ヘルエスタ王国物語(12)
加賀美ハヤトが処刑されたその日の夜。
花畑チャイカは全身を布で覆い隠し、城内に侵入していた。
最近はヘルエスタ王国周辺の魔物たちが活発になっていることもあり、いつもなら腐るほど溢れかえっている警備隊の影も薄い。しかし、チャイカはそれでも細心の注意を払った。エルフの秘宝の一つである透明マントを羽織り、警備隊の横を悠然と抜けていく。
チャイカの目的は、リゼに会うこと。それだけだった。
それ以外は二の次だ。加賀美の処刑も恨んではいない。彼は最後まで自分の言葉で戦ったのだから。人間にしては美しい散り様だったと言わざるをえない。
だが、チャイカは彼の遺した言葉の真意を確かめねばならないのだ。
「一族を皆殺し、か」
本音をいうならチャイカはこの城に来たくなかった。
嫌でもかつてのヘルエスタ城と重ねてしまう。
聖樹によって作り出され、緑に溢れた美しい城。季節によって大小様々な果実が実り、歌う妖精たちの声で目を覚ます。
エルフたちは日々、魔法の鍛錬で汗をかき、時には魔法で遊んでいた。
それが当たり前だったハズだ。なのに、今のヘルエスタ城はチャイカの思い描く情景と食い違っている。
花の香り、樹木の温かさなど微塵も感じられない。
冷たい石に囲まれただけの貧相な城。
「まるで人間の城だな……」
王の間へと続く扉に触れ、チャイカは歯を鳴らす。
加賀美が処刑される寸前に言い放った言葉はヘルエスタ王国のトレンドだ。一族は病死ではなく、リゼ・ヘルエスタの手によって殺された。貧民街に毒を撒き、そこに住む民を焼き殺した───嘘か、真か。そんなことはどうでもいい。民に信頼されていた加賀美の言葉だからこそ、その火は今も燃え広がっている。
信じたくなどない。しかし、千年前の王として確かめねばならないのだ。
チャイカの姉であるウィスティリア・ヘルエスタの孫娘───リゼ・ヘルエスタ。同じ血が流れているエルフの王として、リゼが暴君になることは末代までの恥だ。決して許すことは出来ない。
自身の両目で確かめ、もしも彼女が悪道を進むというならば殺すこともいとわない。
憤然とした思いでチャイカは扉を開けた。
ついに中に入り、チャイカはステンドグラスの向こう側から差し込む月明りに照らされ、リゼの前まで進む。
「聞こえるか、リゼ」
「……───」
返事はない。
「どうした? なぜ何も答えない」
「……───」
チャイカは顔を近づけ、リゼの顔を覗く。
「姉様と同じ……紫紺の瞳か」
瞬間、バラの矢がチャイカを襲う。
チャイカは身をひるがえし矢をかわすも、次々に放たれるバラは床に根を張り、チャイカ目掛けてその棘を飛ばす。
「チッ!」
百を超える棘を避けきれるわけもなく、それはチャイカの全身をかすめた。
致命傷を避けつつ、矢が飛んできた方へ視線を向ける。しかし、いくら探しても敵の姿を捉えることは出来なかった。
石柱の影に隠れ、チャイカは次の攻撃に身構える。が、柱の隙間から顔を出しても相手から仕掛けてくる様子はない。
「……十分ということか」
ぽつり、と呟きチャイカは自分の身体を見つめる───傷は浅い。軽い出血もある。問題は全身がゆっくり痺れていくこの感覚。
「毒か」
「ご名答」
聞こえてきたのは聞き馴染みのある同胞の、えるの声だ。
「その毒はいずれあなたの心臓を止める。もう攻撃する必要はないということです」
「残念だが、その毒は今のオレには意味がないぞ」
「……どういうことでしょう。これはエルフにしか作れない特別な」
「睡蓮の毒。そうだろ? える」
えるは息を殺し、相手の言葉を待つ。
しかし、返ってきたのは意外な答えだった。
「どうした? たった千年でもう俺の声を忘れたのか?」
「千年……ですって?」
反射的に声を出してしまった。えるは唖然と、構えていた弓からも力を抜く。「ありえない」と繰り返し、頭の中で否定しているにも関わらず、千年という月日の重さが彼女を動揺させ、思考を遅らせる。
確かに、相手の声に懐かしさを感じたことは事実だ。が、そんな魔法はいくらでも存在する。哀愁という幻覚で獲物を釣りあげるのは下賤な人間の手口であり、美しく高貴な存在であるエルフのやり方では断じてない。
「どこのネズミかは存じ上げませんが。嘘を吐くならもっとましなものにしなさい。千年前の友人など……えるにはもう」
涙を飲んで、
「わたし以外のエルフもう……クソ人間共に全滅させられたのですから」えるは言った。
「そうか。では、名乗ろう」
チャイカは胸を張り、柱の影から飛び出した。
「我が名はチャイカ・モア・ヘルエスタ。千年前に滅んだヘルエスタ王国の一二三代目皇帝にして! エルフ最後の王である!」
フードを脱ぎ捨て、王の間の中央で高らかに名乗りを上げる。
威厳に満ち、屈託のない笑みを浮かべ、我が物顔で仁王立ちするチャイカの、その堂々たる姿はまるで戦場に立つ戦士そのものだ。
幻覚ではない。
王の気品……そしてチャイカの全身から漲らせる闘志を、ただの幻覚と断ずるにはあまりにも失礼だといえる。
「どうしたんだ、える。早く姿を見せてくれ」
気持ちよく王の間に名を響かせたことで、チャイカはますますえるの顔を見るのが楽しみになった。
肌も三百歳は若返った気がする。
ツヤツヤだぁ。
自分以外のエルフが死んだと思っていた彼女にとって、チャイカとの再会は宇宙よりも大きい喜びでむせび泣き、脱水症状を引き起こしてもなおかしくないほど感動に満ち溢れたものになるだろう。
これには流石のえるもびっくりして腰を抜かしているだろうな、とチャイカは内心ほくそ笑む。
しんとした空間。
それからしばらくして姿を見せたえるの口から、チャイカは辛辣な言葉をもらう。
「どちら様ですか?」
「いや! オレだよ、オレ。チャイカだよ!」
「その言い方……テンプレ化した詐欺師の手口ですね。やはり偽物……」
「そんなに詐欺師っぽいかな……」
「えるの知っているチャイカ様はもっと可愛げのあるショタっ子美少年でした。こんな筋肉ムキムキ達磨のマッチョじゃありません!」
「鍛えたんだからしょうがないじゃないか! それに見ろこの筋肉。オレの男前がレベルがさらに上がったと思わないかぁ?」
「思いません」えるは鼻で笑って。「思いません」
「二回も言うな……流石のオレでも傷つくぞ」
チャイカの思い描いていた花やかな再会は、場所が悪かったのか? タイミングが悪かったのか? それとも時間を空け過ぎていたせいなのか? ありえないほどロマンチックじゃない幕開けになったのだった。
「もし仮に! あなたがチャイカ様だとするにしても。まずはその無駄な筋肉をそぎ落としてから会いに来てほしかったですよ! そんな姿……美しいエルフのイメージがとんでもなくことに……うぅ」
えるは手に持ったハンカチで口元を隠す。
チャイカの筋肉は慟哭した。
「別にいいだろう! オレの相棒を悪く言うな。傷つくぞ。オレが!」
「それはこっちのセリフです! えるの傷ついた心をどうしてくれるんですか!」
「知ったことか! まずはオレに謝れ」
「あなたっていつもそうですよね! 上から目線でえるに命令してばっかり! そんなんだから裏でバカ王子なんて呼ばれるんですよ」
「それは初耳だが?」
「えー、知らなかったんですかぁ? ぷー、くすくす。哀れですね」
「お前がその気ならいいだろう。オレも千年溜まったうっぷんをここでぶちまけてやるからな!」
「いいでしょう。偽物のチャイカ様にこの際とことん愚痴に付き合ってもらいます」
「だから偽物じゃないの! ホントの、ホントに、ホントに、ホントに、チャイカなの!」
何も考えないで口から出る言葉を雪合戦のごとく投げ合う二人。その会話は三十分ほど続いたのだった。
「ゼェ……、ゼェ……」
「はぁ……、はぁ……」
「も、もういいだろ。いい加減オレがチャイカだって認めてくれよ。じゃないと話が一向に進まん」
「ぐぬぬぬぬ。認めたくありませんが……認めたくありませんが! これまでの会話の内容からあなたがチャイカ様であることを認めざるをえません……」
「だから何で二回言うの」
子供のようにいじけるチャイカはがっくりと肩を落とす。
「それでは、あらためて」えるは言った。「お帰りなさいませ、チャイカ様」
えるの柔らかい眼差しに、チャイカは思わず顔をそらす。
先ほどの予期せぬ会話で忘れかけていたが、えるはこの世に二人といない絶世の美女である。その美貌は男女関係なく魅了してしまうほどだ。そんな彼女が頬を赤らめ磨き上げられた所作で自分の帰りを心から喜んでくれている。
「なんか……照れくさいな」
「えるは相変わらずキレイでしょう?」花のように笑う。
「自分で言うな。褒めづらいだろ」
「チャイカ様が女性を褒めるなんて……そんな器用なこと出来るわけないじゃないですか。やっぱり偽物」
「お前のそういうところも昔から全然変わってないみたいで安心するよ」
「そうでしょう、そうでしょう。もっと褒めてください」
「褒めてないわ!」
「それでチャイカ様。話というのは───」
えるに見つめられ、チャイカは慌てて腕を組んだ。
眉間にしわを寄せ、身体をあっちこっちに傾ける。チャイカの予定としては、リゼの様子を見るだけにとどめ、自分はそそくさと撤収するつもりだったのだ。
ここでえるに会うことは想定していない。
「あのー、チャイカ様?」
いつまでも返事をしないチャイカを心配したえるは、きょとんと首を傾げる。
「すまない……話っていうのはリゼのことだ」
「リゼ様がどうかしました?」
「なんとなく姉様の面影があると思ってな」
銀色の髪に紫紺の瞳。それは紛れもなく王家の血を証明している。だが、今の彼女が王の椅子に相応しいかどうかハッキリと断言することはできない。
加賀美の───友の言葉がチャイカの目を曇らせていた。
その横で、
「チャイカ様、今の言葉は取り消したほうがよろしいかと」
えるは低く怒気を含んだ声でチャイカを威圧する。
「……どういう意味だ?」
「あの娘に王家の血が流れていることは確かです。ですが、彼女にウィスティリア様ほどの力はありません。人間の血が混じったことで大幅に劣化しています」
「オレはそういうことを言ってるんじゃ……」
「国を守る力がない王を、王と認めるわけにはいかない」
「だから何を言って……」
「それに───」えるが笑う。「チャイカ様が戻られた今ならもう一度エルフの国を作ることも可能でしょう。弱い王など必要ありません」
そう言うとえるは弓を引き、リゼに向けて矢を放った。
しかしその矢は、リゼに届く前に消滅する。
「おい! 何をしてる!?」
「リゼ様を殺そうかと」
「なん……だと……」
平然とした表情で答える彼女は、チャイカの焦りなど意に介さず、猫のように淡々と弓を構えた。
「やめろ!」
チャイカは矢が放たれる寸前でえるから弓を取り上げ、へし折る。
「える! お前は自分が何をやろうとしているのか分かっているのか!?」
「分かっていますよ。チャイカ様こそどうして邪魔をするんです?」
殺すことが当然であるかのような……萎れ、腐敗した感情がえるの瞳の中で渦巻いている。チャイカはそこでようやく、彼女と自分の会話が噛み合っていない違和感に気づくことが出来た。
「お前がやっていることは謀反と変わらない。明日にでも加賀美と同じように処刑される可能性だってあるんだぞ」
「えるのことを心配して下さるのですか……」
「ああ……まあ、うん。そうだな」
「相変わらずお優しいですね……。しかし、心配無用です。リゼ様はえるの操り人形ですから。その証拠にほら───」
「チャイカ様。こんばんは」とリゼは言った。
リゼが立ち上がり、一礼する。その仕草が終わるまでチャイカは一言も発することが出来なかった。
「どういうことだ……」怒気を含めて。「これはどういうことだ!!!?」
「どうもこうも。リゼ様を使っているんですよ。そ・れ・に。せっかくチャイカ様が会いに来てくれたというのに、挨拶もしないままなんて失礼でしょう。ですから、お辞儀をさせたんです」
「オレはそういうことを聞いているんじゃない! 今すぐリゼにかけた魔法を解け。これは命令だ!」
猛獣のように睨みつけるチャイカにえるは言った。
「それは不可能です」
「……何故だ」
「先ほどわたしの攻撃が消滅したのを覚えていますか?」
「それがどうした」
「今のリゼ様は殺すどころか傷ひとつ付けることはできません。レイナ様の施した奇跡の魔法で守られているからです」
「待て。奇跡の魔法だと? それはモアの王冠を持っている者にしか使えないハズだ」
えるは頷く。
「その通りです」
「だがどうしてそれがお前の魔法を解除できない事になる? お前の魔法と奇跡の魔法は全くの別物だぞ」
「はい。そこがわたしも予期していなかったことです」
「聞かせろ」
「わたしがリゼ様を使ってレイナ様を殺す直前の話になります」
チャイカは言葉を呑む。
「レイナ様は最後の最後に、リゼ様に奇跡の魔法をかけ、モアの王冠を譲りました。わたしの魔法がかかった状態でね。……くふふ。
それからのリゼ様はどんなことをしても殺すことは出来なくなりました。最初はわたしも色々試したんですよ? 彼女に毒を注射してみたり、食事を与えなかったり、自害しろと命令したこともありました。
ですがどれも上手くいかず失敗に終わりました」
一呼吸おいて、えるは続けた。
「そこでえるは思いついたんです。殺せないなら利用してしまえばいいと!」
いや、そうはならんだろう、とチャイカは心の中で呟く。
「われながら天才だと思いました。そうすることでこの人間にまみれたヘルエスタ王国のすべてを思うがままに操れるわけですから」
えるは妖精のように華麗に踊る。
そこにチャイカは疑問を投げかけた。
「だがお前はリゼを殺すと言った。今の話だと殺すことは不可能なんじゃないのか?」
「チャイカ様はお忘れですか? 奇跡の魔法を解く方法はひとつじゃないことを」
知っている。忘れるわけがない。
奇跡の魔法を解く方法。それは二つ存在する。
一つ目は、奇跡の魔法をかけられた際に願われたことを達成すること。
二つ目は、奇跡の魔法そのものを同じように奇跡を起こして破壊すること。
「もちろん、破壊は現実的じゃありません。奇跡を意図的に起こす。それはどんな生命体にも不可能なことです。同じものを持っている者以外にはね」
なるほど、とチャイカは顎を撫でる。
「つまり、える。お前はオレに奇跡の魔法を使わせたいわけだな?」
「話が早くて助かります」
えるは笑う。
「それでリゼを殺せと」
「はい」
一拍置いて。
「残念だがそれは出来ない」チャイカは言った。
その言葉にえるは戸惑う。
「何故ですか? 今もチャイカ様はエルフの……モアの王冠を持っているのに」
「ああ。持っている」
「ではなぜ……」
「オレはもう王座につくことは出来ないんだ」
チャイカが城を去った後も、えるは王の間にひとり佇んでいた。
単純な話───エルフの王から聞かされた真実を彼女は受け入れることが出来なかっただけ。彼女の足を止め、胸の内を掻き乱しているのはえるが嬉々として人間たちに振る舞っていた絶望だ。
えるはチャイカが自分に会いに来てくれたことで、取り戻せると思ったのだ。強くて温かい同胞たちの故郷であるエルフだけの国を。
彼女ほどヘルエスタ王国を愛し、自分がエルフであることを誇りに思っているものはいない。
故に、今のヘルエスタ王国を愛することはできない。人間たちに侵略され、人間たちの都合のいいように作り変えられた人間たちの街。右を見ても左を見ても全身に蛆が這っているような不愉快さ。えるはそのすべてが気に入らない。
指先がピクリと動く。
ゆっくりと硬直が溶けてきたえるは、王の間にヒールの音を響かせる。
「どうして人間が……その椅子に座っているんだ」
えるはリゼを見下ろす───価値のない娘だ。
母親のレイナ・ヘルエスタは良かった。なにせ、彼女には半分ではあるもののエルフの血が流れており、エルフの身体的特徴も引き継いでいた。
しかし、えるがレイナ様に頭を下げた理由は違う。ただのハーフエルフの王なら殺そうと思っていた。だが、彼女は強く、その強さはかの天帝ウル・モアに届く可能性を持っていた。そしてなにより、
「彼女は美しかった。だからこそえるは純粋に彼女が作るヘルエスタ王国を見てみたいと思った。なのに───」
時が経つにつれて、レイナ様が身ごもり───世継ぎのリゼ・ヘルエスタが生まれる。
「お前みたいな奴が次の国王だなんて信じられませんでしたよ」
今でも思い出す。リゼが生まれた瞬間に感じた、腹の底から世界が終わったと内臓全体が冷たくなったような、あの感覚。
「蛇に睨まれた蛙の気持ち。リゼ様にも味わって頂けたらいいのに……」
リゼの首を絞めあげようと、えるは両手を伸ばす。
彼女を殺し、モアの王冠を奪う。それが出来れば苦労はしない。伸ばしている手も、彼女の首を絞めつけることなど出来ず虚空を掴まされるだけになるだろう。
それでも……えるは人間がヘルエスタ王国で生きていることを許せないんです。
リゼの首まであと少しというところで、
「なっ!?」
リゼの影から伸びてきた手がえるの両腕を掴む。
「残念だけどあなたはやり過ぎたのよ、える」
「その声……まさか───!」
「誰も来ない場所で二人っきりのデートを楽しみましょうか」
王の間に魔法陣が輝く。
えるはそれが転移魔法であること見抜いたが、遅い。
二人の姿は光に消え、王の間にはリゼだけがぽつんと残された。




