ヘルエスタ王国物語(34)
小さな国がある。
たった独りの少女のために作られた新しい国。
その国は、大人が四十万人と子供一人というアンバランスな人口分布で構成され、たった一人の少女に不自由のない暮らしを提供していた。
遊びたければ遊ばせ、お腹が空いたらお腹いっぱいになるまで食べさせる。眠たいときは、お城の庭でウトウトしている少女に子守歌を聞かせ、優しく眠らせた。
まさに、絵に描いたお姫様のような暮らし。
一見なんの文句もつけようがない生活にも、少女にとって気に入らないことが、ひとつだけある。
ひとつだけ!
それは勉強時間を知らせるチャイムだった。
これだけはどうしても好きになれない。
いつも我儘を聞いてくれる大人たちもハトが鳴くような音を聞けばすぐに少女の首根っこを掴み、よく分かんねぇ、汚い大人たちが邪悪な笑みを浮かべて作ったであろう問題用紙と睨めっこさせられる。
今日の問題───あなたの好きな物語を作りなさい。
これだけ。
他には何もない。
ただ、物語を書くためだけの空白がある。
バカにしやがって。
少女は床にペンを叩きつけたくなる衝動に駆られたが、ここで癇癪を起しても誰も助けてくれないと諦める。
しぶしぶと、少女は一つの物語を描いた。
それは、王女と二人の付き人が旅をするという簡単なもの。
いつか自分もそうなりたいと願いを込めて。
「なれるかな?」
本を片付けている大人が豆鉄砲をくらったような顔をして振り返る。
「そうですね……」
大人は、答えずらそうに顎に手を置く。
それだけで十分な答えを貰った気がした。
「先生、ごめんなさい」
下を向く少女の頭を、大人はそっと撫でる。
「謝らないで。アナタは悪くないのです。悪いのは───」
小さな国が滅亡する五秒前。
この国に、虹のような光が落ちてきた。
かつてない色彩に彩られた街並みをキレイだと思う少女。その傍らで、大人たちが忙しなく動き始めるのを見て、美しい景色に肌を掻くような危うさを感じた。
「───先生」
少女は自分の手を引いている大人に声を掛ける。
だが、答えは返ってこなかった。
紫色の光が目の前の大人をその色で塗り潰してしまったから。
手があった。
少女の手首を掴む、手。
大人が残していったのはそれだけだった。
光はやがてひとつの形になってこの国に顕現する。
それは虹の龍───絶対の救済者ウル・モア。
数えきれないほどの国を滅ぼし、あくびが出てしまうほどの魂を奪った王様。
少女はそんな怪物と目が合った。
ような気がした。
あまりにも一瞬のことで分からない。
今、少女の視界にはいくつもの魔法陣が眩しく輝いている。
「結界魔法だ。敵から身を守るために使うって……」
五秒。
四十万人の大人たちはたった一人の少女を守るためにウル・モアと戦った。
結果。
大人たちはウル・モアの光で救済され、少女は見つめられる。
戦いが終わり、少女は見慣れない廃屋たちを廃城から眺めた。あそこには美味しいパン屋があって。あそこには、あそこには───何もない。
ウル・モアもいつの間にか消えていた。
何も分からない。だから絶望することも出来ない。
感情はあった。
けれど、涙は流れなかった。
小さな国は無くなって。
たった独りの少女───名取さなは生き残った。
△△△
「私、王様じゃなくなっちゃったよ……」
カフェ『すぺしゃーれ』のテラス席で悲痛の声を上げるのは、この国の元女王リゼ・ヘルエスタその人だった。
彼女は今日まで育ってきた家を追い出され、あげくの果てには自分と良く似た───似ても似つかない二頭身野郎と入れ替わる形で、王族としての役割を終えたばかりである。
そんな彼女のひとりごとにアンジュ・カトリーナは笑って、
「まあまあ。そう悲観することもないんじゃない? 生活するだけのお金は貰えたんだからさ」
ほれ、とアンジュはシスター・クレアから受け取った袋をテーブルに置く。袋の中にはリゼがお婆ちゃんになっても使い切れないぐらいのお金が入っている。
リゼが軽く振ると、じゃらじゃらと子気味良い音が鳴った。
「いや、どうして持ってきてるの?」
「え? だってお金持ってないし。タダで貰えるなら貰おうかなって」
気にするようなことではない、とアンジュ。
「いやいや! そっちの方が問題でしょうが! タダで貰えるものにこそ恐怖を感じないといけないの。ていうか、なんでお金を貰ったぐらいであんなずんぐりむっくりした奴に王位を譲らないといけないわけ!? ああ、もう。意味分かんないでしょうが! うわああああああああああ!!!!!」
叫びと感情のジェットコースターに乗ったリゼは頭を抱えて、テーブルに突っ伏してしまう。
「そんなやけにならんでも……。戍亥さんはどう思います?」
「ウチ?」
唐突にアンジュからバトンを渡され、オムレツを食べていた戍亥とこは、それでもご飯を食べる手を止めなかった。
半分ほどたいらげたところでようやく、
「ウチは今が幸せやから。このままでいいと思う」
「とこちゃんが幸せなら、私もこのままでいい気がしてきた」
「もしもし、リゼちゃん? さっきと言ってることがくるくるしてますけど?」
仮にも元王様。手のひらを返すことに躊躇いはない。
「でもこれからどうしたらいいんだろう……」
「リゼのやりたい事をしたらええよ。ウチらはそれに付き合うから」
「とこちゃん。ありがとう」
え、あたしも? というアンジュの声は誰にも聞こえないらしい。
「それじゃあ、冒険者ギルドに行ってみるのはいかがですか?」
三人の会話に、注文された料理を持ってきた七瀬すず菜が言う。その後ろには小さな子供のような少女───雲母たまこがくっついていた。
「あれ? 七瀬さんはここで働いてるんですか? なんか小野町亭にもいたような……」
「はい。朝はこちらのカフェで働いていて。休みの日とか、夕方になると小野町亭でアルバイトさせてもらっています」
「それっていつ休んでるの?」
「働いていることが休みみたいなものなので。今はとっても充実してますよ」
リゼの問いに気持ちよく答える七瀬。
当たり前のように七瀬の口から飛び出してきた言葉の数々にリゼは困惑する。それほどの過密スケジュールを一体どうやってこなしているのか。
「すず菜ちゃん大丈夫? 死んじゃわない?」
「最初はしんどかったですけど慣れたらそこまで気になりません。リゼ様もどうですか?」
「私は遠慮しとこうかな」
やや頬が引きつるリゼ。
だが、この場で一番不思議に思っているのはアンジュだろう。
彼女はアンジュ・スカーレットの記憶を引き継いでいる。当時、七瀬すず菜が小野町亭にいなかった日など数えるほどもない。片手の指で足りるほどだ。しかし、今の話を聞いた限りでは、いつ休んでいるのかも分からない。もしかしたら彼女には双子の姉がいて、交互に入れ替わっているのだろうか。
アンジュは、笑顔を向けてくる七瀬に恐怖を感じた。
「こちらはサービスです」
そう言って、七瀬の後ろから雲母が顔をのぞかせる。
まだ十三歳の少女は手際よく三人の前にデザートを置いていき、仕事が終わるとそそくさと店の中に戻っていった。
「あの子人見知りで。すみません」
失礼にならないよう、穏やかな口調で七瀬は言った。
「いえ、そんな。気にしてないので」
「良かったです」
七瀬はほっと胸を撫でおろし、小さな不安を消化する。その表情の変化に戍亥とアンジュは少しだけ胸が締め付けられた。
まだ、加賀美ハヤトの残していったリゼの悪評が消えたわけではない。民からの信頼が厚いとはいえ、それと同じくらい彼女は恐怖の対象でもある。もし仮に不敬な行為とみなされればこの場で処刑される可能性だってあるだろう。
テーブルの上に次々と料理が置かれていく。
「そういえばさっき話してた冒険者になればって……」
アンジュが話題を変える。
七瀬もそれに続いた。
「はい、実は……この間の魔物との戦いで冒険者ギルドも危機感をもったらしく。新しい冒険者を募集してるってお客さんから聞きまして。もし時間があるなら皆さんもどうかな、と」
戍亥の目が鋭く光り、ケルベロスの耳が七瀬の気持ちを探る。しかし、とくに引っかかるような事はなかった。
本当に客から聞いた話を自分たちに教えているだけ。
危険なにおいもしない。
「冒険者。興味がないわけじゃないけど……」
リゼが言う。
「とこちゃん、私って戦えるかな?」
「ざこ」
あまりの辛辣さに思わず笑ってしまうアンジュ。
「分かってた、分かってたけどさぁ。厳しいよ、とこちゃん」
「そんなこと言ったらンジュさんも錬金術使えへんよ。戦力外の役立たずや」
「戍亥、それ以上はいけない」
自分に銃口が向けられるとは思っていなかったアンジュ。実際、錬金術を使えないことに多少のコンプレックスを感じている。
リゼを助けるために使った『星』の錬金術の代償。
それがまさか錬金術師から錬金術を奪うという魔法使いから魔法を奪うような、無職の卒業生にされるとは思ってもみなかったのだ。
加えて、いつ錬金術を使えるようになるか分からないという理不尽付き。
「リゼ様は戦いたいんですか?」
七瀬の質問に、リゼは腕組をしながら答える。
「うーん、命の危険があることは極力避けたいかな……。でも、冒険者って戦うイメージが強いから。最終的にはそうなるのかなって」
「それなら心配ないと思いますよ」
「そうなの?」
「はい。新人冒険者に勧められる仕事は街の雑用みたいなものがほとんどで、外に出て魔物と戦うような危険な仕事はさせてもらえません。薬草の採取などはあるかもしれませんが……」
外に出て魔物と出くわすのは運の要素である。危険がないとは言い切れない。
しかし万が一、魔物との戦闘になったとしてもオムレツ食べ終えて優雅に紅茶を飲んでいるケルベロスがいれば、リゼが命の危機に晒されることはないだろう。
「今なら無料で訓練もしていただけるんだとか」
「訓練って。手に豆ができるまで剣を素振りさせられたり?」
「いえ、付き添いの冒険者の方たちが毒草の見分け方だったり、依頼の受け方を教えてくれるみたいですよ」
「じゃあ訓練といってもそこまで厳しいものじゃないんだ。それなら私にも出来るかな?」
首を斜めに傾けたまま、リゼは手渡された情報をもとに気持ちを整理する。
王様ではなくなった。けれど、王様の生活に戻りたいのかと聞かれればそれも違う。また誰かに利用されて都合のいい人形にされるのはごめんだ。かといって、他にある選択肢といえば娯楽を満喫するぐらいだろう。
しばらくはそれで良い。だが、刺激のない人生はいつか飽きる。ここらで一度冒険に出てみるのも面白いかもしれない。
「決めた! まずは冒険者ギルドに行って話を聞いてみる。後のことはそれからってことで! アンジュもとこちゃんもそれでいい?」
「ん」
と、戍亥が短く返事する。
続いてアンジュは、
「あたしには嬉しい話だな。冒険者になれば身分も証明できるようになるだろうし」
そう同意した。
「じゃあ、決定ね!」
リゼは美しい所作で料理を食べ終えるとカフェSpecialeを後にする。
店を出るときはスタッフ総出で───七瀬すず菜、早乙女ベリー、雲母たまこ、酒寄颯馬、渚トラウト───見送られ、三人は冒険者ギルドに向かうのだった。




