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文具店に入ると、コーヒーの匂いがした。
見ると、レジカウンターでおじさんが新聞を読みながらコーヒーをすすっている。おれが入店したことに気付いたのか、一言「いらっしゃいませ」とは言ってくれたけれど、そのあとはまたコーヒーと新聞の世界に戻っていった。
店員にベッタリ張り付かれるのもプレッシャーなので、これくらい放置してくれたほうがむしろありがたい。
おれはさっそく、店内の文具を見て回った。
「……すっげ」
本格的な店、というのが第一印象だった。
えんぴつはすべての濃淡を取り揃えているようで、HB以外にもFとか9Hとか、聞いたことのないものがずらりと並んでいる。色鉛筆も何色あるんだと聞きたくなるし、漫画家御用達と書かれた妙に高いペンや変な形の定規まであった。
受験生応援コーナーには、暗記用の赤ペンと赤シートをはじめ、いろんな形のふせん、小さなホッチキスなどがある。
たまに見に来たら楽しい店かもしれない。
けれど、プレゼント選びには不向きだ。
「何かお探しですか?」
背後から声をかけられ、おれはびくりとした。手にしていたホッチキスを落としかけて、あわあわとそれを掴む。もしも壊して弁償なんてことになったら笑えない。
おれはおじさんを見た。
……なんというか、特徴のない顔をしている。コーヒーは飲み終えたのか、あるいはおれの鼻が慣れたのか、気づけば店内に漂っていたコーヒーの香りはずいぶん薄くなっていた。
そのかわりに、おじさんから妙にいい香りがした。なにかわからない、けれど知っている香りだ。
「お探しのものがあるならご案内いたしますし、取り寄せることも可能ですが」
丁寧な口調でおじさんが言う。べったり張り付かれているけれど嫌な感じはしない、不思議な距離感だった。
「えっと……」
おれは悩み、けれどやっぱり相談することにした。
「女の子に渡すプレゼントを探してるんです。ちっさめの、ポケットに入るサイズのもので」
「はい」
「あ、予算は七百円しかないんですけど……」
「なるほど、そうでしたか」
おじさんは口元に手を当て、しばらく何かを考えてから、
「それはどういうプレゼントです?」
「え?」
「誕生日とか、引っ越しとか、あるいは何かのお祝いとか」
「あー、えっと……」
おれは言い淀んだ。なんのプレゼントかと言われたら――。
「えっと、おれ、その子にもう二度と会えなくて。だからなんていうか、今までのお礼っていうか……」
「ふむ」
「でも、その子が好きなものを何も知らなくて。だからどういうのなら喜んでくれるのか分からないんです。……小学六年生くらいの子が喜びそうな文房具、とかありますか」
おかしいな。どうしておれは見ず知らずのおじさんに、ここまで正直に色々と相談してしまっているのだろう。
そう思ったけれど、口から出た言葉は取り消せない。おれはおじさんの返答を待った。
「そうですねえ」
おじさんがのんびりと口を開いた時、店の奥からぼーんぼーんと古い時計の音が聞こえてきた。多分、十二時を告げる鐘だ。まずい、このままじゃ本当に時間がなくなってしまう。
「すみませんっ、やっぱりおれ――」
「本当に、その子とはもう二度と会えないんですかね?」
おじさんからの質問に、おれは首を傾げた。
どうしてそんなことを訊くのだろう。
「えっと、遠いところに住んでる子なんです。それに訳あって」
『ゆめきっぷ』はもう一枚しか残っていないのだから。
「もう二度と会えないと思うんです」
「――本当に、もう会えないんですかね?」
おじさんはもう一度繰り返した。おれは黙ってしまう。
「今のお話を聞いた限りだと――あなたが、もう会えないと思っているだけのようにも聞こえてしまったのですが」
「…………あ」
「失礼でしたね、すみません」
おじさんは深々と頭を下げて謝ってきた。けれどおれは失礼だとも思わなかったし、怒りの感情も特になかった。それよりも、おじさんの言葉が引っかかっていた。
『あなたが、もう会えないと思っているだけ』
――確かに。
なんでおれは、もう二度と小春と会えないと思ってるんだろう。
『ゆめきっぷ』が残り一枚しかないから? 小春の入院先を知らないから? 連絡先も聞いていないから?
あるいは。
自覚はないけれど、ほんの少しでも、彼女の手術は失敗するんじゃないかと思っているのか?
自分で自分にショックを受けた。もしもそうなら、自分を殴り飛ばしてやりたい。
おれがこんなのでどうするんだ。
このままじゃ、小春にあわせる顔もない。
茫然と立ちすくむおれに、けれどもおじさんは変わらない口調で話しかけてきた。
「プレゼント、とのことですが……それは本当に『今人気の商品』でいいのでしょうか?」
「え?」
「人気商品じゃなくても、プレゼントに不向きな商品でも。あなたから貰えたら嬉しいもの、というのも確かにあるでしょうから」
――あるいはあなたが、彼女に渡したいものでも。
おれはおじさんの言葉を聞いて、ひとつだけ思いついたものがあった。さっき店内で見つけて、思うところはあったけれど、素通りしてしまったもの。
「おじさん、これっ……」
おれはその商品をひとつ掴んだ。
待て、ペンも欲しい。
「あと、スラスラ書けるペンで、あの、あんまり高くないやつ……」
「ございますよ。黒インクでよろしいですか?」
おじさんがペンのコーナーから黒色のものを一本すっと抜き取った。ペンの値段は百五十円。小春に渡すプレゼントとあわせても、三百円もいかなかった。
黄ばんだレジをおじさんが操作している間、おれはそわそわと店内の時計ばかりを気にした。
今から家に帰って、プレゼントの準備をして……やっぱり十三時には間に合いそうにない。でも、時間のかかる手術だって小春が言っていた。
一分でもいい。会って、これを渡せたら。
「お待たせいたしました」
おじさんはおれの購入した商品を小さな紙袋にいれて渡してくれた。
それを受け取るとき、やっぱり甘い香りがした。
「……あの」
「いかがなさいましたか」
「おれ、どこかでおじさんと会ったことありますか?」
おじさんはきょとんとして、それから「いいえ?」とほほ笑んだ。
慌てて帰ろうとするおれを、おじさんが出入口まで見送りにきてくれる。
プレゼントが決まったのはおじさんのおかげだ。おれは改めてお礼を言った。
「そんな大層なことはしておりません。よければまたご来店くださいませ」
俺は大きく頷き、店の扉を開けた。
その時、うしろから小さな声で、けれど確かにこう聞こえた。
「次回御乗車の際も、『ゆめきっぷ』をお忘れなく」
……え?
慌てて振り返る。するとそこにはシャッターのしまった店があった。ずっと前からしまったままなのか、スプレーで落書きまでされている。
向かいの精肉店の店主が、変なものを見る目をおれに向けている。
おれは手の中にあるものを確認した。
――おじさんの店で買ったものは、ちゃんとここにあるのに。
店の看板を見る。
【金木犀文具店】と書かれたそれは、さっき見た時よりも随分と汚れ、傾いていた。
*
自転車の前かごにプレゼントを入れて、全速力で家まで帰る。リビングのドアを開けると、母さんが鼻歌を歌いながら昼食を作っているところだった。においからして、多分焼きそばだ。
「母さん、おれ今から寝るから起こさないで!」
「ええー? もうすぐ昼ご飯よ?」
「おなか痛いから後で食べる! それより絶対起こさないで! ノックもしないで!」
「……我が息子ながら、嘘のつきかたが雑すぎるんだわー」
そう言いながらも、母さんは了承してくれた。
おれは急いで二階に駆け上がり、文具店で買ったものを学習机に置いた。紙袋を開けてペンを取り出す。そして、文字を書き始める。
――できるだけ丁寧に、でも急げ!
目覚まし時計から、カチ、カチ、と秒針の音が無情に鳴り続ける。その音がおれを焦らせた。
――けれど落ち着かないと。
深呼吸して、自分に言い聞かす。
おれはもともと字が汚いんだ。焦れば焦るほど汚くなるから、なるべく丁寧に書かなくちゃ。
そうして準備が終わった時、時刻はもう十三時をとっくに過ぎていた。
――まずい、完全に遅刻だ!
おれは『ゆめきっぷ』と、買ったばかりのプレゼントがポケットに入っていることを何度も何度も確認した。これでどちらかを忘れてしまったら意味がない。
ベッドにダイブして、ぎゅっと目をつむる。あとは寝るだけなのに、こういう時に限って頭はさえわたっていた。そもそもおれはあまり昼寝をしない。こんな時間に寝るなんて、風邪を引いたときくらいだ。
寝ようと意識するほど、眠気が遠ざかっていく気がする。何か眠くなりそうな本でも読もうかと思うけれど、目を開けてしまったらやっぱり眠れなくなる気がする。
――頼む、頼む、眠たくなれ、早く!
そう考え続けているうちに、いつの間にかその時が訪れたようだった。
**
目覚めると、いつもの蒸気機関車の客車にいた。
木の色が目立つ車内。おれはすぐさま立ち上がり、車掌を探そうとした。一秒でも早く小春の所へ向かいたい一心だった。
「危ないですよ、座席にお座りください」
おれの心を見透かしてか、いつもよりも心持ち早く車掌が現れた。
ふわりと漂う甘い香り。
おれは車掌の言う通り、座席に座り直した。けれど焦るがあまり上半身はゆらゆら揺れてしまう。
――今、何時なんだ。
眠るまでに、どれくらい時間がかかったんだろう。
「きっぷを拝見」
いつも通り、『ゆめきっぷ』を車掌に手渡す。車掌は最後の一枚をちぎると、表紙と銀のリングだけになったそれをおれに返してきた。要らないとも思わなかったし、むしろほしかったので、おれはそれを大切にポケットにしまいこむ。
「行き先は?」
「ま、松宮小春の、いるところ……」
彼女が眠っている確証がなかったので、声が小さくなってしまった。おれは慌てて付け加える。
「行けますか?」
車掌はふっと笑顔を見せた。
「もちろんです」
その言葉に泣きそうになる。
――小春は、まだ寝ている。
また、会えるんだ。
「それでは、良い夢を」
いつも通りそのまま客車から消え去ろうとする車掌の背中に、おれは叫ぶ。
「あの、今までありがとうございました!」
「いいえ。これがわたしの仕事ですので」
「……文具店でのことも? あれも仕事だったんですか?」
俺の問いかけに、車掌は顔だけをこちらに向けた。そして、
「さあ……。なんのことだかわかりませんね」
とぼけるようにそう言って、今度こそ客車から出ていった。
*
蒸気機関車が停車すると同時に、おれは外に出ようとした。が、予想もしていなかった光景に足がすくんでしまった。
真っ暗闇だったのだ。
黒い空間が永遠に続いている。平衡感覚もなにもない。どこが地面なのか、そもそも地面があるのかもわからないような――黒い絵の具で塗りつぶしたような空間だった。
――これが、小春の……。
そう思うと胸が締め付けられた。おれといる時はハチ公やドラゴンを見せてくれていた、あの夢の裏側。笑顔を振りまいていた彼女が、おれに悟られないようにしていたもの。
恐る恐る一歩踏み出す。感覚はないものの地面という概念は存在するのか、奈落に落ちることはなかった。そのことに安心していいのかもわからない。
蒸気機関車が走り出し、おれはさらに一歩前に出た。そこで、なんとなく嗅ぎ覚えのあるにおいがしていることに気付く。
――病院のにおいだ。
正確には消毒液のにおいというのだろうか。衛生的な、けれど血の通ってない感じがする独特のにおいが真っ暗な空間に漂っていた。
おれにとってはさほどなじみのない、けれど小春にとっては日常のにおい。
おれはぐるりとあたりを見回した。今が何時なのかは知らないが、おれか小春、どちらかが先に夢から覚めてしまったら、今度こそ会えなくなってしまう。
「小春ー!」
おれは叫んだ。けれど真っ暗な空間がそれを吸収したようで、声が反響することすらなかった。
違う方向を向いて、もう一度叫んでみる。
「小春ー!!」
頼む。届いてくれ。気づいてくれ。
「こは、――……!」
その時、遥か向こうで何かがわずかに動いたのが見えた。
夜空の星みたいな小さな点。
「小春!」
おれは走り出した。
ここからあそこまでどのくらいの距離があるのか、はたまたたどり着けるのかどうかもわからないのに、全速力で駆け抜ける。
小春に渡すために用意したものを落とさないよう、しっかりと手に握りしめた。
「小春! ……小春っ!」
何度も何度も、彼女の名前を呼ぶ。小さな点は動かない。けれど幸いなことに、近づくことはできた。見えるか見えないか程度だった点は、少しずつその形を視認できるようになっていく。
「――小春」
そうして彼女の近くまで辿りついた時。
彼女は真っ暗な空間で、たった一人で、何かに耐えるようにしてうずくまっていた。
着ているのはいつものパジャマではなく、ドラマで見るような患者用の手術着だ。折れそうなくらいに細い背中が、小さく震えている。
「……小春」
もう一度名前を呼ぶ。
小春がようやく、少しだけ顔をあげた。そうして、信じられないという風に目をしばたたかせた。濡れた頬の上に、さらに涙がつたう。
「…………翔真くん、なんで」
なんで、のあとは続かなかった。その代わり、喉の奥から「うくっ」と変な音が漏れた。それに驚いた小春が口に手を当てて、やっぱり俯いてしまう。ぽたぽたと、涙が零れ落ちた。
「小春、おれ……」
入院していると聞いた時も、もう会わないようにしようと言われた時も、そして今も。
おれは、なんと声をかけたらいいのかわからなかった。
だって、頑張っている人に、これ以上頑張れなんて言えない。
大丈夫だとか、きっとよくなるとか。普段は何気なく使っていた励ましの言葉も、小春のこの姿を見たらとてもじゃないけど言えない。
だからおれに言えることは――おれにできることは、これしか思いつかなかった。
「小春に、これを受け取ってほしいんだ」
文具店で購入したものを小春に見せようとして、おれは自分の身体が透け始めていることに気が付いた。現実世界のおれが、目を覚まそうとしている合図だ。
――なんでだよ、ようやく会えたところなのに!
叫びたい気持ちだった。でもこうなってしまった以上、一秒たりとも無駄にはできない。
「小春、これ……!」
おれは無理やり小春の手を掴み、持ってきたものを握らせた。それから小春の手を包み込むように、自分の手を上に被せる。
――なあ、小春。
「おれ、待ってる」
約束する。
小春が『自信がない』っていうならその分まで。
「ずっと待ってるからさ」
――いつかまた、絶対に会えるって、おれは信じ続けるから。
**
目覚めると、階下から野菜を刻む音が聞こえた。母さんか父さんが、夕食の準備を始めたようだ。
「――……なんで目、覚めちゃったんだよ」
おれはガシガシと涙を拭って、ティッシュで鼻をかんだ。しばらくの間「目が覚めてしまったこと」で頭がいっぱいだったけれど、よく考えれば少しでも小春と話せたことに感謝すべきだ。小春に全身麻酔が効いている時間と、おれが昼寝したタイミングが少しでもずれれば、会えなかったのだから。
おれはポケット中を確認した。
右のポケットからは、銀のリングと表紙だけになった『ゆめきっぷ』が出てきた。
左のポケットは、中身がなくなっている。
「――……小春」
おれは目を閉じて、手術の成功を願った。