ヘルエスタ王国物語(22)
ティアラが破壊されたことで氷の粒子が宙を舞った。
レイナの意識が離れたことで、リゼの身体は重力に逆らうことなく床に叩きつけられる───寸前で戍亥はリゼを受け止めた。
「リゼ! リゼ!」
「う、うぅん……とこちゃん?」
「せや、迎えに来たよ」
「えへへ、とこちゃんだぁ……」
リゼは寝言のような声を戍亥に聞かせると、またすぐに意識を失った。
「……ィゼ」
親友から名前を読んでもらえた、それだけで安心と幸せが胸いっぱいに広がる。
自分の親友を間違いなく取り戻した。もう彼女の眠りを不安に思うことはない。小さく寝息を立てる少女の頬に大粒の涙が落ちた。耳に聞こえてくる嗚咽は自分のモノだった。このまま気持ちが落ち着くまで泣いていよう。
奇跡を越える戦いは終わり、ようやく日常に帰ることが出来る。
ぽた、とまた涙が落ちた。
ぽた、ぽた、と。
戍亥の涙に混ざって異音が続く。
正確には、涙と同じ音を立てているナニか───振り返る。
「アンジュ?」
人形の胸が真っ赤に膨らんでいた。
いくら断崖絶壁でまた板のような胸でも、いきなり胸の中心が山のように膨れ上がれば誰だって違和感を覚える。小さければ小さいだけ需要があるんだよ、と口から血反吐を吐いているアンジュを励ますべきだろうか。それともアンジュの顔は、実は胸だったとか。だってそうじゃないとおかしいもん。
……戦いは終わったんだ。血が床に落ちる理由なんてない。
戍亥の肝を冷やすように寒波が到来した。
王の間は絶対零度の空間から元に戻ったのに、ゆっくりと血の気が引いていく。
「アンちゃん、最後に言い残すことはある?」
リヴァネルが尋ねた。
虫の息になりながら、アンジュが答える。
「手紙、書けなくて、ごめんなさい。……師匠」
「それはちょっとショックだけど。でも、些細なことよ。アンちゃんはそれ以上のことをやってくれた。───ありがとう。さようなら」
膨らんでいた胸が元に戻る。アンジュが倒れると床に赤い花が咲いた。
リヴァネルは自分の手に着いた血を丁寧にふき取ると、戍亥とリゼに視線を定める。
「どっちから死ぬ?」
戍亥はその質問には答えられなかった。
かわりに変な声が喉をついて出た。
アンジュが死ぬのを眺めるのはこれで二度目だった。
「それとも先に自己紹介からした方がいいかしら?」
「……───」
戍亥の白くなった顔は意思を捨てて、寒さに怯えるだけの子犬に成り下がる。
「初めまして戍亥とこちゃん。私の名はリヴァネル。リヴァネル・モア・スカーレット。この国の初代女王。他の人からは滅びの魔女なんて呼ばれているわ」
赤子を慰めるような囁きと一緒に、優しさとは無縁の手が伸びてくる。
受け入れてしまえば間違いなく死ぬだろう。しかし、悪いことばかりじゃない。少なくとも川を渡った先の向こうで自分たち三人は再会することが出来る。
ここで死を選んでも誰も自分を責めない。
魔女の手が頭に触れる。
瞬間だった。
───リゼを、守って。
アンジュの声が耳に届く。戍亥はありったけの闘志を漲らせ、リヴァネルを黒炎で牽制しつつ、リゼを抱えて一目散に窓から飛び出す。
「まだ、諦めないのね」
△△△
屋根から屋根へ飛び移りながら、戍亥は騎士団の訓練場に着地する。体力も限界に近いのにどうして動けているか分からない。とにかく、四方八方から聞こえてくる魔物の声が一番少ない方に向かってひた走る。
魔物相手に後れを取るつもりはないが、リゼを抱えてどこまで立ち回れるか不安だ。今の体力を鑑みてもこのまま戦い続ける、というのは厳しい。
だが、人にはクセというものある。
それは日常的に自分が居心地の良いと思った行動として無意識に現れる。切羽詰まった時、いつも通り行動できるよう準備しておくのだ。
魔物の声が多かろうが少なかろうが関係ない。
思考が働かなかったことで、彼女が正門を目指すのは必然だろう。
「どこに行くんだ?」
風のような声が聞こえ、戍亥の首が空に飛ぶ。
「ケルベロスは首を落としても死なないのか」
訝しげな表情を浮かべるフレン・E・ルスタリオ。彼女の目の前には小さな人形が落ちているだけだった。
人形の首と胴が離れている。
「ケン、ごめんな。あとでちゃんと生き返らせる」
落ちた半身に向かって謝る戍亥。
フレンは何のことか分からない。が、すぐにケルベロスには三つの首があるのを思い起こし、どうして殺せなかったのかその訳を理解する。
「あと二回。首を落とせばお前は死ぬのか?」
そう呟くフレン。
最悪。
一番鉢合わせたくない相手と鉢合わせてしまった。
「……おレン」
「リゼ様を置いて下がれ、戍亥とこ」
「そのお願いだけは聞けへんな」
自然、リゼを抱きしめる手にも力が入る。
フレンはそれを敵対行動として認識した。
「今度は心臓を貫いたと思ったが……またか」
フレンの剣に胸を突き刺された人形が、キーホルダーのようにぶら下がっていた。戍亥のほうはバンが身代わりになったことで事なきを得る。
これで、残っている首は一つだけになった。
「ハァ……ハァ……」
さっきまで戦っていたレイナの非じゃない。自分とフレンの間には生物のスペックだけでは到底覆せない絶対的な実力差があった。右に抜けるか、左に躱すか。戍亥がどう動いてもフレンは後出しでこちらの首を狩りにくる。
戍亥はこのたった数秒の攻防で、自分の立場を理解させられたのだ。
「首以外の代わりにもなれるんだな」
次はない、と騎士団長が冷徹に告げる。
戍亥は震えて……、
「お願い。今だけは……」
耳を、尻尾を落として、情けなく懇願する。
フレンはその無様さに落胆することはあっても、嘲笑することはしない。彼女がリゼを抱きしめている、それはレイナとの約束が果たされたことを意味している。
フレンがリゼを守ろうとしていたのはレイナからのお願いだったからだ。決して自分の意思でリゼを守ろうと決めていた訳ではない。命令を下した相手が次の騎士に託したというならフレンがリゼを守る理由はもうないだろう。
「……───」
縛るものがなくなった以上、本来の目的に戻るべきだ。
かつてコーヴァスを襲った魔女を探しに───フレンは、顔を上げる。
「……───」
その呟きはフレンの意識を飛ばし、破壊された王の間に向けて跳躍した。
「お願いします。どうか、どうかぁ……」
戍亥は必死に媚を売る。
彼女が次に顔を上げた時、フレン・E・ルスタリオはどこにもいなかった。
いなくなっていた。
動く気配も感じさせず、いつの間にか風のように去っていた。
理不尽が消えた代わりに、戍亥の耳には別の脅威が舞い込んでくる。歪み、軋む、扉の音。後に続いて大地を叩く巨人。北門が魔物たちよって破壊され、濁流のように足音が押し寄せてきているのだ。
「おい、大丈夫か!?」
正門の前にうずくまる戍亥に、舞元啓介が駆け寄る。
声を掛けた相手が戍亥とこだと分かって、舞元はちょっと怖がった後に傷だらけの彼女に近づいた。
「アンタ、ええ人やね」
「そんなことより、オレはお前らの方が心配だ。傷だらけで……何があったんだ?」
舞元は周りを見渡す。魔物の爪痕がないのを確認すると、ますます彼女の傷が不思議だった。胸と首の辺りから血が滲んでいる。黒い着物の上からでは分かりにくいが、戍亥の状態を見るにかなり深いものだろう。
「急いでどっかに隠れよう。もうすぐ魔物の群れが───」
「安全な場所知ってんの?」
弱々しい声が舞元の袖を引っ張る。
「もし知ってんねやったら……この子を連れて、逃げてほしい」
「この子? この子って……えっ!? リゼ様!」
「知ってんの? 知らんの? どっちか答えて、はよ!」
急かす戍亥の気迫に、舞元はたじろぐ。
「あ、ああ、知ってる。知ってるけど……」
「けど?」
「小野町亭っていう店があってだな。実はその店、北門の方にあるんだ。今は魔物が押し寄せてきて、オレも店には戻れない。だから地下に逃げるしかなくて……」
「どうしてここにいんのか聞いても?」
「は、畑が心配で……様子を見に行ったらこんな時間に……」
仕事熱心なのは良いことだが、魔物がヘルエスタ王国を襲っている状況で畑が気になって外に出てきたというのは、理由としてどうなんだろう。
戍亥は舞元を見つめる。
信頼は出来る。彼は嘘をついていない。外に出た理由は友達を探すという目的もあったようだが、それはあまり心配していないみたいだった。
戍亥は立ち上がり、舞元にリゼを預ける。
「はよ、アンタは地下に行って。リゼをよろしく」
「断言はできないな。オレも魔物に襲われるかもしれない」
「大丈夫や。魔物の相手はウチがする。だから安心して逃げたらええ」
「分かった!」
遠くなっていく声があった。
振り返れば、無防備な背中を見せて貧民街の方に走っていく舞元がいる。少しぐらい傷だらけの少女を心配しろよ。と、彼のその行動に薄情者のレッテルを張ろうとする輩もいるかもしれない。が、舞元の行動はケルベロスを全面的に信頼しているからこそのものだ。決して魔物よりケルベロスの方が怖いだろとか思ってない。
「三人とも生きてたら小野町亭に集合な───!」
舞元の反応は、空いている片手を振るだけだった。
今はそれで十分。
「ほんま───」
戍亥はくすりと笑って北門に足を向ける。
魔物はレイナやフレンといった理不尽が具現化したような奴らとは違う。ただ数が多いだけの倒せる相手だ。負ける要素はない。
「なんか気持ちええな」
だんだんと近づいてくる地響きが子守歌のようになって戍亥の心を癒す。
しばらくして、彼女は魔物の群れとぶつかった。




