ヘルエスタ王国物語(55)
「み、美兎さん……?」
「遅かったね、アルス」
美兎は赤茶色のメイド服に身を包み、白のカチューシャを頭にのっけて、胸元には蝶々結びにした赤いリボンをウサギのブローチで留めている。鏡に映る自分の姿はどこからどう見ても完全無欠のメイド様。
そんなメイド様に笑いかけられたアルスは、戸惑いつつも質問する。
「どうしてメイド服を着てるの?」
「え? どうしてって……ここがわたくしの職場だし……でも、いつも着てるメイド服がなかったから今は別のを着てるけど。……どう? 似合ってるかな?」
アルスは二つの大好物を選ばされるような気持になって答える。
「えーっと……に、似合ってるよ?」
「そっか」
照れ笑いを浮かべ、美兎は顔を下に向ける。今の自分を認めることが出来ない彼女にとって、ほんの些細な肯定の言葉でも温かく感じた。
「急にこんなこと言われても困るよね……ごめん」
アルスは顔を横に振る。
それから椅子に力無く座っている美兎に近づいて、
「謝るようなことじゃないよ。ボクなんかいっつも自信ないし。迷ってばっかりだから……だから、自信を持って行動できる美兎さんはスゴイ人だと思う」
「褒められんの気持ちいいなぁー」
美兎は弱々しく答えるとアルスの手を探した。両手でそっと、その小さくて優しい手を握りしめる。
「わたくしに自信なんかないよ。がむしゃらに生きてるだけ。本当はどうしたらいいのか分かんない」
「美兎さん……」アルスは言いにくそうに。「国王様と何かあったの?」
「……───」
「どうして殺そうと思ったの?」
それは好奇心からの質問だろう。
しかし、アルスの問いは美兎の心に間違いなく影を落とした。
「どうしてだろう……」
考える。考えて。
美兎は自分の胸にある違和感が、答えのない宇宙と同じものだと気づいた。
「アルスは───」
うん、と相槌が返ってくる。
「わたくしとあのジャガイモ頭って、似てると思う?」
「え?」
アルスは困ったような表情で言う。
「よく分かんないけど……ジャガイモ頭っていうなら、美兎さんの方だと思うよ」
「……は?」
答えの意味が分からず、美兎は震える声で聞き返す。
「ちょっと待って。わたくしの頭が……ジャガイモみたいになってるの?」
「うん。ていうか、最初からそうだったよ?」
空白があった。
その間、美兎の身体はガタガタと怯えはじめる。それは冬の雪山に放り込まれたような寒々しい恐怖ではなく、もっとハッキリしない、言葉にすることも証明することも難しい違和感からだった。
「じゃ……じゃあ、いま鏡に映ってるわたくしは……誰なの?」
「鏡?」
「見ちゃダメ!」
振り返ろうとするアルスに美兎は覆い被さる。鏡を見せないよう餅みたいな顔を抱き締める。床に叩きつけられた衝撃でアルスのポケットから学生証が落ちた。
「痛いよぅ」
「ごめん……本当にごめん……なんか、わたくしオカシクって……」
美兎の頭の中ではノイズが走っている。
最初は聞こえないふりをしていた。しかし、世界に新しい風を呼び込むようなノイズは、耳元で囁くように美兎の心に問いかける。
───ねぇ、謎■美兎?
「違う!」
───■ノ美兎?
「……違う」
───じゃあ、わたくしはだぁれ?
「……ッ、ハァ! ッ、ハァ……ハァ……ハァ……」
「美兎さん、大丈夫!?」
アルスの心配も虚しく、美兎は孤独を押し付けるような声を聞き続ける。やがて呼吸の仕方を忘れた。酸素を運ぶ血液は仕事を放棄してどこかに行ってしてしまう。そのせいで生きるために必要なものが体に入ってこない。
手足の末端がしびれ始めた。
次に体温が下がり、美兎は熱を求めてさらに強くアルスを抱き締める。
「助けて、アルス……助けてぇ……」
肺に残っていた空気を絞り出し、吐いた言葉はあまりにも切ない。
だがアルスに甘える以外美兎に逃げ道はなかった。頭の中で蠢いている声はどんどん大きくなり、さらに耳障りなものになっていく。
その声は他でもない、彼女自身の心の声だ。逃げるためには脳みそを全部取り換えて全く新しい別人になるしかない。
果たしてそれを『月ノ美兎』として肯定できるならばの話だが───全身を震わせ、恐怖に支配されてしまった彼女はもう動けない。
思考は止まった。
救いはない。
だからこそより明確に、ノイズとなった自分の声が聞こえてくる。
『いい加減……訳するのやめたら? わたくしは……様を月ノ美兎として認識していたじゃない』
止めを刺すように。
毒が沁み込んでくる。
『思い出してみてよ。ずっと、そうだったでしょ?』
どこから? という疑問に対しても美兎はすぐに思い出すことが出来た。
最初だ。
最初からだ。
一番最初にジャガイモ頭の月ノ美兎を見た、戴冠式の日───あの瞬間から、わたくしはアレを月ノ美兎だと認めていた。
「……嘘だ」
言い逃れはできない。
「……嘘だ!」
だって嘘なんかじゃないから。
「噓だ、噓だ、噓だ、嘘だああああああああああああ!!!!!!!!!!」
叫ぶしかできなかった。
美兎の目から光が消える。
自分の心が作り出す感情に、自分自身が耐えられない。
突き付けられた現実があまりにも残酷で、ヘルエスタ王国が自分を敵だと思うことに納得できてしまったから。
すべての辻褄は、ここで出会うのだ。
「美兎さん、しっかりして!」
「……ハァ……ッ、ハァ……アル、ス?」
宙ずりになっていた美兎の意識は、アルスの声に引っ張り上げられる。
「大丈夫。大丈夫だから」
「……ハァ、ッ……ハァ……」
気づけば、抱き締められているのは美兎の方だった。
いつの間にか床に座らされていた美兎は、押し倒していたはずのアルスの腕に抱かれて耳障りなノイズから切り離される。
「ア、るス?」
「無理に喋らなくていいよ。今はゆっくり息をして」
美兎の背中を撫でる、アルスの手は優しい。
自分という認識が覆ろうとした美兎にとって、温かく差し伸べられる夢のような時間は砂糖水に溶けてしまうような快楽にも似ていた。
このまま眠ってしまえばどれだけ楽だろうと思う。
夢から醒めれば、またいつもの日常に戻っている、と。
だが、そんな美兎の思いを裏切るように、メイド喫茶のドアが勢いよく開かれえる。
そうして、現実はやって来た。
「お二人ともいますか!?」
ジョー・力一がメイド喫茶に入って来た。
力一は二人の姿を確認すると、
「急いでここから逃げますよ! 時間がありません、もうすぐ───」
言い終わる前に、三人は魔法の光に包まれる。
あやかきメイド喫茶は炎に呑まれ、跡形もなく破壊された。
ようやくここで、美兎は自分の『敵』が誰なのかを理解する。させられる。
「もう少し……時間を稼げると思ったんですけどね」
「そいつは残念だったな」
力一の声に答えたのはヘルエスタ王国警備隊、隊長ローレン・イロアス。
続けて、
「やっほー、ジョーさん」
ドーラが手を振る。
その隣には黒魔女ニュイ・ソシエールの姿があった。
他にもまだ───ヘルエスタ王国の戦力が続々と力一と美兎の前に現れる。
エクス・アルビオ。
レヴィ・エリファ。
ベルモンド・バンデラス。
「ジョー」
そう呟く声は、冷徹に。
瓦礫に膝をつくピエロに問いを投げる。
「どうしてこうなったのか、分かるよね?」
「ボス……」
仙河緑───またの名を緑仙。
ヘルエスタ王国の闇を取り締まる暗部のリーダーは、愛おしそうに、獲物を見つめる。
「ケジメはつけてもらう。異論は認めない」
「……───」
二人の会話は続く。
しかし、そんな声も美兎の耳には届かなかった。どうでもよかった。
今、美兎が探してるのは『敵』じゃない。
いなくなってしまった少女がいる。
光に襲われた瞬間から、消えてしまった少女がいる。
餅みたいな顔をして。
可愛い声で慰めてくれた少女が。
どこにもいない。
足元に少女の学生証が落ちているだけで、どこにも。
「アルス?」
美兎は呟いた。
これから自分の身に降りかかってくる脅威を前にしてもなお、美兎はいなくなったアルス・アルマルを探す。返事はない。
呆然、と。
ただ茫然としていた。




