ヘルエスタ王国物語(5)
「いや、どうなってんの……」
呆然とするアンジュの見つめる先には、幼い頃に想像した秘密基地があった。
最初に気になったのは踊り狂うたくさんの大人たち。そこには男女関係なく種族を越えた友情のようなものがあり、老木から若木まで、部屋に響くミュージックに合わせて激しく手足を振り回している。
「置いてくぞー」
「え? ちょっと待ってください」
アンジュは戸惑い、舞元の袖を掴む。
「ここってどういう場所なんですか……。なんかいろんな人が狂ってますけど」
「そういう場所なんだよ。まあ、狂ってるっていうのは否定しない」
舞元は迷うことなく目的地に向かって歩を進める。
その横でアンジュは圧倒されていた。マンホールの下にあった巨大な地下世界。住んでいた世界とのギャップに血の気が引いてしまう。
森の田舎者という自覚はあった。それは師匠が世捨て人だったということもあるが、それでも自然の美しさに触れることで、たくさんの感性に恵まれ、錬金術を磨くには最適な環境だった。自分の成長に繋がったのだ。
しかし、この賑やかさは違う。
自分はこういう場所が苦手らしい、という新しい発見はあったものの……。
それだけだ。
新しい虫歯が出来たような憂鬱さ。似たような感情でいえば師匠に、才能がないよんアハハと煽られているような感じだろうか。
「よし着いたぞ。ここだ」
舞元が指差すところはどこにでもありそうな平凡な酒場だった。
「あたしを酔わせて何をさせる気なんですか……」
「一周回ってたくましいよ、お前」
舞元に続いて、アンジュは恐る恐るドアをくぐる。
第一声は、覚悟のキマったバニーガールたちのお出迎えだった。
「Welcome to Underground! 石神のぞみです」
「うぇーい! 五十嵐梨花でぇーす!」
「ソ、ソフィア・ヴァレンタインです」
「……こんちゃー、小清水透でーす」
最後にやる気のない自己紹介が終わり、四人はビール瓶を片手に指定されたテーブルへと運んで行く。
それから少し時間を置いてアンジュはようやく平静を取り戻した。
いつの間にかいなくなっていた舞元啓介は、カウンター席でメイド服を着た男エルフと一緒にお酒を飲み始めている。
「エルフっていうか。ムキムキの変態?」
アンジュも舞元に習って、空いているカウンター席に座る。
「初めましてだな。俺はこの店でマスターをやってる、ベルモンド・バンデラスってもんだ。嬢ちゃん、舞元の連れだろ。名前は?」
「えっ! その……」
一瞬、躊躇う。本名をバラしていいものか。
「ああ、コイツはアンジュっていうんだ」舞元が言った。
「舞元さん?」
「それにベルさんと同じで身分証を持ってない」
「舞元さん!?」
聞いているベルモンドも意外そうな顔をした。自分の他に身分証を持ってない人間に会ったのは初めてだったからだ。
ベルモンドは何かを察した様子で頷き、
「なるほど。舞元が仕事を紹介してほしいって言ったのはこの子のためか……」
「一応、錬金術が使えるらしい」
失礼な、アンジュは心の中でつぶやいた───ちゃんと使えます。
「それじゃあ、嬢ちゃん。仕事の話だが」
「ひゃい!」
ベルモンドに声を掛けられ思わず身を固くする。筋骨隆々といえばいいのか。その腕の太さからも鍛え抜かれた漢の臭いが伝わってくる。目を合わせているだけで逃げ出したくなるような圧倒的威圧感に、アンジュをさらに小動物のように身を縮ませた。
仕事をもらえるといっても断ったほうが身のためかもしれない。
というか、本当に安全な仕事だろうか。もしかすると自分の予感は当たっていて……逃げる準備をしていたほうがいいのかも……。
そう思っていたアンジュの沈黙を別の声が遮る。
「へぇー、お前がアンジュか」
アンジュは声のした方へ振り返る。
特徴的な真っ白な髪をした男がアンジュの隣に座っていた。
その男は面倒くさそうな表情を浮かべ、品定めをするように、赤い眼をアンジュに向けている。
「レヴィからお前のことは聞いてる。可愛い人と友達になれたって」
「レヴィさんが……」
可愛い、と言われアンジュは素直に照れる。
今までそんな風に思ってくれる人はいなかった。
「えーっと、あなたは?」
男は意外そうな顔をした。
「俺のこと知らない? これだから田舎者は───」
「お前が家から出てこないからだろ」ベルモンドが言う。「コイツは葛葉。今では絶滅危惧種の吸血鬼だ」
「ちょっとベルさん。引きこもりみたいに言わないでくださいよ」
「違うのか?」
「もう全然、違う! 吸血鬼はみんな太陽の光が苦手なの。だから外に出ないだけ。引きこもりの田舎者たちとは根本的に違うんだから」
「でもお前、地下に住んでるじゃん」
「それは……───」
咄嗟に言い訳をしようとして、何も思いつかず、葛葉は浴びるように酒を飲む。
その横でアンジュは驚いていた。吸血鬼がすぐ隣に座っていることも驚きだが、なにより、今の時代に生きていること。それは珍しい、という簡単な言葉で片付けていいものではない。
世界にはもう吸血鬼は存在していない可能性があった。目の前の葛葉を除いて。
理由は───。
「俺が吸血鬼って分かってびびった?」
葛葉は悪戯っぽい笑みを浮かべて、アンジュに牙を見せる。
その牙をどれだけ人の首に突き刺し、血を啜ってきたのだろう。想像するだけで、アンジュは首筋から滴り落ちる血のぬるさを、鮮明に思い浮かべることができた。
「できれば、葛葉さんの血を錬金用にもらえないかなって考えてました」
「ドン引きなんだけど。それ吸血鬼のセリフだから」
確かに人間が吸血鬼に血を寄越せというのは変な気もする。
「まあ、欲しいのは理解できるよ。吸血鬼はみんな不老不死の霊薬? とかいうモノのためにお前ら人間に狩りつくされたわけだし」
「……ごめんなさい」
「認めんのかよ。俺のことを素材として見てました、って。傷つくわー」
心無い発言をしてしまった、とアンジュは自覚する。
この機を逃せば吸血鬼の素材は二度と手に入らない、そんな気持ちに支配されてしまったことを否定できない。
どうしようもなく欲しい。その欲望だけで彼の人権を否定できる。出来てしまう。
人間の欲深さを彼らはイヤというほど知っているだろうに。
「葛葉さんの命を軽く見てしまいましたから」
「ふーん」
葛葉は気にも留めないようすで、
「俺も冗談で言っただけだしな」
「……意地悪ですね」
「吸血鬼ってのはみんな人をからかうのが好きな奴らなんだぞ」
そう言って笑う葛葉を見て、アンジュは少し肩の荷がおりた気がした。
「じゃあ意地悪ついでに聞きたいことがあります」
「急に強気だな。まあ、いいけどさ」
「吸血鬼が今よりも高度な文明を持っていたというのは事実なんですか?」
アンジュが師匠から借りた本には、吸血鬼たちが今のヘルエスタ王国よりもずっと発展した王国で暮らしていたと書かれていた。
しかしそこに、どんな魔法、どんな技術があったのかを明確に記した書物は発見されていない。吸血鬼たちの歴史のほとんどは人間の妄想が介入し、黒歴史で塗り固められたものばかりだ。
知る必要がある。
繁栄していた国に起こった革命を。
奇跡を。
なぜ一夜にして滅んでしまったのか。
その真実を。
「この葛葉様が教えてしんぜよう! 実は───」
会話の途中、アンジュの頬に風が触り、葛葉の頭が消し飛んだ。
正確にはサッカーボールみたいに蹴り飛ばされたのだが。
酒場の壁に赤い染みのアートが出来上がる。
床に倒れる葛葉の身体をよそに、アンジュは動けない───足元にいる蛇と目が合っている───命の危機は期待を込めて笑っていた。
蛇は酒気を吐きながら、
「お主、御神楽の里に入ったことがあるな!? 酒は! 酒は持っておらんのか?」
先ほどまで葛葉が座っていたイスをちょこんと横取りし、キラキラと瞳を輝かせる少女がひとり。
おでこから伸びた美しい二本の角。それだけで人間じゃないことを証明するには十分なものだが、加えて、蠱惑的な足をぱたぱたとひけらかし、小柄な身体には大きすぎる紫焔色の着物を見事に着こなしていた。
幼さの完成形───指先から足先まで欲望を踏みつける存在。
「どうした? 聞こえておるんじゃろ。無視されると、わらわであっても傷つくぞ」
蛇に睨まれたカエルの気持ち、それがどういう意味なのか、アンジュは頭ではなく心で理解できた。
しかし、会話が成立する相手にどう立ち回ればいいのか……。
幸いにも、相手はベルモンドから渡されたお酒を嬉しそうに飲んでいる。
「すみません。存じ上げません」
「むむむ。お主はフミと一緒に御神楽の里に行ったのではないのか?」
「フミ様と知り合いなんですか?」
「なんじゃ、フミの奴から聞いておらんのか。わらわは竜胆尊。極東の島国で女王をやっておったカッコいい鬼じゃ!」
堂々と胸を張る鬼。幼女のような見た目からは想像ができない発育の良さ。自分との差は一体なんなのだろう、とアンジュは落ち込む。が、やはり、種族的な格差なのか。それとも自分が呪われているのか。
しかし、フミのことを知っているとなるとおそらく神様の類。
アンジュの脳裏には空から落とされた記憶がフラッシュバックする。
「おい! この鬼ババァ! よくもやってくれやがったな」
「なんじゃワレぇ!」
頭の再生を終えた葛葉が、尊に突っかかる。
「ベルさーん、アタシにもお酒ちょーだーい。ちょい強めで」
さらにアンジュの隣には赤いマグマのようなドレス? 鱗? を着た女性が舞元のいたはずの席に座った。
「ドーラじゃないか。珍しいな、ここに来るなんて」
「今日は尊さまのお目付け役だからね。ベルさんのほうはどう? 上手くやってる?」
「ぼちぼちだ。変わったところでいえば、イディオスって奴らを雇ったくらいだな」
「バニーの子たち?」
「ああ。元々は七人で冒険者をしていたらしいんだが……」
何かを察した様子でドーラが手で会話を切る。
「ところでバニー服はベルさんの趣味だったりする?」
「椎名だな」
ドーラは納得し、酒を飲む。
「でもさぁ。こんな男だらけの酒場で雇わなくても良かったんじゃない? 昼間は西の教会で神父やってるんだからそっちで雇えばいいじゃん」
「俺もできればそうしたかったんだが……。今、西の教会はクレアが担当してる。なんでも友人とのお茶会に使いたいんだと」
「クレアが西の教会に……じゃあ、孤児院の子供たちは誰が面倒見てんの?」
「孤児院のほうはローレンに任せてあるって聞いたな」
「あはは。警備隊の仕事に、子供の相手まで。ローレンは早死にしそうだね」
二人が談笑する中で、後ろでは葛葉と尊が暴れ回っている。
種族の違う鬼同士。相容れないものがあるのだろう。
アンジュは身を低くしてベルモンドを見つめた。
「ま、舞元さんはどこへ……」
「舞元ならチャイカ……メイド服を着たエルフと一緒にトイレで吐いてる」
「……───」
「今日はやけにペースが早かったからな」ベルモンドはドーラに次の酒を渡す。「イヤな事でもあったんだろ。そうじゃないと吐くまで飲んだりしないからな」
「そ、そうなんですか……」アンジュは続ける。「後ろの二人は止めなくていいんでしょうか? 店の中が物凄い血まみれに……」
「んん?」ドーラが振り返る。「葛葉のほうはともかく、尊さまを止めるのはムリだね」
「じゃあどうするんです?」
「ほっとけばいいよ。尊さまにとって葛葉は生きてるサンドバックみたいなもんだし。尊さまを止めたいなら、それこそ美味しいお酒を用意しなきゃ」
暴れ回る二人を見てドーラは懐かしむように言う。
「思い出すなー。昔はベルさんもあんな風に暴れてたっけ」
「そうなんですか?」
ドーラはニヤリ、と。
「そうなんだよ。本当に面白かったんだから。あの頃のベルさんは手が付けられなくてね。騎士団がベルさんを取り押さえたんだよ」
「やめてくれ。思い出したくない……」
青ざめた表情で頭を抱えるベルモンドからは哀愁のようなものを感じる。
アンジュはドーラの話がますます気になった。
「そのベルさんを取り押さえたのが、騎士団の団長さん」
「ああ……」
アンジュはそこからの展開をなんとなくだが想像してしまう。
手も足も出なかったんだろうな、と。
「俺、心壊れちゃうかと思った」
「別に気にしなくていいじゃん。恥ずかしいことでもないんだしさ。ヘルエスタ王国最強の騎士を相手しただけスゴイんだから。頑張ったよ。うんうん」
「だけど、ベルモンドさんはどうして暴れてたんです? 騎士団が出てくるってかなりヤバいんじゃ……」
「おっ、アンちゃん気になる?」
「それなりに」
アンジュは、ベルモンドが山賊のようなことをしていたのだろう、と当たりをつける。
偏見だが、そういうイメージがあった。
ドーラが何かを言いかけた時、ため息混じりにベルモンドが言う。
「俺から話すよ」
ベルモンドはアンジュのほうを見る。
野獣のような目だった。
「さっき、舞元が言ってたこと覚えてるか? 俺が嬢ちゃんと同じで、身分を証明できない人間だって話」
アンジュは「はい」とだけ答える。
ヘルエスタ王国で仕事をするには身分証が必要だ。
身分証は国によって違う。外から来た人は全員、自分の身分を証明できなければこの国で生きる権利を与えられない。
アンジュの現在進行形で苦しんでいるものだった。
「不安だったんだ。このまま世界から切り離されていくような気がして。だから、所かまわず八つ当たりしまくった」
「迷惑でしょ?」ドーラがからかう。
「しょうがないだろ。どうやっても自分の身分を証明できないんだから。ただ分からないっていうのはそれだけで心を蝕んでいく毒になるんだよ。ドレイクには分からないかもしれないがな。それに……そ、その後、俺は……フ、フレンに……」
「ボコボコにされてたよね!」
酒が回ってきたのか、ドーラはさっきよりも大声で笑う。
ベルモンドはトラウマが蘇ったのか、全身を小刻みに震わせ冷や汗をかいていた。
「大丈夫ですか?」
ベルモンドを心配するアンジュをよそにドーラは続ける。
「いやー、やっぱりこの話は酒のつまみになるね! ベルさんが全身複雑骨折で教会に運び込まれてきた時は心配だったけど。クレアが教会秘蔵のエリクサーを使ってまで助けたんだ。笑い話にするくらいいいでしょ」
「エリクサーって……どんな怪我でも病気でも治せるっていう……」
アンジュはエリクサーが実在することは知っていた。自分の使っている星の錬金術のひとつである『月』はエリクサーを参考にしたものだ。
しかし、本物となるとかなり貴重なものだ。
金銭の問題は必ず発生する。
「貴重も貴重だよ。実際、ベルさんは借金を返すために働いてるわけだしね」
「……気が遠くなるよ」
最後の酒を飲み終わると、ドーラは立ち上がる。
「それじゃあ、アタシは尊さまを連れて帰るよ。ベルさん、尊さま用のお酒頂戴」
「はいよ」
ベルモンドから酒を受け取るとドーラは後ろで葛葉をノックアウトしている、尊に声を掛ける。
「なんじゃ。もう帰るのか? わらわ、お酒……飲んでない」
「家に帰って飲みましょう。ほら、ベルさんからお土産」
ドーラから酒を貰うと尊はすぐに瓶を開け飲みはじめる。
どうやら葛葉と戦っている最中、アンジュのことはすっかり忘れてしまったらしい。
二人はそのまま店を出ていった。
アンジュは一息入れる間もなく、声がかかる。
「すまねぇな、嬢ちゃん。仕事の話にもどろう」
ベルモンドに見つめられ、アンジュは唾を飲む。
「錬金術で解毒薬は作れるか?」
「え?」
クマのような男から出た優しい声音にアンジュは戸惑う。それは紳士的な、できるだけアンジュを怖がらせないよう配慮されたものだった。
「毒の効果さえ分かれば作れると思います。手持ちの材料でどうにかできるかは分かりませんけど……」
「材料の心配ならしなくてもいい。こっちで何とかしよう。毒の解析も終わってる」
「それならできると思います」
違和感があった。
毒の解析が終わっているなら錬金術を頼る必要があるのだろうか。成分が分かっていれば解毒剤もすぐに用意できるはず。
例えそれが未知のウィルスだったとしても、その構成が分かっていれば、医療に精通した知識を持っていれば解毒剤を作ることも可能だろう。
簡単な話、エリクサーを作ればいい───不可能だが。
しかし、ベルモンドの口振りからすると成分が分かっても意味がない。あるいはアンジュのイメージしている毒物とは異なっている可能性がある。
「成分が分かっていても解毒剤が作れない理由を教えてください」
「それは嬢ちゃんが仕事を受けるかどうかだ」
ベルモンドの双眸が睨み刺すものへと変わる。
アンジュはそれを見つめ返した。
床にビールをぶちまける音が続く。
ビールを運んでいた石神がつまずいてグラスを割ったのだ───ここだけの話、バニーガールの四人のうち、誰が一番最初にグラスを割るのか、賭けが行われていた。
勝利したものたちの歓声が上がると同時に、ベルモンドがアンジュの耳元で囁く。
「毒の成分はメイド服のエルフが知ってる。俺からは以上だ」
「……───」
いつの間にか戻ってきていたメイド服のエルフがアンジュに向かってウインクを送ってくる。なぜメイド服を着ているのか。なぜ、エルフがこんなところにいるのか。質問したいことは山ほど思い浮かぶが、まずは毒物について話を聞くのが先決だろう。
アンジュはメイド服を着たエルフ───花畑チャイカに近づいて、
「あなたは、リゼ・ヘルエスタを知っていますか?」
賑やかだった酒場が一瞬にして凍りつく。
アンジュも自分の口から出た問いに驚いていた。ヘルエスタ王国に来た一番の理由がリゼ・ヘルエスタとの謁見だったとしても、今、この場で質問するべきじゃなかった。
ただ、自分の気持ちを抑えきれない。
例え相手がメイド服を着た変態だったとしても、エルフという種族はヘルエスタ王国の終わりから始まりまで、その長い歴史を知っている、その可能性がある長命種なのだ。アンジュの知りたい情報を持っているかもしれない。
王冠を被ってしまった幼馴染に会うための情報を───。
「お前らもっと騒げよ。せっかくの酒が台無しだぞ」
沈黙を破ったのは、のほほんとした雰囲気の少女だった。
丸い顔に笑顔が似合う椎名唯華。
二階から下りてきてすぐ、彼女は男共に言い放つ。
「だからお前たちは彼女もできなくて独り身なんだよ」
椎名なりに場を和ませようとした結果なのだろう───かくして、それは酒場にいる男たち全員の地雷を踏んだのだった。
舞元が突然立ち上がり、大声を上げる。
「野球の時間だぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
「「「「「「いええええええええぇぇぇぇぇぇい!!!!!」」」」」」
アンジュを除いた全員の手が挙がる。
「なになになになになに。え、こわ……。なに? 急にどうしたの……」
チャイカはゆっくり、ゆっくり、椎名唯華へにじり寄る。
「椎名ちゃん」
「はい」
「野球をするめにはボールとバットが必要だ」
「それなら裏の倉庫にあるよ」
「分かってる」
「……」
「倉庫にあるボールって硬いんだよ。そんなものを屈強で血気盛んな男たちが投げたらどうなると思う?」
「椎名わかんない」
「ケガ、するかもしれないね」
「じゃあ、また今度にすれば……」
「オレたちは今! 野球がやりたい。そしてこの野球大会には女の子も何人か参加する。つ・ま・り、柔らかいボールが必要なんだよね。オレの言いたいこと、分かった?」
「椎名……バカだから……」
「うん。簡単に言うね───お前、ボールな?」
全力疾走、脱兎の如く。
命の危機を感じ逃走を試みる椎名は酒場の出入り口を目指して一直線に、チーターよりも早く駆け出した。
だが、
「椎名よ。漢のプライドを傷つけたんだ。身の振り方は考えなくちゃいけねぇよ」
ベルモンドに頭を掴まれ、椎名は持ち上げられる。
「痛たたたたた!! 痛い、痛いよ、ベルさん。こんな、こんなことが許されていいのか。か弱い女の子を寄ってたかって……。いじめですよ!」
「先に喧嘩を売ったのはお前だ」
「ベルモンド、そのまま捕まえてろ」
「話し合おう! 話し合えばわかり合える! だから───」
「放すなよー」
チャイカは眉間に溜めたパワーを指先に集める。
「いくぞ!」
「やれ! チャイカ!」
チャイカは一呼吸おいて、指先をぶら下がった椎名に向ける。
「おもちぃなに、なっちゃえーーーー!!!」
「ぎゃあああああああああああああああああああああ」
放たれた緑色の光線が椎名に命中する。
光線を浴びた椎名は人型の影も形もなくなり、円形状のよく分からない生物みたいなものに変えられてしまった。
見た目はボール、感触はもちもちしたぬいぐるみ。
「それじゃあ皆、裏庭に行くぞ」
舞元が店を出る。
男たちもその背中に続いた。
自分も行ったほうがいいのかアンジュが思案して、店を出ようとした時、チャイカが呼び止める。
アンジュは小さな紙切れを渡された。
「それに毒の成分が書いてある。それとこの仕事を依頼した奴の住所も」チャイカは続ける。「ひとつ、興味本位で聞くんだが……。アンジュ、お前はどうしてリゼについて知りたいんだ」
難しい質問だった。
リゼについて知ったところで、何も変わりはしないのに。
「ただ……会いたいんです。会って話がしたい。本当にそれだけなんです」
「そうか」チャイカは健気に笑うアンジュを見る。「この解毒剤の依頼人は元々城で働いていたんだ。成功すればリゼに会えるよう口添えをしてくれるかもしれない」
「本当ですか!?」
「可能性があるって話だ。本気にはするな」
アンジュにとって、それだけで十分だった。
ヘルエスタ王国に来てからずっと薄暗い気持ちになってばかりだったが、ようやく砂漠の中で小さな砂金を拾えた。
見えてこなかった自分の役割も、今ではハッキリと理解できる。
「あたし、頑張ります」
小さな紙を愛おしそうに眺めるアンジュ。
チャイカは聞いた。
赤髪の少女が奈落の道に足を踏み入れる、その第一歩を───。
「……ああ。頑張れよ」