ヘルエスタ王国物語(52)
「出ろ」
冷たい声が檻の中で眠る■■美兎を呼んだ。
この一週間で嫌というほど聞いた、小柳ロウの声だった。
美兎は言われるがまま檻を出る。所定の位置まで歩くと、今度は手枷についた鎖が天井に向かって引っ張られた。腕が抜けるような感覚に襲われ、足のつま先が床に届くか、届かないかくらいの高さまで持ち上げられる。
それでも美兎の表情は動かなかった。
最初の頃は吊るされる度に叫んでいたような気もするが、おそらく、この数日間で慣れてしまったのだろう。
そうして美兎は、今日が始まったことを実感する。
「こっちも我慢の限界なんだ。いい加減、教えてくれないか……」
身を投げるようにして、小柳はソファに座った。
美兎はずっと暗闇にいたせいか、ほんのわずかな光でも目が痛くなる。
「何度も言ってるじゃん……わたくしはヘルエスタ王国を滅ぼそうなんて考えてない」
本当に、と美兎は蚊が鳴くような声でつけ加える。
「残念だけど、上の皆さんはそう思っていないんですよ」
小柳とは違う。
鉄扉の方から声がした。
「今日は体調のすぐれない長尾さんのかわりに私こと、四季凪アキラがこの場に立ち会わせて頂きます。それともうひとり───」
「新人の風来奏斗です。よろしく」
黒髪に黒眼鏡の男と、石に囲まれたこの場所には似つかわしくない好青年。
美兎は、ふと、男の声に聞き覚えがある気がした。
メイド喫茶でアルバイトするよりも前、美兎も冒険者になってお金を稼ごうとした事がある。報酬の内容を見て、冒険者をするよりアルバイトした方がお金は貰えると分かって諦めたが───当時、カウンターで対応してくれた人の声とよく似ていた。
「四季凪に……風来……もしかして冒険者ギルドで働いてる……」
「私とあなたは初対面のハズですが?」
ぼんやりとした美兎の呟きに、四季凪は冷たい言葉を返す。
美兎はそれを仕方ないと受け入れた。
彼は常日頃から新人冒険者の相手をしているのだ。一度来ただけで出て行った自分のことなど覚えていなくて当然だろう。
でも、もし違ったら───四季凪アキラが覚えている月ノ美兎が、あのジャガイモ頭の国王様だったのなら───美兎は、自分が誰なのか分からなくなりそうで、聞くことが出来なかった。
「僕らはいつも裏方だからあんまり顔を覚えられないのにね」
風来が言った。
美兎は近づいてくる足音を聞く。
「もしかしてコーヴァス帝国の生き残りだったりする?」
乱れた髪の隙間から爽やかな笑みが覗き込む。美兎は風来の言葉を否定しようとしたが、首は動かなかった。
かわりに、小柳が風来の意見を否定する。
「それはない。ヘルエスタ王国に侵入したコーヴァス帝国のスパイは戦争中にひとり残らず処分した。それとも何か? 俺に見落としがあったとでも?」
「やだなー、先輩。僕は可能性の話をしただけじゃないですか。そんなに怒らないでくださいよ」
「それは風来くんがいっつも小柳にちょっかいを出してるせいでしょ」
四季凪のすぐ後ろの扉を開けて、薄ら笑いを浮かべた男が入ってきた。
「……魁星さん。お疲れ様です」
「うん。お疲れさまー」
「本職の方はよろしいのですか? 今は忙しい時期と聞きましたが……」
「仕事の話はしないで! ……胸が、苦しくなる」
「申し訳ありません」
頭を下げる四季凪に軽く手を振り、魁星は睨み合っている風来と小柳を巻き込んで、美兎の前で肩を組んだ。
「まぁまぁ、二人とも落ち着いて。今はこの女の子がどういう経緯でヘルエスタ王国を滅ぼそうとしているのか聞こうとしてるんでしょ。ね?」
薄紫色のサングラスの裏から、赤い瞳が美兎に向かって舌を出す。わずかに見えた口内には蛇のように尖った毒牙が見えた。
「キミは……そういえば名前、なんて言うんだっけ?」
美兎はハッキリと、
「■■美兎」
唯一動く口を使って、答えた。
「え? ごめん。最初のほう上手く聞き取れなかった。でも、下の名前が国王様と同じだなんてミトさんは運がいいんだね」
飄々とした調子で男は言う。
「いまミトさんが繋がれてる鎖と手枷はね、オレが特別に作ったものなんだ。鍵もオレが持ってる」
その言葉を聞いた美兎は、ギラリ、と光る目で魁星を睨み返す。
「うん。元気そうでなにより」
「……───」
美兎は初め、魁星が頷いた理由が分からなかった。
しばらく考え、それがこっちの意識を確かめるためのエサだったのだと、ようやく気づいた。
「アナタ、いい性格してるよ」
「どうも」
お辞儀をする魁星に、小柳がめんどくさそうに言う。
「もういいだろ。離してくれ」
「おっと───」
魁星と小柳は目の前のソファに座り、風来は四季凪のとなりに戻った。
四人の視線は相変わらず、■■美兎がヘルエスタ王国の『敵』だと疑っていない。
それが当然だと。
当たり前だと信じきっている。
ずっと。
ずっと。
ずっとだ。
戴冠式の日に誘拐され、薄暗い檻に閉じ込められてからずっと───今日に至るまで美兎の声は、彼らに届いたことは一度だってない。
昔の自分だったらその事にアレコレと文句を言い、腹を立てただろう。が、今はもう抵抗する気力すらなかった。もう疲れたくなかった。すべてを認めて楽になれるなら、それでもいいと思っていた。
徐々に美兎は、これから自分の身に何が起きるのかを察しつつある。
これだけのメンバーが一堂に会したのはこの一週間で初めてのことだった。
理由は、考えるまでもない。
「さて、ミトさん。こっちも今日で最後の日にしたい」魁星が言った。「だから裏には色々と用意させてある」
薄気味悪い笑みを浮かべて、魁星は美兎に『はい』か『イエス』しかない選択肢を投げかける。
「拷問は……イヤだなぁ……」
「痛いもんね。分かるよ。オレたちだってやりたくない」
ウソだと思った。
美兎は十七年という時間を生きてきて、ここまで分かりやすい嘘つきに出会ったことがない。むしろ逆に、自分に正直な人かもしれないけど……。
「最終的に。アンタの身体はバラバラにされて森に撒かれる」小柳が口を挟んだ。「よくて魔物のエサだ。それがイヤならさっさと吐いてくれ」
「言わなかったら、どうなるの?」
「簡単には死ねない。……分かるだろ?」
「……───」
とても分かりやすく、未来を想像するには十分すぎる説明だった。
また鉄扉の開く重苦しい音が聞こえ、美兎はそっちに視線を移す。
そして、驚いた。
「今日は勢揃いで私は大変嬉しく思いますよ。ほひょひょひょ」
奇妙な声を上げて笑うピエロの顔の男。
薄闇色の部屋で、真っ白な服を着ている彼はとてもよく目立った。
しかし、美兎が驚いたのはそこではない。
美兎はその男を知っていた。
いつも仲の良いオジサンと一緒になって、美兎がアルバイトをしているメイド喫茶に遊びにくるピエロ顔の男。
一度出会ってしまえばそう簡単に忘れることなど出来ない常連客。
近付いてきたピエロ顔の男は、ニッコリ笑い、美兎の顔をまじまじと見つめる。
「初めましてお嬢さん。私はジョー・力一。皆さんからはジョーさん、りきちゃん、なんて呼ばれております。以後お見知りおきを」
そう言って礼をする力一の姿は、この場にいる誰よりも美しかった。
「さて、どれから始めましょうか」
ジョー・力一が、運ばれてきたおもちゃを楽しそうに眺める。
「これなんかどうでしょう?」
力一が美兎に見せてきたのは大きめのペンチだった。手持ちの部分から先端にかけて、べっとりと黒く染まった血がこびりついている。
他にも爪を剥くための道具や、皮膚を削ぐための剃刀を見せられた。
「どれもこれも思いやりのないモノばっかり」
「これは失礼しました。では、お嬢さんはどんなものがお好みで?」
「ジョーさんと話がしたい。できれば、二人きりで……」
沈黙。
信じられないという空気感が煙のように漂っていた。
「それは『喋る』って意味か?」
最初の皮切りは小柳だった。
対して美兎は、じっと力一から視線を外さない。力一がふざけて左右に揺れても、その動きを目で追いかける。
「……面白いですね」力一が言った。「ひとつ、私の方から質問しても?」
美兎はゆっくり瞬きをした。
「では、失礼して。お嬢さんと私が二人っきりになった場合、お嬢さんは私にどんなことを教えてくれるんですか?」
「多分、アナタたちが知りたがっているものじゃないと思う……」
「それでは取引にはなりませんよ」
力一は口をへの字に曲げて、酸っぱそうな顔をした。
美兎は大きく息を吸い込み、
「わたくしの話はきっと、貴方にしか面白がってもらえない。だから───」
「騙されちゃダメだよ、りきちゃん」魁星の声が邪魔をする。「ミトちゃんはまだ諦めてない。りきちゃんを説得してここから逃げ出そうと考えてる、絶対」
「魁星さん……その根拠は?」
「さっき話した時、オレが鍵を持ってることを教えたらめちゃくちゃ怖い顔で睨まれたんだよね」
「鍵というのはコレの事で?」
左胸のポケットからハンカチを取り出し、力一はそれを鍵に変身させた。
「はぇ!?」
魁星は慌てて全身をまさぐる。
しかし、鍵は出てこなかった。
「りきちゃん……いつ抜いたの……」
「ピエロに隙を見せるのはご法度ですよ。まだまだ修行が足りませんね、魁星」
力一は美兎に向き直り、
「これでお嬢さんを自由に出来るのは私だけになりました。どうします? まだ何も言いたくありませんか?」
「……───」
「お嬢さん、私は都合のいいピエロじゃありません。もしも私を希望の光のように思っているのでしたら、そんな妄想は早めに捨ててしまうことをオススメします」
「……二人っきりにして」
「ふむ」
力一はソファに座る小柳に目配せをする。
ため息ひとつ。
「十分だ。十分経ってここにいなかったらボスに連絡する」
「それで構いません」
力一の笑顔をもらって、小柳は立ち上がる。
「風来、四季凪、お前らは部屋を出たらそのまま入り口の前で待機な」
「えぇー、相手はジョーさんですよ? あの人が本気で逃げようと思ったら僕らじゃ絶対に捕まえられないですって」
風来が不満の声を漏らす。
それに合わせたように四季凪が言う。
「大丈夫だ、風来。小柳さんも期待してない。聞き耳を立てるぐらいでいいだろ」
「ちぇ」
四人は我先にと部屋を出て行く。
最後に小柳が振り返った。
「ジョーさん、もしもその女を逃がすつもりなら覚悟しておいた方がいい」
「ご忠告痛み入ります」
ガチャンと音を立てて扉が閉まる。
部屋には■■美兎とジョー・力一だけが残された。
「これでお嬢さんの望み通りの展開になったわけですが……」
閑散とした室内で力一はじっと美兎が話し出すのを待った。
しかし、問題は美兎の方。いくら話そうとしても喉が震えて、肝心の声が出せない。
「申し訳ありません。ハンカチは魁星さんに渡してしまいましたので」
「だい、じょうぶ……」
声に涙が混ざっていた。
与えられた時間は過ぎていくのに。
もう少しで死んでいた。
誰も信じられないまま、誰にも信じてもらえないまま、死んでいたのだ。
だけど生きてる。
自分が信じられる誰かと話をしている。
嬉しかった。
安心した。
褒めてもらいたかった。
たとえ自分に向けられる笑顔のすべてが、道化の作り笑いだったとしても。
「ごめんなさい。……すぐ、すぐ話すから」
「残り九分です」
力一は冷静に時間を告げる。
きっと彼の心のどこにも■■美兎は存在しない。
オムライスにハートを描いてあげたことも覚えていないだろう。
彼の記憶にいるのは自分じゃない、ジャガイモ頭の月ノ美兎だ。
それが悔しくて堪らない。
「この、世界は……騙されてる」
喉を意思の力で押さえつけ、なんとか絞り出すように美兎は言った。
「それをジョーさんに、伝え、たかった……」
「……他には?」
「なんにも、ないよ……」
精一杯の力で首を振る。
手枷と繋がっている鎖がジャラジャラと鳴り、吊られた腕が少しだけ痛かった。
力一は、美兎から聞かされた荒唐無稽な話になにか思うところがあるのか、憮然とした表情のまま動かない。
ピエロがにこやかに笑うまで美兎は力一の顔を覗き見る。が、顔にピエロのメイクを施しているせいで本当はどんな表情をしているのか分からなかった。美兎が感じた、憮然とした表情も果たして信憑性があるかどうか。
「我々はあなたをヘルエスタ王国の『敵』として捕らえた。しかし、それ自体が間違っていて、我々を騙している誰かが他にいると。そう言いたいわけですか?」
思考を終えた力一の問いに、美兎は漫然と頷く。
「それで? あなたは私にどうしてほしいのです?」
「……分かんない」
「ほひょひょひょ。分からないとは、これまた奇妙。もっと素直になればよろしいのに」
「素直って……」
言っている意味が分からない。
「辛いのでしょう?」
「……───」
「苦しいのでしょう?」
「……───」
「どうせ二人きりなのです。私を誘惑するというのなら、もっとカッコ悪く、もっと惨めになりなさい。でないとあなた、堕ちますよ?」
「───っ!!!」
「あと、五分」
涙だった。
しかし、さっきまでの熱が冷めるような涙とは違う。
味があった。
沈黙があった。
夢のような時間だった。
「四分」
そして美兎は、
「お……ね……い……」
もしも本当にチャンスをくれるなら、
「お願……い……」
もしもまだ生きていてもいいのなら、
「たす……けて……」
もしも───狂わずにすむのなら、
「お願い、わたくしを……どうか……助け、て……くださいぃぃ……」
親友の二人にも見せたことがないくらい情けなく懇願する。
鼻水と涙で化粧をした自分の顔は、彼にはみっともなく映っただろう。
けれどこれが今の、等身大の■■美兎なのだ。
生まれて初めて産声を上げる赤ん坊みたいに、ただ純粋で、真っ白な感情を吐くことしかできない、どこにでもいる普通の女の子。
「美しいですね」
力一はこの一週間の絶望を生き抜いた少女に拍手を贈る。
「ですが、私はあなたを助けることができません」
「……ぐすっ……お願い……お願いします……なんでも、なんでもしますから!!!!」
「不可能です」
「うぅ……どうじで……」
結局、誰も助けてくれない。
誰も。
彼も。
自分に利益がなければ助けてくれないんだ。
「ウソ……つき……」
「褒めてもなにも出ませんよ。ほひょひょひょ。あ、鍵はありますがね」
「……───」
声といっしょに暴れたせいか、美兎は酷い眠気に襲われる。
このまま眠ってしまえば楽になれるだろう。
もう瞼を上げていられない。
人生最後に見る光景がピエロの明るい笑顔というのは少し残念だが、不思議と悪い気はしなかった。
だがその瞬間、美兎はそんな睡魔をも吹き飛ばす、ピエロの言葉を聞いた。
「いま、なんて───」
「聞こえませんでしたか? では、もう一度」
力一は咳払いをして、
「私はあなたにチャンスを与える。あなたを助けるのはあなた次第です」
美兎は耳を疑う。
が、ピエロは指を回し、
「私にはちょっとした悪癖がありましてね。まあ、先ほど小柳さんにも注意されてしまったのですが……」力一は続ける。「私はここに連れてこられた人の素性を調べ、その人が悪人であれば容赦なくぶっ殺します。ですが、そうでない場合。冤罪の可能性がある場合は、最終通告として私はすべての『悪』にチャンスを与える」
「それ……じゃあ……」
「もちろん、あなたの行動は監視しますよ」
力一は魁星から抜き取った鍵を使い、美兎の手枷を外す。
突如として上に引っ張られていた力がなくなり、美兎はその場に落ちるようにしてへたれ込んだ。
「時間がありません。あと一分と経たずに皆さんがこの部屋に戻ってきます」
手を伸ばしてきた力一の顔は、花が咲いたように満開だった。
美兎は迷わずその手を握る。
「ちなみに言っておきますが、私にチャンスを貰って生き延びた人はひとりもいません」
「それでも……いい……!!!!」
ありったけの意思を込めて返答する。
力一はその眼光を受け、満足そうに頷いた。
「では、行きたい場所を思い浮かべてください」
「……───」
美兎は目を閉じ、言われた通り自分が望む場所を思い描く。
力一の手に持っていたトランプが宙を舞い、二人の姿を完全に隠したかと思えば、吹雪が止んだとき、そこに二人の姿は無かった。
数秒後。
部屋に戻ってきた小柳は、最後のトランプが床に落ちるのを見て、
「面倒だな……」
と、思わず舌を打った。




