ヘルエスタ王国物語(6)
月も見えない闇の中、瞼を閉じて夢に入る人もいれば、飲み明かして夜を吐く人もいるだろう。世界には命の数だけ夜の過ごし方があり、小さな明かりに勇気をもらって生きている。
それはヘルエスタ王国の外でも同じこと。
百万を超える魔物の死体で作られた小さな山。
大地を侵食する紫色の血。
鼻を抜ける熱さまし。
すべては弱者が強者に挑み、手に入れた結果のすべて。
魔物たちは知性を持たなかったことを幸福であると実感し、本能を持っていることが最大の不幸だと絶望した。魔物は敗北を知らず、ただ得体の知れない恐怖に襲われこの世を去ったのだ。戦いの中で殺してもらえたのなら、魔物のまま死ねたのに───彼等は死の間際に感情を教えられてまった。
世界を終わらせる刃───フレン・E・ルスタリオの手によって。
「同じ人間かよ……」
目を瞑りたくなるような凄惨な光景に、ぽつりと佇む勝者に向けられた言葉。
紫色の湖に落ちた新月の真ん中にフレンは立っている。人によっては芸術作品のような美しさを感じるのだろうが、エクスには何の教訓にもならない。
一枚の絵に残しても後世に語り継がれるのは伝説として───ではなく。この世には絶対に触れてはいけない剣があることを教えるため。
あらためて自分と団長の力の差をひしひしと感じ、震えた。
「本当にひとりで全部倒しちゃったね」
その光景をレヴィも見ていた。
魔物たちへの同情はない。
だが、彼女も概ねエクスと同じ気持ちを抱えていた───同じ生き物とは思えない。
「どうやって追い越したらいいんだろうな……あの人」
「エクスはすごいね。まだ団長に勝てると思ってるの?」
「いやいや、そんくらいの気持ちがないと苦行に耐えられないって」
「それがすごいんだよ。僕、ちょっと挫けそうだもん」
体育座りになって顔を埋めるレヴィ。エクスも少しだけ憂鬱な気分になった。
これから目の前にある死屍累々の後片付けが待っていると考えると一気に全身から力が抜ける。掃除をしてくれる人は偉大だ。次からは騎士寮を掃除してくれるおばちゃんたちにも感謝しよう。
「あれ? 団長がいない」
「私ならここにいるぞ」
「うわっ! 急に現れないでくださいよ。びっくりするなー」
フレンは知らん顔をして鎧に着いた血を拭っている。
「エクス、レヴィ」
「分かってますよ。騎士団で片付けろ、でしょ? また冒険者と協力して───」
「今回はそのままでいい。私が聞きたいのは、俯瞰していた二人の感想だ」
「感想ですか?」
エクスとレヴィは揃って首をかしげる。
「ああ。上から見ていてどうだった」
「どうだったと言われても……。いつも通り団長が蹂躙しているようにしか見えなかったスね」
「僕も気になるようなことはありませんでした」
「……そうか」
「あのー、何か気になることでも?」
レヴィがたずねる。
フレンはすぐ質問した。
「私が戦っている時、こことは違う別の場所から魔力を感じなかったか?」
「オレそういうの鈍いし」
「僕は、すみません。戦場の魔力が乱れすぎていて外に気を配る余裕がなかったです」
「わかった」
「……───」
フレンの言葉に感情はない。
レヴィは少しでも読み取ろうと角に全神経を集中させる。
伝わってくるのは冷たくも温かくもない無気力の波。エクスのような眩しさは感じられない。当たり前に生きて、ただ死ぬことを悟っている。
「あまり人の心を覗くんじゃない」
ドキリ、と心臓が止まりそうになる。
「すみません」
謝るレヴィを隠すように、エクスが手を上げた。
「団長、死体は片付けなくていいって話でしたけど。残してたらそれを狙った魔物が来るかもしれません。そうなったらどうするんです?」
「それならエクスとレヴィの隊で処理できるだろう。もうこの付近に強い魔物の気配は残っていない。お前たちでも問題ないはずだ。私は先に帰らせてもらう」
言い終えると、フレンは騎士団のテントへ入っていく。
「つまり、オレたちは居残り残業……レヴィ……」
「ダメだよ」
「まだ何も言ってないけど」
「帰りたいって顔に書いてある」
「お酒飲みたい」
エクスはがっくりと膝を折る。
レヴィはエクスの肩に優しく手を置いた。
ヘルエスタ王国───北門と東門の中間地点。
街の賑やかさの届かないその場所にフレンの家があった。
彼女がこの場所を選んだのはいくつか理由がある。ひとつ目は周囲を気にする必要がないということ。 別に、イヌ耳パジャマ姿を見られたところでフレンは気にしない。ただ、視線の多いところでフレンは眠ることができないのだ。
ふたつ目はヘルエスタ王国から距離を置いていること。フレンはまだ、自分がコーヴァス帝国の騎士なのか、ヘルエスタ王国の騎士なのか決めかねている。
コーヴァス帝国が滅ぼされた後、あてもなく彷徨っていたフレンの心境は今の無気力さとは比較にならないほど暴力にまみれていた。
目に入る存在のすべては敵であり、自分の弱さを罪だと呪う彼女は危うい綱渡りを堕ちることなく進み、コーヴァス帝国を滅ぼした宿敵を探し歩いていた。
そんな暴れ狂う牛に手を差し伸べたのが、銀色の髪を一つに結び、優しさと美しさの中に王たる威厳を隠した女性───ヘルエスタ王国二代目女王レイナ・ヘルエスタである。
フレンが彼女に出会った時、ある取引を持ちかけられた。
「もしも私が貴女に勝てたら。一緒にヘルエスタ王国に来てくれませんか」
彼女の言葉に棘や毒といった、フレンを陥れるようなものはなかった。ただ泣いている赤子に歌を聞かせるようとする母親のような優しさだけ。
フレンが頷くと剣を鞘から引き抜くレイナ───彼女の手には血がついていなかった。だから剣を構える姿が似合っていなかったことを覚えている。
そしてその美しさに憧れたことも。
一度目、フレンは敗北した。
二度目、フレンは負けを認めた。
三度目、フレンは教えられた。
数日にも及ぶ決闘の果て。
フレンは一太刀もレイナに浴びせることが出来ず、闘いは終わる。
レイナはフレンがヘルエスタ王国に来てくれることを心から喜び。血に汚れた手を躊躇うことなく握りしめた。強さの秘密。手を握られた、フレンはその瞬間レイナに勝てないことを悟る。
持っているのか、持っていないかという。
本当に簡単で───本当に難しい話。
シャワーを終えてお気に入りのイヌ耳パジャマに着替える。
フレンは部屋の棚に近づき、そこに飾られている写真を見つめた。コーヴァス帝国の友人たちと撮った一枚。その横にはレイナと一緒にまだ赤ん坊のリゼ・ヘルエスタをフレンが抱き上げている写真。
幼い頃のリゼと一緒に騎士ごっこをしたことを思い出す。
それはもう、十七年前のことだった。