ヘルエスタ王国物語(58)
美兎はひとり、走っている。
ずっと走っていなかったせいか、体力の減りが思った以上に早い。こうなると分かっていたなら、もっとちゃんと運動しておくべきだったと後悔する。
まあ、そんな理由で休むわけにはいかないのだけれど。
屋根の上から瓦礫が落ちる音がして───待ち構えていたであろう警備隊のメンバーから集中砲火を受ける。
美兎はすんでのところで横に飛び、最小限のケガでこれを回避。立ち上がる。
この作業を何度繰り返したのかも分からない。
改めて美兎は、ローレンから逃げられたというのは自分の勘違いだった、と思い知らされる。
現状を見るに、おそらくローレンの行動は逃げ道を塞ぐためのものだったのだろう。
だから入れ替わり、目的の人物がどこにいるのか教えた。
そうする事でレヴィと美兎がヘルエスタ王国の場外に逃げないよう誘導したのだ。
最初はレヴィの方に攻撃は集中していた。それが二人を分断するための作戦だったと気づいたのは、たった今。
───警備隊の全勢力を使うことで二人を分断する。
独りになったわたくしを、確実に仕留めるために。
実際、レヴィも美兎を庇いながら戦うのには限度があった。狙われているのが自分だと分かって、それ故に彼女は足を止め、自分が囮になる決断をした。
彼の作戦は成功している。
恐怖で震え上がりそうなくらい、完璧に。
レヴィを美兎から引き離す大役を担った少女は学校に侵入した時に出会った、立伝都々という大斧を担いでいる少女だった。そして後ろには警備隊の実力者たちがレヴィの足止めに向かう。
足止めに参加できなかった人たちは全員、漏れなく美兎の抹殺に動く。もしもその場で仕留めきれなければ、彼らはレヴィのところに行くだけだ。
計算しつくされた作戦。
ローレン・イロアスは、決して美兎を舐めているわけじゃない。
レヴィと同じくらい美兎のことを警戒している。
だからこそ、疑問に思うべきだった。───最初から。
影が落ちる。
いや、正確には太陽が昇ったという表現が正しい。
美兎が空を見上げた先には、ヘルエス王国を代表する竜種───ドーラの姿。彼女の持つ巨大な爪が、今まさに美兎の命を終わらせようと構えていた。
「───ッ!?」
プレッシャーを感じて、美兎の足は止まる。
幸か不幸か、その行為がギリギリのところで美兎の命を現世に繋ぎとめた。
突風に吹き飛ばされ、家の壁に打ち付けられ、肺と心臓に痛みがあってもまだ、生きている。美兎は自分のあまりのしぶとさに思わず笑ってしまう。
「ありゃ? 避けられちゃった」
声のした方を見れば、ドーラを中心に小さな隕石でも落ちてきたかのようなクレーターが出来上がっていた。
「ドーラさん、今のわざと外したでしょ?」
美兎は聞き馴染みのある声に耳を疑う。
ぺろ、とドーラは舌を出して、
「やっぱ分かる?」
空に浮かぶニュイ・ソシエールに笑いかけた。
「この辺りは最近工事が終わったばっかりだから壊しちゃダメって、クレアさんに言われてたでしょ」
「そうだっけ?」
「そうですよ、全く……元に戻すのは私なんですけど……」
不思議そうにするドーラを叱るように、美兎の担任教師はため息を吐く。
「ニュイ先生……」
美兎がなんとなくで呟いた言葉に、ニュイは手を振り返して答えた。その事に多少の違和感を覚えつつも、先生は一歩引いた位置でこっちを見つめている。どうやら戦う気はないらしい。
それなら、と。
美兎はドーラがいた場所に視線を戻す。彼女はクレーターの中にいなかった。さっきまで和気あいあいと談笑していたハズなのに。
ドーラを見失ってすぐ、ふと、顔の左側が熱いような気がした。
隣にいる。
「───っっっ!!?!?」
考えるよりも先に身体が動いた。
すぐ後ろで爆音が聞こえ、周囲一帯を灰燼へと返す。あのまま突っ立っていたら間違いなく骨になっていた───骨が残っていたかも怪しいけど。心臓が痛い。けれど、座った状態で次の攻撃を避けられるとも思っていない。
「くそ!」
逃げる。汚い言葉を吐きながら、美兎は明かりのついた家の裏に隠れた。人がいるなら相手もそう簡単に手を出してこないと考えて、美兎がひと息つこうとした瞬間、その家は跡形もなく破壊される。
「人がいるかもしれないのに……」
「北側に住んでた住民はひとり残らず東に避難させてるんだよね。だから明かりがついてても容赦なくぶっ壊せるってわけ」
作戦は悪くなかったよ、ドーラは付け加えて、地べたに四つん這いになる美兎の腹を、優しく蹴り上げる。
頭が真っ白になった。
意識を取り戻した直後、美兎は再び地面に転がっていた。遅れて───脳が忘れていた痛みを思い出し、狂いだす。
「うーん……アンタって本当にヘルエスタ王国を滅ぼせる力を持ってるワケ? あまりに弱すぎて信じられないんだけど……」
身動きひとつ、呼吸すら出来なくなった美兎の耳にドーラの声が入ってくる。
そんな力なんて持ってない、と伝えようとしても伝えられないもどかしさ。質問の答えが返ってこないと分かると、ドーラはがっかりした調子で言う。
「やる気がないなら殺すけど?」
「まァ……だ。やる気ハ、あ……る!」
蹴られた腹部を抑え、なんとか言葉を捻り出す。立ち上がった彼女を見て、ドーラは幸せそうに笑った。
「うんうん、そう来なくっちゃ! 次、いくよ」
「───ッ!?」
膝が落ちる。虚勢を張ったはいいが、それ以前の問題だ。生物としてのスペック、強さの次元がまるで違う。このままだとなぶり殺しにされて終わる。
レヴィに助けを求めようにも、彼女のいる場所まで声を出せるような気はしなかった。
美兎は後先など考えず、ただ生きることを優先して必死に転がる。
先ほどまで美兎が這いつくばっていた場所に、ドーラの爪が三本の傷をつけた。美兎はまたしても吹き飛ばされる。が、今度はその突風を利用して無理矢理にでも自分を立ち上がらせる。
なりふり構わず走った。また寝転がってしまえば、今度こそ動けなくなってしまうと分かっていたから。
「逃げてばっかじゃ始まらないよ」
───そんな事、言われなくても分かってる!
心の中で悪態をつきながら、美兎は思考を巡らせる。
しかし、立ち向かう方法が分かったとしてどうすればいいのか。例え思いついたとしても、それを実行できるほどの体力が今の自分に残っているとは思えない。もしもこの状況をどうにかできる相手といえば───。
「ニュイ先生! あと、よろしく!」
敵である彼女に助けを求めても、聞こえる返事なんてものはたかが知れている。それなのに先生を頼ってしまったのは、ひとえに、教師なら生徒を見殺しにはしないだろうと、勝手に期待してのことだった。
言葉を聞いたニュイ・ソシエールはにっこり笑って、答える。
「いいよー」
「……───」
そのあまりの無邪気さに美兎は戸惑ってしまう。こっちから協力を申し出ておいてなんだが、本当に手を貸してくれるとは思っていなかった。お願いしてもフラれてまうのが落ちだろう、と。
そう思っていたのに。
驚きと違和感───美兎は頭を振って追い払う。
「へい、へーい。こっち、こっち!」
ハイタッチを求められる。
美兎はニュイにバトンを渡し、横を抜ける。
直後、すぐ後ろでナニかが衝突したような熱を感じた。振り返れば色の違う二つの大炎が喜びに身を震わせ、互いを飲み込もうと暴れ狂っている。それは、先ほどまで美兎に向けられていたモノとは比べ物にならない。
本当に遊びだったのだ。
遊び感覚で、わたくしを殺そうとしていた。
見るのをやめ、真っ直ぐに、美兎は王城を目指して走り出す。
「行っちゃった」
送り出した少女の背中が見えなくなって、ニュイは満足そうに呟いた。
ニュイは、自分の生徒が可愛くて協力したわけではない。単純だとは思うが、彼女が自分を見つめてくるその目に惹かれた。今日まで手を繋いできた相手を裏切ってもいいと思えるくらいに、暴力に翻弄される彼女はとても魅力的だった。
「不思議なこともあるんだね。おニュイが敵になるなんてさ」
「その割には嬉しそうに見えるけど?」
炎を蹴散らして、ニュイを見つめるドーラの身体には火傷のひとつもない。
ニュイはその事に驚きはしなかった。ドーラが完全な竜種である以上、マグマ程度の炎など暖炉に灯った優しさとそう大差ないだろうから。それに、本気で仕留めるつもりだったらニュイも炎の魔法でなんか足止めしない。
「だって、次はおニュイが相手してくれるんでしょ?」
まるで、舞踏会でダンスを誘うような気軽さでドーラは言った。
ドーラは逃げたウサギをどうこうしようなど、微塵も考えていない。彼女が本気で美兎を追いかけようと思えば、一足の内に追いつけるハズだ。だがそうはせず、ニュイの前に留まっている。
理由は、明らかだ。
「正直、あのウサギちゃん相手じゃ、全っ然! 物足りなかったんだよね」
目の前にいる裏切り者を排除しようと、ドーラは笑みを浮かべる。
うんざりしたようにニュイはため息を吐いた。竜というのは本来、人と同じ世界で暮らせるほど優しい生き物ではない。心の奥底にはいつだって、強者と戦いたいという欲求が潜んでいる。
自分と対等か、それ以上の相手を常日頃から探し、求めているのだ。
そこに例外はない。
普段、ドーラの相手は竜胆尊という鬼族の幼女が受け持っているのだが、コーヴァス帝国との一件以来、彼女は行方不明になっている。
ニュイですら、その消息を掴めていない。
「念のため確認しておくんだけど、本気でやるつもりはないんでしょ?」
「……もちろん」
納得できないという自我が、ドーラの声音に混ざった。
ニュイはそれを察して、
「それじゃあ、結界を張るからちょっと待っててね」
「はーい」
杖を振っているニュイを前にして、ドーラは準備運動を始める。
準備が終わり、位置につく。
二人は逃げたウサギの事など、とっくに忘れていた。
言葉はない。
知能もない。
あるがままに、我儘に。強者はただ、笑うのみである。




