鉄パイプの夜
・いじめ描写があるので苦手な方はご注意ください。
・この作品は復讐を肯定している訳ではありません。
夜の公園は荒れ果てていた。
突き倒された錆ベンチ。砂地にはねじ折られた桜の枝。
トイレや看板には、赤のスプレーで落書きがしてある。
また不良グループの集会でもあったのだろう。破壊の限りを受けた夜の公園に一人佇んでいると、ひっそりと孤独が癒えていく。
踏みにじられ傷ついているのは僕だけではないと、今だけは信じることが出来る。
あいつだ……マトバ……マトバだ。
全部マトバのせいだ。
今年同じクラスになってから、マトバは周囲をけしかけて僕をいじめるようになった。
理由は分からない。
マトバは僕の筆箱を踏みつけた。傘を壊した。
お尻をつねってきた。脚を蹴ってきた。頭を殴ってきた。
昼休みに付きまとわれて、ずっと悪口を言われた。
ありもしない嘘の噂をいくつも流された。止めてと何度言ってもダメだった。僕をいじめている時、マトバはいつだって笑っていた。心底楽しそうに笑っていた。あの嘲るような笑い方が、僕には一番許せなかった。
そんないじめがもう半年以上続いている。
先生に相談しても何もしてくれなかった。チクリと言われて、余計にいじめられるようになっただけだった。
誰も信用できなかった。
僕より不幸な人もいくらでもいるだろう。でもそういう人たちも、結局は他人でしかない。心を持っている筈なのに、分かり合えない。誰とも分かり合えないのが悔しかった。だから僕にとっては、心を持たないままに静かにただ傷つけられているこの公園だけが慰めだった。
「クソ……マトバの奴……」
マトバの悪口を声に出そうとして、思いとどまった。
僕は弱い。
弱いから、体の大きいマトバに勝てる筈が無い。勝てないのに悪口を言っても、負け犬の遠吠えでしかない。
眩しい電灯の下に顔を落とし歩いていると、
「なんだこれ……」
鉄パイプが木の傍に落ちていた。1メートル程で少し短めだ。不良グループが捨てて行ったのだろうか。
拾って持ってみると、手の平に吸い付くような錯覚を覚える。驚く程手に馴染む。拳が頑丈になり、鉄パイプの長さだけ腕が長くなったような錯覚すら覚える。
軽く振ってみる。程よく心地よい重さが遠心力を伴って腕を流れていく。上手く当てれば、大人でもタダでは済まない程の威力がありそうだ。それでいて重すぎない。日常動作の延長で難なく振るえる、恐ろしいほど強大な力を手にしている確かな実感があった。
素人が使うなら、剣よりも鉄パイプの方が強いかもしれない。頑丈だし、破壊力も十分。何より重心を捉えやすく使いやすい。
……今なら、勝てるかも知れない。マトバにも。
いや、間違いなく勝てる。今からマトバの家に行って、喧嘩を申し込んでやろうか。コテンパンにやられれば、奴も二度と僕を虐めなくなるかもしれない。しかし……流石にこの武器は……
散々迷って結局僕は鉄パイプを握り直し、木の傍に立て掛けておいた。
それでも鉄パイプの力が腕にしみこんだように、獣のような勇気は変わらず胸に燻ぶっていた。
……そうだ。鉄パイプが無くたっていい。殺す気でやれば、マトバにだって勝てる。今の僕なら、絶対に勝てる。
勇気の灯を消さないように、すぐに走り出した。マトバの家は僕と同じマンション。すぐそこだ。
◇
ブザーを鳴らすと、マトバの母親らしき女が出た。マトバに似て背の高い女だった。「マトバ君と話したい」と言ったら、不審そうにしながらもマトバを呼び出してくれた。マトバは上下紺のパジャマ姿だった。少しだけ眉をひそめて「何の用だ?」と面倒くさそうに零す。
「喧嘩したいんだけど」
なるべく低く言い放った僕の声に、マトバは少し意外そうに目を見張っていた。廊下の角に消えて行き、やがて平然としたまま戻った。手に黄土色の木刀を握っている。
マトバは「やろうぜ」とキャッチボールでもするかのような気軽さで促してくる。二人で肩を並べて夜の住宅街を歩く。「公園でやるのか?」と聞かれたので、顔を合わせないように頷く。
歩きながらも、僕は強烈な違和感を覚えていた。
何故僕は手ぶらで来たのに、マトバは木刀を持ち出した?
もっと驚くと思ったのに、何故マトバは平然としている?
疑問の風に勇気がかき消されそうだった。
今となっては激情よりも、疑問の方が昂っていた。また怒りを込めて声を放つ。
「マトバ」
「何だよ」
「どうして僕に酷い事ばかりするんだ?」
「どうしてって……楽しいからだよ」
「楽しい? 何が楽しいんだ?」
「なんでだろうなあ」
うすら笑いを衝動的に引っぱたいてやりたかったが、踏みとどまった。
それよりも今はマトバをもっと問い詰めてやりたかった。僕は少しも悪くないのだから、問い詰めた先にマトバを打ち負かせる気がしてならなかった。
「何でだ? ちゃんと答えろよ」
マトバは薄ら笑いを浮かべながらも、静かに口火を切った。
「……お前を殴ってる時、俺は全然痛くない。お前に悪口を言っても、俺は全然悔しくない。その感じがなんか、変な感じでさ。お前が痛い振りするだけのロボットみたいに思えてきて……ロボットがロボットのくせに痛がった振りしてるのがさ、楽しくて仕方ないんだ」
「僕はロボットじゃない!」
「……調子に乗るな」
風を切った木刀に身をひるがえしたが、遅かった。鋭い痛みが右脚を撃つ。痛みが鈍く響きわたっていく。
「この程度、痛くないだろ?」
……逃げなければ。丸腰で、木刀を持ったマトバに勝算はゼロだ。僕は甘かった。こいつには、言葉は通じない。殺す気でやるしかない。
公園に向かって駆ける。すぐに追いつかれ背中を打たれるが、それでも僕は足を止めなかった。目的の木は、すぐそこだ。
「ホラ、やっぱり痛くないぞ? ――いっ?!」
振り返りざまの鉄パイプの横薙ぎが、不意打ちにマトバの腕に命中したようだった。木刀で受けられたので大ダメージとはいかないが。
「痛いな……痛い……」
「分かったか? 僕はロボットじゃない! 本当に痛いんだ! お前のせいで!」
顔を歪ませてマトバが向かってくる。慌てて振りかぶるが間に合わず、体当たりされてバランスを崩しかけたが体を捻って何とか持ちこたえ、距離を取った。
そのまま互いに武器を突き合わせてじっと向き合った。
口の中に血の味が広がっていく。
息を整えながらも鉄パイプを強く握り直すと、やはり負ける気がしなかった。マトバの木刀よりこの鉄パイプの方が間違いなく強い。リーチが長く、頑丈で、威力も高い。
こんな強い武器でたかが木刀と戦うなんて、卑怯過ぎるようにも思えてくるが、卑怯でも何でもこれは戦いだ。どんな手を使っても、勝たなければならない。
「マトバ。痛いよね? 僕が感じて来た痛みは、まだまだこんなもんじゃないよ」
「そうだな……痛いなあ。やっぱり、喧嘩も悪くないな」
マトバは目を輝かせ、不気味に笑っていた。
「何が楽しい?」
「喧嘩してて……殴ったり殴られたりしてるとさ……相手の痛みなのか、自分の痛みなのか分からなってくるんだよ。その時……気持ちが通じ合うっていうかさ……その感じが、いいんだよ」
「……気持ち悪い。お前の気持ちなんか分かりたくも無い」
「やっぱり、いじめよりこっちの方が楽しいな」
刺突が来る。受けいなしても、上から横から続けざまに打って来る。
両手で握り直した鉄パイプで受ける。そのまま顔に押し当てて何とか仰け反らせた。
「ぐっ……!」
しかし、腰に鈍い痛みが広がっていく。……強烈な一撃を喰らってしまった。左手で腰を庇いながら距離を取る。
「痛いぞ……お前も痛いだろうなあ」
ただただ不愉快だった。マトバは、僕の何を知っているんだろう。僕の痛みなんて何も考えてこなかったのに、今になって僕の痛みを知ったつもりになっている。僕の痛みをマトバが分かる訳がないのに、分かって欲しくもないのに、分かったつもりになっている。嫌でたまらなかった。
……殺す。殺してやる。
息が上がっていて、言葉が出てこない。
もう、次で決める。上から叩き下ろす。木刀で受けられても、そのまま勢いで叩き潰す。死ぬまで何度も叩き下ろす。
距離を取られたら、追いながら横薙ぎの連発。そして喉に突き刺す。倒れても何度も突き刺す。
マトバが木刀を振り上げる。僕も構わず振り上げ、勢いのままに下ろす。
「っ……! あああああああああ!!」
叫びを上げたのは、マトバの方だった。
木刀を取り落とし、顔から血を流している。頭を押さえて、無様に地べたを転がっている。勢いは削がれたが、頭に命中したらしかった。
「いたいいいいいいいぃ! ああああああああ!!」
……大げさだ。
僕も肩を打たれていたし、唇と腰の痛みもまだ響いていた。だがこんなに叫ぶ程の痛みでは無かった。油断させて奇襲する作戦かとも疑ったが、マトバは無様に転がり続ける。こんな簡単に終わるとは思っても見なかった。あまりにも呆気ない顛末だ。マトバが……人間がこんなに弱いとは思っても見なかった。
「ひいいいいい! いいいいいい!」
何て白々しいんだろう。マトバの痛みは僕には全く伝わってこない。まるで壊れたロボットでも眺めているような気分だ。本当は痛くないのに、大げさに演技しているようにしか思えない。
「いいいいいいいい! いいいいいいい!」
いっそのこと殺してやろうか。
冷めた心のまま、本気でそう思えた。
しかし、踏みとどまった。
ここでマトバを殺してしまったら、僕は社会から反省を強要される。マトバの痛みに共感し、贖罪する事を強要される。そして僕はきっと社会の要請に抗う事が出来ない。僕自身、本気でマトバに謝ってしまうかもしれない。マトバを許してしまうかもしれない。それだけは我慢ならない。
「二度と僕に関わるな」
鉄パイプを投げ捨て、逃げるように走った。
砂地を蹴る度に、嘘くさい泣き声が小さくなっていき、怒りが沸々と湧き上がっていく。僕はそうやって、心の底に滲んで行く殺意を見つめ続けた。