ヘルエスタ王国物語(70)
北門───ニュイ・ソシエールは待っていた。
閉じていない門を前にしてもニュイは攻め込もうとしない。
壁を越えて、国中から悲鳴が聞こえてくる。
人が生きているからこそ感じられる恐怖は、彼女の周りに浮かぶ、目と鼻と口をくり抜いただけのカボチャ頭を十分に楽しませた。
しかし、その事に対してニュイが注意することはない。
ヘルエスタ王国の人々がいくら死のうとも、この先に進めなければ、どれだけ長生きしようが意味はないのだから。
ニュイの目的は以前、リゼ・ヘルエスタが腐らせているモアの王冠である。
そして、同じくらい、自身の計画───勇者育成計画をどこまで進められるのかに、胸を躍らせている。
「来たね」
ゆらり、と落ちてきた炎の中から、影が立ち上がる。
「アタシが一番乗りだね」ドーラが言った。「そっちはどう? 調子はいい感じ?」
「もちろん。いつでも殺し合えるよ」
「そっか、良かった」
ドーラの見せる表情は、戦いを欲している強者のそれだった。
「実は前々からおニュイとは戦ってみたかったんだよねー」
「私は二回目だけど」
「え、嘘……アタシの記憶に無いだけ?」
当時、ニュイはドーラと遊び半分、本気半分で戦い、北側の街を半壊させた。
あの戦いは月ノ美兎とニュイの仲間たちしか覚えていない。ドーラがいくら頭を捻っても記憶の断片すら思い出せないだろう。
ドーラの背後から、ローレン・イロアスと緑仙の二人が現れる。
二人は終始無言だった。
さらに遅れて、ベルモンド・バンデラス。
「……───」
ニュイは喜び、椅子にしていたカボチャ頭から立ち上がる。
問題視していたレヴィ・エリファとエクスの姿がないのは残念だが、世界に挑戦するための役者は揃った。
六つのカボチャ頭が魔女の帽子を被って、ケタケタと笑う。
ニュイも同じように、目の前の可能性の種たちを笑った。
さあ、物語を動かそう。
過去と、未来と、今を救う───そのために。
△△△
「怪しいところはなし、か」
月ノ美兎は誰もいない校長室でひとり呟いた。
何故、美兎がヘルエスタ魔法魔術学校の校長室にいるのか、それはニュイに教えられた真実を確かめるためである。
幸か、不幸か。
いつも校長室に陣取っている星導ショウは、今日に限って外出している。
探るなら今しかない、と思っての行動だった。
美兎は校長室にある魔法の痕跡を探ったが、今のところ答えは出ていない。
調べる事がなくなった美兎は、星導が特注で作らせたシンプルな椅子に腰を下ろす。
ここまでの確認を踏まえて、魔法がかけられているのはこの椅子だけだった。しかしそれも、腰が痛くならないための陳腐な魔法だ。美兎が星導ショウを敵だと認識するためにはまだ弱い。
もっと確定的な証拠がいる。
「ここまで何も無いと、ニュイ先生に騙されたってことになるのかな」
美兎はため息を零し、机に頭を落とす。
校長室に置かれた本棚から、魔道具まで隅々まで調べ上げてからの結論。
あとは本人に直接聞く以外に打つ手がなくなってしまった。
「……はあ」
二度目のため息が出る。
そこで、校長室のドアがひび割れたような音を出して開いた。
「おや?」
星導の声が部屋に響く。
「ここに私以外の誰かがいるのは妙ですね」
本来なら自分以外、誰も入れないはずの部屋である。人の気配がするのはおかしい。
普通の人であれば警戒するような場面だが、星導は躊躇うことなく校長室に入り、我が物顔で椅子に座っている月ノ美兎を見下ろした。
「待ってましたよ、先生」
「待っていた、とは?」
顔を上げた美兎にそう告げられ、星導は惚けた顔で美兎の顔を見つめ返す。
分かっていて知らないフリをする、そんなズルい大人のような顔だ。
その笑みを見て───遠回しに探ろうと思っていた美兎だったが、方向を百八十度変え、直接的な言い方に変える。
「星導先生がアルスを消したって、ニュイ先生から聞きました。それは本当ですか?」
顎に手を置き、星導は何かを考えているようだった。しかし、美兎の追及から逃れられないと判断してか、星導は頷き、眉ひとつ動かさず言う。
「ニュイさんのおっしゃる通りです。アルス・アルマルは私が殺した」
「……そうですか」
美兎の眼光が鋭さを増す。
「どうして、アルスを殺したんです?」
「どうしてと聞かれましても……邪魔だったとしか答えられませんね」
「本当に?」
「本当ですよ。彼女の存在は私が美しい世界を創造する過程で、もっとも不必要な存在だった。だから排除した。それだけです」
そう言い切る星導に、美兎はどんな汚い言葉を投げてやろうかと思った。
だが、激しい怒りの感情に身を委ねても、目の前の男に後悔させる事は出来ない。
彼はなんとも思っていないのだ。
人を殺したこと、命を奪ったこと、そのすべてに対してこれっぽっちも興味がない。
美兎がいくら口汚く罵っても、目の前の敵はきょとん顔で受け止めるだろう。
「ところで美兎さん。あれ? 月ノ美兎さんで合ってますよね、名前」
「校長先生なのに生徒の名前も覚えてないんですか」
「これは失礼しました。私は普段から生徒と関わりがないものですから。……それで? 答えを聞いた美兎さんは、これからどうするのでしょう?」
「とりあえず、ぶん殴ろうかなって、思ってますけど……」
「野蛮ですね。もっと平和的な解決策があるとは、お考えにならないんでしょうか」
「どの口が……」
爆発しそうになる感情を、美兎は頭を振って冷ました。これ以上、敵の口車に乗って体力を使うべきじゃない。
「戦うというのでしたら美兎さん、私にとっては貴方が悪だと思いますが……その辺はどうお考えで?」
「……どっちでもいいですよ、そんなの。勝った方が決めればいい」
美兎にとってはアルスを消した星導は悪であり、星導はにとっては自分の邪魔になる存在は皆等しく悪である。
今更───どちらが善で、どちらが悪か、なんて問答は意味がない。
美兎が椅子から立ち上がっても、星導は何の反応も示さなかった。魔法陣の展開をする訳でもなく、ただ無防備に突っ立っている。
「どうしました? 私を殴るんでしょう?」
「殴らせてくれるんですか?」
「ええ、可愛い生徒の頼みですから」
じゃあ、と美兎は拳に力を込める。
美兎は余裕の表情を浮かべる星導の、そのみぞおちを狙って、思いっ切りぶん殴った。
次の瞬間───。
「ぶべらばぁ!!!」
と、面白い声を上げて飛んでいく星導は、校長室のドアを突き破り、さらに向こうの壁に激突した。
星導は何が起こったのか分からないまま、その場に座り込み動けなくなる。
「先生、立ってください」
美兎は星導に歩いて近づき、その顔を見下ろした。
敵と分かったなら手加減する理由なんてないし、アルスの敵討ちというなら、もっと手加減する必要なんてないだろう。
美兎は眼前で動こうとしない星導の前に立ち、言い放つ。
「これで終わりだなんて思うなよ!」
リゼはメモを見ながら東の娯楽街を走っていた。
メモにはローレンの家の正確な住所が書かれている。
しかし、リゼがもしも最短距離で突っ走っていれば、とっくに目的地に到着しているはずだった。
遠回りをせざるを得なかった理由は、北側から真っ直ぐ進んだ先の東の教会に、北側から逃げ延びた人々が道を塞いでいたからだ。
そのせいで到着が遅れている。
途中で、ローレンに出くわすんじゃないかと期待してみたが、それも叶わなかった。
荒い息を吐きながら、リゼは口の中に広がる唾を飲み込む。血の味がした。普段の自分の生活からは考えられない味だった。
リゼはここまで全力疾走できている。
アンジュと戍亥との旅で少しは体力がついたとはいえ、その体力はやはり人並み。国を守っている兵士や警備隊の人たちと比べると、まさに月とスッポン───だが、情報を届けるまでは休むわけにいかなかった。
突然、背後から伸びてきた手に、リゼは腕を掴まれる。
「───ッ!?」
リゼは掴んできた手を振り払おうと暴れるが、
「落ち着いてくださいリゼ様!」
「え?」
相手の声を聞いて、リゼは振り返った。
「クレアさん? どうしてここに……」
「それはこっちのセリ、フです……リゼ様こそ、どうしてこんな所にいるんですか!?」
肩で息をしているクレアは、腹の底から絞り出した声音で質問した。
一方で、リゼの腕を掴んでいるクレアの手はありったけの力で、リゼを逃がすまいと爪を食いこませている。
「とりあえず腕を離してもらえませんか……そのぉ……痛いです」
クレアはハッとした表情で、掴んでいた腕を離す。
「ご、ごめんなさい! 呼び止めても、止まってもらえなかったもので……」
「名前……呼んでました?」
「はい、何度も。でも、聞こえてなかったみたいですね」
あはは、と笑うクレア。
「いつから……」
一緒に走っていたのだろう、とリゼは疑問に思う。
「えーっと、リゼ様が東の教会の前を通った辺りからです……ひとりで何処かに行こうとしてるのが見えたので、慌ててついて来ちゃいました」
「そ、そんなに前から……ごめんさい、クレアさん。私、全然気づかなくって」
頭を下げるリゼに、クレアは手を振って、
「いえいえ、そんな。気にしないで下さい。わたしも声が小さかったですよね……でも、本当に追いつけて良かったです」
ホッとしたような安堵の表情を浮かべ、クレアは続ける。
「ところで、リゼ様はどこに行こうとしてたんです? 東の街に用事でも?」
「あ、それは───」
リゼはローレンの住所が書かれた紙をクレアに見せた。
「……他にも敵がいる」
「はい。だからローレンさんに一刻も早く伝えないといけなくて……」
それからもクレアは紙にメモされている内容を読み進め、首を傾げる。
「リゼ様……これ変です」
「変といいますと?」
リゼからしてみれば、正式に警備隊に所属している人が命からがら届けてくれた情報だ。そこに間違いなどある訳がない。
一体どこがおかしいと言うのだろう。
「まず、ここです」
クレアは紙に書かれたローレンの住所を指差して、
「ローレンさんはニュイさんの裏切りを知ったあと、いつ攻め込まれてもいいように、ずっと王城で待機していました。家に帰ったなんて報告はありません」
「それじゃあローレンさんは、北側にいる……ってこと?」
「そうなりますね」
リゼは頭を抱える。
別に娯楽街まで走らなくても良かったのだ。最初から光の落ちた場所を目指していれば、ローレンにこの情報をもっと早く届けられていた。
「私ってば、ホントに……もっとちゃんと確認しておけば良かった……」
膝をつき、バンバン、と地面を叩くリゼ。
そんな風に恥ずかしさを隠そうとする彼女に向かって、またしてもクレアが疑問の声を上げる。
「リゼ様……もうひとつ不可解な点があるのですが……」
「今度はなんでしょう……」
リゼは涙目でクレアを見つめた。
クレアはリゼに優しい笑顔を向けて、思ったことを口にする。
「警備隊の皆さんなら、ローレンさんが王城にいたことは全員知っているはずです。だから、ローレンさんが家にいるなんてデタラメな情報をリゼ様に教えるわけありません」
「ん? つまり、どういう事ですか?」
「つまり───ッ!」
クレアは何かを察して、地面に這いつくばっていたリゼを立ち上がらせる。
「クレアさん!?」
いきなり腕を引っ張られ、来た道を戻ろうとするクレア。
リゼは足に力を込めて抵抗する。
「急にどうしたんですか……」
「逃げなきゃ……早く、この場所から……」
ぶつぶつ、とそう呟くクレアには何も聞こえていない。
リゼはもう一度、クレアの名前を叫ぶ。
「クレアさん!!!」
呼ばれて立ち止まったクレアの顔には、得体の知れない恐怖が張り付いていた。
「リ、リゼ様……今すぐわたしと一緒に逃げてください。おそらくこの場所に呼び出したのは───」
その時、クレアの言葉を遮って、残念そうな声が二人の耳に届いた。
「あと、もう少しだったのになぁー」
人気のない道。
闇の中から現れた声の持ち主は、リゼに手紙を託した男だった。しかし、聞こえてきた声はリゼが記憶している男の声とはかけ離れている。
男は可愛く口の前に手を置き、女性らしいしぐさで笑う。
その声音にクレアは───。
「……ソフィアさん?」
リゼも、クレアと同じことを思った。
かつて冒険者ギルドで依頼を受ける手伝いをしてくれたソフィア・ヴァレンタイン。
男の声は彼女にそっくりだった。
「あ、お久しぶりです、クレアさん」
そう言った男の体から、見たこともない───魔法陣とも錬成陣とも違う───文字の書かれた陣が抜けていく。やがて、すべての文字が男の体から抜けると、煙の向こうから二人の知っているソフィア・ヴァレンタインが顔を出した。
「どうして……」
クレアが声を漏らす。
目の前で起こった事象を、脳が理解しない。もしも彼女が敵であるなら、これまでソフィアに探らせていた情報は相手に筒抜けだった事になる。
最初から───全部───自分に味方がいないなどと、クレアは思いたくなかった。
リゼは立ち止まってしまったクレアを庇うように、ソフィアの前に立つ。
「私をここに呼んだのは、ソフィアさんなの?」
「はい。リゼ様を確実に殺すために、アンジュさんと戍亥さんから離れてもらいました」
目的を隠そうともしない声音に、リゼは清々しささえ覚える。
だが、その胸の内は震えていた。
「私、ソフィアさんに恨まれるようなことしたかな? 思い当たらないんだけど……」
リゼは冷静に、時間を稼ぐための質問を続ける。相手もそれを分かっているのだろう。無駄に言葉を交わすような事はしない。
ソフィアは獣のように尖った爪を剥き出しにし、二人に襲い掛かる。
それはもう、リゼの理解出来る速度を超えていた。
避けれたのは奇跡といっていい。
ほぼ勘で───ギリギリだった。
振り返れば、二人の立っていた場所が粉砕されている。
それは永遠とも呼べる時間が消え去った痕跡。青白い雷を纏うソフィアの体は、暗闇の中で唯一の光源となっている。
リゼが次の攻撃に肝を冷やしていると、だが当の本人は、リゼを仕留めきれなかったことよりも、空を見上げ、別のナニかを気にしているようだった。
「クレアさん、ごめん───でも、これで貸し借りはなしってことで!」
思わず突き飛ばしてしまったクレアの安否を確認し、リゼはひとりで走り出す。
狙いが自分であるならば、間違いなく追ってくるだろう。
それでクレアの命は助かる。
「……───」
ソフィアは倒れたままのクレアには目もくれず、逃げるリゼの背中に狙いを定める。
一歩で距離を詰める。
が、またしても奇跡が起きた。
「……───」
二度目の奇跡。これを偶然と思うべきだろうか?
追撃。
追撃。
追撃。
追撃。
そして。
圧倒的な奇跡がリゼを救う。
「え? え?」
と、困惑顔のリゼを窮地から救ったのは、魔王レヴィ・エリファ。
その偶然にソフィアは思わず舌打ちする。どうしてこうも邪魔が入ってしまうのか、気持ち悪くて仕方がない。
だが、不快感と同時にソフィア・ヴァレンタインは確信する。
「もう少しだ。もう少しで、石神……我らの望むすべてが手に入る」




