ヘルエスタ王国物語(21)
ヘルエスタ王国の人口は約九十万人程である。
これはウル・モアによって滅ぼされた四十六の国から、なんとか生き延びた者たちをかき集めた結果だった。つまるところ、この星の全人口といっても過言ではない。
その中でも戦える人間は少数だ。
一方、魔物たちは人口が減ったことによって棲みかを拡大させていた。人の脅威がなくなったことで豊かな自然を取り戻し、自由に獣の本能を解放できる環境は彼らにとってまさに天国のような場所だった。
「頑張って走ってきましたよー。ホント人使い荒いんだから」
愚痴をこぼす、絹のような髪を灰色に染めた少女───栞葉るりもまた、警備隊の一員。彼女は魔物の侵攻が始まってすぐ、一人マラソン大会という悲しい種目をやってくるよう上司に命令されていた。
「まずは報告からだ。他のところはどうなってる?」
肩で息をする少女に、ローレン・イロアスは涼しい顔で質問する。
「もっと褒めてください。頑張ったんですよ」
労いの言葉を求める栞葉に対し、ローレンは彼女の気持ちを合えて汲み取らない。
「お前の頑張りなんてどうでもいい。ていうか、お前よりも俺のほうが頑張ってる。俺を褒めろ、栞葉」
「キモ」
人懐っこそうに見える垂れ耳犬から貰うシンプルな罵倒。
心に余裕のあるローレンだからこそ、ここは大人の対応で魅せるしかない。
「お前の次の転職先はボクサーに決定な」
「それ、パワハラですよ」
「うるせぇ、うるせぇ。さっさと報告しろ」
「……はぁ」
上司相手に自由奔放さを発揮する栞葉だが、良家のお嬢様が故にローレンも口に出して注意することはできない。
貴族である彼女を刺激すれば、ローレンの首など遥か彼方に吹き飛んでしまう。だから、栞葉のため息、あきれ顔のダブルパンチをくらっても、サンドバックのように受け止めるしかないのだ。
「出来ることなら騎士団がいいです」
「……お前、死にてぇのか?」
「?」
騎士団の訓練内容を知っているローレンからのささやかな気遣い。
栞葉は気づかない。
彼女が警備隊に入った経緯は、騎士団の入団テストに受からなかったからだ。親の七光りを浴びせても、フレンは実力のない者を騎士団には入れない。そもそも志望動機が、正義の名の下に街の平和を守ります、という警備隊よりのものだった。
加えて、リゼ・ヘルエスタに近づきたいという邪よりの健全な感情も持ち合わせている。言葉を濁さず伝えるならば、リゼ信者、崇拝者というべきだろう。
───リゼ様、最高! 天使! 悪魔!
あったかいご飯食べて、ふかふかな布団に入って、規則正しい生活をできるだけして、あんまり悩みごととかないように楽しく生きて、できるだけ長く女王様でいてほしい、というのが栞葉るりの願いである。
「てか、時間ねえだよこっちは! それにだ。魔物が門を破ってきたら、お前の家族もどうなるか分かんねえんだぞ」
「家族なら地下に避難してます」
「あっ、そう!」
しぶしぶ、と栞葉が報告を始める。
「ヘルエスタ王国を周った限り、東は騎士団の方たちが戻ってきて守ってくれています。ローレンさんが気にしていた西側も教会の人たちが頑張ってるみたいです」
「じゃあ、俺たちは南門を死守すればいいわけか。待て、北はどうなってる?」
「犬みたいに命令しないでくれます? わたくし、そんなお利口さんじゃありません」
犬だろうが、とローレンは口をついて出そうになった。
ここは我慢だ。
「いいから……教えろ」
「北は問題ありません。平和です」
は? と拍子抜けした声が漏れる。
一番最初に突破されるのは北門だとばかり思っていたが、平和?
「理由は?」
「分かりません。魔物の声も少なかったです。今のヘルエスタ王国では一番安全な場所かもしれませんね。あとは───」
栞葉の声を遮って、警備隊の一人が割って入る。
「隊長! ミランが倒れて門の修復が間に合いません」
「叩き起こせ」
続いて、
「隊長! バーサーカーが魔物の群れに突っ込んでいきました」
「あのバカ! 栞葉ぁ、呼び戻してこい」
「えぇ……分かりました」
栞葉は、魔物の群れから血しぶきが上がっている場所を探す。立伝都々がいるとすれば、おそらくそこだ。
右前方で噴水を見つけると───向かおう、とする栞葉をローレンが呼び止める。
「そういえばさっき何か言いかけただろ」
ああ、と栞葉は相槌をうって。
「騎士団に同行していた健屋さんからお話があるって」
「その内容は?」
「教えてもらえませんでした。詳細は隊長に会って直接話すって、頑なに言われましたね。あ、ちょうど来たみたいですよ」
振り返ったローレンの前で、健屋を抱きかかえた騎士が敬礼する。
健屋は小鹿みたいに立ち上がると、ローレンに顔を近づけて言った。
「大変なの! レヴィちゃんが───!」
説明を聞き終えてから納得できるまで、三十秒ほど。
「つまり、この魔物の侵攻はレヴィが原因だってことか?」
「エクスが何とかしようとしてるけど……その……」
「期待するだけ無駄だな。……よし、帰ってきた騎士団はそのまま東門を守れ。エクスとレヴィが戻ってきたら改めて報告しろ」
「了解!」
騎士は背を向け、来た道を戻っていく。
「健屋は地下に避難を。ここは危ないからな」
「そうね。そうするしかなさそう……。最後にフレン団長がどこにいるか知らない? 私らより先に戻ってきてるハズなんだけど」
△△△
レイナ・ヘルエスタがまず最初に、この世界から排除しようと試みたのは戍亥とこ……ではなく、アンジュ・スカーレットの方だった。
「さようなら、アンちゃん」
氷の剣がアンジュの首を取るために振るわれる。
「───ほんま!」
間一髪のところで戍亥の爪が剣を弾き、アンジュを抱えて距離を取る。
「いい加減……弱い者いじめはやめて欲しいんやけど」
「戦いの切り札になるモノは先に潰しておかないと、後が困るでしょ? それにほら、私の弱点も教えたじゃない」
戍亥はリゼが頭に被っているティアラを睨む。
「確かにアンタは親切にも弱点を教えてくれた。けど、アンジュを狙うのは違うやろ。戦ってるのはアタシなんやし」
「だって、とこちゃん。弱いんだもん」
冷ややかに笑うレイナ。
「……どういう意味や」
「とこちゃんはどう頑張っても私を倒せない。けど、アンちゃんなら私を倒せる可能性がある。これってとこちゃんが弱いってことでしょ?」
悔しいが言い返せない。
この戦いが始まってすぐ、アンジュは『星』を重ねて創った魔弾をティアラに打ち込んでいる。魔弾は龍によって防がれてしまったが、たったそれだけで龍とレイナはアンジュを自分たちにとって脅威だと認識した。
ティアラは奇跡以外を跳ね返す、絶対的な守護の恩恵を持っている。
魔弾以外ではティアラを破壊することが出来ないと言っているようなものだ。
現状の戍亥には、何も……招き猫のマネでもして、奇跡が降りてくるのを待つぐらいしかやることがない。
「戍亥、ごめん。眠い」
「なに言うてん───」
ぐったりとするアンジュを心配して、レイナから視線を外す。その隙を縫うようにして龍が戍亥の腹に喰らいつき、柱に叩きつける。
レイナは床に落ちたアンジュに近づき、止めを刺そうと剣を掲げた。
「まさか、アンちゃん……もう死んでたりする?」
返事はない。死んではいないだろう。が、息はしていない。
レイナは剣をアンジュの胸に置き、そこから伝わってくる振動を確かめる。
「心臓は───まだ動いてるわね。止まりかけてるけど」
よくよく観察してみれば、先ほどまでアンジュの左手首にあった『金星』の腕輪がなくなっている。戍亥のほうも『木星』の腕輪が消えていた。
それが意味するところは、奇跡の打ち止め。アンジュ・スカーレットにはもう『星』の錬金術を使うだけの未来が残されていない。
「残念だけど。ここまでね」
「まだや! まだウチは諦めてへん!」
咆哮する戍亥を見て、レイナはため息を吐く。
「とこちゃん……貴方にとってリゼがどれくらい大切なのか知ってる。だけど、ごめんなさい、無理なの。貴方にリゼは救えない」
「そんなのアンタが勝手に決めつけてるだけや! ウチは今度こそリゼを救ってみせる! 独りでも、必ず!」
「受け入れられないのもよく分かる。私もそういう時は落ち込んだ。……それに、とこちゃんにはこれからもリゼの友達でいてほしいと思うもの」
「だったら───」
邪魔をするな、と戍亥が言いかけたところで、レイナが語気を強める。
「もう一度言うわね、とこちゃん。貴方にリゼは救えない。何故なら貴方は、リゼを殺すためにここにいるんだから」
遠くから金属が打ち合うような音をアンジュは夢の中で聞いていた。
「違う! ウチはリゼを……」
誰の声だっただろう。昔、似ている声を聞いたような気がする。
「諦めて帰りなさい。今ならまだ見逃してあげる」
少しだけ目に痛いような火花が散った。キレイだった。
また夢の中に意識が進んでいく。先にはとっても暖かくて、今日まで自分が感じていた美しいもので溢れている。
「子供みたいに駄々をこねないで……」
「うるさい!」
身体を起こそうとしても上手くいかない。
やがて音も聞こえなくなり、アンジュは心臓に意識を傾けた。
人形の自分には必要のない機能だったとしても、この太鼓のリズムを聞いているだけで自分の存在が人間になっていくような感じがする。
だけど、それはやっぱり錯覚で、自分はただの人形だった。
───あれ? 何をしようとしてしてたんだっけ?
思い出せないってことは忘れても良いことだったのかな。
きっとそうだ。今はのんびりとしていよう。
凍っていくアンジュの顔に薄っすらと微笑みが浮かんだ。アンジュはまた一歩、夢の中に向かって進んでいく。
「───っ!」
「……───」
大きく心臓が跳ねた。
それはゆっくりと加速して『金星』の腕輪をアンジュの左手に浮かばせる。
「さ、寒い……」
小さな呟きは戦っている二人には聞こえない。
急に戻って来た感覚に戸惑いつつも、アンジュ・スカーレットは思考を巡らせる。自分の奇跡は使い切ったハズだ。なのにどうして『星』の錬金術を使えているのだろう。
また、心臓が跳ねる。
「そっか……助けてくれるんだ」
声は聞こえない。
しかし、確かにそこにいる───あたしに思い出をくれた貴方がようやく、同じ気持ちになってくれた。
「温かいなー」
極寒の環境に身体が適応しはじめただけじゃない。これまで以上の繋がりを感じる。
実際、人の魂がどこにあるかなんて分からないし、人形に魂が必要あるかなんて分からない。でもなんとなく心臓の辺りに手を置いて、ここにいるんじゃないかって思う。
「助けたいよね」
ドクン、と心臓が大きく頷く。
アンジュ・カトリーナはリゼを救えなかったことをずっと気に病んでいた。
準備不足か?
力不足か?
頭の中で助けに行かない自分を責めるように、繰り返して、緊張して、いつの間にか塞ぎ込んでしまってただけ。
優柔不断で苦しみ続けている彼女だけど。
自分が死ぬことを何とも思わない彼女だけど。
友達よりも長生きしたいとか言ってる彼女だけど。
変態で面白くてどうしようもない彼女だけど。
───それでもただの一度だって逃げたことはない。
「行こう、アンジュ。二人が待ってる」
レイナは息をのんだ。アンジュが立ち上がったことも不思議なことだが、それよりも彼女が平然と奇跡を宿していることに驚きを禁じ得ない。
まさに予想を遥かに上回る奇跡が目の間にある。
アンジュは右手に『星』の魔法陣を浮かばせ、左手に『星』の錬成陣を描く。そして手を叩くようにして二つの『星』を重ね合わせた。
二つの『星』が完全に重なったことで創造される魔弾。
その脅威にレイナは笑みを浮かべる。自分たちが諦めてしまったものを見つけてきた少女に感謝の意を込めて、拍手を贈ろう。
「貴方たちがリゼの友達で本当に良かった」
龍を呼び戻し、レイナはアンジュに集中する。
この日をどれだけ待ち望んだことか。計画通りにはいかなかった、けれど、結果として最高のモノを手に入れることが出来た。
奇妙な充足感に満たされながら、レイナは口を結ぶ。
ここからはモアの王冠に込めた自分の願いを全力でぶつける。越えられなければ、もう一度、奇跡を待つしかなくなるが……それはないだろう。
目の前の少女はとっくに───。
今日まで『星』が重ならなかったのは、アンジュ・カトリーナが救うことに疑念を持っていたからだ。アンジュ・スカーレットはリゼを助けたいと強く願い、アンジュ・カトリーナは本当にそんなこと出来るのだろうかと思い続けていた。
この二つの認識の違い。だが、二つの魂は目標を定めた。
頭上に浮かぶのは、奇跡を越えた奇跡。
メビウスの輪は重り、生命の樹が誕生する。
「レタ・セ・モア」
レイナが王命を紡ぐ。
アンジュたちはレイナに指先を向けた。
そして、
「───バン」
子供が遊ぶような軽い声とともに、指先から『星』の魔弾が打ち出される。それは王命の光を割り、主人を守ろうとした龍を砕き、リゼの頭に置かれた偽りの王冠を完膚なきまでに破壊した。




