ヘルエスタ王国物語(86)
城を出たあとも■■は現実に帰ってきた感じがしなかった。
ずっと夢の中を彷徨っているような、耳を流れるノイズ音に脳を焼かれ続けている。
リヴァネルも少し変だった。というのも、部屋を出たあと三人はグウェルに連れられて城の地下にある倉庫に向かった。■■には価値が分からなかったが、倉庫の中には錬金術に使えそうなモノが沢山あったと思う。
しかし、そのどれにもリヴァネルは反応しなかった。
目の前にある素材を淡々とした様子で鞄の中に入れていく彼女は───後ろから見ていただけだが───どうしようもなく不気味だった。
三人で森を歩いている今も、彼女はにべもなく、顎に手を当てて物思いに耽っている。
「ネル、どうしたの? さっきからずっと難しい顔してるよ」
「え? あ、ああ……そうね」
リヴァネルは一瞬驚いた様子で答えて、躊躇うようにウィスティリアの顔を見つめた。
「ねえ……リア……ひとつ、聞きたい事があるんだけど……」
「ん?」
慈愛に満ちた表情を浮かべ、ウィスティリアは彼女の言葉を待つ。
そして。
リヴァネルは口を開けては閉じ、開けては閉じを繰り返した。
そして。
そして、だ。
「なんでもない……」
「そっか。……分かった」
微笑むウィスティリアに、リヴァネルも弱々しく笑みを返す。
だが、■■は聞いた。
リヴァネルが何を言おうとしたのか。彼女の口から発せられた言葉を───あの頭が割れるようなノイズ音を───■■は確かに聞いたのだ。
体が前のめりになる。
今すぐ彼女が何を言ったのか知りたかった。
自分と同じか。
それとも違うのか。
もしかすると初めて、自分が素直になれる相手が見つかったのかもしれない、と■■は淡い期待に胸を弾ませた。
しかし、それは許されなかった。
違う。
限界が来たのだ。
ノイズ音を聞いた後はいつも決まって意識が曖昧になる。
■■は歪む視界に目を細め、離れていく二人の背中に追いつこうと必死になった。
でも、届かない。
ほんの少し手を伸ばせば届く距離に二人はいるのに。
どんどん遠くなる。
いつしか呼吸は乱れて、体を巡っている血は氷のように冷たくなった。
───救えない。わたしに世界は救えない。
倒れる直前。
■■はいつものノイズ音ではなく、ハッキリとした声音を聞いた。
その声は■■のものじゃない。
夜王の声でもない。
その声は紛れもなく、この体の持ち主。
■■が前世でよく聞いた、シスター・クレアのものだった。
△△△
「地獄に行きます」
「いってらっしゃい」
という会話が一ヶ月ほど前にあった。
地獄に行きたいと駄々をこねるウィスティリア。
魔界に行こうと主張するリヴァネル。
二人の会話は次第にヒートアップしていき、やがて夜王国を巻き込んだケンカへと発展した。
もちろん。
彼女たちのケンカを止めるすべを持たない■■は、当然のように傍観者である。
二人のケンカを止めに入ったグウェルも、二人の使う魔法に吹き飛ばされ、あっけなく気を失ってしまった。
結局、二人が市場の三分の一をめちゃくちゃにしたところで、最終的にケンカを止めたのは夜王だった。
頭を殴られた二人は涙ながらに言い訳するも聞き入れてもらえず、それから三日間は吹き飛ばした畑や民家の修復作業に勤しんだ。
元に戻したあとは、夜王の命令によって三人はすぐに夜王国から追い出され、今ようやく、長い船旅を終えて三人は魔界の地に降り立った。
「ここが魔界ですか? なんだか不気味な所ですね」
周囲を見渡し、寒さに身を震わせながら、■■は開口一番そう呟いた。
太陽の光さえ遮ってしまうほどの暗雲に、辺りを漂う空気には黒いモヤのようなものが混じっている。
「本当に大丈夫でしょうか……」
■■が入り口で尻込みしていると、後からリヴァネルがやってきた。
首に巻いたマフラーで口元を隠し、コートのポケットに手を入れている。彼女も魔界の気候に慣れないのか、予想していた以上の寒さに声を震わせていた。
「ま、魔界の空気は基本的に無害だそうよ。学生の頃に読んだ本にそう書いてあった。まあ……この天気はちょっと嫌な感じするけどね」
リヴァネルは空を見上げ、浮かぶ暗雲を睨む。
■■も同じように空を見上げた。
雲の向こう側からなにか得体の知れないモノが、こちらを押し潰そうとしている、そんな威圧感があった。リヴァネルもその存在を感じ取ったのだろう。しかし、それが何なのか二人には分からなかった。
「はぁ……結局、よるちゃんには手紙を出すだけになっちゃった……」
魔界の空に浮かぶ雲よりも、さらにどんよりとした溜息を吐いて、ウィスティリアが船から降りてくる。
「まだ言ってる」とリヴァネルは呆れた。「別にいいでしょ。そう簡単に死ぬような人じゃないんだし。会おうと思えばいつでも会えるじゃない」
「ネルちゃん、ひどーい。きびしー。つめたーい。さいてー」
「分かったから、さっさと前を歩きなさい」
「はーい」
軽く返事をして、ウィスティリアは港の出口に向かって歩き出す。
■■は前を歩く二人の背中について歩いた。
正直な話。
■■も『戍亥よる』という名前のケルベロスについて気になっていた。地獄にいるというその人物はリヴァネルの本名である『カトリーナ』と同じように、まだ■■が■■として生きていた頃に一緒に遊んでいた数少ない親友と、名前に共通点がある。
だが、今となってはそれを確かめるすべはない。
魔界と地獄は反対方向にある。魔界から地獄に行くためには、天地がひっくり返るような奇跡でも起こらない限り、不可能だろう。
「ウル・モアが封印されてる場所は魔王城の近くであってるのよね?」
「うん。正確には魔王城の裏にある火山だけど……」
「それならアタシは先に行って封印の状態を調べておこうかしら」
「やめた方がいいよ。ネルちゃん、魔界に来たの初めてでしょ? だったら最初は魔王様に挨拶しに行かなきゃ。じゃないと色々な方向から襲われちゃうよ」
「襲われる?」
疑問を口にしたのは■■だった。
「具体的にはどんな……」
「触手の穴に落ちたり、壁に挟まったり、蟲に寄生されたり。……まあ、色々だよ」
聞いているだけで全身の毛が逆立つような気がした。
■■は頭を振って、浮かんできた妄想を追い払う。
「一応聞くんですけど……それって助かるんですよね?」
「うーん……蟲は薬で体内処理できるし、壁に挟まったら壊せばいいから。一番気を付けなきゃいけないのは触手の穴に落ちることかなー。助けるのが遅れるとそのまま溶かされて飲み込まれちゃうから」
くれぐれも足元には注意するように、とウィスティリアに念を押される。
「でも、昔は魔族の間で触手の穴は自殺の名所になってたんだよ」
「その話ならアタシも知ってるわ」リヴァネルが言った。「確か……とんでもなく気持ちよく死ねるって有名よね」
「ネルちゃんってそういう知識に割と詳しいよね。もしかして興味ある?」
ウィスティリアは冷やかすような目で、リヴァネルを見つめた。
「ただの好奇心よ。それで? どうなのよ」
「私の口からは答えられないなー」
ウィスティリアは悪戯を成功させた子供のような顔で答えて、
「そんなに気になるなら穴に落ちてみればいいんじゃない? 大丈夫。十分くらいしたら助けてあげるから」
「触手って材料になるの?」
「……それはどうだろう。どっちかっていうと魔界の土の方が錬金術的には価値があるんじゃないかな」
「じゃあ、入らない」
リヴァネルが答えるまで少しの間があった。
もしかすると彼女は、錬金術の材料として使えるのなら触手の穴に落ちても構わないと思っていたのかもしれない。
■■はそんな彼女の姿が前世の親友と重なった。
「怖がらなくてもいいよ、クレア」
「え?」
ウィスティリアに声を掛けられ、■■は顔を上げる。
「この道は比較的安全だし。触手の穴もキレイに処理されてるから、穴に落ちる心配はしなくてもいい。気を付けなきゃいけないのは落石くらいだけど……私とネルがいるからそっちも安心して」
「はい。ありがとうございます」
■■は目尻を笑わせて返事をした。下を向いて歩いていたせいでウィスティリアに気を遣わせてしまったらしい。
「それにしても……険しい道のりですね……」
港から出てずっと岩肌のような道を歩いている。それなのに魔王城どころか、誰かが住んでいる痕跡すら見当たらない。
段々と、本当にこんな場所に人が住んでいるのか信じられなくなる。
「この丘を越えたらもうすぐだから」
「が、がんばります……」
ウィスティリアに手を引かれるまま、■■は歩き慣れない山道を登る。
上に行くにつれ、降り積もった雪に足首を冷やされた。
ようやく頂上まで辿り着くと、夜王国の黒い森とは違う、また別の異様さを持った青い森が広がっていた。
「あれが魔界の───」
「うん。今日は霧がひどくて魔王城が見えないね」
「何処にあるんですか?」
「あっち」
ウィスティリアの指差した方角に目を凝らす。
しかし、
「何も見えませんね……」
雪と黒いモヤのせいもあるのだろうが、目的の魔王城はどこにも見えない。
やがて、青い森を隠すように雪は吹雪に変わる。
「もっと天気が良ければここからの眺めは最高なんだよ。本当に、キレイなんだから」
ウィスティリアは段々と霞んでいく景色に「二人にも見せたかったなぁ」と呟いた。
そこでふと、■■は気づく。
「あれ? そういえばリヴァネルさんはどこに……」
さっきまで隣にいたはずのリヴァネルの姿がどこにもない。周りを確かめようにも吹雪のせいで三メートル先が見えない状況だ。
「探してみようか」
ウィスティリアはそう言って、右手に持っていた杖で地面を叩いた。カーン、と甲高い音が吹雪のなかに響き渡る。
「ネルならこっちにいるみたいだよ」
ウィスティリアに手を引かれ、■■は足元に注意しながら進む。
そして、少し離れた場所にリヴァネルを見つけた。彼女は目の前にある紫色の岩に瞳を輝かせ、じっとその場を動こうとしない。
「ネルちゃん、素材集めはまた今度ね」
「い、言われなくても分かってるわよ! でも、ちょっとくらい……」
「ダメ。吹雪いてきてるんだから避難する方が先だよ。ほら、立って。近くに洞窟があるみたいだし、ひとまず、そこに避難しよう」
リヴァネルのいた場所から洞窟までそれほど離れていなかった。洞窟に到着するなり、■■とリヴァネルは夜王国で仕入れておいた薪を積み上げ、火を起こした。感覚の無くなりかけていた頬に、わずかな熱が戻ってくる。
「し、死ぬかと思いました」
「ネルちゃん」
「……え? アタシが悪いの?」
■■が凍りつきそうになっている責任を押し付けられるリヴァネル。
そんな彼女にウィスティリアは意地悪い笑みを浮かべて、
「今日はネルちゃんが晩ご飯作ってよね。できれば、温かいスープがいいな」
「はいはい」
と、リヴァネルは面倒くさそうに返事する。
ほんの少し経って、彼女は山菜と肉団子を詰め込んだ鍋を焚火の上に吊るした。
「なんだか懐かしい感じがしますね」
■■の言葉に、ウィスティリアが頷く。
「そうだね。クレアと一緒に旅を始めた頃もこうして二人で鍋を食べた」
「はい。あれから色々あったなって。……本当に、色々」
「なんで落ち込んでるの!?」
「いえ……死にかけたトラウマを……思い出してしまって……あはは、はは……」
苦し紛れに笑う■■だが、それでも瞳から生気が消え失せてしまう。
そんな■■の肩をリヴァネルが優しく抱き寄せる。
「大変だったのね」
「リヴァネルさん!!!」
■■もまたリヴァネルを抱き締めた。
頭を撫でられ、思わず泣きそうになる。
「ところで、リア」リヴァネルが言った。「魔界に来てからずっと周囲を警戒してるみたいだけど、なにか理由があるの?」
「……───」
質問を受けたウィスティリアの目が鋭く光る。
その警戒心は吹雪の向こう側にいる別のナニかに向けられていた。
「ねえ、二人とも。今から少しだけ真面目な話をするんだけど、聞いてくれる?」
「……───」
「……───」
「ありがとう」
ウィスティリアの視線が■■に向く。
「クレアは魔王の話を覚えてる?」
「えーっと、カフェで話した内容でしょうか?」
「ううん、もっと前。私が勇者の話をしてる時だったかな」
「勇者……」
「私が魔王の事情を知ってる、って言ったの……覚えてない?」
「聞いたような……聞いてないような……」
旅を始めてから一ヶ月以上が経過している。
■■としてもあまり記憶に残っていない。勇者の話で思い出せるのは、かつてウィスティリアが勇者に助けられた事くらいだった。
「すみません……」
「謝らないで。別に責めてる訳じゃないから」
一度目を伏せて、ウィスティリアは続ける。
「現状、魔界では二つの勢力が争ってる。ひとつは魔王軍。もうひとつは反魔王軍。私が以前ここに来た時は戦いの真っ最中だったんだけど……」
「なるほど。だから船から降りたあとも、ずっと周囲を警戒してたのね」
「ネルちゃんってば察し良すぎでしょ」
「あれだけクレアの事を気にしてたら誰だって分かるでしょ」
でも、とリヴァネルは言葉を切った。
「魔界がそんな状況なのにウル・モアが復活するって、かなり危険だと思うんだけど。それについては何か考えてるの?」
「取引をしたの」
「取引?」
「うん。魔族同士の戦いを終わらせたあと、ウル・モアの討伐を魔王様にも協力してほしいって。……快く承諾してくれたよ」
「ただでさえ戦いで傷ついてる魔王軍に、世界を滅ぼせる化物と連戦しろって? よくそんな条件を魔王様が飲んでくれたわね。アタシだったらドン引きよ」
「戦いは私ひとりで終わらせるし、傷も私が治すっていう条件付きだけどね」
その覚悟を聞いて■■は声が出せなくなっていた。
■■の隣りに座るリヴァネルは眉間にしわを寄せ、
「アタシを頼ろうとしないのね。別にいいけど……」
ふん、とそっぽを向く。
睨まれたウィスティリアは苦々しく笑った。
「ネルとクレアは最悪を考えて魔王城で待機しててほしいの。これは噂だけど、反魔王軍がウル・モアを復活させようとしてるみたい。だから私が戦いを終わらせるまで、ネルちゃんはそっちの警戒をしてほしい」
「……ちなみに聞くんだけど」
「うん」
「もしも魔族間での戦いが長引いて、ウル・モアが復活した場合、そのウル・モアの足止めは誰が担当するの? リアは反魔王軍と戦ってるのよね?」
「そりゃもちろん、ネルちゃんだよ」
「ひとり?」
「ひとり」
「魔王様は? 手伝ってくれるのよね?」
「魔族同士で戦いが続いてるあいだは無理だと思う」
先程までウィスティリアを睨んでいたリヴァネルの顔から、どんどん元気がなくなっていく。■■はなんとなく、その理由を察した。
「リアの友達をやめたい……今すぐに……」
しょぼくれた顔のリヴァネルに見つめられる。
「ねえ、クレア……アタシと二人でここから逃げない? 大丈夫、金ならある」
「あの……えーっと……」
思い返せば、リヴァネルは魔界まで巻き込まれる形でついてきた。
最初は夜王国までという約束だった。それなのに、リヴァネルは夜王からモアの王冠を託され、いきなりウル・モアを討伐する旅に同行させられる。
そこまではなんとか自分を納得させてきたのだろう。が、ここにきてさらにウル・モアと一対一で戦えという、鬼畜の極みとも表現できそうな状況に自分の意思関係なく放り込まれようとしているのだ。
流石の■■も、これには同情せざるを得ない。
「泣いても笑っても今更逃がさないからね? 絶対に束縛するからね? なんならネルちゃんの家まで押し掛けて一晩中泣きわめくからね、私が!!!」
ウィスティリアの目が怖い。
リヴァネルは魂が抜けたように立ち上がると、三人分の鍋皿とレンゲを持って戻ってくる。そして現実から逃げるように、ぐつぐつと煮える鍋を食べはじめた。
結局。
その日、吹雪が止むことはなかった。




