ヘルエスタ王国物語(89)
遠くから聞こえてきた獣の咆哮で、■■はベッドから叩き起こされた。
震える両手で布団を掴む。全身にべったりと張りついた汗は、気味の悪い寒気をともなって■■の曖昧だった意識を闇の中から蘇生させる。
呼吸が落ち着くまで、ずっと胸が痛かった。
生きている安心感のせいなのか、それとも死の恐怖を間近で体験したせいのか。どちらにせよ、自分が現実から目を背けようとしているのは分かる。しかし、手の平に残る感覚がそれを忘れさせてくれない。
■■は、鈴原るるの最後を見た。
抱き着いてきた彼女を突き飛ばして、落ちてきたナニかに彼女が踏み潰される瞬間をハッキリと覚えている。
そして、自分が生きているという事実。
もはや考える余地もない。
直感で、■■は自分が人殺しになってしまったのだと悟った。
顔を手の平で隠す。誰にも今の自分を見られたくない。あわよくばこのまま息をするのを止めて死んでしまいたいとさえ思える。
だがそれでも、■■には死ぬ勇気がない。世界中に生きるすべての生命たちは、たった一度の死に怯えて暮らしている。例外があるとすれば、一度目の死を迎えてもまた別の誰かとして生きている自分なのだ。
他の誰も知らない。
あの暗闇に堕ちていく恐怖を■■だけが知っている。それに立ち向かう勇気が、今の自分にはない。
「───ッ」
顔から手を離し、ようやく視界に色が戻ってくると■■は周囲を見渡した。
清潔に保たれた部屋からは魔界の冷たさは感じられない。薬品の並べられていたリヴァネルの工房ともまた違う。服を収納するためのタンスやクローゼットの他にも、生活に必要そうものが置かれているだけで、一切見覚えのない部屋だった。
「……驚いた。もう起き上がって平気なの?」
ノックもなく部屋のドアが開き、入ってきたリヴァネルと目が合う。
「リヴァネルさん……ここって」
「その前に少し確かめさせて」
リヴァネルの手がこちらに伸びてくる。
「え? え? ちょっと……」
頬を触られ、腕を持ち上げられる。挙句の果てには服を脱がされ、そして■■の全身をくまなく検査し終えたリヴァネルは一言「信じられない」と目を丸くした。
「……元に戻ってる」
「うぅ、うぅ、うぅぅ……」
色々と恥ずかしい思いをした■■は、涙目でリヴァネルに訴えかける。そして肝心のリヴァネルはというと、■■の裸を見た感想はこれといって無いようだった。
「リヴァネルさん……」
「ああ、気にしないで。それより体の調子はどう? 動かしにくいとかない?」
■■はベットから降りると、いつも通り体を動かし、その場でぴょんぴょんと兎みたいに跳ねてみせる。
「どうもありませんけど……わたしの体、どこかオカシイんですか?」
リヴァネルは「いいえ」と首を振った。
「全然問題ないわ。次はそうね……精神面がちょっと気になるけど、会話も比較的安定してるし、こっちも問題ないでしょ」
ひとりで納得するリヴァネルに対して、■■は頭に疑問符を浮かべる。だが、いくら■■が首を傾げても■■の思うような返事は貰えないだろう。
今は彼女の思考が終わるのを待つばかりだ。
「とりあえず、外の空気でも吸いに行きましょう。アタシだけじゃ説明の出来ない部分もあるし」
「……はい」
リヴァネルに続いて部屋を出る。
ほどなくしてリビングに入ると、そこで■■はキッチンに立っている前世でよく見知った顔の少女に出くわした。
「あ、ネル!」
嬉しそうに包丁をぶんぶんと振り回す少女───戍亥■■がいた。
「包丁を振り回さない。危ないでしょ。……紹介するわね、クレア。彼女はケルベロスの戍亥よる。リアの古い友人よ」
「よろしゅうね」
柔らかい笑みを浮かべる戍亥よるに、■■は言葉を失ったまま手を振り返す。
「……───」
「……───」
無言で見つめ合う時間が続き、
「どうしてそんなに動揺してるの?」
「いえ、その……」
近づいてきた戍亥よるに顔を覗かれ、■■の心臓は大きく跳ねる。
「初対面だよね? 誰かと勘違いしてる?」
少女からの問いかけに、■■は何も答えられなかった。
冷汗を流すだけで───何も。
「ふぅん……魂はキレイなのに、変な子やね」
「ちょっと、あんまりクレアを怖がらせないでよ」リヴァネルが言った。「それで? リアはまだ外にいるの?」
「そうだよー。さっきまで荒れてたみたいだから、会いに行くなら気をつけてね。それとアタシもしばらくしたら獄王様に会いに行ってくる」
「ありがとう」
リヴァネルを追いかけるように家を出る。瞬間、ツンとする卵の腐ったような匂いに■■は鼻をつまんだ。
「す、すごい匂いですね……」
「ここは温泉が有名だからね。一週間もすれば慣れるわよ。……まあ、アタシたちにそんな時間が残されていればの話なんだけど」
不安を煽るように話をそう結んで、リヴァネルは先を歩く。その足取りはいつもより早くて、あやうく■■は置いて行かれそうになる。
「ずっと気になってたんですけど。……ここってどこなんですか? 魔界じゃありませんよね」
咄嗟に出た言葉だった。戍亥よるという少女に出くわした時点で、■■はなんとなくここが何処なのか把握している。
■■の質問の意図は、リヴァネルがゆっくり歩いてくれることを期待してのものだった。
このままだとウィスティリアと再会する前に途中で力尽きてしまう。
「……それは」
■■からの質問を受けて、リヴァネルが振り返る。そして肩で息をする■■を見たリヴァネルは足を止め、謝罪の言葉を述べた。
「急ぎすぎたわよね……ごめんなさい」
「わ、わたしの体力がないだけですから……」
「……───」
不意に。
リヴァネルは魔法を使い、■■を空中に浮かび上がらせる。慣れない浮遊感に■■が戸惑っていると、やがてリヴァネルの背中に着地した。
「アタシも魔力が残ってるわけじゃないの。だから、今はこれで勘弁してね」
「あ、ありがとうございます」
おんぶされた手前「やっぱり、下ろしてください」なんて口が裂けても言えない。それが親切心から来ているなら尚更だ。
「リヴァネルさんの匂いがします」
「汗臭いでしょ」
「そうでもないですよ?」
「変態」
声を弾ませ、互いに微笑み合う。
気がつけば、リヴァネルの顔からは先ほどまでの焦りは消えていた。
「さっきの質問の答えだけど、ここは地獄よ。リアの魔法で転移してきたの」
「地獄ですか……」
「ええ。リアはあらかじめ失敗した時の対処法を考えていたんでしょうね。抜け目ないっていうか、用意周到っていうか。もう少し弱点みたいなところを見せてくれたらいいんだけど。……でも、アタシたちはそのおかげで救われた」
■■は少し考えて、
「魔界で……何があったんですか」
「それはアタシよりもリアに聞いた方がいいわ。もうすぐだから」
平坦だった道は途切れて、小さな断崖を前にリヴァネルは立ち止まる。
■■はリヴァネルの指差す方に視線を移すと、思わず息を飲んだ。
「……───」
紫色の血の川が出来ていた。そして山のように積み重なった獄獣の死骸の上に、ウィスティリア・ヘルエスタが立っている。
「リア、八つ当たりはもういいでしょ」
「八つ当たりじゃないよ、ネルちゃん。コイツらが勝手に襲い掛かってきたの」
いつもの声音で話すウィスティリアだが、しかし、彼女の顔からは何ひとつ感情というものが読み取れない。
まさに、怪物。
ただ殺戮を繰り返えして喜ぶ怪物だった。
「クレアも怖がってるわよ」
「え?」
ウィスティリアの無感情だった顔に明るい声色が続く。
リヴァネルの背中から下りた■■は、
「クレア! クレア! クレアだぁ───!!!!」
「ごっ、ふぁ!?」
屍の山から飛んで来たウィスティリアに体当たりをされた。
二回転、三回転、と道を転がり、ようやく止まったかと思えば、今度は目の端に涙を浮かべたウィスティリアに抱き締められる。
「ごべんねぇ……守ってあげられなぐで……ごめん。ごべんなざい……」
「だ、大丈夫ですから。手を離し───」
うわぁーん、と泣き続けるウィスティリア。
■■にはどうする事も出来ず、リヴァネルに助けを求める。が、ダメ。リヴァネルからの苦笑いは「諦めて抱き締められなさい」という応援メッセージだった。
ようやく落ち着いた頃───。
「ぐすん……クレアが元気になってくれて、本当に良かったよぉ」
■■と手を繋いで歩くウィスティリアは、まだ感情の整理がついていないのか、目の端に小さな涙を浮かべ、必死に服の袖でその小さな涙を拭いている。
「大袈裟ですよ。別に死んだわけじゃありませんし。気にしないでください」
■■の言葉にウィスティリアとリヴァネルは顔を見合わせる。場を和ませようと冗談で言ったつもりだったが、何故か重たい空気になってしまった。■■は身の置き場に困って、次の話題を探すも、残念ながら見つけられなかった。
リヴァネルは頷いて、
「クレアは気を失う前、自分が何処にいたのか覚えてる?」
急に真面目な顔をして、ウィスティリアがそう尋ねてきた。
■■は質問の意味は考えず、思い出すために意識を集中させる。
「魔界の森にいたと思います」
「うん。私もリヴァネルも、魔界の森でクレアを見つけた。その後の事は? どうやって地獄に来たのか覚えてる?」
「……気づいたら戍亥さんの家のベットで横になってましたね」
「そっか」
返答を聞いたウィスティリアの顔に影が差す。何かが引っかかっているらしい。
■■もそれが何なのか気になったが、あえて追及はしなかった。
「クレア。アタシからもひとつ、聞きたい事があるんだけど……」
「はい」
隣りを歩くリヴァネルは、少し躊躇った様子で続ける。
「ロハちゃんを殺したのはクレアじゃないのよね?」
確認。
というよりは「違う」と言ってほしい。そんな気持ちがリヴァネルの言葉には込められていた。ウィスティリアも無意識なのか、繋いでいた手に力が入る。
一度、深呼吸を挟んで───あの時の光景が蘇ってくる───■■はなるべく二人に心配をかけないよう、薄く笑って答えた。
「わたしはイ・ロハさんを殺していません。絶対に」
「そう」
リヴァネルの顔に安堵の熱が浮かぶ。
痛いくらいに握りしめられていた手には、甘い痺れを残して、ウィスティリアの他人を思いやる気持ちが伝わってくる。
「少しだけ、安心した」
「リアさんもわたしを怪しいと思ってたんですか?」
「もちろん、クレアが殺したなんて信じてなかったよ! でも正直、二人だけでいなくなった、って話を聞かされたらどうしてもね」
疑いを捨てきれなかったことに、ウィスティリアは声を震わせる。
「……じゃあさ、次の質問。クレアはロハちゃんを殺した奴を見たんだよね?」
「それは……」
顔を伏せるウィスティリア。言葉を切ってしまった以上、下手な言い訳はできない。
■■は、心のどこかで鈴原るるという少女を信じたいと思っている。
彼女のせいで死にかけ、最後には殺意すら向けられたというのに、それでもまだ歯を食いしばって希望を探してしまう。
全部、手遅れだと分かっているのに───。
「ロハさんを殺した人は……もう、どこにもいません」
あやふやで、ズルい返事だと思う。
だが、それを聞いたウィスティリアは呆れるでもなく、単純に頷いてみせた。
「それで良かったんだよ。例え生きていたとしても、死ぬより辛い現実が待っているだけなんだから」
「どういう意味ですか?」
「さあ! みんな仲良く、よるちゃんの家に帰ろう!!!」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
こうして不自然に終わってしまった会話はそのままに、ウィスティリアは元気よく走り出す。■■も一緒になって戍亥よるの家を目指して走った。
一位は先行策で逃げ切ったウィスティリア。
二位は後ろから容赦なく■■を抜き去ったリヴァネル。
最後に、病み上がりの■■で決着。
そして息を切らした三人を出迎えるのは、戍亥よる───ではなく、やけにテンションの高い、肩に白いドラゴンを乗っけたお姉さんだった。




