ヘルエスタ王国物語(56)
「本当にあの子なの?」
レヴィは座り込んでいる■■美兎を眺めた。
「僕には普通の女の子に見えるんだけど……」
「今はそうじゃなくても、人間っていうのは些細なきっかけで変わるもんだ」ローレンが言った。「だからそうなる前に消しておく。納得の理由だろ?」
「言ってる意味は、わかるけど……」
その場に居合わせた全員がメイド服を着た少女を警戒する。
一方で、レヴィは迷いを捨てきれないでいた。
ここに来るまでに聞かされた話は全部「もしも」の話。今まさに彼女がヘルエスタ王国の敵になった訳ではない。
「レヴィにあんまり難しいこと言うなよ」
「お前なぁ……」ローレンは頭を抱える。「エクス、レヴィはもう子供じゃない。これからは苦い部分を知っていくべきだ。ヘルエスタ王国を守るためにな……」
「だけど、言い方ってもんがあるだろ」
「厳しく言わなきゃ分かんないことだってあるだろうが」
エクスはバツが悪そうにローレンから視線を逸らす。
会話の隙を狙って力一は動こうとした。が、すぐに咎められる。
「ジョー、動かない方がいい」緑仙が言った。「いま動けば会話の機会を失う。それはお前も望んでいないだろ?」
「そう、ですね……」
力一の乱れた髪の隙間から汗が流れる。
緊張の糸が張り巡らされた空間では指の一本を動かすことが難しい。摩訶不思議なことで人を欺いてきたピエロにとっては常人よりもずっと居心地が悪い場所だろう。だが、相手が会話を望んでいるのであれば、
「なにを聞きたいのですか、ボス」
「そうだな」
緑仙は目を細め、口元に手を当てる。
「まずはどうして彼女を逃がしたのか聞きたいな」
「冤罪の可能性があったからです。私はそれを晴らすためのチャンスを与えた」
「悪い癖だね」
「ほひょひょ、こればっかりは性分ですので」
力一の見せる笑顔に、緑仙はため息を吐く。
「その悪癖のせいで随分と遠回りをさせられたよ。本当ならもっと早くにキミたちを捕まえられたのに」
「どうです、証拠は見つかりましたか?」
「それに関してはおめでとう。彼女がヘルエスタ王国を滅ぼそうとしている証拠は見つからなかった。今はまだ、ね」
「なによりです」
緑仙は小さく笑い、
「他のメンバーはジョーのことを嫌いになったみたいだよ。二人を捕まえに行ったハズなのに気がつけば彼女が無罪である証拠を集めさせられていたんだから。全く、そんな事をしても結果は変わらないのに……」
力一は驚きに身を震わせる。
「まさか……なんの罪もない少女を裁くとでも?」
無言の肯定があり、
「さっきローレンが言ってただろ。人はキッカケがあれば変わる。そうなる前に消しておくのも手だって」
「それは些か理不尽な気がしますね。理由を聞かない事には私も納得できません。教えていただけますかな、ボス?」
緑仙は仲間たちと視線を交わすと、再び力一に向かって口を開いた。
「いいよ、教えてあげる」緑仙は言った。「彼女がヘルエスタ王国を滅ぼす存在になるって言ったのは他でもないクレアなんだ」
「クレア? 教会のシスターがなぜ彼女を警戒するのですか?」
「さあね。でもこの先の未来では彼女が敵としてこの国にやって来るらしい。そして最後にはヘルエスタ王国を滅ぼす」
「そのような妄言を信じるとはボスらしくありませんね。ほひょひょ、不味いお酒でも飲みましたかな」
ああ、と緑仙は意味もなく呟いた。
「普段の僕だったら信じなかったと思う。けれど、今回に限っては話が違う。僕たちはクレアの言うことを信じるしかない」
同意し難い答えに、力一はいら立ちをあらわにする。確かに緑仙はこれまでヘルエスタ王国の闇を統治してきたチームのリーダーだ。であればこそ、嘘を見抜くという点に関しては絶対の目を持っている。
そんな彼が、何の確証も、意味もない言葉をそう簡単に信じるとは思えない。
「妄言を信じてもらえるほどの信頼? そんな理由では納得できませんなぁ!」
「そうだね」
声を荒げる力一に、緑仙は卑屈気に笑う。
そして、
「クレアにはね、未来を見通す力があるんだ」
「……なんですって?」
緑仙は続けた。
「僕たちも完全に信じきっているわけじゃない。正直、半信半疑だよ。でも、コーヴァス帝国やそれ以外の部分でもクレアの予言は現実で起こっている。そして今回も……おそらくそうなる」
「一度や二度の偶然が重なることぐらい誰にだってあるでしょう……」
「そうじゃない。そうじゃないんだよ。クレアは小さなことから、大きなことまで、なんでも予言した」
「……───」
「可愛らしい嘘だったら僕たちも気にしない。笑って酒のつまみにしただろう。だけど、ヘルエスタ王国が滅びるって話なら多少の疑いだけでは無視することは出来ないんだ。現実になるかもしれないなら、そのための犠牲は仕方ないだろう?」
「……───」
それは最後まで力一が探し求めていた証拠とは別のモノだった。
相槌を打つ気にもなれない。力一からすれば、これまで聞かされてきた話は自分たちの行動を正当化するための言い訳に過ぎず、予言という不明瞭なものに頼って降りかかってくる厄災をなんでも解決できると思った愚か者たちの妄言だ。
呆れて溜息を吐きたくなるところだが、だが、その全てを彼女に押し付けようというのならば───こちらにも考えがある。
ここぞとばかりにピエロは顔を上げて、
「ボス……長話、ご苦労様でした」
パチン、と指を鳴らす。
すると一枚のトランプが■■美兎の前に現れ、彼女を吸い込んだ。トランプがあった場所をドーラが爪で抉り取るも、ただ一枚のトランプが八つ裂きにされただけで、そこに美兎の姿はない。
「やられた……」緑仙が頭を抱える。「注意して見てたつもりなんだけどなぁ……」
「ピエロは世界を欺くのが仕事。先入観だけでは見破れませんよ」
ほひょひょ、と力一は笑う。
「最後にひとつ質問なんだけどさ」
「なんなりと」
「彼女にここまで協力した理由は、本当に彼女の冤罪を晴らすためだったの? 他に理由があるなら教えてほしいんだけど」
力一はしばらく考えて、
「彼女が……美兎さんが私にこう言ったんですよ。この世界は騙されている、とね」
「まさかそれが理由?」
唖然とする緑仙に、力一は胸を張って声高らかに答える。
「もちろん! このジョー・力一、私以外のピエロが世界を欺くなど、ピエロとしてのプライドが絶対に許しませんので!」
「……ははっ。ジョーらしいね」
緑仙は力一の胸に拳を当て、
「さようなら」
優しく突き合わせるように、その鼓動を止めた。
死に際。
力一は世界を騙している存在がシスター・クレアではないのかと直観する。が、残念なことにそれを確かめるすべは自分にはない。
全ては彼女に託した。
あとは、彼女が───■■美兎が世界の真実と戦えるかどうかにかかっている。
闇の中───歯を潰すような呻き声が木々を揺らしていた。
それは美兎の絶叫だった。生き逃れ、独りぼっちになった彼女に出来ることといえば、嗚咽に耐え、ただひたすらに身を丸めて己を守るのみ。もしも、人間らしい言葉を吐いてしまえば、そのまま流れるように、甘えた言い訳で自分を慰めてしまうだろう。
そんな事を自分に許してしまえば、美兎はもう二度と立ち上がれない。
唯一、狂いそうになっている美兎の心を繋ぎとめていたのは、赤ん坊を抱くように優しく握りしめている、アルス・アルマルの学生証だった。
あの餅みたいに可愛らしい顔をした少女との思い出が美兎に嵐と戦うための小さな光を灯してくれている。
だが、時が経つにつれて頭痛はますます酷くなっていった。
ノイズまみれになった思考では考えるという行為自体、不可能のように思える。
───わたくしの声が聞こえた。
『人を、殺した気分はどう?』
ガタガタ、と全身が震えだす。
質問の意味を悟ってはいけない。美兎は急いで耳を塞いだ。
『ジョーさんはどうなったと思う?』
ここにいない時点でハッキリしてるじゃないか。
『アルスはどこに消えたと思う?』
一緒にいない時点でハッキリしてるじゃないか。
『ねぇ、答えなさいよ』
答えられない。答えたくない。
すべてを失った。助けてもらおうとしたから。
誰かに頼ろうとしたから、こうして最悪の沼に浸かっている。
何も残っていない。自分が誇れるようなモノはなにも───やがて、地面を歩く虫の頭ですら自分の顔に見えてきた頃───はじめから。
はじめから■■美兎が諦めていれば誰も死なずに済んだのかもしれない。自分があの檻の中に閉じ込められていれば、人としての尊厳を失っていれば世界はより平和的な解決に向かったのかもしれない。
そんな空想が脳裏をよぎる。
目の前にあるすべては自分が招いた結果だと思い込んで。
学園祭を楽しもうとした。贅沢をしようとした。自分の冤罪を晴らす証拠を探さなかった。心当たりがある。
全部が、自分を否定するためのノイズになる。
『赤い月が見える?』
美兎はもうひとりの自分と見つめ合う。その瞳は赤かった。
気づけば仰向けにされ、自分に膝枕をされているという不思議な構図。
そんな幻覚に戸惑っている美兎を見兼ねて、赤い眼をしたわたくしが、ゾッとするほど優しく頭を撫でる。
『キレイでしょ。ずっと一緒にいてあげる。ずっと、ね』
慈しむような笑みを向けられる。
美兎は顔を振り、理解する前にその誘惑から逃れようとするが、ダメだった。
許してもらえなかった───わたくしは、わたくしを膝の上に顔を固定したまま血に濡れた瞳で覗いてくる。
『怖がらなくいい。「わたくし」はただ認めるだけでいい』
「……───」
『早く、こっちに堕ちてきなさい』
赤い月に吸い込まれるようにして美兎の意識は途絶える。
朝になっていた。
小鳥がさえずり、木々の隙間から朝日が差し込む。
しかし、朝になるまでの時間を美兎は覚えていない。灰になるまで泣いていたような気もするし、声が枯れるまで叫び続けていたような気もする。
もっというなら、一週間を寝ずに過ごしたあとのような歪んだ世界を見ているし、自分の身体が植物になったみたいに地面から栄養を吸い取っているような気もする。
長い長い時間そうやって生きていた。
実際には昨日が終わっただけだというのに。どうやら無に近づけば近づくほど、時間という概念は曖昧になっていくらしい。
ノイズもぱたりと止んだ。
あれほど口うるさく誘ってきたくせに、朝になれば眠くなってしまうのか。
聞こえなくなった声を探す理由は特にない。
依存していれば追い求めたかもしれないけど。
自分の余生を思い描く。
それは死に向かう妄想だが、暇になった美兎は他にやることがなかった。
───尊様に教えてもらった極東に行くのもいいかもしれない。もともとわたくしの家は極東の出身みたいだし。そこで誰にも知られず野菜を育てるのも悪くない。
ここで諦めてしまうのもありだ。
命を断って、終わらせよう。
そうすればわたくしに関わった人たちが不幸になることはなくなる。
他には。
他には───何かあるだろうか?
「……───」
思い浮かべた選択肢を美兎はバカバカしいと丸めて、心の奥に仕舞い込む。
今更そんな事をしてナニになるのか。
「……どうして」
美兎は力強く、自分の身体を抱き締めた。
諦めたくても諦めきれないものがあった。
死ぬくらいなら最後までがむしゃらに生きてみよう、そう思ってしまった。
絶望して。
後が無くて。
もうこれ以上ないくらい沼に沈んだのに。まだ───生きていたい、と。
「あ、ぐ……ぐ、ぐぅ……」
声を潰し、ただ喘ぐ。
眠ろうとする意志とは裏腹に、美兎の身体はバタバタと暴れ出す。暴力に怯えた鳥たちは彼女のそばを離れ、木々は枝を揺らし彼女を慰める。
美兎は矛盾した二つの感情に襲われていた。
それはノイズとは別の意味で、美兎から逃げ道を奪っている。
本能的な欲求を無視することは誰にも出来ない。
溜まりに溜まった鬱憤をどれだけ意思の力で抑え込もうと頑張っても、気づいてしまった以上、抵抗することに意味なんてないのだ。
荒れ狂う感情の波にもまれ、空は夕方になり、やがて夜に変わる。
結局のところ。
この世界に同じ人間は共存できない。だから、■■美兎が王様になるタイミングで月ノ美兎が生まれた。別の立場がないと同じ人間はこの世界では生きていくことが許されていないのなら。
もしも、その推測が正しいのなら───。
自分が『月ノ美兎』であることを証明出来ればそれでいい。
相手が『月ノ美兎』であっても構わない。
ハッキリさせよう。
■■美兎は動かなくなった身体を起こす。
目の前には、魔王───レヴィ・エリファがこちらを見つめていた。




