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――今回も難しそう……だな。
おれは額の汗をぬぐい、スマホで時刻を確認した。中学生になると同時に買ってもらった最新モデルのスマホだが、既に保護フィルムにヒビが入っている。
……十三時ちょっとすぎか。
時刻を認識した途端に猛烈な空腹が襲ってきた。けれど、東京の飲食店はこの時間だとまだ混んでいる。もう少しだけここで待って、それから昼食をとろう。
リュックから水の入ったペットボトルを取り出し、一口飲む。頭上からは降り注ぐようなセミの鳴き声が続いていて、たまに吹く生ぬるい風は木の葉をざわざわと鳴らした。
その木陰には、暗い色をした犬の像。
――小春のハチ公像って、再現度が高かったんだな。
今更ながらに感動してしまう。三年前、夢の中で初めて見たハチ公像と、今目の前にあるハチ公像は、同じものだと言っても遜色ないくらいだ。『ドラゴントレーナー』の再現具合といい、よほど記憶力がいいのだろう。
『ドラゴントレーナー2、虎擲竜挐。好評予約受付中!』
目の前の電子掲示板が先程からずっと、タイムリーな広告を繰り返し垂れ流している。だいごは買うと言い切っていたが、おれはどうしようかいまだ悩んでいる新作だ。
お小遣いもお年玉も上京資金にあてるようになってから、ゲームを買う本数は一気に減った。その代わり、図書館で借りる本の数が増えた。勉強にあてる時間も増えたので、成績はうなぎのぼりになり、先生にも両親にも驚かれた。
『おれ、医者になりたい』
そう告白したとき、母さんは椅子から転げ落ちたくらいだ。けれど誰も、この発言を馬鹿にしたりはしなかった。むしろ応援してくれていて、とてもありがたい。
――そろそろ昼食にするか。
おれは持参していたタオルでもう一度汗をぬぐい、立ち上がろうとした。その時、数メートル先に立っている女性が、こちらをじっと見ていることに気が付いた。
日焼けを知らないような真っ白な肌、それとは対照的な黒い髪が印象的だった。
長かった髪の毛はバッサリと切ったらしく、肩の上くらいまでしかない。肌の色は白いものの、当時に比べて血色がよくなっているように思う。単純に、ここが暑いから紅潮しているだけかもしれないが。
線の細さは相変わらずで、けれどそれも病的というよりかはスリムな体形といった感じだ。
彼女は、おれのことをじっと見ている。
おれかどうか判断できていないのではなく、かける言葉に悩んでいるようだった。
おれはリュックを背負い直して、彼女のほうへと歩き出す。
一言目に発する言葉は、三年前から決めていた。
「……きっぷを拝見」
彼女は――小春は泣きそうな顔をして、おれが最後の夢で渡したものを見せてきた。
ピンク色の表紙の単語帳。
そこには当時のおれが書いた拙い字で、こうあった。
『再会きっぷ』
*
『あなたが、彼女に渡したいもの』
三年前、文具店のおじさんにそう言われた時、まっさきに思いついたのは『ゆめきっぷ』だった。
できるなら小春とまた会いたい。また遊びたいし、愚痴でも弱音でもなんでも聞きたい。
けれど『ゆめきっぷ』は残り一枚しかない。どこかに売っているものでもないし、そう簡単に手に入るものでもないだろう。
――なら。
おれが作って、渡せたら。
おれは受験生応援コーナーに向かい、そこに並んでいた単語帳を手に取った。自分が持っている『ゆめきっぷ』は表紙が水色なので、小春に渡すものはピンク色にした。
そうして急いで家に帰ったおれは、買ったばかりのペンを使い、単語帳の一枚一枚に文字を書き込んでいった。
『2023年4月1日 午前10時 渋谷のハチ公前で会えるきっぷ』
『2023年8月1日 午前10時 渋谷のハチ公前で会えるきっぷ』
『2024年4月1日 午前10時 渋谷のハチ公前で会えるきっぷ』
『2024年8月1日 午前10時 渋谷のハチ公前で会えるきっぷ』
一年に二回。四月一日と八月一日を指定したのは単純に、夏休みと春休みで確実に学校が休みだと思ったからだ。
五十枚つづりの単語帳すべてに記入したので、二十五年分。
仮に小春が現れないまま二十六年目がきたとしても、おれは毎年四月一日と八月一日にここ――ハチ公前に来るつもりでいた。
小春が元気であることを信じて、待つ。
おれには、それくらいしかできないから。
*
単語帳の中から『2025年8月1日』のきっぷを一枚ちぎって、残りを小春に返す。そして、車掌の口調を真似て言った。
「行き先は?」
おれの言葉を聞いた小春の目から涙が零れ落ちた。……泣かせるつもりじゃなかったのに。
小春は両目を閉じ、鼻をすすった。
「来るの、遅くなってごめんね……」
「気にしないよ、そんなの」
「いなかったらどうしようって、ちょっと不安だった……」
「いるに決まってるだろ? 待ってるって言ったじゃん」
おれは即答する。小春がまた泣き出す。タオルを貸してあげたいけれど、さっき汗を拭いたばかりだ。綺麗なハンカチでも持ってくればよかったと今更ながらに後悔した。
――元気そうでよかった、手術成功したんだなって、小春が号泣してるタイミングで言うのも変……なのか?
相変わらず気の利かないおれは、どうしてやればいいのか、なんと声をかけてやればいいのか分からない。
だから結局、繰り返した。
「行き先は?」
小春からの返事はない。おれはずっと思っていたことを小春に話した。
「小春はさ、夢の中でいつも『おれの好きなところ』に連れていってくれたよな。おれはあの時まだガキで、ドラゴンの世界に夢中になってばっかで何も思ってなかったけれど……本当は小春だって、他に行きたいところがあったんじゃないか?」
「…………」
「だからこれからは、おれが小春の行きたいところに連れて行くよ。どこがいい?」
「――……違うよ、翔真くん」
小春は鼻をすすり、息を吐いた。
「わたし、翔真くんが隣にいてくれるなら、どこにいても楽しかった。……翔真くんの近くに少しでも長くいたくて、だから翔真くんの喜んでくれそうな世界ばっかり創ってたんだよ」
だからね、と小春が顔を上げた。
「今、この場所が、わたしの来たかった所です」
曇りのない小春の笑顔は、とてもきれいだった。
抱きしめたいと思ったし、ドラマだったら絶対そうしていたと思う。けれど実際は自分の汗臭さと周囲の目が気になってしまい、何もできなかった。挙句の果てには空腹を通り越した腹が、思い切り「ぐうう」と鳴ってしまう。
「――……あははは!」
二人して大声で笑いだしてしまった。
笑い出すと止まらない。
涙が、でてしまうくらいに。
「……そんじゃ、とりあえずご飯食べに行っていいか?」
「いいよ。わたしもお腹すいた」
「え、小春まだご飯食べてなかったの?」
「実は……十時過ぎからずっと、翔真くんのこと遠目に見てた」
「嘘だろ!? もっと早く声かけてくれよー」
おれはスマホで飲食店を探そうとして、けれどすぐにやめた。
東京ならどこに向かっても、飲食店のひとつやふたつあるだろう。
「そんじゃご飯食べながらさ、小春の話、聞かせてくれよ」
「いいよ。でも、翔真くんの話も聞かせてね」
おれたちは笑いあう。
そして、どちらからともなく手を繋ぐと、大都会の中を歩き始めた。