1
一階に降りると、パンと目玉焼きを焼いているいい匂いがした。
「おはよ、母さん」
「え、うそ翔真? 本物?」
おはようの返しがこれだ。やっぱりというか、おれの母さんは少し変だと思う。
「本物に決まってるじゃん」
「いやだって、あんたまだ――六時七分だよ?」
垂れ流しているニュース番組の時刻を確認して、母さんがわめく。
六時過ぎだよ、で十分伝わるのに、なんで「七分」まできっちりカウントするのだろう。
「今日はだいごと遊ぶ約束してるから」
「こんな朝から?」
「ううん、昼過ぎから」
「じゃあなんでもう起きてるの!? 怖い!」
息子が早起きしたのが、下手なホラーよりも恐ろしかったらしい。母さんはぶるるっと身震いした。フライ返しに若干ついていた目玉焼きの白身が、フライパンにぽとりと落ちる。
「い、いや。いいことよ。早寝早起きはすごくいいことなんだけどね、お肌にもいいし、え、やだ翔真ってばお肌のことまで気にするように――」
「おはよう父さん」
これ以上母さんと話したら、目玉焼きを焦がすまでブツブツ言っていそうなので、食卓にいた父さんに声をかけた。
新聞を広げていた父さんはちらりと視線をあげて、
「おはよう。ちゃんと眠れたか? 睡眠不足もお肌の敵だぞ」
茶化すようにそう言った。
父さんは母さんの変なノリにもあわせられる常識人……というのが息子から見た印象だ。
おれはわざと肩をすくめてみせた。
「ちゃーんと寝たよ。昨日は寝るのも早かったし」
「え、寝るのも早かったの!? お母さん嬉しいけど複雑だわ、どういう風の吹き回しなの!?」
「おーいお母さん、そろそろ目玉焼きが焦げるんじゃないかなー?」
リビングにまで侵食し始めた焦げ臭さにいち早く気付いた父さんが、それでものんびりと母さんに忠告した。
母さんは相変わらずわあわあ言いながら、料理に専念しはじめる。
父さんは声のボリュームを少し下げて、おれに話しかけてきた。
「お母さんから聞いたよ。昨日は夏休みの宿題もやってたんだって?」
「……ちょっとやってみようかなって思っただけ。別に深い意味はないよ」
「そうかそうか」
父さんにまで変に期待されたら困る。おれは慌てて付け加えた。
「勉強が好きになったわけじゃないから。プリント一枚終わらせるのだってめちゃくちゃ遅いしさ。このペースじゃ始業式には間に合わないんじゃないかな」
「それならそれで構わないさ」
父さんはあつあつのコーヒーをすすった。いつもこだわっているブルマンとかいうやつだ。
「嫌いな勉強を、ちょっとやってみようかと思った。それがまず、素晴らしいことだ」
「……宿題全部終わらなくても? 勉強嫌いなままでも?」
「ああ。挑戦というのは、大人になっても大事だからね」
父さんは柔らかく笑って、コーヒーの入ったマグカップを食卓に置いた。次いで、新聞を置いて立ち上がり、
「さて翔真。焦がしに焦がしたトーストの修復をはかろうとしている母さんをフォローしにいこうか」
「もっと早く来てよ! 一分……いや二分前に来てほしかったわ!」
「焦げているパンは僕が食べるよ。だから今からお母さんと翔真の分を焼きなおして、三人で一緒に朝食としよう。家族全員で朝食なんて、久しぶりだからさ」
この言葉に母さんは納得したのか、唇を尖らせたままではあるが「わかった……」としおらしく言った。
言われてみれば、父さんは毎朝家を出るのが早いし、おれは遅刻ギリギリまで寝ている(夏休みなんか昼前まで寝ている)から、三人で朝食をとることは滅多とない。
本当に久しぶりの、三人揃っての朝食。
少し焦げた目玉焼きと、油でテカテカに光ったウインナーは、それでもやっぱり食べ慣れた味で美味しかった。
*
昼からだいごの家で『ドラゴントレーナー』をプレイしたけれど、おれの頭の中は小春のことでいっぱいだった。
小春、元気そうにしてたけど本当に大丈夫なのかな。
長く入院してるってことは何か重い病気なのかな。
お見舞い……行きたいけど、多分東京かその近辺の病院だよなあ。ここからじゃ遠いよな。新幹線とか乗ったことほとんどないし……小学生一人だと危ないのかな。あ、その前にお金だ。ここから東京までいくらくらいかかるんだろう。
手ぶらでお見舞いってのもおかしいし、お花とかお菓子とか、なんか持ってったほうがいいのかな。――あ、それ買うのもお金がいるじゃんか。
あー、こんなことならちゃんと貯金しとけばよかった。お小遣いとかお年玉とか、全部ゲームに使っちゃってるもんなあ。
「おい翔真。お前の卵、孵化しそうだぞ」
だいごの声で現実に戻った。おれはゲーム画面を見る。両手におさまる小さな画面、そこにうつる黄色の卵が、ゆらゆらと揺れていた。
黄色。ただそれだけで、おれは小春のパジャマを思い出していた。
「なにが出てくるだろな。もしソウリューが被ったら交換してくれよ」
だいごがおれのゲーム機を覗き込んでくる。おれはぼんやりしたまま、卵にヒビが入っていくのを眺めた。いつもならもっとドキドキする大事な場面なのに。
やがてパカリと卵が半分に割れて、画面が真っ白になった。
ちゃっちゃらーん。
「うお、やっべ、青龍じゃん!」
だいごが興奮した声を出した。
セイリューはレア度が最も高いドラゴンの一体で、孵化する確率は一パーセント未満だと言われている。オンライン交換では高値がつくという噂もあるし、おれ自身、孵化させたのは初めてだ。
「すっげー! マジかよ見せてくれ!」
だいごがおれのゲーム機を奪い取るようにして、マジマジと画面を見つめている。
――小春も今頃『ドラゴントレーナー』をプレイしてるのかな。
せっかく生まれたセイリューより、どうしても小春のことが気になってしまう。
おれがあまりにも無反応なものだから、だいごが眉根を寄せた。
「なんだよ翔真、うれしくねーの?」
「いや、そんなわけじゃないんだけど」
「いらないなら、俺の雑魚ドラゴンと交換してくれ」
「それはやだ」
即答すると、「だよなー」とだいごは悔しそうに笑った。
「じゃあさ、今日中にこのセイリュー、進化させといてくれよ。そんで、明日俺のとっておきのやつとバトルさせようぜ」
いつもならOKと答えるところだ。でも、おれはかぶりをふった。
このセイリューを明日までに育てるには、夜更かししなければならない。
「ごめん、今日の夜は用事があるから」
「ちぇっ、なんだ残念。ちなみにその用事ってなんだよ。婆ちゃんちに行くとか?」
俺は再度首を振った。
「宿題をやる」
「は!?」
だいごはおれのゲーム機を落としかけたが、なんとか持ち直した。
「え、え、なにお前。宿題ちゃんとやってんの!?」
「昨日からだけどね」
「まだ八月に入ったばっかりだぜ? 夏休み、明日で終わるわけじゃないんだぜ?」
「知ってるよ」
だいごのビビリっぷりが母さんと似てるものだから、思わず吹き出してしまった。
「ええー、マジかよー」
だいごはおれのゲーム機をそっと返却してくると、そのままばたりと床に寝そべった。
「夏休みの宿題やらない組、少なくともおれとお前は確定だと思ってたのにー」
「おれは毎年、半分くらいはやってるよ」
「でもそれ、夏休みが終わる二日前くらいに慌ててやっつけた分だろ? こんな早くから、計画的に宿題やる人間じゃなかったじゃーん」
「別に計画なんて何もないって。ただ、なんとなくやろうと思っただけで」
本当は、早く寝るために頭を疲れさせようとしているのだけれど、それはそれで「お前が早寝早起き!?」と言われかねないので、伏せておいた。
「そうだ。今度、だいごも一緒に宿題やってみる?」
「いやいい絶対にいい。俺はお前がガリ勉になったとしても、絶対に勉強はしないぞ。これは俺の信念だ」
「なんの信念だよ」
「……でもさ、翔真」
仰向けになっていただいごが、ごろんとこちらを向いた。
珍しく、まじめな顔をしている。
「お前がガリ勉になったとしても、宿題に飽きちゃったとしても、俺ら友達だからな。そこんとこ、忘れんなよ」
おれは多分、ぽかんとした間抜けな顔をしてしまったと思う。
……なんていうか、そこまで考えたことなかった。
けれど確かに、だいごはおれにとっても大切な友達で、勉強するとかしないとか、そんなので変わるような関係性じゃない。
「……当たり前じゃん」
「明日じゃなくていいからさ、そのセイリューもちゃんと育てろよな」
「わかってるよ」
「いつになるかわからないけど、お前の宿題が終わったら、またバトルしようぜ」
「いや、そんなずっと宿題してるわけないだろ。近いうちにバトルはできるよ」
おれはちゃんと答えたのに、だいごは「ああー」と奇妙な声を出した。
「夏休み中にもう一回くらいは遊ぼうぜ、翔真ぁー」
「だーかーらー、近いうちにまた遊べるよ。最終日までずっと宿題しかしないのは、おれだっていやだよ」
言いながら、おれは「また」という言葉を噛みしめていた。
小春の口からは絶対に出ない、その言葉を。
*
結局、だいごはおれの家の近くまで送ってくれた。遠いところに引っ越す友人を見送るみたいな態度だ。本当に、ただ宿題をしているだけなのに。おれが普段どれだけ勉強をしてこなかったかがよくわかる。
家のドアを開けると、カレーの匂いがした。どこかの家からいい匂いがしてるとは思ってたけど、自分の家のものだったらしい。
「翔真おかえりー。今日の晩御飯はカレーよー」
「においでわかるよ。手、洗ってくる」
なんだか母さんがご機嫌だ。そう思いリビングを覗くと、案の定父さんがキッチンに立っていた。
「父さん、帰ってたんだ」
「閑散期だからなあ」
「カンサン……?」
「ま、仕事が早く終わったってことだ。だから今日の晩御飯は、父さんが腕に寄りをかけて作ったシーフードカレーだぞ」
カレーなのはもう十分にわかったって。
家事の中で一番嫌い(というか下手)なのは料理。いつもそう言っている母さんは、父さんが料理をする日はいつもご機嫌だ。今も父さんの隣で、鼻歌を歌いながらレタスをちぎっている――というか、細かくちぎりすぎだ。そのレタスの細かさから、母さんが暇を持て余しているのがよくわかる。
「あ、そうだ。母さーん」
おれはプチトマトのヘタに手を付け始めた母さんに声をかけた。
「なあにー?」とミュージカルみたいな返事。
「昨日やった算数の宿題、ちょっとわからないところがあったんだけど。暇してるなら教えてよ」
ぼとっ。
ヘタの取れたプチトマトが、シンクに落下した。
「え、え、算数!?」
「そうだよ。……あれえ? もしかして母さん、算数できないの?」
あえて挑発するように言うと、母さんの目があちこちに泳いだ。
「いや、あの、お母さん、こう見えて文系だったから……」
「こう見えてって、どうにも見えてなかったけど」
「算数だったらお父さんに聞いた方が絶対にいいわよ! ねえ、お父さん?」
いきなり話をふられた父さんは、それでもまったく動じなかった。それどころか「そうだね」と母さんに同調した。
「算数なら父さんのほうが得意だから、あとで一緒にやってみようか」
「あとっていつ?」
「それはもちろん、シーフードカレーのあとだよ」
父さんはおたまでカレーを掬い、にこりと笑う。
隣で母さんが、ほっとしたように小さく息を吐いた。
「――ははあ。小学四年生ともなると、算数も難しくなってるなあ」
お風呂から出てきた父さんは、おれの宿題を見るなり眼鏡をくいっとあげた。
父さんは裸眼でも問題ない程度の近視らしく、普段は裸眼で過ごしているけれど、本気モードのときだけ眼鏡をかける癖がある。
おれは答えが分からなかったところを指さした。
「ここ、角度をはかる問題なんだけど……これとかさ、分度器ではかれないじゃん。どうすればいいの?」
「ああ。これは分度器を使わずに、計算で割り出せるんだよ。そうだな、まずは角度というものについて少し説明しようか」
算数は父さんの方が得意という話は本当だったらしく、おれが何を質問しても父さんはスラスラと答えていった。グラフの見方、少数の考え方。おれが小学三年生のものすら理解できていないとわかると、それも丁寧に解説してくれた。
父さんって、算数教えるのうまかったんだ。知らなかった。
「……できた! どう、あってる?」
「うん。正解だよ」
「やった! ありがとう」
問題の意味をちゃんと理解して、自信を持って解けたのなんていつ以来だろう。おれは本当に勉強が嫌いで、テストでも赤点ばっかりだったからなあ。
「……勉強というのは、理解できると面白くなるものだからね」
父さんは眼鏡をはずして微笑んだ。とにかく勉強しろとガミガミ言う母さんより、父さんのこの一言のほうがよっぽど説得力があるように思う。おれは大きく頷いた。
「今日の宿題はちょっと面白かった」
「それはよかった。もう少し一緒に勉強しようか?」
「うーん」
時計を見ると、二十時半を過ぎていた。
「ううん、今日はいいや。読書感想文の本を読むから」
「そうか。それなら父さんは退散するけど……」
父さんはそこまで言うと、少し考えてからベッドの端に座った。
「翔真。なんだかここ数日で雰囲気が変わったな」
「え、そう?」
「うん。自発的に勉強するようになったから違うように見える、というのもあるんだろうけど……なんていうかな、何か目標を持っている感じがする」
「そうかな」
「何かやりたいことができたのかい?」
「え? いや……」
目標とかやりたいこととか、そんな大きいこと考えてなかった。
強いて言うなら、早く寝て小春に会いに行こうと思っているくらいだ。
「それとも……たとえば好きな子ができたとか?」
ぎくり。
……いや、なんだよぎくりって。おれはただ、夢の世界で小春と楽しく遊びたいと思ってるだけだろ?
返答に困っていると、父さんが「ははは」と声を出して笑った。
「もしもそうなら、それもとても素敵なことだ。父さんは応援するよ」
「いや、あの、違う……」
「おや、外したか。――まあなんにせよ、子供が頑張ってるのを見ると応援したくなるのが親ってものだ」
父さんはルームウェアのポケットをごそごそやると、「ほら」とおれに何かを差し出してきた。
赤、黄、青。セロハンに包まれた、大粒の飴玉だ。
「あんまりいっぺんに勉強すると、脳みそがびっくりしちゃうぞ」
「……胃がびっくりする、は聞いたことあるけど、脳みそがびっくりするっていうのは初めて聞いた」
「父さんも今、言い間違えたなって思ったよ」
せっかくかっこよく決めようとしたのにね、と父さんは笑った。
「まあとにかく、頭を使いすぎたときは甘いものを食べるに限る。疲れたらそれを食べるといい……あ、寝る前にはちゃんと歯を磨くんだよ」
「わかった、ありがとう」
「どういたしまして。じゃ、今度こそ退散するかな」
父さんはひらひらと手を振りながら部屋から出ていった。
おれはもらった飴玉を左のポケットに入れると、ベッドわきに放り投げていた読みかけの本を手に取った。
「あ、そだ。忘れないうちに」
そして、学習机にしまっていた『ゆめきっぷ』を、右ポケットにいれた。




