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何回も漢字を書き写して、それが何になるんだろう。
夏休みが始まってから一切手を付けていなかったドリルに、おれは顔をしかめた。
もちろん宿題はドリルだけじゃない。各教科のプリント類に、自由工作、自由研究、読書感想文まである。
――「自由」をうたうのなら、いっそやらなくてもいいんじゃないか。やる、やらないも自由に決めてこその「自由研究」なんじゃないのか……。
この考えをつきつめて「自由研究」として発表すれば面白そうだけど、あいにくおれはそんなに賢くない。自由研究は、ネットとかでそれっぽい題材を調べよう。
漢字ドリルを二ページ終わらせて、読書感想文用の本に手を伸ばす。
『ゆめ ~将来への切り札~』
……三行目で早くも挫折しそうになる。一行目から『あなたはどんな大人になりたいですか』なんて訊かれても困る。強いて言うなら大富豪になって、毎日ゲーム三昧したい。
「はあー……」
図書館で「読書感想文が書きやすい作品」としておすすめされていたけれど、そもそも読まなければ感想文は書けない。だから読もうとするのだけれど、これがちっとも進まない。
『面白くなかったので三行目で読むのを辞めました』
これも立派な感想じゃないのか。だめなのか。
夏休みの宿題一覧をちらりと見やる。
【読書感想文:400字詰め原稿用紙 三枚】
なんで原稿用紙三枚とか、いちいち枚数まで決められているんだろう。こんなの個人の感想なんだから、好きなことを好きな枚数で書かせてほしい。
「翔真ー? お隣さんにもらったクッキー食べ、るううううううう!?」
相変わらずノックもせずに部屋に入ってきた母さんが、後半悲鳴をあげた。
「うるさいなあ。ノックしてっていつも言ってるじゃん」
「いや、あんた、え、なに? なにそれ!?」
「なにって……読書感想文書くための本だよ」
ベッドに寝転がっているとはいえ、やっているのはいたって真面目な読書だ。さっきから一ページも進んでないけど。
「え、翔真が…………か、活字を読んでる……?」
「しょうがないじゃん。漫画で感想文書いちゃだめなんだから」
「いや、え、ええ? げ、ゲームはどうしたの? 故障してるの?」
「してないよ。ただ今は、宿題を優先してるだけだよ」
お隣さんからもらったのだろうクッキー缶を、母さんは床に落とした。ばしゃーんとシンバルみたいな音が豪快に鳴り響く。蓋が開かなかったのは幸いだ。
「え、え、翔真が、宿題……!?」
「なんだよ、さっきからうるさいなあ。いつも勉強勉強言ってるのは母さんのほうだろ」
「いやまあそうなんだけど、え、すご、え、ええ?」
「とにかく今、宿題やってるから。用がないなら早く出て行ってよ」
おれの言葉を聞いた母さんはあわあわとクッキー缶を拾うと、それをそのままおれに押し付けて部屋から出ていった。「すごい」とか「がんばって」とかモゴモゴ言っていたけれど、そこら辺はよく聞き取れなかった。
――まあ別に、母さんにヤイヤイ言われたから宿題してるわけじゃないんだけどね。
おれは母さんがくれたクッキー缶をあけた。甘ったるいにおいが部屋に充満した。
漢字ドリルちょっと、算数のプリント一枚、理科のプリント一枚。お風呂上りに少しだけゲームをしてから、ベッドで横になって読書。
途中で息抜きを挟んでいるものの、おれにしてはすごくハイペースで勉強した。
使いすぎて疲れた頭、そこに「普段読み慣れない活字本」を加えることで起きる、当然の現象。
――よーしよしよし、眠くなってきた!
おれは時計を見た。二十一時半。おれがこんな時間に眠くなることは滅多とない。早くても二十二時過ぎ、いつもは二十三時前まで起きているのだから。
眠気がなくなる前にと、急いでベッドに潜り込んだ。もちろん、ポケットには『ゆめきっぷ』を忍ばせている。
――これでいつもより長く、小春に会えるぞ。
――今日は早いねってびっくりするかな。
――へへ、楽しみだなあ。
――……いや待てよ。
――もしも小春がまだ寝てなかったら、どうし……。
**
都会の中の木陰。それが第一印象だった。
木々のうしろにはビルが建ち並んでいる。見たことのない看板も多いから、ついつい上を見てしまう。田舎者は都会に来たら上ばかり見るってどこかで聞いたことがあるけれど、本当にそうなんだな。
おれはあたりを見渡した。
――多分これ、東京だ。来たことはないけれど雰囲気でわかる。
ただ、前の遊園地同様、やっぱり人は誰もいなかった。多分、小春が創る夢には登場人物がいないんだ。だからおれが話しかけたとき、あんなにびっくりしていたのだろう。
小春はどこだ?
探さなきゃ。そんな焦りは一瞬で吹き飛んだ。田舎者でもわかりやすい場所に、小春が立っていたからだ。
「――これが噂に聞く忠犬ハチ公ってやつ?」
話しながら近づく。小春がこくりと頷いた。
「やっぱりそうか。初めて見た」
「夢の中だけどね。どう、初めてのハチ公を見た感想は?」
「……失礼だけど、想像してたより地味だな」
「それは本当に失礼だよ」
小春がくすくすと笑った。……小春のこういう笑顔を見ると、本当にうれしくなる。
あんまり直視するとニヤけているのがバレそうなので、おれはあちこちに視線をうつした。
「今日は早く寝たつもりだったんだけど、やっぱり小春を待たせちゃったな」
「いいんだよ。わたし、寝るの本当に早いし」
「にしても、今日は随分リアルな場所にいるんだな? なんで?」
おれが問うと小春は明らかに動揺し、小さな声でなにやらぼそぼそと言った。
「え、なんて?」
「……っぽいから」
「ん?」
「待ち合わせ、って言ったら、ハチ公前とかが……それっぽい、から」
小春の顔が真っ赤になった。色白なせいで、可哀そうなくらいにそれがわかる。
ただ、おれの顔も真っ赤になっているとは思う。
「あえ……っと、あー」
変な声が出てしまった。咳払いをして続ける。
「待っててくれて、ありがと」
「こちらこそ、来てくれてありがとう」
お互い真剣な顔をしていたけれど、数秒後にはけらけらと笑いだしてしまった。
横断歩道も一緒に笑っているかのように、ぴっぽ、ぴっぽ、と音を出す。
おれは遠くに見える電子掲示板を見ながら訊ねる。
「もしかして小春って東京に住んでるの? ほら、この前の遊園地も東京……なんちゃら園だったから」
「うん。――今の感じからして、翔真くんは違うんだ?」
「おれは静岡」
「そっか。ちょっと、遠いね」
小春の声が少し沈んだ。おれはなんとなく『ゆめきっぷ』を握りしめる。
残り、四枚。
「ね、せっかくだし早く遊ぼ!」
沈んだ声から一転、元気を振り絞るようにして小春は言った。
おれはがりがりと頭をかく。
「あの、おれ、東京ぜんぜん知らないからさ。どこに行ったらいいとか……」
「ここはただの待ち合わせ場所! 今日遊ぶのは、別の所だよ」
待っててね、と小春が目をつむる。
すぐさま、音もなくさあっと景色が変わった。




