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一階におりると、おれが早起きするのに慣れ始めた母さんが、三人分の朝食を用意していた。淹れたてのコーヒーと、パンの焼ける匂い。いつもの朝の匂いだ。
父さんと母さんにおはようの挨拶をしてから、
「母さん、スマホ貸してよ。どこにある?」
「テーブルにあるわよー。もしかしたら新聞の下敷きになってるかも」
怪しむ様子もなく母さんは答えた。というのも、スマホを持っていないおれが、母さんのスマホを借りることはちょこちょこあるのだ。調べものをしたい時がほとんどで……まあ、調べものと言ってもゲームの裏情報や攻略法がほとんどなんだけど。
おれは検索サイトを開くと、『静岡 東京 行き方』と入力した。
「……遠いなあ」
誰にともなく独りごちてしまう。新幹線という単語だけで、果てしなく遠い場所のように感じられた。往復の賃金だって、おれの手が届く範囲じゃない。お小遣いやお年玉をすべて回せば行けるだろうけど、ゲームの類は諦めなきゃならない。
「遠いよ」
もう一度口に出す。
もしかしたら、大人からすればそんなに遠くはないのかもしれない。新幹線の切符を買って、あるいは車を運転して。あっという間に行けちゃうくらいの距離なのかもしれない。
けれど、おれにとってこの距離は決して近くはない。
そもそも小学四年生が一人で新幹線に乗れるのか。もしも駄目だった場合、父さんや母さんになんて説明して、東京まで連れて行ってもらうんだ。
問題はまだある。
おれは、小春の入院先を知らないのだ。
『東京 大きい病院 入院』
適当に入れて検索したけれど、数が多くてとてもじゃないけれど絞れない。そもそも小春の病気がなんなのかわからないから、「科」がどれなのかも見当がつかない。
――もしかしたらハチ公近くの病院か?
いや、いくらなんでもそんな分かりやすい訳ないか。
おれはポケットにそっと手を入れた。真っ先に触れる銀のリング。紙の部分を触ると、ため息が漏れてしまう。
『ゆめきっぷ』の枚数は何度数えても、残り二枚しかない。
これがなくなってしまったら、きっとおれはあの蒸気機関車には二度と乗れない。そうしたらきっと、小春の夢に行くことだってできなくなるだろう。
――このままだと、小春と会えなくなってしまう。
どこかに他の『ゆめきっぷ』は落ちていないのか。そんな期待もしたけれど、もしもあちこちに『ゆめきっぷ』が落ちていたらそれこそ大ニュースになっているはずだ。それが風の噂ですら聞かないのだから、どこかで再度『ゆめきっぷ』を拾うことには期待しない方がよさそうだ。
だから、『ゆめきっぷ』がなくなった後も小春と会いたいのなら、現実で会うしかない。
「……はあーあ」
おれは天井を仰いで大きなため息をついた。
夢の中で何度か、小春の入院先を聞こうとしたことはある。けれどいつだってはぐらかされた。だから結局、おれは小春のことをほとんど何も知らないままだ。そういえば、小春からおれの詳しい所在地なんかを訊かれたこともない。
小春はこのまま、あと二回、夢の中で会えたらそれで満足なのかな。
――もっと会いたいって思うのは、おれだけなのかなあ。
検索結果を開きっぱなしにしていたスマホに目を落とす。入院施設のある立派な病院の画像がズラズラと並んでいる。小児科病棟というものもあるらしく、部屋や廊下の壁にかわいいイラストが描かれている。
病室、検査室、診察室。どの写真にも映っていないのに、パジャマ姿の小春がそこにいる様子を簡単に思い浮かべることができて、それが悲しかった。
目を閉じると脳裏によみがえるのは、小春の震える指先ばかりだ。
「…………」
おれは、検索欄に『バカでも医者になれる方法』と入力した。
「――ええええええええ!?」
頭上から甲高い悲鳴が聞こえた。確認しなくたって、それが誰なのかは分かる。
「うるさいよ、母さん」
「いやあの、ご飯できたから呼びに来たらなんだか深刻な顔してるから、何してるんだろうって思って……そしたらあんた、え、医者!?」
「なんでもないよ。ちょっと思っただけだよ」
「いやいや、ちょっと思ったことなんて今までなかったでしょうよ。なになになんなの、本当に最近どうしちゃったの!? 夏休みの宿題を頑張ってるのと関係してる!? あ、翔真がお医者さん目指すって言うならお母さんは全然応援する――」
「あーもう、うるさいなあ」
おれは母さんにスマホを押し付けると、ダイニングテーブルについた。今日の朝食はホテルのそれみたいに美味しそうだ。きつね色の食パンにマーガリンをたっぷり塗って、おれはかぶりついた。
「お医者さんという職業に興味を持ったのかい?」
父さんまで……と思い睨みつけると、父さんは参ったというふうに両手をあげた。そして、話を続けた。
「勘違いしないでくれよ。お父さんは……お母さんもだけど、翔真に医者になってほしいと思っているわけじゃないんだ。確かに、医者というのは素晴らしい仕事だけどね」
「じゃあなに………」
「ただ、なりたいと思ったのなら応援したいと思っただけさ」
おれは眉根を寄せた。
「それって、なってほしいって思ってるってことじゃない?」
「いいや違うよ。子供が何かになりたいと思って頑張っていたら、それを応援したくなるのが親ってものなんだ。だから仮に、翔真がゲームのプロになりたいと言っても、今からフィギュアスケートを始めたいと言いだしても、やっぱりお父さんとお母さんは応援するだろうね」
そうなの? と母さんに確認をとる。
母さんは壊れたロボットみたいにカクカクと頷いた。……おれが一瞬でも医者について調べていたことに対する動揺を隠せていない。
「しかし……なんでまた急に、お医者さんに興味を持ったんだい?」
父さんがさくりと食パンをかじる。おれはオレンジジュースを飲んだ。
「別に……なんとなくだよ。おれみたいなのでも医者になれるのかなって疑問に思っただけ」
「そうか。――そういえば昔、お父さんもパイロットに憧れた時期があったなあ」
「パイロット? 父さん、飛行機とか好きだったっけ」
「いいや」
父さんはブルマンをすすり、ふっと笑った。
「ただ、好きな子のところに駆け付けることができる男になりたかったんだ。どんな遠くにでもさっと行けるような大人にね。だからパイロットという職業よりかは、自家用ジェット機を飛ばせる人になりたかった……といったほうが正しいかもしれない」
おれは口をあんぐりと開いた。
なんだろう、この親近感。もしかして皆、そういう時期があるのかな。
「……それで?」
「うん?」
「父さんが当時、すぐにでも駆け付けたいと思ってた好きな子、今どうしてるの?」
「ああ」
父さんは再びマグカップに口をつけ、そのまますいっと母さんを指さした。
「そこで、息子の成長に戸惑っているところだよ」
おれは再び、あんぐりと口を開いた。
*
朝六時に起きて、家族三人でご飯を食べ、父さんを見送る。
夏休みの宿題をこなして、昼食を母さんと一緒に食べる。そこからはゲーム休憩を挟みながら宿題をやって、寝る前に読書感想文用の本を読む。
そうして、二十一時過ぎには布団の中に入る。
これが最近の――小春と出会ってからのルーティンだった。
ただ、何日もこの生活をやっていると、流石に終わる宿題がちらほらと出てきた。漢字の書き写しや計算ドリルなど、ある意味何も考えなくていい作業系のものだ。自分にとって一番楽な宿題から終わってしまう。
これでは、あとあと自分の嫌いな宿題ばかりが残ることになる。
「……それはそれでいやだなあ」
終わったばかりの計算ドリルをベッドに放り投げて、おれは呟いた。これまでは夏休みの宿題なんて全部提出できたことがなかったけれど、今年はすべてきちんと終わらせたいと思い始めていた。
小春と就寝時間を合わせるため――すなわち早く眠るためにいやいや始めた宿題ではあったけれど、ここまできたら全部やらなきゃ格好悪い。
それに自分でもよくわからないけれど、普段はやらない宿題をすることで、自分と小春が繋がっていられるような――確かに小春は存在しているんだって、そう思えるような気がしていた。
「面倒くさそうなやつも、そろそろやっつけるか」
階下からは昼食を作る気配がしている。今のうちに、午後からどの宿題をやるかを決めておいて、昼食をとったらすぐに取り組もう。
面倒くさそうなやつ、で思い浮かぶのは、読書感想文と自由研究だ。感想文はまだ本を読んでいる途中だから、書きだすのは難しい。となると、自由研究か。
「研究、研究なあ……」
調べたいことなんて特に思いつかない。強いて言うなら、知りたいことはたくさんある。
小春の入院している病院とか。連絡先とか。
「小春こはる…………って、あっ!」
『ひらめいた』って、こういう時のことを言うのだろう。
おれは要らないノートを開くと、筆箱から鉛筆をだした。そして研究対象を書こうとして、漢字が分からないことに気付く。しばらく悩んでから、ぜんぶひらがなで書いた。
『めいせきむについて』
漢字はあとで調べよう。
そうと決まれば夢に関する本を図書館に借りに行こう。
「母さん。おれ、昼食食べ終わったら図書館に行ってくる」
「え、なんで?」
「自由研究の本を借りたいから」
その驚いた顔。この夏休み中で何回みたことか。
母さんは服にめんつゆのシミをつけたまま、「これでジュースでも買いなさい」と二百円くれた。
「…………」
図書館にはタダで水を飲めるところがあるから、この二百円で、小春に渡すお菓子を買おう。
おれはそっと、自分の財布に二百円をいれた。