ヘルエスタ王国物語(32)
「殺してほしい」
戍亥はリゼの絶望した声を聞いた。震える手で両肩を掴まれ、濁った瞳で見つめられる。目を逸らしたいのに、逸らせない。ここで目を背ければ、それはつまり、戍亥が知っていて、黙っていて、肯定したということになる。
「私ね、思い出したの……。全部、思い出したんだよ」
「……ィゼ?」
悪い予感はムカデになって、背中をよじ登ってくる。
ぞわぞわ。
ムカデは首に巻きつくと、耳元で囁いた。
「私は加賀美さんを殺した」
続けて、
「夜見さんを殺した。葉加瀬さんを殺した」
死にたい。
死にたい。
死にたい。
死にたい。
「お父様を殺した。お母様を殺した。弟を殺した。他にもたくさん……人を殺した」
先ほどまで透き通っていた声は呪われ、空色の心を闇に染めて、しゃがれた呪詛を吐き捨てる。
「とこちゃん……私を殺して? とこちゃんなら出来るでしょ?」
殺してよ。
ね?
「で、できひん。う、ウチにはそんなこと……」
戍亥は否定した。否定したのに……何故だろう、分かるのだ。
リゼを殺すためなら自分は奇跡を起こせる、と。
人を生き返らせるとか、人の傷を癒すとか、世界を良くするとか、他にも奇跡と呼ばれるものがあるのに、どうして───アタシはリゼを殺せる───そう、確信しているのだろう。どうして、それしか許されないのだろう。
戍亥は首に巻きついたリゼの腕を優しく掴む。怖かった。その手を離してしまうと取り返しがつかなくなると思った。
「アタシ、頑張るから。リゼが安心できるよう……頑張るから。せやから───」
「頑張らなくていいよ、そんなの」
リゼが遮る。
「私なんかの為に頑張らないで。私はもう生きていたくない。耐えられないの。だから、お願い。殺して」
死にたい。
死にたい。
死にたい。
死にたい。
「……やめてぇ。そんな言葉……アタシに聞かせないで」
「ああ、そうだ。思い出した」リゼは呟く。「とこちゃんは心の声が聞こえるって、私の心はキレイだって、ずっと前に言ってくれた」
「それは───」
戍亥は答えるのを、迷った。
リゼは戍亥に巻き付けていた腕を離して、親友を見つめる。
「もしそうならさ。私がお父様を殺した時、すぐ側で私の声を聞いてたってことだよね?」
「───っ!」
「私が何度も、何度も───何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も!!!!!!! とこちゃんに助けを求めて叫んでたのを、聞いてたってことだよねぇ!?」
リゼは責めるように。
「それだけじゃない! とこちゃんは私がお母様を殺す時も、弟を殺す時も、えるさんと一緒にずっと側で見守ってた。あの時も私の声を聞いてたって言うなら、どうして助けてくれなかったの? ねえ? どうして? 答えてよ!」
これまで一度たりとも耳にしてこなかった、親友の心から吐き出されるドロドロとした叫び。リゼが思い出さなければずっと内側に眠っていたであろう、感情の噴火。そのすべてが、壊れかけた戍亥を飲み込んでいく。
えるに操られたリゼが最初に殺したのは、弟だった。───そうだ。アタシがえるに連れられて入った部屋で、リゼは弟の首を絞めていた。───その時のリゼは誰かに助けてほしい、と無表情のまま、内側で絶叫していた。
次にリゼが殺したのは父親だった。父親もえるに操られて何の抵抗もなく処刑台に座っていた。───覚えてる。アタシとえるはリゼのすぐ後ろに立っていて。───父親の首が切断されるまで、肉を叩くような音を聞き続けた。
その時のリゼは「助けて! 助けて!」と戍亥の名前を呼んでいた。
───アタシには何も出来なかった、三人目。
リゼが母親を殺す際には、ヘルエスタセイバーが使われた。レイナ・ヘルエスタはあっけなく心臓を貫かれて死んでしまった。母親を殺した瞬間、リゼは心の底から笑い、それから何も言わない氷のようになってしまった。
それが一年前の出来事。
今にして思えば、すべては計画されていた事だったのかもしれない。
───いや、それは違うか。
レイナは、えるとリゼが友好を築いてくれることに期待してた。フレン、える、クレア、戍亥の四人でリゼを支えてほしい、とも。
しかし、その目論見はおおいに外れ───結果は最悪を手招きしたのだ。
「どうして何も言わないの?」
リゼが詰め寄る。
「ご、ごめん……」
戍亥は自分の口から出た言葉に、ハッと息を呑む。
どうして、今───。
「否定しないんだ」
「で、でも! ィゼは、えるに操られてて。そんで……」
「とこちゃん。私はそんなことが聞きたいんじゃない。答えてほしいの」
殺して!
殺して!
殺して!
「ねえ? 聞こえてるんでしょ? 私の声」
「……ィゼ」
希望に満ちた別れ話。明日は踊りたくないから、今日にやるべき事を詰め込んで、あとは未来に丸投げしよう。
体温だけが生きている。
その内側は死んでいる。
暗闇の中で戍亥の爪だけが真っ白に光っていた。
美しいね。
キレイだね。
何本か、剥がれてるけど。
それでも十分、殺せるね。
「お願い……もうやめて……こわいよ、ィゼ……」
「じゃあ、とこちゃんには期待しない」
リゼは立ち上がる。
「ど、どこいくん?」
「私を殺してくれる人のところに行く」
「ま、待って!」
戍亥の指先は届かなかった。
戍亥がリゼを殺さないというならば、彼女は死にゆく親友の背中を見守ることしか許されていない。
リゼはリヴァネルに近づいて、
「どうか。私を殺してください」
深々と頭を下げた。
△△△
生きることを諦めた者にとって最高のご褒美は、光輝く『死』である。
死ぬことを怖いと思う人たちも多いだろう。しかし、実際は眠ることと大差ない。瞼が落ちてくるのを待っているだけでいいのだ。
リゼは、夜を求めている。冬のように冷え切った夜を。残された時間を捨てた先で、自由になりたいと願い続ける。
安全で、安心で、安息の地。
ずっと探していた夢の場所。
それが何処にあるかなんて考えるだけ無駄だった。意味すらなかった。えるに操られていた当時は自覚していなかっただけ。
名も知らぬエルフに答えた『頼れる国』というのは口から出たウソでしかない。自分には理想があり、それを自分に言い聞かせて自慢していただけの子供。夜になると一人でトイレにも行けなくなる、責任のない王様を目指していたのだ。
立派なことを言えば褒められるとでも思ったか?
そんな事はない。
国民は口先だけの愚王などいらない。死ねばいいと思っている。
結論から言えってしまえば、えるに操られて玉座に君臨していたあの姿こそ、リゼにとって自分の理想を体現した姿だったのかもしれない。
自分にしか興味がなく。他人のことなど暇つぶしの道具としか思っていない。
気に入らないモノは徹底的に排除し、脅かす存在がいれば蛇の寝床に放り込む。
希望は暗闇。
絶望は光明。
ヘルエスタ王国の歴史にリゼ・ヘルエスタという『王』は生まれてはいけなかった。
「本当にそれでいいのね?」
さっきまで自分たちを殺そうとしていた相手からの質問はリゼの予想を大きく外れて、優しい声音から発せられた。しかし、そんな事を聞く理由が何処にあるのだろう。目の前の幼い魔女からすれば、リゼたちの存在は邪魔でしかないはずなのに。
「どうして……そんなことを聞くんですか?」
「未練を断ち切っておくためよ」
「未練?」
リゼは顔を上げ、リヴァネルを見つめた。
ますます混乱してしまう。
別に、何かに執着しているわけではない。ただ、死ぬことを望んでいるだけだ。しかし、リヴァネルの問いはリゼに自問させるものだった。
この期に及んでまだ、自分には望んでいるものがあるというのか。
「未練なんてありません。早く……殺してください」
「残念だけどそう簡単に切り捨てていいような話じゃなくなったの。私は貴女の未練をここで断ち切っておかなくちゃいけない」
「意味が分かりません」
「考えなさい。貴女には悩むだけの時間をあげる」
リヴァネルが手を振れば、リゼは死ぬ。チャイカがリゼに託したモアの王冠はリヴァネルに移り、魔女は世界を上書きできるほどの力を得る。
それなのに───繰り返してきた簡単な作業を難しく感じる職人のように───そう簡単には人殺しはできないという。
「私は……王に相応しくない。例えこれから王様になったとしても、民を導いていける自信がありません」
「だから死にたいの?」
「それだけじゃありません。どうしてか分からないけど……。分からないけど、私はこれから……た、たくさんの人たちを殺すような気がするんです」
「……───」
「それがとにかく苦しくて。辛くて。この気持ちから早く解放されたいんです。だから、お願いします。私を殺してください」
「分かった」
リヴァネルが右手に魔方陣を浮かび上がらせる。
「本当にいいのね?」
「はい」
リゼがそう答えた直後、ひとつの足音が二人に近づいた。
「いいわけあるかぁーーーーーー!!!!!!」
絶叫と共に、リヴァネルの目の前でリゼはぶん殴られる。倒れたリゼの胸ぐらを掴んだのはアンジュ・カトリーナだった。




