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二人を乗せたゴンドラが、ゆっくりと上昇し始めた。
俺と彼女は対面する形で座っている。初対面でいきなり隣に座る勇気はおれにはなかった。かといって対面でも気軽に話しかけられるわけじゃない。学校では男友達とばかりつるんできたから、女子と何を話せばいいかわからない。
ましてやこんな、嘘みたいなシチュエーションで。
「……名前」
彼女が先に声を発した。
「聞いてもいい?」
「あ……っと。さかき……。榊、翔真」
自分でも情けないくらい、ふにゃふにゃとした声が出た。
彼女は口に手を当て、「さかきしょうまくん……」と繰り返した。自分の知り合いにそんな名前いたっけ? といった挙動だ。
けれど多分、残念ながらというかおれたちは初対面だ。
だって俺は、彼女のことをまったく知らない。
「――ってごめんね! わたしの名前教えてないのに、先に聞いちゃって」
「え、いや……」
「わたしは小春。松宮小春」
……やっぱり知らない名前だ。小春という名前はもちろん、松宮という苗字にも聞き覚えがない。
本当に、どうなってるんだ。
それは彼女も同じ気持ちだったらしく、さっきと似たような質問をぶつけてきた。
「それで翔真くんは、どうやってここにきたの?」
「ここって……東京さくら園のこと?」
俺の言葉に、彼女――小春は変な顔をした。目が点になってるし、口も半開きだ。ていうか、なんかちょっと笑ってないか。おれは何か変なことを言ったのか?
「えーっとまあ、そうだといえばそうなんだけど……」
小春はゴンドラの外に目を向けた。おれもつられて目をやる。そしてその異変に気付いた。
遊園地の外は霧に覆われたみたいに真っ白で、何もない。おれたちがいる「東京さくら園」だけが、霧の中にぽつんと存在しているのだ。
「夢の中なんだよね、ここ。実在しない場所というか」
おそらくはとても大事なことを、小春はどこまでもさらっと言った。
俺はおろおろしているのを悟られたくなくて、ハーフパンツの裾をぎゅっと握りしめる。
「……さっきも夢だとか言ってたよね、それ。どういうこと?」
「うーんと。いろいろと説明が難しいんだけど……」
小春は小首をひねって少し考えてから、
「翔真くんは、明晰夢って知ってる?」
「めいせきむ?」
「そうだなあ……。翔真くんは眠っている時――夢を見ている時にさ、『これは夢じゃないか』って自覚したことない?」
おれは首を振った。夢の中のおれはいつだって必死で、見ているものをすべて現実だと思い込んでいる。それがたとえ、どんなにおかしな状況だったとしてもだ。
小春はゴンドラの外に目をやり、続けた。
「明晰夢っていうのはね、『これは夢だ』って自覚できること。そして……自分の好きなように夢の中を作り変えることまでできるんだ」
「作り変える?」
「ええと、じゃあわかりやすくするね。今からこの観覧車は止まります」
小春の言葉と同時に、ゴンドラがガタンと大きな音を立てて止まった。おれはびっくりして、バーにつかまる。
「大丈夫だよ、落ちたりしないから。……で、さっきよりも早く動かすね」
ぐおおおん、と聞いたことのない大きな音を立てて、観覧車が動き始めた。いや、これは観覧車じゃない。ちょっとしたジェットコースターだ。移動スピードが速すぎて、胃が持ち上がるような変な感覚がする。
「うおわあああああああああ!」
「……ごめん。そんなに怖がると思ってなかった。ほんとにごめんね」
心底申し訳なさそうな顔をして、小春はゴンドラを止めた。ちょうど頂上だ。
「この遊園地で一番高い景色、見放題」
「ほんとにごめんね」と小春はもう一度繰り返した。おれはなんだか悔しくなって、言い訳をする。
「いや、おれ、ジェットコースターとか好きだよ? 絶叫マシンはほんとに得意なんだ。お化け屋敷なんかよりも全然怖くないし。でもさ、ゴンドラが急スピードで回るのに慣れてないからそのせいで……」
いつまでも一人でぶつぶつと言っていると、小春がついに噴き出した。
「ほんとにごめんって」
「いやいいよ、怒ってないし、怖くないし」
俺はごほんと咳ばらいをして、続けた。
「でも、今のでちょっとわかったよ。小春はこの観覧車を自由自在に動かせる――自分の夢の中だから、好き放題できるってことだよな」
「うん、そういうこと」
ゴンドラの外に目を向けた小春は、人差し指をたてて、スマホ画面をスワイプするみたいにすっと動かした。途端、遊園地周りの霧がはれて、花畑が現れる。……霧もおかしかったけど、花畑になると余計に現実感がない。
やっぱりここは、小春の夢の中なのか。
そう、納得せざるを得なかった。
「ここは私の夢の中で、今まで誰も入ってきたことがないんだけど……」
言いよどみ、少し困惑した様子で小春が言う。
「失礼なこと聞いちゃうけど、翔真くんは私が夢の中で作った人間……じゃないよね?」
「ち、違うって! おれはちゃんと生きてる人間? だよ」
「だよね」
小春はなんとも言えない表情で笑った。その顔はなんだか、無理して笑っているようにも見えた。
何か、余計なことを言っただろうか。不安になるおれに、けれども小春は優しく笑いかけてくれた。
「……でも、翔真くんと会えてちょっと嬉しかったな」
「え?」
小春は俺と視線をあわせないようにして、ぽつりと言った。
「――実は今日、最初に見た夢はちょっと怖かったんだよね」
その声は明らかに、さっきまでとは違う感情をはらんでいた。
不安とか恐怖とかそういうものに近い――けれどきっと、それよりもずっと悪い何か。
どんな夢だったんだろう。
けれどおれが訊くよりも早く、小春が話を続けた。
「でも途中で『ああこれ夢だ』って気づけてさ。だから夢の内容を変えちゃったの。場所は遊園地にして、乗り物乗り放題で、ソフトクリームもフライドポテトも食べ放題。そういう楽しい場所に――」
「ああ!!」
思わず声が出た。小春も同時に驚いたせいで、ゴンドラが若干揺れた。
「おれっ……」
ハーフパンツのポケットに手を突っ込む。焦りと興奮で中身をうまく掴めない。
それでもやっとの思いで、俺は『ゆめきっぷ』を引っ張り出した。
単語帳そっくりの、偽物みたいなそのきっぷ。
「おれ、これ使ったんだよ!」
思いついたまま喋ったけれど、もちろん小春には伝わらない。それでも彼女は馬鹿にすることもなく、真剣な表情で「見せて」と手を伸ばしてきた。彼女の白い掌に、『ゆめきっぷ』をのせる。
「そうだ……。おれ、そのきっぷをポケットに入れたまま寝ちゃったんだ。それで目が覚めたら、蒸気機関車の中にいて……」
言葉にすると思考がまとまる感じがする。おれは思ったままに話し続けた。
「おじさん……客車の中に車掌のおじさんがいてさ、『きっぷを拝見』って言われたんだ。それできっぷを一枚ちぎられて、行き先を聞かれた。だからおれは……」
――それじゃあ、楽しい場所で……。
「楽しい場所って、そう答えたんだ」
きっぷに目を落としていた小春が、はっとした顔でこちらを見た。
「……わたしは、楽しい夢を作った」
「おれは、楽しい場所に行きたいって言った」
「それで繋がったんだ。翔真くんの夢と、わたしの夢が」
小春は再び、ゆめきっぷを見た。
「それじゃこれ、本物なんだね」
「……そうだと思う。この夢が、嘘じゃなければ」
「嘘じゃないよ」
小春が言った。
「だってわたしは存在してるもの。夢じゃなくて、外の世界に」
その言葉は、妙に力強かった。小春が自身に言い聞かせているようにも見える。
何故かはよくわからない。けれど、小春はおれが知っている女子とは何かが違うと思った。言葉の選び方や時折見せる表情が、どうしても気になってしまうのだ。
「――あのさ、小春」
『ゆめきっぷ』をおれに返す、その細い指先を眺めながら俺は言う。
「よかったらなんだけど、おれさ、明日……」
――その時。
ゆめきっぷを握るおれの指が、透けていることに気付いた。
「え!?」
夢の中だとわかっていても、非現実なことが起こるといちいち驚いてしまう。
小春はおれの異変を見ても驚かず、むしろ慣れた様子で――そして少しだけ寂しそうに、こう言った。
「翔真くん、夢から覚めるんだね」
夢から覚めるって――つまりそれって、
「現実のわたしはもうしばらく寝てるはずだから……ここでお別れだね、翔真くん」
「そんな……」
「安心して。『東京さくら園』で目を覚ましたりしないから。ちゃんとおうちの布団で目覚めるはずだよ」
心配しているのはそこじゃない。
けれど小春に俺の気持ちは通じなかったのか、彼女はゆるゆると手を振った。
「じゃあね、翔真くん。……会えてよかった、楽しかったよ」
「いや、ちょっと待――」
言いたいことがあるのに、時間は待ってくれない。
おれの身体はどんどん透けて、見える景色は白っぽくなっていく。最後は声も出なくなった。
――なあ、待って。待ってくれって。
おれは『ゆめきっぷ』を握りしめたまま、小春に訴え続けた。
――よかったら、おれ、明日も……。
*
「翔真! 起きなさい翔真ー!」
最悪な目覚めとは、まさにこのことを言うのだろう。
俺はむくりと上半身を起こした。自分の服装を確認してみると、夢で着ていたTシャツにハーフパンツを着用している。周囲にはゲーム機やカセットが散らばっていて、一目で自分の部屋だとわかった。
戻ってきた……という表現は正しくないのかもしれないけれど、それが一番しっくりくる。
「……なんだろ」
訳の分からない夢の世界からようやく日常に戻ってこれたのに、心に小さな隙間があいたような寂しさがある。まるで、旅行から帰ってきて、家の扉を開けた瞬間みたいだ。
安心と、もの悲しさ。
そんなおれの感傷をかき消すかのような、
「翔真っ!」
母さんの怒声が響いた。そしてノックなしの入室。
「ちょっ……勝手に入ってくるなってば!」
「外から何回も呼んだのに、なかなか起きてこないんだもん! あのね、S市のお婆ちゃんが階段から落ちて病院に運ばれたらしいの! お母さん今からお婆ちゃんのところ行くから、翔真、ちょっと留守番頼める!?」
「え! 婆ちゃん大丈夫なの!?」
「それがお婆ちゃん本人から電話がかかってきたのよ。『ちょっと転んだだけよ』って。でも念のためお母さんも様子見に行くわ、病院から家まで車で送ってあげたいし――って、もうこんな時間! ごめん翔真行ってくる! あ、宿題! ちゃんとやるのよ!」
バタバタとあわただしい音を立てて、母さんは出ていった。
「……はあ」
溜息をついて時刻を確認する。六時前。夏休みの期間中、おれがこんな時間に起きることは滅多とない。
大丈夫かな、婆ちゃん。
「…………」
おれは布団の中で握りしめたままだった『ゆめきっぷ』をそっと確認した。
単語帳みたいな外見、水色の表紙、銀のリング。
ぱっと見で変わったところは特にない。
けれど。
「……一枚減ってる」
おれがこれを使えるのは、残り六回。
なくさないよう慎重に、おれは『ゆめきっぷ』を学習机の引き出しにしまった。