ヘルエスタ王国物語(65)
黒煙を見た名取は一目散に走り出した。
炎に躊躇うことなく、自分の国へ飛び込んでいく。名取を追いかけてリゼたちも学園都市に入る。
まさに、灰燼。
そう呼ぶに相応しい光景が広がっていた。
「誰か、誰かいませんかー!」
リゼが呼びかけるも、しかし、返事はない。
アンジュと戍亥も生存者を探すが、誰ひとりとして子供の姿を見つけられなかった。
やがて、三人はボロボロに枯れた噴水の前で、名取に追いつく。
「名取!」
リゼが駆け寄る。
名取の腕には下半身の千切れた猫耳少女が、微かに息をしていた。
「ごめん、なさい、せんせい……学校、守れなかった」
「大丈夫! 大丈夫だよ! 学校なんてまた作ればいいんだから。今はとにかく───」
少女の手が落ちる。
笑ったままだった。
もう息をしていない。
「アンジュ! 薬出して! 今ならまだ───」
「リゼ……悪いんだけど、薬は自分で探して。バックの、奥の方に入ってると思うから」
アンジュは背負っていたバッグをリゼの隣に置いた。
「はあ!? こんな時に何言って……人が死にそうになってるんだよ!?」
「あたしと戍亥は、敵の相手をする」
アンジュのただならぬ様子を察して、リゼは口を閉じた。自分の前に立つ二人が睨んでいる道の向こうから、軽い足音が近づいてくる。
「敵って……」
信じられない、という驚きがあった。
「嘘でしょ……」
その顔には見覚えがあった。
ヘルエスタ王国で生活している人ならば、必ず一度は目にしたことがある。
間違えようがない。
シスター服を着た彼女の名前は、
「どうして……どうして、クレアさんがここにいるの……」
「さあね。それは本人に直接聞いてみないと」
二つの棺桶がクレアの側を浮遊する。次の瞬間、棺桶の扉が開き、美しい純白の羽がリゼたちの前に現れた。
戦慄する。その純粋さに───。
「ィゼちゃん、悪いんやけど。もうちょっと後ろに下がっててくれる?」
戍亥の言葉も耳に入らない。
リゼはただ、その場にしゃがみ込むばかりだった。
羽が動く。
危険を察知した戍亥が我先にとクレアに向かって直進する。翼の攻撃をリゼと名取から逸らすためのファーストアクション。それは結果的に見れば成功したといえるだろう。問題は戍亥が思っていたよりも、クレアの攻撃の方が早いということ。
防御は不可能。回避は……できない。
「とこちゃん!」
リゼの叫び。
翼の落ちた場所で土煙が舞う。
それを見たリゼの脳内では最悪の想像が膨らみはじめる。先ほど名取が抱えていた少女のような───だが、土煙が散って見えてきたのは戍亥とこを守る石の壁だった。
続けて、アンジュが言う。
「ギリギリだったな……」
戍亥を殺すために放たれた一撃は、どうにか逸らすことが出来た。
しかし、今しがた戍亥を守った石の壁は『星』の錬成陣を使って創り上げたものだ。奇跡でも起こらない限り、貫通する事はない。
それが貫通しているという事は、
「……───」
「……───」
戍亥とアンジュは、その意味を、言葉を交わさずとも理解した。
相手はかつて対峙したリヴァネルと同じように、奇跡に近い魔法が使える。いや、そもそもあの羽を魔法と定義していいのかすら怪しい。
「ンジュさん」
戻ってきた戍亥に客観的な意見を求められる。
後ろから見ていたアンジュにも羽の予備動作を完璧に捉えられた訳ではない。
ひとつ、確実に言えることは、あの場面で戍亥が囮にならなければ、リゼと名取のどちらかは死んでいたということ。
現状、二人の思考は逃走に向かっている。戦って倒すなんて選択肢はない。
「残るなら、あたしじゃない?」
「もしくは二人で時間を稼ぐ、やね」
「え?」
状況を飲み込めていないリゼから困惑の声が上がる。
「それってどういう……」
「よく聞き、リゼ。あれはウチらの知ってるクレアじゃない。もっと別のナニかって感じがする」
「ナニかって、何?」
「それは……分からへんけど……とにかく変な感じがする」
戍亥は心の中に浮かんだ違和感を言葉に出来なかった。
何故なら、こっちに向かって歩いてくるクレアには魂がない。魂を見る事に特化したケルベロスの目を以てしても、クレアの魂を見つけることができない理由。
それの意味するところは『死』だ。
魂の入っていない目の前のクレアは、例えどんな状態であっても生きているとはいえない。だからといって、今の彼女は死んでいるとも違う。どっちつかずの境目に生きている気色悪いナニか。少なくとも戍亥にはそう見えた。
しかし、断言できる事もある。
戍亥の知っているシスター・クレアは、例えどんな理由があっても、誰かを殺すような人間ではない。もしも名取の国をクレアが滅ぼしたとすれば、それはきっと誰かに操られてのことだろう。
「リゼは名取を連れて入り口に戻って。バックは置いて行っていいから」
アンジュの言葉に従い、リゼは名取の肩を叩く。そこでリゼは、名取の手に抱かれていたはずの少女がいなくなっている事に気づいた。
「あの子は……」
「羽になっちゃった」
「羽?」
「うん」
リゼはかける言葉が分からず「そっか」と曖昧に言うだけだった。
「今はとにかく逃げよう」
「そう、だね……」
名取の腕を引っ張ってなんとか立ち上がらせる。
リゼと名取は入り口を目指して走り始めた。その背中を、命を、シスター・クレアの虚ろな瞳が見つめる。
再び、羽が動く。
アンジュと戍亥は一歩遅れた。
クレアの攻撃にはその純粋さ故か、殺気が込められていない。
だからこその遅れ。
二人は殺意の籠った一撃を警戒するよりも、優しく頭を撫でるような一撃こそ警戒するべきだったのだ。
棺桶から飛び出した羽は一直線にリゼたちの背中を狙う。
「クソっ!」
反射的に悪態を吐くアンジュ。
錬金術で壁を創ってリゼへの攻撃を逸らそうと試みるも、ダメだった。すべて粉砕される。戍亥の跳躍でもリゼのいる場所まではあと数メートル遠い。
もしも、リゼが助かる道があるとすれば、それは───。
とん、と名取は前を走るリゼの体に向かって体当たりをした。
瞬間。
リゼの目の前で、鮮血が舞う。
そうして名取の心臓は、完膚なきまでに破壊された。
「リゼ、どいて!」
駆けつけたアンジュが、名取の胸に手を置き、心臓を創造する。
だがそれは、奇跡によって破壊された心臓を、さらに上の奇跡を持って上書きするという行為だ。それが不可能なことくらいアンジュには理解している。
リゼは後ろで名取の心臓が創られるのを、ただ見ているだけだった。出血がひどい。たとえ傷が塞がっても助かるかどうか。
錬金術によって創られた心臓が鼓動を始める。
名取は喉に詰まった血を吐き、やがて意識を取り戻した。
「良かった……」
名取はリゼを見て言った。
そこに戍亥がやって来る。
「クレアさんは?」
アンジュの質問に、戍亥は首を振った。
どこかに消えてしまったらしい。
「ごめんね、リゼ。いきなり突き飛ばしちゃって。ケガ、してない?」
「大丈夫だよ。名取が、助けてくれたから」
涙ながらに、リゼは答えた。
名取は「そっか」と呟いて、満足そうな笑みを浮かべる。
「今、アンジュが名取のケガを治してくれてる。すぐに良くなるよ」
「リゼ……」アンジュは続ける。「もしも話があるなら、今のうちにしておいた方がいい。これが最後の会話になるだろうから」
「なに言ってるのアンジュ? 名取を助けるんだよね?」
「……───」
「なんで黙ってるの!?」
アンジュは今も名取の治療を続けている。
しかし、それはあくまでも延命措置。
五秒後に死ぬ人間を、あと十秒だけ長生きさせているに過ぎない。アンジュが名取から手を離せば、ぽっくり、と名取の命は零れてしまう。
名取さながここで死ぬ運命は、どう足掻いても変えられないのだ。
「これ以上は、あたしには治せない」
リゼの感情が爆発する。
「それじゃあ何のための錬金術なの!? 誰も助けられないなら、錬金術を学んだ意味ないじゃん! もっと……ちゃんと、しっかりしてよ!」
「リゼ……ンジュさんも頑張ってるんやから」
「とこちゃんは黙ってて! ……ねえ、アンジュ。名取を助けてよ。……お願いだから。死なせないで……」
最後は縋るように、リゼは涙を流しながら訴えた。
「最善は尽くす」
「……うん」
アンジュの言葉を聞いて、リゼは俯き、唇を噛む。
本当は分かっている。自分がどれだけ喚き散らしても、名取を助けることが出来るのは自分じゃない。友達が助けを求めているのに、自分は泣いているばてかりで、何も答えられない。
今の自分に出来る事は、血塗れの名取の手を握ってあげることぐらいで……。
それはもう、歯痒いなんてレベルじゃなかった。
「ありがとう、アンジュさん。もう少しだけ……名取のこと、長生きさせてね」
「わかった」
名取の顔がリゼに向く。
「顔を上げてよ。せっかくのキレイな顔が見えないじゃん……」
「これでいい?」
リゼは服の袖で涙を拭って、精一杯の笑顔を見せる。
「目、真っ赤だよ。もしかして泣いてた?」
「泣いてないし……ぐすっ」
「あはは、泣いてんじゃん」
死ぬ直前に人は優しくなるというが、この調子ならきっと名取は死なないのだろう。
「ねえ、リゼ」
「なに?」
「最後に、名取の話を聞いてほしいんだ」
「……分かった。聞く」
「茶化さないでね?」
「それはこっちのセリフだよ。死にかけのくせに」
名取は素直に「ごめん」と謝った。
続ける。
「本当は、死にたくない。まだまだやり残し事がたくさんあるし、新しくやらなくちゃいけない事もできたから」
リゼは黙って聞いていた。
「壊れた国も立て直さなくちゃいけないし、元気になったら子どもたちを連れて、リゼの国に遊びに行ってみたい」
「おいでよ。名取の国を復興する時は全面的に協力するし、子供たちが遊びに来た時は私がヘルエスタ王国の案内をするからさ」
「でも、その願いは叶わない」
「そんな事───」
「だけど、そうなって仕方なかったんだと思う。だって名取は自分の責任から逃げたどうしようもない王様だから」
「どうしてそんな事言うの……名取は立派に王様やってたんでしょ?」
違うよ、と名取は否定する。
「全部がイヤになったって、少し前に話したでしょ」
「……うん。覚えてる」
「名取はさ、逃げたんだよ。それがこんな結果になって返ってきた」
「名取は逃げてない。ぐす……ずっと、ずっと頑張ってたよ……」
「ありがとう。そう言ってもらえるだけで凄く嬉しい」でも、と続ける。「名取は間違えた。自分のやりたい事から逃げて、挙句の果てに、たくさんの子供たちの命を奪った。こんな悲惨な結果を招いたのは他でもない、名取なんだよ」
無力感に、リゼは喉を詰まらせる。
悪いのは全部自分だと言い切った名取に、一体どんな言葉を投げればいいのだろう。
どんな奇跡を起こせば、彼女はまた、生きたいと思ってくれるのだろう。
分からない。
リゼは刃物に変わってしまった、冷たい嗚咽を飲み込む。
「ねえ、リゼ」
「……───」
「やっぱり逃げちゃダメなんだよ。辛いからって、苦しいからって自分のやりたい事、目指した夢から逃げたら取り返しのつかないことになる」
だから、と名取は笑って、最後に伝える。
「リゼは名取みたいな『子供』になっちゃダメだよ」
歯を食いしばった。
口を開けば、名取の言葉のすべてを台無しにしてしまうような気がした。
寒気がする。
胸が苦しい。
「ごめんね、名取が先生としてリゼに教えられることってこれぐらいしかないの」
「十分だよ」
名取の体は足先から少しずつ真っ白い羽へと羽化していく。名取の体から離れた羽は黒煙の舞う空へと昇っていった。
もうすぐ別れが近い。
リゼは泣いている顔で、見苦しく笑う。
「約束するよ。私は、王様になる。……名取みたいにちゃんとしてるかは、分からないけど。自分に出来ることを探して、やってみるよ」
「カッコいいじゃねえか、この野郎……」
名取は最後にそう言い残して、羽になった。
リゼは今度こそ我慢しない。
大声で泣いた。
死んでしまった名取にも聞こえるくらい、大声で。
アンジュも。
戍亥も。
名取の死を見送った。
どうかやすらかに。
次は優しくなった世界で、会いましょう───。




