ヘルエスタ王国物語(3)
レヴィ・エリファは医務室のベッドで目を覚ました。
花と薬品の混ざったにおいと見慣れた天井。
白いカーテンの向こうでは医療チームの騒ぐ音が聞こえてくる。
「そっか、今日も負けちゃったのか」
自覚した途端、レヴィは自分を責めてしまう。
起き上がれないほどの激痛に体をよじりながらも、期待に応えられなかったという情けなさが痛みを忘れさせる。
「気にしちゃダメだって。相手はヘルエスタ王国最強の騎士なんだから」
レヴィの嗚咽を遮ったのは、優しい表情を浮かべる白衣を着た女性───健屋花那はベッドに腰掛け、弱々しく震えるレヴィの手を取った。
「レヴィちゃんは良くやってる。ていうか、頑張りすぎかな」
「……健屋さん。でも、僕」
「大丈夫。一ヶ月前よりずっと成長してたって、レヴィちゃんをここに運んできた二人が言ってたもん。努力したんだね」
「うぅ……」
レヴィは健屋の手を握り返す。
彼女の優しさが苦手だ。
「僕……。ぼくぅ……」
レヴィが吹き出そうとしているものは甘えだった。
弱音を聞いてほしい。
抱きしめてほしい。
側にいてほしい。
心を持って生まれてきたからこそ、その恥ずかしさに囚われる。
ゆっくりと流れる無言の時間。
レヴィは溶かされていく。
いつのまにか涙が頬をつたった。
「価値を見せなきゃいけなくて」
自分は魔物と人間のハーフだから。
「捨てられちゃうかもしれなくて……」
「レヴィちゃんはヘルエスタ王国に来てどれくらい?」
「に、二年です」
「じゃあ、十二歳になるんだね。まだまだ子供だぁ、ふふ」
亜人と人間では肉体の成長速度が違う。
魔族や亜人といった種族は、過酷な環境に適応していくための副産物としてその異常な成長速度を手に入れた。レヴィも例外ではない。
そのことを知らず、勘違いした人間たちは彼女に期待する。
本来、小学生がどうこうできる問題ではないのだ。
見た目が大人というだけで、精神はまだまだ小学生レベル。
子供だ。
砂場でトンネルを作りたいし、我儘を言って困らせたい。
「子供じゃないもん。……ちゃんと、できる……もん」
うんうん、と頷く健屋。
「健屋さん、信じてないでしょ」
「それは───」
健屋がレヴィをからかおうとした瞬間、鎧の足音がカーテンを開ける。
「おーい、レヴィ。起きたのかー」
「あ、エクス」
右腕を包帯でぐるぐる巻きにされ、鼻にガーゼをくっつけた英雄。
「ケガは大丈夫なの?」
「オレも今、治療が終わってさ。一日安静にしてれば治るって」
「そうなんだ。良かった」
「もしかしてレヴィ、泣いてた?」
とっさに腕で涙を拭う。
「泣いていないよ、バカ」
「そっか、そっか」エクスは笑う。「それよりもさ! 聞いてくれよ。団長ってば手加減してくんねえんだぜ。まいっちゃうよ、ホント……」
「どうせあんたがヘンなこと言って焚きつけたんでしょ」
レヴィと二人っきりの時間を邪魔された健屋は内心穏やかではない。へらへらするな、もっと痛がれ、というのが彼女の本音だ。
肉も骨も吹き飛んで、鼻と肋骨も折れているのに、なぜ、平然と歩いているのか。
「フレン団長、マジ半端ないって。ちょっと本気になっただけでオレの腕、破裂したんだから」
二人は絶句する。
フレン団長に少しでも本気を出させた。それは自殺志願者と思われても仕方のない愚行である。だが、同時に納得もする。エクスの腕が斬り落とされたのではなく、爆発しただけでちゃんと繋がっているのは、おそらく慈悲によるものだろう。もし怒らせていれば、先日さよならしたワイバーンの背中に乗って、エクスは今頃天国に旅立っていただろう。
「あなたね……本当に何をやらかしたの」
「いやー。レヴィの仇を取ろうと思って挑んだんスけど、ダメでしたわ」
「そういうこと……。まあ、それならしょうがない……のかな?」
健屋はレヴィを見る。
「? 僕、生きてるけど」
レヴィは首をかしげた。
「あのね、レヴィちゃんがここに運ばれてきた時は、それはもう大騒ぎだったんだから」
レヴィにその自覚はない。団長と戦って死にかけた。
一ヶ月に一度の、いつも通りである。
「今回はとくに酷かったの。生きてるのが不思議なレベルで」
「そうだったんですか?」
実際、医務室に運ばれてきたレヴィは悲惨な状況だった。
腹に穴を開けられ、意識もない。
亜人である以上、治癒魔法による回復はかえって彼女の身体に毒を入れるようなもの。
加えて魔力も枯渇しており、肉体の再生も遅かった。
「こればっかりは亜人の生命力に感謝だね」と健屋が言う。
状況だけ見れば、エクスより危険だった。
治療を諦めて延命措置に切り替えていなければ、死んでいたかもしれない。
「もっと手加減してもらえないの? こんなのが続くようじゃいつか本当に死んじゃうよ」
「「うーん」」
エクスとレヴィは腕を組んで、眉間にしわを寄せる。
そして一つの結論を導きだした。
「「ムリですね!!!」」
「ああ、そう……」
△△△
「仕事がぁ! 見つかりませぇぇぇぇぇん!!!」
小野町亭のテーブルに突っ伏して嘆くアンジュ・スカーレットは、涙も枯らす現実に打ちのめされて、絶望の湯船につかっていた。
「ここに来てまだ四日目なんですからそう悲観しなくても……」
小野町春香に慰められ、アンジュはゆっくりと顔を上げる。
目の前にはおにぎりが置かれていた。食べる。涙の味がした。
ヘルエスタ王国に入国した一日目は順調だった。しかし、それ以降は全然ダメ。
二日目は国内の錬金ギルドを総当たりしたが、どこにも雇ってもらえず。三日目には冒険ギルドに足を運ぶも、役立たずだと追い払われた。
現状、旅館の若女将に頭を撫でてもらわないと平静を保てそうにない。
「でも、理不尽だと思うんです……。冒険ギルドはともかく、錬金ギルドにも総スカンくらうって。あたし、なんかやっちゃいました?」
「そうですね……。アンジュさんはこの国の生まれじゃないから……」
ヘルエスタ王国で商売をするためには、出身国の身分証が必要になる。
アンジュはこれまで森暮らしであったため、その身分を証明するものが一切ない。もし身分証がない者を雇ってしまうと、ヘルエスタ法に違反することになり、雇ったギルドそのものが消滅しかねない。
そこまでのリスクを背負って雇うメリットはどこにもないのだ。
必然、アンジュは無職になる。
「それってつまるところ、これから先も無職ってことですよね?」
「……はい。アンジュさんはこの先、一生、職に就くことはできません。自分で店を開こうにも身分証は必要ですから……。この国にいても未来は真っ暗です」
小野町の言葉がさらに現実を突き付けてくる。
アンジュは寒さを感じて、しおれたトマトみたいに青くなる。
「女将さんって思ったことを口にするタイプですか?」
「周りからはよく言われます。たまに、怖いって。私はそういうつもりは全然ないんですけど……。無意識のうちに傷つけてしまって、あはは」
どんよりとした空気がテーブルに集約する。
他の客たちもそれを察して二人には近づこうとしない。
そしてアンジュが急いで職を探すのには、安心と安定の他に、もうひとつ理由があった。
「このままだとレヴィさんにお金返せない」
そう、借金である。
しかし、無一文というわけではない。むしろ、使いきれないだけのお金をアンジュはポケットに忍ばせている。が、それは師匠から貰ったお金であり、そのお金は現在のヘルエスタ王国では使えなかったという話。
使用期限が切れた紙切れは、折り紙にしてコレクションするしかないのだ。
そして情けなくレヴィを頼ると、なんとびっくり、一ヶ月分の宿代を立て替えてくれた。
「レヴィさんに感謝ですね」
「頭上がりませんよ」
アンジュは知らない。自分が十二歳の少女に借金していることを。
雨が降りそうなテーブルに一人の少女が近く。
「うわっ、二人とも暗すぎだよ。そんな世界滅亡みたいな顔して───」
「りつきさぁーん」
桜凛月。旅館を建てる際に使用した桜の樹の妖精。
今では旅館のマスコット的な存在になって、旅館の手伝いをしている。
「ちょうど良かった。凛月、フミ様がどこにいるか知ってる?」
「ううん、知らない」旅館の壁に触れる。「今日は旅館にも来てないみたいだよ」
「そっか。頼みたいことがあったんだけど……」
瞬間、どろん、と。
「呼んだか、女将」
紅葉を舞わせて神が降り立つ。
巫女装束に羽衣を纏わせ、キツネ耳をぴょこぴょこと動かしながら、尻尾の毛並みを整える。その動作に一切の侮蔑はない。あるのは命を尊重する瞬きのみ。三人はただただ自然の生み出した神仏に心を奪われるばかりだった。
「ん? どうした。なにを惚けておる。妾に用があると言ったのはおぬしであろう」
小野町は言葉に詰まりながら、思ったことを口にする。
「えーっと、その……。フミ様はどこにいたのかなって」
「なんじゃ、そんなことが気になるのか? 変わった娘じゃの。まあ、よい。おぬしらにも関係あるやもしれぬからな。……場所を変えるぞ」
フミは、ぱん、と手を叩き、世界を廻して三人を白夜の世界に招待する。
昼も夜も、時間すらも曖昧になったその場所は、神だけが立ち入りを許された神域。
内緒話をするならこれ以上の環境はないだろう。
「さて、どこから話したものか」
連れてこられた三人は、フミの前で正座したまま動かない。
「ぬしらはここ数日、空に異変を感じたりしなかったか?」
「空ですか? これといって変わったところはないと思います。普通にいい天気ですよ」
「そうか……。ぬしらが分からぬということは、こっち側に近い者の仕業だな」
三人は黙って、次の言葉を待つ。
「妾が調べておったのは、空に展開されている巨大な魔法陣じゃ。その魔方陣はちょうどそこの赤髪の娘が旅館に来たタイミングで動きよった」
「え?」
アンジュは突拍子もない声を上げる。
まさか自分が指を差されるとは思ってもいなかったのだ。
「あのー、フミ様……」
「案ずるな、ぬしが関係ないことは分かっておる。今日までぬしの動向を見ておったしな。しかし、空に描かれたアレはあまりにも歪じゃ。元々そういう術式なのか、ただ完成していないのか。どちらにせよ、今すぐ害になることはないじゃろう」
質問をする前に答えが返ってくる。
フミから優し気な眼差しを向けられ、アンジュはよりいっそう身を縮ませた。
小野町が手を上げる。
「空にある魔法陣はどういう効果を持っているのですか? 分かっていることだけでも教えていただければ……」
彼女の身体から紫色の湯気がたつ。それは小さな不安からくるものだろう。おそらく空の魔法が自分たちの生活を脅かすものかどうかを気にしている。
神であるフミにもその感情は理解できた。
受け継がれてきた物語が自分の代で終わるという勝手な妄想。いつでも胸を締め殺そうと機会をうかがっている蛇。
百年、二百年、あるいは千年……頭の隅に座ったまま、消えることはない。
「防御魔法……というよりは、檻のようなものじゃ。発動したとしても何の意味もない。それに動いたのは一度だけじゃ。おぬしが気を減らす必要もなかろう」
ウソはない。今日まで世界中を飛び回り、フミはそう結論付けた。
しかし、懸念点もある───何故、何故、今になって動いたのじゃ。やはり紅髪の娘と関係があるのか? それとも別のナニか? どちらにせよ、探る必要はありそうじゃが。
フミはアンジュを見つめて、くすりと笑う。
慣れない正座でどうやら足が痺れているらしい。
「そもそもヘルエスタ王国の上空に魔法陣があるなんて知りませんでしたよ」
「ん? 何を言っておる凛月。ずっと世界中にあったではないか」
空に浮かぶ魔法陣はフミが目を覚ました五百年前には、すでに存在していた。
当時、そのことを凛月や他の誰かに教えた記憶はない。復活ほやほやの状態で話す相手がいなかったというのもあるが、自身には関係のないことだと決めつけ、フミはつい最近まで忘れていたのだ。
「それって酷くないですか!? ずっと一緒にいたのに。ちょっとくらい教えてくれてもいいでしょうが! それが出来なくても、せめて匂わせくらいして下さいよ」
五百年の付き合いに凛月は憤慨する。
フミは白夜を見上げ、やかましく吠える妖精をあしらう。
「次があれば真っ先にぬしらに報告するとしよう。さて、妾の話はこれで終わりじゃ。次は女将の話を聞こうかのう」
「私のですか?」
「妾に聞きたいことがあったのだろう? 申してみよ」
小野町は顎に人差し指を立てて思い出す。
「あ、そうだ。アンジュさんの身分証を作ってもらえるかお願いしたかったんです」
国の許可がなくても、神様の許可証ならどうにかできるだろう、と。
「それは出来ぬ」
「どうしてですか?」
「身分証を作ることなら簡単じゃが、その身分証は『紅髪の娘』のものにはならぬ」
小野町と凛月が首をかしげる。
「どういう意味ですか?」
「紅髪の娘なら、妾の言っておることが分かるであろう?」
「……はい」
アンジュは言葉を呑み込み、黙っていた。
しばらくして───。
「いつから気づいてたんですか……あたしが……その」
「喋るな」フミは言葉を遮る。「ぬしが生きていることに間違いはない。卑下することは妾が許さぬ。今は与えられた時間を存分楽しめ。以上だ」
「ありがとうございます、フミ様」
アンジュは無理矢理に笑顔を作る。
神様は一度だって『アンジュ』という名前で自分を呼ばなかった。
ただ、『紅髪の娘』とだけ。
それはフミからの尊重であり、礼儀でもある。
この世に生まれたものは、皆等しく美しいものである、と。
「さて、話は終わりだな。ぬしらを旅館に送ろう」
「「「え?」」」
ぱん、とフミは手を叩く。
またぐにゃりと歪む視界。三人は旅館へと飛ばされ、後にはフミだけが残る。
そして、一言。
「あ、間違えた」