ヘルエスタ王国物語(68)
「という訳で。以上、回想終わり。何か質問あります?」
翼を広げたクレアは後ろからニュイに抱き着かれても微動だにしない。されるがまま、頬っぺを引っ張られている。
うむ、と話を聞いていた尊が言う。
「つまり、ここでお主を倒しても問題ないというわけか」
尊からの物言いに、ニュイは頭を悩ませる。
「……それは流石にやめといた方がいいじゃない? いくら尊様といえど、四人を庇いながら私等と戦うのは無謀でしょ」
それに、とニュイは続ける。
「まだ大事な人たちの避難が遅れてるみたいですよ?」
ニュイが視線を向けた先にあるのは小野町亭だ。尊は友人───フミとの約束により、小野町亭に生きる人々を守らなければならない。
この約束を守れなければ、尊の鬼神としての力は死んでしまう。
「鬼神となった妾に脅しをかけるか……全く、相手にするには面倒な女この上ない。じゃが、お主も分かっておろう? 手を出せばどうなるか」
「イヤだなぁ、尊様。私も小野町亭の人たちを人質にして、貴方に挑むつもりはありませんって。やるなら正々堂々。真正面からボコボコにしてやる」
お互いに笑って、全身から吹き上がる殺気を隠そうともしない。
その場に居合わせたリゼ達は、重力が何倍にもなったかのような感覚に襲われ、ゲロを吐く一歩手前まで追い詰められる。
幸いにも、睨み合いは数秒で終わった。
リゼの体感ではかなり長い時間、死の淵を彷徨っていたような気もするが、それは本当に気のせいなので、ひとまず深呼吸をして自分を落ち着かせる。
「良かろう。では決戦の日まで妾も力を蓄えておくとするか」
「そっちの方が私としてもありがたいですね」
ニュイは尊との会話を切り上げて顔を、リゼの隣で放心状態になっている、もうひとりのクレアに向けた。
「ごめんね、クレアさん。貴方も頑張ったけど……これ以上は無理みたい。もっと貴方が優秀だったら良かったのにね。まあ、それは贅沢な望みか」
興味のなくなった玩具を捨てるように言って、ニュイは足元に陣を描く。それはここに飛んで来た時と同じ、転移の魔法陣に他ならない。
「待ってください……」
「ん? どうしたの?」
肩を落とすニュイと違って、クレアはゆっくり立ち上がる。
「ニュイさんが敵である事は理解しました。でも、わたしたちは……ヘルエスタ王国は負けません! 絶対に!」
「楽しみにしてる」
ニュイと一緒にクレアの身体も消える。二人がどこに行ったのか、神である尊でさえ把握することは出来なかった。
「妾は小野町亭に戻る。何かあれば知らせを送れ」
「ありがとうございます、尊様」
クレアからの礼を受けて、尊はその場から去った。
残された四人は付近にケガ人がいないか、捜索を始める。瓦礫に埋もれた者はいない、と戍亥から前もって説明を受けていたが、それでも、自分の目で確かめないことには気が済まなかった。
確認が終わり、四人は王城への帰路につく。
「……クレアさん。さっきはごめんなさい。疑ってしまって」
重苦しい沈黙を破ったのはリゼだった。
「いいえ。リゼ様は何も悪くありません。むしろ謝るのはわたしの方です……リゼ様を傷つけるようなことを、たくさん……してきましたから」
下を向いて歩くクレアの顔をリゼはまじまじと見つめる。
確かに、彼女はこれまでリゼを国王にしないよう画策してきた。しかしそれも、今ならヘルエスタ王国を守るためだったのだと理解できる。
自分の弱さのせいで国民の逃げ道を潰してしまっているリゼと違って、クレアはそんな国民の不安を、その小さな体で受け止めていた。自分なんかよりもずっと、シスター・クレアは国民のことを思っていたのだ。その事に、悔しいという気持ち半分、自分の情けなさに反吐が出る。
自分に出来ることを探そうと覚悟を決めたばかりなのに、これでは無能の王と呼ばれても受け入れるしかなくないではないか。
「リゼ……」
戍亥が呟く。だが、後ろに言葉は続かなかった。
「あの、クレアさん」
リゼが質問する。
「なんでしょう?」
「ニュイさんと消えたもうひとりのクレアさんは……どういう存在なんですか」
「……分かりません。わたしもこんな事は初めてで」
リゼの質問に、クレアは頭を振って答える。
と、そこに。
「ホムンクルスなんじゃない?」
アンジュの発言に「え?」とリゼとクレアは同時に声を上げる。
ホムンクルス───人間が神と同じ立場を得るために作り上げた造物───クレアはかつて『リゼダヨー』というリゼに似せたホムンクルスを、ニュイに作るようお願いした事がある。二人のクレアという辻褄を合わせるなら、十分に可能性のある話だろう。
「アンジュ……適当なこと言ってないよね?」
と、リゼは食ってかかる。
疑うところから始める親友に対して、アンジュは肩を落として言う。
「錬金術師の視点から見ればそれくらいしか思いつかなかったってだけ。他にも考えられる事はいくつかあるだろうけど……今はそれぐらいなかって」
「理由、希薄すぎない?」
「リゼちゃんや……まずは、ひとつの意見として受け入れてもらえないでしょうか。このままだとアンちゃんは泣いてしまいます」
「ごめんって……」
しょぼくれるアンジュに、リゼは苦笑いを返して、丸まった背中を優しく撫でる。
だが決して、リゼはアンジュの意見を蔑ろにしたわけじゃない。ホムンクルスの歴史をこれから紐解いていくならば、アンジュの意見は必ず役に立つ。リゼがいまいちアンジュを信用でしきれないのは、彼女の日常的な言動のせいだった。
重要な局面で的外れなことを言ったかと思えば、いきなり真面目になったりする。
そのメリハリの無さは良くも悪くもアンジュらしい。
「まあ今は、それで終わる話ってことやね」
戍亥が一連の会話に区切りをつける。
答えの見えない問題をいくら考えてもこの場で出来ることは何もない。頭を働かせるだけ損をするというものだ。
四人が王の間に戻ると、ニュイが裏切り者であるという話を聞かされた。
リゼたちも、もうひとりのクレアについての情報を共有する。
最後に、美兎がリゼに王座を譲るかどうかの話し合いがあった。話し合いのすえ、しばらくはリゼに玉座を返すことはせず、美兎が預かっておくという形で落ち着いた。
時計塔の針が、午後三時を告げる鐘を鳴らす。
今はただ、いつ始まるかも分からない戦いに、全力で備えなければならない。
地下の酒場にて、コップを洗うベルモンド・バンデラスの姿があった。
蛇口から零れる水の音を聞いているベルモンドの顔には悲しみの色があり、洗うという作業に没頭することで、頭の中心にある感情から逃げようとしている。
それはベルモンドが何も考えたくない時にする、癖のようなモノだった。
しかし、思い出したくなくても、人間は思い出してしまう。それが身近な人の死であれば尚更───忘れるなど出来はしない。
ジョー・力一。
ベルモンドの恩人の名前。
まだベルモンドが右も左も分からなかった頃、力一から酒場を手伝ってほしい、という誘いがあった。ヘルエスタ王国で身分を証明出来ない以上、自分を雇ってくれる場所はない。物好きなピエロは彼だけだった。
そうして、ベルモンドは酒場の手伝いをするかたわら、力一から酒の作り方、接客、お金の計算など───生きるために必要なモノすべてを教えてもらった。
いなくなってしまった彼に、どう恩を返せばいいのか。
黙々と、ベルモンドは皿を洗う。
彼のいなくなってしまった酒場は閑散としていて、カウンターに立つベルモンドは、再び孤独になってしまったような心細さを感じて、胸が焼けるようだった。カウンター席で突っ伏している舞元に相談しようにも、今は眠っている。
「全く……こんな所で酔い潰れておるとは……いいご身分じゃのう」
そう言って、酒場に突如として現れた頭に二本の角がある美女は、眠る舞元に一瞥をくれてやると、隣の席に座った。
「驚いたな……尊様がここに来るなんて」
「なに。庶民の酒を飲みたくなっただけの話よ」
竜胆尊は人差し指を煽るように、くいくい、と動かし酒を要求する。ベルモンドにとってはありがたい注文だった。
すぐに麦茶色の酒を作り、尊に手渡す。そのついでにベルモンドは自分用に、度数強めの酒を用意した。
二人は乾杯すると、注がれた酒を一気に飲み干す。
小さな熱がベルモンドの喉を通って胃袋に落ちた。味はしなかった。
「ベルよ、話は聞いておるか?」
「ああ」
尊から提供された話題はニュイ・ソシエールの裏切りについて。
ベルモンドは会議に呼ばれてはいたが、王城には行かなかった。従って、事の成り行きを知ったのはつい先ほど。
「ローレンの部下から聞いた。今でも信じられないよ。おニュイが敵だったなんて……」
ぼやくベルモンドに、尊は「はっ!」と笑って魅せる。
「新しい強者が敵として現れたのじゃ。もっと喜ぶべきじゃろう?」
「はは……尊様はそうかもしれないが。俺は争いごとは好きじゃない。平和に暮らせるならそれが一番だ」
「なんじゃ、つまらん」
そう、呆れたように言い放った尊は、ベルモンドをじっとり睨みつける。
鬼神となった尊だが、本質は昔とさほど変わっていない。小さな子供が大きな子どもになっただけで。
彼女は今でも、酒と戦いが好きなのだ。
「お主は戦えるのか?」
「……それは」
尊からの質問に、ベルモンドは顔を背けた。
答えが思いつかない。
「話をしてみて……仲間に戻ってくれるなら、とは思ってる」
「はあ……」と尊はため息を吐いた。「お主はまだまだガキじゃのう。……先に断言しておくが、ニュイは言葉など聞かぬ。アレはそういう目をしておった。仲間に呼び戻そうなどと、甘えた考えは捨てる事じゃ」
尊はハッキリと告げたが、そこには、彼女なりの優しさが混じっていた。
直接対峙したかこその意見だろう。ニュイは最初から敵であり、これまでの日常を共に過ごしてきた彼女もまた、偽りだった。熱くなった胸の内を冷まさなければ、ニュイ・ソシエールとは戦えない。
ベルモンドは小さく開いた口を閉じる。
これ以上、尊に子供扱いされるのはごめんだった。
「妾はもう行く」
尊は酒の入っていない杯をテーブルに置き、隣で酔い潰れている舞元の首根っこを掴む。店を出る瞬間、尊は振り返り、子供っぽく笑って───消えた。
「……───」
今度こそ、店内には誰もいなくなった。
ベルモンドはカウンター席に残された二人分のコップを回収する。これを洗い終われば今日は店を閉めて、ひとり、潰れることにしよう。
そこで。
また。
店に客が入って来た。
「やっほー」
と、入り口で手を振っている女性は、敵になった黒魔女───ニュイ・ソシエールで違いない。
「お前……何しに来たんだ……」
「もちろん、ベルさんに会いに来たんだよ。あ、お酒は要らないからね。潰れてベルさんにお持ち帰りされたら大変だし」
「そういう冗談はやめろ……で、目的は? まさか、俺に会いに来たってだけじゃないんだろ?」
ニュイは間髪入れず、
「宣戦布告」
答えて、いつも通りに笑う。
まだ味方かもしれない、と思わせるくらいにはタチの悪い微笑みだった。
「やっぱり、敵なんだな」
「なにー? ベルさんってば私に未練あるの? もしかして好きだった?」
「……水でいいか?」
「ありがとう」
ベルモンドは答えず、水の入ったコップをニュイの前に置く。
「それで……本当に何しに来たんだよ……」
「だーかーらー、宣戦布告だって。ベルさんとドーラは王の間にいなかったから聞いてないと思って教えに来てあげたの。まあでも、さっきのセリフからだと私が敵だって、もう聞いてるみたいだけど」
「ドーラの方は知らないが……俺はそうだな」
「仕事が早くて助かるねー。私も話す手間が省けるってもんだ。それじゃあベルさんは、私と戦う覚悟もできてるってわけ?」
「……ああ」
敵を見据えて、ベルモンドは低く、獣のように唸る。
「うわ……ベルさん、今すっごい女にモテない顔してたよ」
「余計なお世話だ」
ニュイに指摘されて、ベルモンドは慌てて表情を戻す。
「さて、宣戦布告といっても何すればいいか分かんないんだよね。ヘルエスタ王国を裏切った私的には? 超カッコいい感じで登場したいんだけど……ベルさん、なんか良いアイデアない?」
「そんなこと聞かれてもな……」
ちぇ、とニュイはバツが悪そうに言って、立ち上がる。
「ほんじゃ、話はそれだけ。そろそろ準備しないと、遅れちゃうからね」
「準備って……」
ベルモンドは言葉を呑んだ。
敵が準備するといえば、それは戦いの準備だと、相場は決まっている。
ニュイが店を出て行く直前、
「もしも私に会いたいなら、北側に来るといいよ。そこで皆のこと待ってるから」
「いつだ?」
ベルモンドは、戦いはいつ始まるのか、そう質問したつもりだった。
が、
「いつ?」
ニュイは質問を受けて不敵に笑う。
「あはは! まさか、そんな甘っちょろいこと考えてるなんて思いもしなかった」ひとしきり笑ったあとニュイは答える。「戦いに助走期間なんてない。今すぐ始めるに、決まってんでしょうが!」
その直後、巨大な爆音が、地下の酒場を揺らした。




