上ではその剣で男どもを威嚇してね。よろしく」
またも、ハーリールにウインクされた。
要するに用心棒として雇われたということだ。
まぁ同じ船に乗るわけだから、威嚇くらいしていてもいいだろう。どうせ、一人だったら威嚇は必須だった。アザリアは仕方ないと言わんばかりに頷いて溜息をついた。
反対にハーリールはニコニコしながら内心呆れて首を振りたい心境だった。
盗賊の娘が船賃ごときで不安がるって何?払わないでも平気な奴は山ほどいる。それなのに彼女は妙に生真面目らしい。まるでアクロンだ。だからアクロンとは仲が良さそうだったのかもしれない。似た者同士というわけね。
船には50人近い乗船客がいた。大半が商人風の男達だが鎧や武器を身に着けた兵士もいる。船員の数も多い。そして、人の数だけ荷物も多い。
船が錨を上げる頃になって風が西から東に吹き始め、船は帆を下した。
ゆっくりと桟橋を離れて船は東に向けて出港した。
「風がタイミングよく吹くなんて」
「ここをどこだと思っているの?」
え?どういう意味?
「この大河はダベルネとバアル・ゼポンの間を流れているの。つまり、東へ行く船には東行の風。西に向かう船には西行の風が吹くということ」
つまり、魔法。
信じられない!そんな魔法があるなんて。
「あなたのそのマントだって魔装具でしょ。この船にも魔道具は使われているということ」
「もしかして、その笛も?」
「笛は魔道具じゃないわよ。そうね。でも、魔道具といえなくもないか」
少し考えながらハーリールは笛を回した。クルクル腕の中で回り弧を描く笛はまるで盆のようにも見えた。
「魔法があったら何でもできる?」
「まさか。万能じゃないわ。それに、魔力は危険な友人よ。扱い損ねたら魂ごと喰われるわね」
脅すような低い声でハーリールは囁くと妖艶な笑みを浮かべて北を見た。
魔力は魔物を呼ぶ。魔物は人を喰らう。神を讃えると言いながら魔物を呼ぶ祭司のいる国が目の前にある。既に魔物たちは目覚め始めている。魔王が蘇るのだ。
アザリアは大きく手を広げて河の上をゆったりと進んでいく船の風を味わった。大河も東に緩やかに流れているから風などおまけに違いない。
それに、この風が魔法によって起きているとはとても思えない。これはどう考えても普通に「風」だ。
まだ、陽は沈まない。だから水面がキラキラと輝いていて船旅を楽しませてくれている。
水の流れを見ていると水面を何かが跳ねる。
「この辺りに住む魚の群れね。ほら、魚が跳ねるとそれを狙って鳥が来る」
ハーリールが示した空には鳥の姿があった。鳥は白い頭に灰色の翼をもっていた。一気に水面に近づくと水面近くに上がってきていた魚を捉えて急上昇した。その翼のパワーにアザリアは感心した。
鳥が虫を獲るのを見たことはあるが、魚は初めてだ。よく水の中に落ちないものだ。
「鳥も狩人よね」
ハーリールは意味ありげにそう言いじっと北を見つめていた。
鳥も狩人。アザリアはその言葉にふと思い出した。そういえば、セモール山脈の墓には鳥と猫の文様が描かれていた。
鳥なんて猫に狙われるのに妙な組み合わせな気がしたのだが、両方とも狩人と思えば似ているのかもしれない。
「さて、女性専用の部屋なんて無いから寝床の確保に行きましょう」
船室などよほどの豪商でもない限り泊まれない。基本は甲板で雑魚寝。部屋のような空間に寝るにしても盗難などのトラブルは避けられない。
船室の事など何も考えていなかったアザリアは、驚きながらハーリールについて行くしかなかった。謎の笛吹は妙に世話焼きだ。
しかも、旅慣れている。
無口なアザリアに対してハーリールは終始にこやかに話しかけた。
「船旅は何処で寝るかで決まるわね。女は逃げ場を失って野獣に襲われる。その覚悟をしたって最後は水の中、なんてこともある。生きて船を下りるには安全な場所をいち早く見つける事よ」
「安全な場所なんてあるの?」
船員だって信用できないのが船旅だ。
船員は場所を知り尽くしている。追われたらおしまいだ。
「この船には漕ぎ手が不要だから船倉は広いの。これは河川船の中でも積荷を運ぶ目的が大きいから特に広い」
確かに普通の船より頑丈そうで大きい船体だ。乗客も多い。
「<波寄の国>までは3日かかる。快適な旅のためにいい荷物を見つけましょう」
荷物?いい荷物って言った??
戸惑うアザリアを連れてハーリールは船底まで降りる。船底は積荷の安全を考えて丸みを帯びた安定した造りをしていた。いい船だ。
そこから積荷の木箱等がぎっしり詰まった船倉へ入り込むと幾つかの文字を読みながら背丈以上ある大きさの木箱の前で立ち止まる。
「この商店名を見て。この店が扱うのは女性用の布地」
それが何?
「わからない?私たちの寝床になるの」
ハーリールは遠慮無く箱を開けてその中に潜り込んだ。箱の中は布地がぎっしり詰まっているが、ハーリールの重みで少し沈んで空間ができた。
「二人で寝るには十分よ。この箱、確保ね」
「それって、大丈夫なのか?」
他人の商品だ。
「真面目ねぇ。汚さなきゃいいのよ。あと、バレないこと。無駄な争いを避けることの方が重要よ」
物凄くマイペースで身勝手な発想のような気もするが、命には代えられない。トラブルは避けた方がいいに決まっている。
ちゃっかりしたハーリールにアザリアは溜息をついた。しかし、ハーリールのマイペースはそこで終わらなかった。すぐに箱から出てくると今度は食べ物を探し始めた。
「携行食は持っているけど、どうせなら美味しいものをゲットしたいわ」
「盗むの…?」
「まさか。船長さんに分けてもらうの」
女は気を付けろ的なことを言っていたというのに、ハーリールは夜になると甲板でくつろいだり夕飯を食べたりしている乗客や船員たちの前で笛を陽気に吹き鳴らし大道芸を披露した。
その横で護衛と言わんばかりに剣を手に座るアザリアは何とも言えない気分だった。
ハーリールは大道芸で揉め事を減らす代わりに船長に食事を要求したのだ。
船長はまずは芸を披露してみろと言い、この状況だ。
ハーリールの笛の音とノリの良いリズムに乗客たちは上機嫌で手拍子や声を上げて歌っている。
お酒も入るから踊り出す者もいる。船の上だが流れが穏やかでよろめく者もいないためか誰も止めない。
信じられないくらいハーリールは調子がいい。
場を盛り上げて誰もが気分よさげに寛いでいる。
船長もご機嫌に二人分の食事をくれた。
用心棒など絶対に必要のない3日間だった。もちろん寝る時は後をつけてくる船員などがいたから木箱に隠れたが、基本的に誰もがハーリールのペースに嵌っていた。
すれ違う船にも笛を吹くハーリールに手を振ってくる人間がいたほどだ。
しかも、彼女は手品が出来て、帽子から花や鳥が飛び出した。魔法ではないというから驚きだ。魔法と手品の差などアザリアにはさっぱり分からなかった。
しかし、それが分かる商人が何人もいてゲラゲラとご機嫌に笑っていた。
「ほら、波止場が見えてきた」
3日目の朝、ハーリールはアザリアを甲板に誘うと東を指さした。朝もやの中、揺らめく炎が見えた。
波止場の灯台だ。
船に乗った桟橋よりも大きな港なのは確実だ。前方に船の汽笛が聞こえる。
<波寄の国>
さて、何が起きるのか。
二人が船を下りる時、何人もの乗客がハーリールに手を振って去っていった。すっかり人気者だ。
「大道芸人というのは皆、あなたのようなのか?」
「そうね。お調子者が多いわね。それに注目と拍手は必須だからね」
それで稼いでいるのだから当然と言えば当然か。
「ケデム行の船、今日は出ないわよ。宿は決まっている?」
宿?いつ船が出るのかも全く調べていないアザリアは苦笑してしまった。
「出航予定を調べていない。一番早く出る船に乗りたいと思っている。宿も未定だ」
「いいわね。その行き当たりばったり感。私は好きよ」
何でも知っていそうなハーリールは女性らしいというよりは少し少年っぽさのある笑みを漏らし、波止場小屋にある出航予定表の書かれた木札を示した。そこには大きな文字で曜日が示され、その下に船の名前が書かれた木札が下げられていた。
「ケデム行の船の名前は<光のケデム号>。わかりやすいでしょ?」
なるほど。間違いようがない。その札によると、船が出るのは5日後だ。
「じゃ、次は宿ね」
ハーリールがどの宿にしようか、港町の方を見つめている横で、アザリアは自分たちが乗った船を振り返った。勢いよく声掛けしながら人夫たちが積荷をおろしていた。
人が行きかう雑踏はテーマーンの港町より遥かに活気がある。それなのに少し霧が立ち込め、どこか不安を誘うような雰囲気もあった。それに3日川を下っただけだというのに空気が少し肌寒く感じられる。
おまけに何かが霧の中を蠢いているような気の許せない気配がする。
「決めた!3日も風呂なしだったんだから、湯船が大きな宿にする!ついてきて!」
湯船?
「また船に乗る?」
どういうこと?出航は5日後のはず。さっぱりわからないアザリアにハーリールは笑い転げた。
「船じゃなくて、お風呂!お湯を張って入るのは最高よ!」
ハーリールに連れられてきた宿は港町より少し離れていて、乗合馬車で半日かかった。すっかり昼だ。
だから、宿に着くなりハーリールはお昼を食べると言い始め、宿の予約をすると、隣の食堂で魚の定食を注文した。アザリアに聞くこともなく定食は二人前。アザリアは完全に振り回されていた。
「この国の魚料理はどれも美味しいわよ。酒は駄目よ。お風呂の前には飲まない方が良いから」
食堂内には客は二人だけだった。
昼だというのに少しばかり薄暗く感じる店内の様子にアザリアは周囲を警戒するように見回した。
そんなアザリアを観察し、ハーリールは片眉を上げた。少しは勘が働くらしい。
ハーリールがここまで来たのは、港町からつけてくる者がいたためだ。町中では魔法戦は向かない。下手にバアル・ゼポンの関心を引くのは避けたい。
出てきた魚定食は本当に美味しかった。テーマーンの魚よりも美味しいかもしれない。魚の種類が違うのだろうけど、味付けが甘く感じた。
昼食後は、ハーリールに急かされて宿の裏手にある大浴場と呼ばれる風呂専用の建物に行くことになった。
宿で木札をもらうとその木札がカギとなっていて、中に入ることが出来るという仕組みだ。
基本的に宿の許可なく入ることが出来ないから安全ということらしい。
しかし、建物の外はその限りではない。つまり、安全の保障外。
宿を出て、風呂まで目と鼻の先。
それが、何故か霧に包まれ見えなくなった。
アザリアは一瞬にして戦闘態勢に入り剣を抜いた。その素早い動きが飛んできた矢を弾き返し、身を守る。
「伏せて!」
ハーリールはそう声を掛けると帽子を振り回した。紺色のつば広帽は氷の粒を四方八方に刃のように放って霧に隠れる者達を貫いた。
人の悲鳴に混ざって獣の咆哮のようなものも聞こえてきた。
「霧散!」
ハーリールがそう怒鳴って大地を蹴ると、一気に霧が晴れた。怒鳴る必要など実のところないのだが、アザリアに分かりやすく伝わるだろうということで声をあげてみた。
アザリアは前方の視界が開けると低い体勢から飛びかかってくる獣のような黒い巨大な何かを剣で切り捨てた。すかさず、大地に崩れ落ちるそれをハーリールの笛が貫くと、黒い煙となって形が崩れて消えた。
驚いている暇もなく、兵士のような身なりの男たちが襲い掛かってきた。人間なら戦えると言わんばかりにアザリアは容赦なく剣を振るう。いつもより、剣の威力があるような気がする。何かが剣を急かすように動かすのだ。ハーリールも笛で兵士と渡り合う。兵士の鎧は剣では切れないから隙間を狙うしかないが、アザリアはそういう敵にも慣れている。その太刀筋にハーリールは感心した。
若いけど、なかなかどうしてやるじゃない。
流石、魔眼のアザリア。老ハギオイの弟子だけあるわね。
兵士を全て倒すと、静けさが訪れた。
叫び声や剣の打ち合う音、咆哮が上がったのに建物からは誰も出てこない。
「霧が音を消したようね。これが魔法戦。ケデム行の船に乗ったらもっと多くの禍と戦いが待っているわよ」
ハーリールが周囲の建物の様子を気にかける中、アザリアは息絶えた兵士たちに無言で賞金の記録石を翳した。しかし記録石は反応しなかった。
「こいつらは賞金首じゃない。私を狙ってきた賞金首かと思ったのに」
稼ぎが無いと言わんばかりの淡白なアザリアにハーリールは首を傾げた。船上とは随分と雰囲気が違う。今は一端の賞金稼ぎの顔をしている。
「こいつらはこの辺りのゴロツキよ。旅人を襲って稼いでいるだけ。あの黒い獣は魔道具かも」
魔道具?いいえ。あれは本物の魔物。だけど、魔物にしては、アザリアの剣に切られていた。そこが解せない。
アザリアはハーリールの説明に興味を示さず記録石をしまった。
「どうでもいい。私は仇討ちを探しているだけ。邪魔するなら倒すだけ」
「仇討ちって?」
「傭兵黒竜」
「それ…無謀って言われない?黒竜には魔法も通じないって噂だけど」
「何か手はあるはず」
「黒竜を仇とするってことは、あなたの方が悪党ね」
「どういう意味?」
「傭兵黒竜は、請け負った仕事の標的しか切らないって噂。標的は悪党ってこと」
「そんな噂は聞いたことが無い」
ムッとするアザリアは子供っぽく見えた。悪党と言われるのは嫌なのかもしれない。
ハーリールは肩をすくませて、風呂の建物の扉を開けた。
「噂よ。それに黒竜は、挑まれたら受けて立つだけ。手加減はしてくれない。だから、覚悟することね。挑んだら逃げ場はない。」
「逃げない」
「うん。ご立派。じゃあ、まずは汚れと汗を流してすっきりしよう!」
にこにこ笑うハーリールに手を引っ張られ建物の中に入ると、そこは湯煙で暖かく、白濁した湯が湧き出ていた。
「ここは防衛魔法が掛かっているから安全よ。衣類を脱いで湯につかると疲れが癒える」
二人以外には誰もいないので、二人とも武器や金品を外して衣類を重ねていく。
そうはいっても、ハーリールは手首と指にアクセサリーに見せかけた魔道具を付けたままにした。一方、アザリアは、小さな赤いペンダントをつけていた。衣類の下に着けていたらしく初めてハーリールはペンダントの存在に気が付いた。
「ペンダントは外さないの?」
オシャレとはいいがたい石の塊のような赤いものを革紐で結んでいるだけのペンダント。
「これ?これは放したことがない。赤子の時からずっと身に着けている」
「誰かの形見?」
眉をひそめてハーリールは石を見つめた。赤い石は禍々しい力と不思議な輝きを秘めている。これは危険な代物かもしれない。
「さぁ?でも、身に着けていた方がいいとマノアが言っていたから」
「マノア?」
ハーリールはとりあえず、湯に入ろうと促しながら問いかけた。
「マノアは母親のように接してくれたトレスの相棒。この石はトレスが私を拾ったとき、私が握り締めていたもので、お守り代わりだろうってこと」
「トレスが拾った?あなたを?」
トレスってあの大盗賊トレスよね?極悪非道で商家を焼き尽くす盗賊。そんな男が赤子を拾う?
「ねぇ。トレスって人助けをするイメージ無いんだけど。あなたはトレスの友人の子どもなの?」
思わず問いかけるとアザリアは苦笑した。
「本当の親なんて知らない。興味もない。トレスは仲間には優しかった。皆、仲良しだった。私は森に捨てられていたところをトレスに拾われたらしい」
「森?」
「涙枯の森っていう大きな森。この話を人にするのは何度目かな。森に捨てられていたというと皆、驚く」
そりゃ驚く。
ハーリールもあんぐりと口を開けて驚いていた。
<涙枯の森>、トレスときたら、覇王門でしょ!第3の門番のエクレシアの血の洗礼!
ハーリールは湯の中で煌めく紅い石を睨みつけた。赤は毒のようでもあり、血のようでもあり、眼のようでもあった。この石は、多重呪詛の結晶だ。こんなの身に着けて無事な人間って何?!
「よく、生きていたわね」
「幸い、運がいいのかも。黒竜に皆が殺された時も私だけ生き残った。だから、絶対に仇を討つ。そのために生き残ったと思うから」
「黒竜を見た?」
「顔どころか影も見ていない。洞窟の抜け道で足を踏み外して出られなくなったから」
そのおかげで一人生き残ってしまった。どうして一人だけ。
ハーリールは暗い顔をするアザリアに肩をすくませた。確かに運がいい。あの黒竜に狙われたら逃げることなどできない。あいつには感情が無い。仕事を実行するだけだ。生き残るのは奇跡だ。
その奇跡は、世界にとって吉か凶か。
温泉の湯は体を芯まで温め、旅の疲れを癒す効果を持っていた。
船に乗るまでの5日をこの宿で過ごしたが、襲われることはなかった。長閑な田舎を楽しむようにのんびりするハーリールの目は常にアザリアを観察していた。
魔眼のアザリア、赤い石。赤い龍の剣。老ハギオイはどこまで分かっていたのだろう。老ハギオイを呪い殺したのはあのペンダントに込められた呪いだろうか。
しかし、今、ペンダントから呪いは漏れていない。誰が封印したのか。それを赤子が握っていたのは何故?
アザリアはアクロンとも親しげだった。
ハシーディムも仲良くなれたと言っていた。老ハギオイには弟子入りしていた。
何よりセモール山脈の墓参りができる。それは普通ではないということだ。
そんな彼女が、この国に入ってからハーリール以外の人間を警戒している。誰にも笑いかけないし進んで声もかけない。警戒心の強い野生動物のようだ。
彼女は敵か味方か。
ハーリールは珍しく身を守る呪文を描いて気合を入れた。船に乗った時から魔王とその眷属との戦いは始まる。魔物は解き放たれたのだ。
襲ってきた黒い獣は明らかに魔物だった。魔物は瞬く間に大地を埋め尽くすかもしれない。
<光のケデム号>に乗る日、ハーリールはアザリアに警告した。
「船上ではマントのフードは被っていた方が良さそうよ」
目の前に停泊している<光のケデム号>は明らかに呪われている。それがハーリールにはハッキリと見えていた。
この船は地獄行だ。




