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後編

「それではみなさん、頑張って切り裂きジャックを捕まえましょう!」

 翌日の放課後。

 オレのアトリエにいつものメンツが集まると早々に、気合十分に久月がそう告げた。

 元々その目的で集まっているので反対するような声は上がらなかったが、二日前とは違いすぎるその様子に由佐や水瀬、和泉は目を丸くしていた。

「あぁ? なんでお前まで驚いてんだ、和泉」

 一昨日から顔を出していなかった彼女に視線を向けると、少しばかり焦ったようにぱたぱたと手を振る。

「えっ、あ、いえっ。映像科の友達に聞いたんですよ、『言い合う声が聞こえたと思ったら女の子が泣いて走り去っていった』って。『やっぱ唯一の男って言っても、不良はムリだよね~』とも言ってたのでセンパイのことだな~って」

「は。そいつはいいダチを持ったな」

 口にしてからしまったという表情を見せる彼女からふんと視線を逸らすと、水瀬がこそこそと近づいて来る。

「ねぇ、確かに仲直りしなよって言ったけど、早すぎない?」

「別にいいだろ。言われた通りにしたんだ、文句を言われる筋合いはない」

「確かにそうだけどさ。でも……」

 納得がいかないように口をとがらせる水瀬に、久月の視線が吸い付く。

 ジーっとしたその眼差しに思わず水瀬も飛び退いた。

「なんでもないよ?」

「なんでもあるように反応するな。久月、気にせず続けろ」

 オレが促すと彼女はこくりと頷き、手元のファイルを開く。

「分かりました。では現状確認からしていきましょう」

 そうして久月から語られたのは、これまでの捜査のまとめだった。


・放課後、一人でいるときに襲われる。被害者は身体の一部がなくなったかのような幻覚を見る。

・犯行手段は歌によって発生したクリーチャーによるものだと考えられる。

・首元にアクセサリーのようなものをつけている。

・本学生である。


 久月たちが知っているのはここまでの情報だったが、それに加えてオレと水瀬だけが知っている情報が次になる。


・藍岳芸術女子学院に関わっている。

・藍岳芸術女子学院で発生した航空事故に関わっている。

・彼女の知っているこの学園の秘密がある。


 こうしてみると個人を特定する方法はないように見えるが、実はオレしか知らない情報がもうみっつある。

 それらを使えば疑惑を確信へと変えられるだろう。

 元より、彼女を見つけること自体は簡単だったのだから。

 ――そろそろ、頃合いか。

 オレは説明を終えた久月の頭に手を置くと、自然な手つきで髪を撫でながら口を開く。

「とりあえずこんなもんだが、まぁ特定は難しいな。久月の言葉じゃないが、地道にパトロールでもして見つけるしかないだろ」

「そういうことですので、わたしと千歳くん、和泉さんと水瀬先輩、北里先輩の三グループで分かれて捜索しましょう」

「別に不満があるわけじゃないけど、どうしてボクがひとりなんだい?」

「そりゃお前、一度被害に遭ってるんだからソロでも平気だろ」

 と、久月の考えを読んで理由を告げる。

 けれどそれだとオレの思惑的に困るので、

「だけどそうだな。ならオレと水瀬、久月と由佐、和泉で分けるか」

「えっ」

「いや、さっきも言ったけど不満があるわけじゃないんだ。別に変えてもらわなくていいよ」

 困ったように眉を下げながら由佐はちらりと久月を盗み見る。

 そこには散歩を中断されたワンコのように落ち込む久月の姿があった。

「落ち込むな。別に今生の別れでもないんだから」

「そうですけど……」

 唇を尖らせて上目遣いでこちらを見上げる久月。

 無意識なのかこちらの服を掴んでおり、黒縁眼鏡の奥に潜む大きな瞳から目が離せなくなる。

「……終わったらまた来い。相手してやるから」

 ある一名からのジトっとした視線を受け、なんとか視線を外すとそう告げる。

 しかしちらりと盗み見た先で「えへ、えへへ。分かりました……」と蕩けたような笑みを浮かべており、理性が緩みかけた気がしなくもない。

「というかわざわざセンパイたちのペアまで変える必要あったんですか?」

「由佐と水瀬を組ませてイチャつかれても困るからな」

 適当な理由でごまかすと突っ込まれる前に部屋を出る。

「いいから早く出ろ。人のアトリエを勝手に休憩所にするんじゃねぇ」

「別に休憩所になんて……でも早くないですか? まだ日も落ちてないのに」

 和泉が文句を言いながらもぞろぞろと廊下に出る彼女たち。

 全員ができたところで彼女を呼び止める。

「鍵は閉めろよ」

「分かってますよ」

 軽く頷くと彼女はスカートのポケットから鍵を取り出し、ガチャリと鍵をかける。

 その姿を確認するとオレはニヤリと秘かに口角を上げた。


「――切り裂きジャックに利用されても嫌だからな」


 その言葉にピクリと反応した彼女にオレは告げる。

「オレと水瀬は本棟に行くから。お前たちは別の場所を見回ってくれ」

「分かりましたけど……どうして本棟に? 被害は今のところありませんでしたよね?」

「ん、まぁ念のためだ。それにちょっと調べることがあってな」

 ポケットから取り出した鍵をピンと弾く。

 それだけで、オレの仕掛けは終了だ。

「じゃ、行くぞ水瀬」

「う、うん」

 まだ夢でも見ているかのようにポカンとしたままの水瀬を連れて、オレは音楽棟を後にした。



「ね、ねぇ。本当にあれだけで切り裂きジャックが現れるの?」

 彼女が動き出しやすいように暗くなるのを待ってから訪れた本棟の階段を上りながら、水瀬が不思議そうに首を傾げる。

「ちゃんと説明しただろ。それに、さっきの光景の通りだ」

 そう、オレたちは今切り裂きジャックに会いに向かっている。

 正確に告げるなら、彼女をおびき出したのだ。

「そんなに疑うならなにかかけるか?」

「それ絶対に私が負けるじゃん。というかねぇ、本当に彼女なの?」

「だからそれも自分で確かめろってんだよ」

 メンバーは交渉の進めやすさを考慮してオレと水瀬の二人だ。

 まだはっきりとはしていないが、やつはオレたちに危害は加えないだろう。

 どこか気の抜けた気分のままコツコツコツと階段を上りきると、最上階の廊下に彼女はいた。

「――よう、誘いに乗ってくれて嬉しいぜ」

 真っ黒なローブに身を包み、バタバタバタと騒めく赤い蝶を身に纏わせる彼女。

 深淵の底から放たれた赤い閃光が、こちらをまっすぐに射抜いた。

「ま、屋上ででも話そうぜ。ここは窮屈だろ」

 オレはそれを受け止めると、挑発するように人差し指を上に向けた。



 雲間に隠れながらも薄っすらとオレたちを照らす月明かりの下、屋上に強い風が吹きすさぶ。

 クリーチャーに物理的な干渉は関係ないと理解しているとはいえ、切り裂きジャックの周りを慌ただしく飛び舞う赤い蝶が風に流されないのがおかしく見える。

「とりあえずその仰々しい格好をどうにかしたらどうだ? オレたちがお前の正体に気づいてることは、お前も分かってるんだろ?」

「…………」

 ジッとこちらを射抜く赤い瞳。

 まだ警戒しているのか、ぐっとフードを深くする。

「確かにいつかは正体を明かそうと思っていた。敵も多いから、バレないように気をつけてはいたのに、どうして分かったんだ?」

 ガサガサとノイズまみれの忌避感すら覚える声が響く。

 説明は面倒だったが、その美しい音色を取り戻すためにもオレは口を開いた。

「まぁ、一番はその鍵か。いつかの夜に閉じ込められたわけだが……それ、マスターキーだろ。だから下手なウソまでついてオレに見られないようにしたんだ」

 なぜわざわざ自分で捕えておいて解放したかは分からないが、切り裂きジャックはそもそもオレに対して敵対するようなことはしていなかった。

 だからオレがいると不都合なことがあって、やむを得ずあの行動に出たのかもしれない。

「無意識だったから気づかなかったのかもしれないが、実はここ最近オレは自分のアトリエの鍵を自分で開けてなくてな。もしかしたらと思って事務に確認してみたんだが、オレのアトリエの鍵を借りたやつはいなかったそうだ。そうなると、あの部屋に出入りしていた人間が怪しくなる。ま、ここまでいけば確定だよな」

 もっともらしい言葉を重ねていくと、ローブの下の光が揺れる。

 自らの甘さを悔いているのか、それとも別のことを考えているのか。

 鍵というファクターで逆順的に結論は出た。

 けれどそんな心配は無用だ。

 お前はそれ以上にポンコツなのだから。

「ただ他にも山のように疑う材料はあったぞ。例えばその首元のチョーカーだがな、オレが話題に出した次の日に購入履歴が丸ごと消されていた。目の前に着けてるやつがいるのに、履歴を消したりしたら怪しいだろ」

「うぐっ」

「意味深な質問までしやがって。厨二病なのはどっちのときも同じか」

「えうっ」

「あったばかりの人間に、飛行機とか言う単語を告げてんじゃねぇ」

「もうやめて……」

 心当たりがあるのか、どんどんとフードの位置が下がっていく。

「ち、ちなみに、いつからあたしのことを疑っていたんですか?」

 その声はもうほとんどいつもの澄んだ音色に戻っており、オレはとどめとばかりに呆れたような視線を送る。

「んなもん、切り裂きジャックのクリーチャーが蝶だと分かったときからだ。クリーチャーは人の心を具現化したものだ。それが同じなんだから、疑うに決まってるだろ」

「返す言葉もございません……」

 そう呟くと切り裂きジャックはがっくしと膝から崩れ落ちる。

 ただ彼女を擁護するつもりはないが、この理由が裏付けされたのは由佐との実験があったからだ。

 赤いクリーチャーがクリーチャーが変化したものだと判明したからこそ、二つのクリーチャーが結び付いた。

 そう、オレの疑惑はすべて理由が後付けされている。

 ただ、そうは言っても早い段階から不思議に思うに足る材料は揃っていたのも事実。

「じゃ、じゃあどうして今まで知らない振りをしてたんですか?」

「ま、初めの内はクリーチャーについてオレの知らないなにかを訊き出すつもりだったんだがな……」

 ずっとなにかが欠けているような気分だった。

 それまでのオレはただクリーチャーに惹かれるだけで、それ以上の欠落があった。

 それがクリーチャーなら埋められると、彼らに込められた想いたちにそれを見出していた。

「だからその焦りのような衝動が、オレを突き動かしていた」

 だけど久月と過ごしていく内にそのなにかが満たされていくかのようにその衝動は収まっていった。

 先ほど告げた違和感が疑惑に変わったのはその頃で、下手に捕まえるよりもこのまま放置していた方がこの日常が続くのではないかと感じ始めていたのだ。

 オレが自分の考えについて答えると、水瀬が納得したように頷く。

「なるほどね。だから久月ちゃんが意固地になってるのを止めようとしたわけだったんだ。……って、それだと私たちはどうでもいいみたいじゃない」

「実際どうでもいい。被害っつっても、変な幻覚を見るくらいだろ? そんぐらいのイタズラ、やらせてやれよ」

 そう言って知らんぷりをするように顔を背けていると、あの日屋上で聞いた美しい音色が奏でられる。

「あはっ、やっぱり変わった人ですよね、センパイは」

 笑い声を漏らし、彼女は深いフードを外す。

「あぁ。ようやく出会えたな――」

暗闇から浮き出たのは艶のある藍色の髪。

 サイドで束ねられたその髪がさらりと揺れた。

「――和泉」

 そう、切り裂きジャックの正体、それは和泉望だった。

「ただそれも終わりだ。お前には訊きたいことがある」

 この学園にはなにかが潜んでいる。

 彼女はきっとそれを知らせるために、こうして活動して来たのだから。

「はい。あたしももう隠し事はしません。センパイたちと一緒に、この島を救いたいから」

 キラキラと降り注ぐ月明かりに照らされる中、和泉はそう言って静かに……けれど確かに瞳に炎を灯していた。

 それからオレと水瀬が知っている限りの情報を告げると、和泉はなるほどと頷いて口を開いた。

「ではまず初めにその認識から壊れてもらいます」

 そうして告げられたのはあまりに現実離れしていて、途方もない夢物語。


「――この島こそ、藍岳芸術女子学院なんです。あたしたちは六年前、航空事故に巻き込まれてからこの医療島で、クリーチャーという幻想と共に生きてきたんですよ」


 それは六年前のある日。

 なにが原因だったのかは結局分からずじまいだが、飛行機がとある女学院に墜落した。

 被害に遭ったのはそこの特別学科という、芸術科目に特化した特待生の集められたクラスだったのだ。

 彼女らが目を覚ましたのは事故の一年後、しかしそれがこの夢物語の始まりだった。

 彼女たちは皆、事故などなかったかのような記憶を有していた。

 それどころか、己の欠損した部位でさえもあるかのように振る舞っていたのだ。

 しばらくの調査の後、それは彼女たちが共通認識の世界――互いの感性に引っ張られて生じた幻の世界を認知しているということが判明する。

 後にクリーチャーと呼ばれるこの現象が判明し、それから治療は変わった。

そして政府の協力もあって精神的な治療を施す場所、人口フロートが建設されることとなる。

 ――それこそがこの島。

 そこにある建物は藍岳芸術女子学院を彷彿とさせるような造形となっており、教師役とされる医療従事者には精神のプロフェッショナルが選出されたのだ。

 そうしてなにも気づかず、なにからも背を向けて幸せに眠り続けるのが――オレたちだった。

「…………」

「…………」

 和泉の話が終わった後も、オレたちはしばらくの間無言だった。

 聞いた言葉が信じられない。

 自らの見ているものがまやかしだと、思うことができない。

「確かに困惑すると思います。でも思い出してみてください。おふたりの記憶は、どこまで矛盾せずにいられますか」

「――っ」

 言われて気づく。

 今までの生活の中で、違和感を覚えたときは幾度もあった。

 覚えと記憶が食い違い、勘違いだと蓋をしてきた。

「そうなんです。さっきも言った通り、あたしたちは五年もの歳月をここで過ごしています。その中でこの幻に気づいてしまわないように、自らの記憶さえも欺いていたんですよ、あたしたちは」

 その言葉を聞いてオレは和泉と出会った日にここから見た光景を思い出す。

 それは、学生街とも言える町並みだった。

 ――オレは、オレたちは、ずっと幻に縋って生きてきたのか……?

 恐る恐る視線を動かすと、そこに広がっていたのは広大な海。

 岸壁から覗く荒々しい波に、自分さえも揺らされているような感覚に陥る。

「ただもちろん、本来のこの島の目的はあたしたちの治療です。先生たちはあたしたちに自然な形で現実を思い出させなくちゃいけなかった。ですが彼らはクリーチャーという異例な現象の研究をするべく、思い出させないようにしていたんです」

「だから藍岳芸術女子学院の文字がタブーとなっていたのか」

 揺れる視線の中なんとか言葉を返すと、和泉はこくりと頷いた。

「はい。以前パンフレットをわざと置いておきましたが、そのときの妹背先生の反応の通りです。彼らは先生という皮を被った研究者なんですよ」

 どこか憎しみの込められた言葉に、オレは彼女の目的に気づく。

「そうか、あの切断されたように見えた腕は事故の被害だったのか。そうしてお前は、オレたちの記憶を取り戻そうとしたんだな」

「その通りです。まぁ正確には事故当時の記憶を呼び覚ましてるんですけどね」

 頷くと和泉は首元のチョーカーに手をかける。

 そしてその下に巻かれていた包帯も外し、真っ白で綺麗な彼女の首を露出させる。

 しかし和泉が口を動かして出現した赤い蝶がその首にとまると、大きく切り裂かれたかのような生々しい傷跡が露になった。

「見えましたか? 本来のあたしはあの事故で首に怪我を負い、声が出せなくなってるんです」

 和泉が口を閉じ、蝶が消滅するとともに彼女の首も元の綺麗な状態に戻る。

 ――いや、むしろあの状態が元なのか……。

 ノイズのように聞こえていた声も、それはきっと無声と有声の狭間で生まれたものだったのだろう。

「これはみんなが過去を思い出せる思い出の歌。藍岳芸術女子学院を見ることのできる、唯一の歌なんです」

 そっと懐かしむように和泉は両手を胸に重ねた。

 オレはそんな和泉から、思いつめたように地面をジッと見つめる水瀬へと視線を移す。

「気にするなってのもムリな話だが、前を向かなきゃ始まらないだろ」

「そう……なんだけどね。でもおかしいんだよ。こうして思い出そうと受け入れると、自然と記憶は浮かんでくるんだけど……あの日、突然視界が真っ白になったあの瞬間から先の記憶が、なんにもないの」

 どこか視線の定まらない瞳で宙を見つめる水瀬に、久月が秘かに唇を噛んだのが視界に入った。

 そしてそのまま罪悪感を抱いたようにバツの悪そうな顔で、彼女は水瀬の手を掴む。

「……佐奈センパイ。今からセンパイの記憶を呼び覚まします。驚くなとは言いません。恐らくムリでしょうから。ですがその代わりに、この学園にいる大切な人のことを考えてあげてください」

 そう告げると和泉の手元から赤い蝶が羽ばたき、そっと水瀬の手のひらにのった。

 その瞬間、まるで頭痛に苦しむかのように頭を押さえながら叫ぶような呻きを上げた。

「お、おい、水瀬のやつ大丈夫なのか?」

「いいえ、大丈夫なわけがないです。だって、自分が死んだときのことを思い出してるんですから」

 握った手が離れてしまわないように、和泉はぎゅっとその手に力を込める。

 その真剣な眼差しは冗談など言っているようにはまったく見えなかったが、それでもその言葉が信じられなくて訊き返してしまった。

「死んだってどういうことだよ! 確かに水瀬も事故でけがを負ったのかもしれない。でも、だからって――」

 ありえるはずがない。

 否定したい感情が浮かび上がり、それに伴って言葉尻も強くなる。

 けれどそんな威勢も、冷徹に告げられた事実の前では無力でしかなかった。

「センパイが読んだ本にも書いてあったんじゃないんですか? 死者一名って。……そうですよ、誰かは死んでいないといけないんです」

「……は? 確かにそうだが、そんなバカな話が――」

「あるんです。ここにいる佐奈センパイはそんな事実が認められなくて生み出された、クリーチャーなんですよ!」

 目尻に涙を溜めたまま、赤い瞳でオレの瞳を覗き込む。

 その中に燃える炎は悲しんでいるようで、哀れんでいるようでもあった。

「藍岳芸術女子学院にはふたりの天才がいたんです。ご存知の通りだと思いますけど、そのうちのひとりが由佐センパイでした。特別学科の中で、センパイの才能に嫉妬しなかった人は少なかったと思います。でもそんなセンパイにも弱さはあった。佐奈センパイへの依存です」

 なにかを思い出すように歯噛みした和泉。

 彼女は深呼吸するように大きく息を吐くと、視線を苦しむ水瀬に戻した。

「だから突然の別れに耐えられず、そしてクリーチャーという共通認識の世界の中でも突出した感性が、センパイを生み出してしまったんだと思います」

「……そんなことが起こり得るのか……」

 考えてみればクリーチャーとて現実に干渉し得るのだから、不可能ではないのかもしれない。

 故人を夢に見てしまうのは、きっと誰しもが同じなのだから。

 オレがそう納得しようとしていると先ほどまでとは大きく反転して和泉は苦虫を噛み潰したような顔をする。

「ただセンパイ。センパイも人のことを心配していられる立場ではないんです。……だっておかしいじゃないですか。女学院なのに、男子生徒がいるだなんて」

「――ッ」

 その一言を聞いて、オレの背筋に冷たいものが走る。

 なにか取り返しのつかないことが起こりそうで、頭の中をサイレンがうるさいばかりにかき乱した。

「センパイに出会ったとき、あたし何者って訊いたじゃないですか。それはその通りなんです。藍岳芸術女子学院に、男子生徒なんていない」

 ――ダメだ。

「だからこの島に男性がいるとしたらそれは医療従事者、つまり先生たちしかいないんです」

 ――ダメだダメだ。

「けれどセンパイは先生でもなかった。だから近づいてその正体を見極めようとしたんですが――」

 ――それ以上聞いてはいけない――。


「――ですがあの夜、切り裂きジャックとして初めて対峙したときに気づいたんです。センパイはクリーチャーだって」


 オレがクリーチャー。

 その言葉はまるで運河のようにするりとオレの中に入ってきて、それまでの忌避感がウソのようにオレの身体に馴染んだ。

「そうだ」

 オレは初めから、違和感と共に生きてクリーチャーを求めていた。

 なにか足りないものを探すように見出した郷愁は、オレがクリーチャーだったからなのだろうか……?

「じゃあ、オレを作ったのは……」

 オレの中の欠落はある少女によって埋められた。

 それこそがオレに込めれた願いだとしたら。

彼女を守ることを運命づけられていたのだとしたら。

「あたしも最近思い出したんですが、当時藍岳芸術女子学院ではとある小説が流行っていたんです。その作者こそ、由佐センパイと双璧を成していたもうひとりの天才。世間を騒がすほどの実力を持った天才ピアニストであり、小説家の面も併せ持っていた彼女の名前は――」

 和泉がその名を告げようとした瞬間、ガチャリと屋上の扉が開く。

「――わたしです。千歳くんは、わたしの主人公(もの)なんです」

 ひときわ強い風が屋上に吹き、彼女の癖のある茶色の髪がふわりと揺れる。

 大きな黒い瞳が黒縁眼鏡の奥からオレを捉えて離さなかった。

「そうか、お前がオレの作者だったんだな――久月」

「はい。わたしもちゃんと思い出せました。わたしがどうして作品を書けなかったのか。書けないんじゃないんです、ずっと書いていたんです。悠月くんの毎日を、悠月くんのいる日常を。辛いことのなにもない、平和な桃源郷を」

 楽しそうに、嬉しそうに、笑顔を見せる久月。

 しかしその瞳は一切輝いておらず、薄ら寒いものを感じながらそれに応える。

「原因が分かってよかったじゃないか。ところで由佐はどうした? 一緒だったろ」

「北里先輩なら今ひとりで切り裂きジャック探しをしていますよ。わたしがこちらに行きたいとお願いしたら、『別に構わないよ。一人の方が動きやすいし、都合がいいからね』と」

「は。ひとりだけ蚊帳の外かよ。かわいそうじゃないか」

 久月と会話を交わしながら、その違和感の正体を探る。

 ――なにか、なにかを見落としている。

 それが今この状況を、限りなく危うくさせている。

 そんなときだった。

 それまで俯いていた水瀬が顔をあげたのは。

「千歳ちゃん、悠月くんがクリーチャーだと思い出して、辛くはないの?」

「あは。そんなわけないじゃないですか。ここは桃源郷。夢も幻もここでは全部本当なんです。ここには痛みなんて、あってはいけないんですよ」

 そう言って久月は水瀬から和泉へと視線を移す。

「――ッ、逃げろ和泉!」

 その黒い瞳が和泉を捕えた瞬間、オレは咄嗟にそう叫んでいた。

 ――そうか。そうだったじゃないか。

 オレと久月の関係を知り得て、その上でオレたちを会わせた人間がいたじゃないか。

 久月の後ろに立つそいつの影を見て、ぞわりと総毛立つ。

「やはり一昨日の夜研究室に侵入したのは君たちだったか。でも残念だよ千歳。お前がそちら側につくなんてな。遅れてやって来た反抗期か?」

「……ッ。妹背……!」

 違和感は常にあった。

 腹の底が読めないやつだとは思っていたが、まさかここまで狂ったやつだとは思っていなかった。

やつは初めから、クリーチャー(オレ)と作者(久月)なら切り裂きジャック(和泉)に対抗できると分かっていたんだ。

「そう睨むな。それに恨むんなら、自分の好奇心を恨むんだな。そのせいでお前の大事な人はすべてを思い出さなくちゃいけなかったんだから」

 ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて妹背は久月の肩に手を置く。

「自分の好奇心? ……まさか」

 久月の様子が変わったのは、昨日の夜。

 つまり一昨日喧嘩別れした後からそれまでの間となる。

 その期間でこの話に関わる出来事といえば――。

「もしかして久月お前、あのときオレと水瀬が地下室に行ったのをつけていたのか⁉」

「そうだ。久月はお前たちが見たものと同じものを見た。けれど運の悪いことに私もその場にいてな。彼女にはこの島の平和のため、すべてを思い出してもらったんだ」

 妹背はオレに向かって挑発的な表情を向ける。

「ッ、てめぇえええ!」

 それが罠だと頭では理解しつつも、オレは衝動的に拳を握りしめていた。

「それが治す立場の人間のやることか!」

 ぐっと足に力を込めて久月に並ぶ妹背へと一気に肉薄する。

 そしてそのまま振り上げた拳を下ろそうとした瞬間、急に身体がいうことをきかなくなる。

「悠月くんはわたしと一緒にいるべきなんです。そして一緒に切り裂きジャックを捕まえて、島の平和を取り戻すんです」

 ピタリと久月の赤い瞳がオレを捕える。

「ダメですよ。そんな千歳くんもかっこいいですけど、あなたは女性に暴力は振るわない優しい人なんですから」

「――ッ、マズい!」

 ――――。

 久月の瞳に引きずり込まれそうになっているとノイズのような歌が場を支配し、赤い蝶がオレの身体にバタバタとぶち当たる。

「ッ!?」

 一瞬身体にノイズのようなものが走ると身体のコントロールは元に戻っており、オレは咄嗟に地面を蹴ると水瀬を抱きかかえて屋上の柵を飛び越えた。

「えっ、ちょ、ちょっと悠月くん⁉」

「うるせぇ! 喋るな、舌噛むぞ!」

「というかムチャしないでもらえます⁉ 合わせるこっちの身にもなってください!」

 重力に従って落下していく中、一緒に屋上から飛び降りた和泉がぐいとこちらの腕を引っ張る。

「あそこの茂みに大きなマットが敷いてありますから、うまく落ちてくださいよ!」

「なっ、お前、そんなアナログな仕込みしかしてなかったのかよ! もっとこう、魔法みたいにふわって感じに着地するとか!」

「あるわけないでしょ! 確かにちょっとそんな雰囲気出してましたけど、あたしに特殊能力とかありませんからね⁉」

 ――ボスンッ。

 クッションが深く沈み、少なくない衝撃が身体に返って来る。

「うぅ……いてて。二回目だけど慣れないなぁ」

「こんなもんに慣れたら人間やめちまえ。……つか水瀬、お前重すぎだろ。マットの沈み方尋常じゃなかったぞ」

「わっ、私だけの重みじゃないし! というか悠月くんの方が絶対に重いからね⁉」

 若干頬を染めて抗議する水瀬を退かし、オレは茂みから出ないように立ち上がる。

「ねぇ、ここまでして逃げる必要あったの? そもそもどうして逃げたのよ」

「そうですね……。少し待っていれば分かると思います」

 そう言って和泉は立ち上がると、オレたちを誘導するように近くの体育館に入る。

「ここからなら先ほどの場所が見えますね」

「そうみたいだけどそれが――」

 二階の更衣室の窓から外を覗いていると、本棟から白衣を身に着けた男性が十人近く出てくる。

 彼らは手に黒い物を握りながら、なにかを探すようにきょろきょろと辺りを窺っていた。

「――ッ、だ、誰なのあいつら……!」

「彼らはおそらく、教員(先生)ではない医療従事者(先生)でしょうね。先程も、あれが奥に控えていたってことですよ」

 慌ただしく散開していく男たちを細い瞳で眺めながら、和泉はため息を吐く。

「ただ、拳銃まで持ってるとは思いませんでしたけど」

「拳銃って、いくら人口フロート(ここ)の管理をしてるからってそんなもんまで持ってるもんなのか?」

「あぁいえ、言い方が悪かったですね。麻酔銃ですよ、たぶん。ここは精神異常者の集められた特製病院ですから」

 どこか自嘲するように和泉は続ける。

「なんだかんだとこの世界は脆いんです。みんながみんなお互いに見たくない部分を補い合っているだけですから。その繋がりさえ絶ってしまえば、現実を思い出さずにはいられないんです」

 鏡に映る自分をそっと触れて、瞼を閉じる。

「ま、向こうはそんな現状ですからね。みんなを夢から覚まさせようとしているあたしは排除しなきゃいけない敵ってわけですよ」

 暗闇の中にぼんやりと移るその姿はまやかしのようで、オレは自然とその肩に手を置いていた。

「んで、お前はどうしたいんだ」

 結局のところ入り組んでいるように見えて、事態は実にシンプルだ。

 和泉はそんなオレの問いに振り返ると、瞳の中に炎を灯して強く頷く。

「あたしはみんなを……前に進ませてあげたいんです。確かにここの生活は楽しくて幸せかもしれません。でもいつまでも後ろを向いてちゃいけないと思うから。過去を受け入れて、あたしたちは歩き始めないといけないんですよ」

 その瞳はあまりに真っ直ぐで、真っ直ぐ過ぎて直視できなかった。

 思わず視線を逸らしてしまったオレに、和泉は申し訳なさそうに笑う。

「センパイたちには悪いかと思いましたが、クリーチャーであるセンパイたちなら戦力になると思って勝手に気づいてもらっただけですから。どうするかは、おふたり自身が決めることです」

「わ、私は――」

「しっ」

 喋ろうとした水瀬の口を咄嗟に塞ぎ、オレは人差し指を唇に当てる。

「静かにしろ。誰か来る」

 ぴりっとした緊張が走り、シンと静まり返った室内に廊下から響くカツカツカツという足音が届く。

「ふふ、そちらにはまだ状況を把握しきれていない者がいる。ならばこちらの動きを把握できる場所に移動するだなんて、簡単に読めるぞ」

 挑発するような声。

 それは先ほど屋上で対峙した、妹背のものだった。

「ま、マズいんじゃないの⁉」

「そうですね。なんにせよ、今は見つからない方がいいと思います」

「つっても、更衣室になんざロッカーぐらいしかないけどな」

 辺りを見回しても、隠れられるような場所はロッカーぐらいしかない。

 しかもこの部屋は突き当りに当たる場所なので、逃げるとしてもこの窓から飛び降りるくらいしか選択肢がなかった。

「……いざとなったら強行突破か」

 ごくりと誰かの喉が鳴り、オレたちは一番奥のロッカーに隠れる。

「ちょ、ちょっと悠月くんっ。こんなときにどこ触ってるの⁉」

「あぁ? つか、なんで全員一緒なんだよ。バカか?」

「まぁ、一番奥以外行きたくないでしょ。あ、ちなみに佐奈センパイのお尻触ってるのあたしです」

 狭いロッカーにぎゅうぎゅうに押し入り、互いの感触どころか息遣いまで感じられる小さな密室。

 平時ならどことなく甘い雰囲気でも流れるところだろうが、

「さて、ここが最後になるわけだが。覚悟はできたか?」

 静かに部屋の扉が開かれ、ピンと緊張感が走る。

 キィィ。

「なに、捕まえたとして悪いようにはしない」

 キィィ。

「ただもう一度、夢を見てもらうだけだ」

 ゆっくりと、ただ確実にロッカーが開けられていく。

 そして妹背はオレたちのいるロッカーの前まで辿り着いてしまった。

「「「…………」」」

 三人がジッと扉の隙間から妹背の様子を窺う。

 そして妹背がどこか嬉しそうにニヤリと笑ったところで、

 ――Prrrrrrr!

 そんな耳を刺激する電子音が鳴り響く。

「……私だ。なにか問題か?」

 妹背はポケットから取り出した端末を小さくしたような板を耳に当てると、怪訝そうな顔で眉間に皺を寄せた。

「なんだと? 研究室に侵入者? そんなものはお前らで処理しろ……は? 被検体23だと? ……分かった、すぐに向かう」

 一瞬こちらを恨めしそうに見つめて、妹背は先ほどとは打って変わって腹立たしそうに足音をカツカツと鳴らしながら去って行く。

「……助かったのか?」

「どうなんでしょうか。あたしたちよりも優先されることが起きたって感じなのが、妙に気になりますけど」

 和泉の懸念ももっともだったが、ともかく首の皮一枚繋がったことも確かなのでロッカーから出るオレたち。

 けれどひとりロッカーの中から出てこない水瀬に、揃って顔を見合わせる。

「……どうした。なんならお前だけで――って、なに笑ってるんだ」

 水瀬の表情は想像と違って、笑っていた。

「ふふ、あのね? そういえばスマホもパソコンも、テレビさえも忘れて生活してたんだなぁって先生のスマホ見て思っちゃって。あぁ本当になにもかもを忘れて、外の世界を遮断して、幸せに暮らしてたんだって実感しちゃったんだよ」

 それは過去を思い返して懐かしさに浸るような、昔の自分に照れ臭くなって苦笑いを浮かべるような、そんな優しい笑み。

 和泉はまた言いにくそうに、彼女から視線を逸らす。

「それは……」

「うん、分かってるよ。私は忘れてたんじゃなくて、そういう風に記憶して存在してるんだって。これが、記録であることも」

 そんな和泉を引き寄せると労うように頭を撫で、水瀬はくしゃっと笑った。

「……でも、それじゃあ本当に繋がっていることにはならないから。メールの一通だって、他愛もない電話のひとつだって、なくていいことにはならないから」


「――だから私は、大切な人たちのためにこの楽園を壊す」


 言葉と裏腹な優しい笑みに、それまで辛そうに目を逸らしていた和泉の瞳に涙が滲む。

「これまでずっと大変だったんだよね」

 ぎゅっと抱き寄せられて、小さな嗚咽が耳に届く。

「ひとりぼっちでウソを吐いて、なにもかもと戦っていたんだよね」

 オレはそんな二人からそっと視線を外すと、雲で真っ暗になっている夜空を眺めながら彼女の言葉の意味を考えているのだった。



「それで悠月くんはどうするの?」

 和泉が落ち着いたのを確認すると、暗い更衣室の中で水瀬がオレに問いかける。

「そうだな……。オレにはそのスマホやらパソコンやらテレビやらも分からない。事態も……頭の中では解っていても、実感はまるでない」

「……センパイは元は物語の主人公ですから。持っていて当たり前の知識も記憶も、そのベースがないんですね……」

 和泉の言う通り、そこがオレと水瀬の違いだろう。

 水瀬はクリーチャーではあるが、水瀬佐奈という一個人だ。

「だから正直オレはまだなんにも分かっちゃいないんだ。オレ自身さえも、自分のやるべきことも。だから――」


「一度、久月に会いに行く」


 そう言ったオレを、水瀬も和泉も止めなかった。

 ただ気をつけてと、それだけを口にした。

「会うさ。後で相手してやると、約束したからな……」

 和泉たちと別れ、オレは暗闇に紛れるように音楽棟へとやって来ていた。

 道中先ほどの白衣を着た男たちを見かけなかったのは少し不思議だったが、好都合だろう。

 真っ黒な廊下の先にあるアトリエ。

 なぜだか高揚する気持ちを抑えながら、オレはその扉を開いた。

「――よう、久月」

「はい、千歳くん」

 扉の先にいたのは、ピアノの前に座ってぼんやりと見えない月を見上げる久月。

 彼女は声に気づくと身体ごとオレに向き、ふわりと優しい笑みを浮かべた。

「来てくれると信じていました」

「約束したからな」

 オレは自然と笑みを返しながら久月の隣に腰を下ろす。

 黒々としたピアノを前にオレは鍵盤に手を下ろした。

「ひけるんだろ? 連弾だ」

 オレがそう話しかけると、久月はきょとんと目を丸くしてオレとピアノを見比べる。

 そしてしばらく宙を見つめると、そっと鍵盤に手を添えた。

 ――ポーン。

 ふたつの音が重なり合う。

 オレは久月を、久月はオレを、瞳に映ったふたりが秘かに見つめ合って微笑む。

――ポンポロポロポンポンポン。

 それは幸せな夢。

 ゆったりとした川の中を、二人で流れていく。

 ポン――ポン――ポン――。

 けれどそんな時間も、久月がオレに抱き着いたことで終わりを迎える。

「……温かいですか?」

「あぁ」

 頷いてやると彼女は寂しそうに笑い、ぐっとオレの胸にその額を押し付けてきた。

「ずっと、ずっとこの温もりがほしかったんです」

 ――あぁそうだ。

 久月千歳は孤児だった。

 小さな頃に親に捨てられて孤児院に預けられ、そのせいか人付き合いが苦手になって友達も作れないまま、たまたま持っていたピアノの才能と共に孤独に育ってしまった。

 期待していた高校生活も天才という評価の前に生徒から遠巻きに扱われ、人一倍温もりを求める少女は誰からも温められることなく日々を過ごしていた。

 オレはきっと、その表れ。

 人に対して素直になれない不良(オレ)の物語は、彼女の写し鏡だった。

「こうなって初めて温もりがある日々を体験できるなんて、皮肉みたいです」

 ぎゅっと抱き締める力が強くなり、その固い感触がオレの身体を縛り付ける。

「千歳くんにはもう見えてしまっているかもしれませんが、わたしの両腕はあの事故でなくなってしまっているんです」

「……みたいだな」

 首だけを動かしてオレの身体を抱き締めるその腕を見つめると、それは白く無機質な義手。

 先ほども器用に演奏をしていたが、きっとクリーチャーのお陰もあるのだろう。

 オレがなにも言えずに黙っていると、胸の辺りがじんわりと濡れだす。

「ずっとずっと、温もりがほしかった。手を伸ばしてもずっと手に入らなかったものを、わたしはもう、手を伸ばすことすらできなくなってしまったんです。わたしの腕はもう、なんの温もりも感じない。ならたとえそれが偽物だったとしても、今ここに温もりがあるのなら、わたしはそれに縋っていたいんです」

 ごしごしとなにかを拭うように顔が胸に押し付けられ、久月はパッと顔をあげる。

「ねぇ、千歳くん。わたしの、わたしだけの主人公。あなたと共にどこまでも、堕ちていきたいと願うのはいけないことなんでしょうか?」

 その顔はどこまでも儚くて、どこまでも純心で、オレは思わず見惚れてしまう。

 ただひたすらに救いを求めた少女。

 ふと脳裏に、瓦礫の中で失った腕を伸ばし、懸命に祈る少女の姿が浮かんだ。

「……そう、だな。もう、怖がらなくていい。恐れなくていい。未来に、希望を持たなくったっていい……のかもしれない。永遠がいつかは、その凍てついた心を溶かしてくれるとしても、そのときが来るまで、優しく夢見たっていいんだろうな」

 そっと腕を彼女の背中に回す。

 その腕が温もりを感じないのなら、その分オレが温もりを与えてあげよう。

 たとえそれが偽りだったとしても、確かな熱を与えてあげられるのだから。

「千歳くん……」

「久月」

 熱を孕んだ視線が重なる。

 彼女の甘い香りが鼻孔をくすぐり、なんとも言えない刺激が背筋をゾクゾクと撫でた。

「わたしはもう、千歳くんさえいてくれれば……」

 そんなどこか甘い雰囲気を断ち切るように、突然アトリエの扉が開かれてハスキーな声がかけられる。

「ようやく見つけたよ、悠月。さーちゃんがどこにいるか、教えてもらおうか」

 予想もしていなかった乱入者にふたりして目を丸くしていると、入り口に立っていた由佐が近づいて来る。

「あの部屋に行っても、カメラじゃ捉えられてなかったから。まぁ代わりに手足は増えたんだけど、それでも知っている人に訊くのが一番だからね」

「……もしかしてお前も思い出したのか?」

 いつもとは違う雰囲気に、オレは思わず久月を庇うように立ち上がった。

「思い出した? ううん、違うよ。ボクはずっと、覚えていたんだから」

 懐かしむかのようになにもない空間を見上げると、由佐はニヤリと口角を吊り上げる。

「悠月はボクがどうして天才と言われているか、知っているかい?」

「あ、あぁ。独創的な色遣いだろ?」

 意図は分からなかったが素直に答える。

 けれど由佐は首を横に振り、左右の手でそれぞれ人差し指を立てた。

「確かにそうだね。けれど実は少し違うんだ。ボクの本当の才能はね、一度見たものを忘れないことなんだ。そしてそれを、意識的に忘れることができる。記憶しているボクと、無意識なボク。知識として様々な色を無意識に使えるからこそ、ボクは天才なんだ」

 ピンと立てた指をフリフリ振って、まるで二人いるかのように演出する。

「ただそのせいで無意識のボク(あっち)はちょっと変わった性格になっちゃってね。そんなボクを、みんなが忌避した。……けれどさーちゃんだけは、ボクと接してくれた。ボクに温もりを与えてくれた」


「それなのに……それなのに。さーちゃんはいなくなった。ボクにとって唯一の支えが、世界が、簡単に崩れ去ってしまった」


 部屋の空気が変わったのを肌で感じとったのか、オレの背後で久月が肩を震わせる。

 由佐の纏う雰囲気が重く、冷たくなっていく。

「でもさーちゃんはボクを見捨てなかった。いなくなって尚、ボクの下に返ってきてくれたんだ。だからボクは記憶しているボク(ボク)を封印した。とても、とても幸せな生活だった。……それなのに、切り裂きジャックは記憶しているボク(ボク)を目覚めさせた! そしてあまつさえ、さーちゃんをボクの下から奪おうとしている!」

「なっ」

 制作などしていないはずなのに、由佐の足元から赤い蔓がオレたちに向かって伸びてくる。

「きゃっ」

 オレが咄嗟に久月を抱えて飛び退くと、座っていた椅子が大きく弾き飛ばされていた。

「ちょ、ちょっと待ってください! 千歳くんは切り裂きジャックになんて加担しません! わたしとずっと一緒にいてくれると言ってくれたんです!」

 オレに庇われながら声を上げる久月。

「そうだ、オレは――」

 そんな彼女に続くように口を開き、オレは固まってしまう。

 ――オレは今、なんて言おうとしていたのだろうか?

 お前の味方だ?

 真実はもう忘れて、今まで通りの生活を維持する?

 確かにそんなことを言おうとしていたのかもしれない。

 だって、オレはそのために在るのだから。

 久月の寂しさを埋めるために、その辛すぎる現実を救う者として物語(オレ)は偽りの世界で彼女と共に生き続ける。

「……そんなんじゃねぇだろうが」

 ふつふつと、消えかかっていた想いが浮かび上がる。

 そうだ。

 あいつは孤独なんかじゃなかった。

 自分の気持ちを、孤独を、小説(オレ)という形で表現し、そのおかげで天才という壁が消えて、友達だってできたんじゃないか。

 あいつは誰かを感動させるために奏で、誰かに想いを届けるために紡ぐんだ。

 それなのに――。

「は。由佐、お前には感謝するぜ。おかげさまでオレが本当にやるべきことを思い出せた」

 怪訝そうに眉を顰める由佐、驚きに目をパチクリとさせる久月。

 オレはいつかの夜に少女が月に託した願いを一身に背負いながら、ピチョンと一滴を落とす。


「オレは一人の主人公として、天才ピアニスト小説家(お前)を取り戻す! こんな優しい世界でぬくぬくと温まっているなんて、らしくねぇんだ。愚直なまでに手を伸ばし続けるその姿を……オレは知っているから」


 そうだ。

 久月千歳という少女は、強い。

 環境に押しつぶされそうになっても、たとえ孤独であったとしても、決して手を伸ばすことをやめなかった。

 その想いの結晶であるオレが、そのことを否定するなんて、あってはいけないんだ。

「……ふふ、そうですか。千歳くんはそう言って、離れたりなんてしない。あぁきっと、あの目狐のせいですかね? ならわたしは、主人公(あなた)を取り戻します」

 赤い瞳がオレを捕える。

「どうやら千歳も目的は同じようだね。なら共同戦線といこう」

 パチンと由佐が指を鳴らし、白衣を身に纏った男が二人部屋に入って来る。

「さっき彼らと交渉してね。島の安寧のために、ボクの手下になってくれるそうだ」

 二つの銃口がオレを捉える。

「……おいおい、マジか」

 勢いのままに啖呵を切ったのはよかったが、その後のことを考えていなかった。

 というか久月と由佐だけならなんとかなると思っていたが、四対一は流石に予想していなかった。

 とにかくこの場から逃げることを考えていると部屋の上部に取り付けられている窓ガラスがガタンと吹き飛び、強い風が開け放たれた窓から侵入する。


「――よく言ったね、悠月くん!」


 風に運ばれるように少女がひらりと降り立つ。

 彼女は由佐に真剣な眼差しを向けると、びしっと指を突きつけた。

「ゆーちゃんの未来は私が守る! ゆーちゃんにはまだまだ無限の可能性があって、未来があって、こんなところで立ち止まっている暇なんてないんだから!」

「さーちゃん……ボクは君さえいてくれればいいんだ。君のいない未来になんて、可能性はないんだよ」

 どこか寂しそうに由佐が微笑み返すと、ゆらゆらと揺れていた蔓がピタリと水瀬を捉える。

「さぁお前たちも、今だけはさーちゃんを傷つけることを許してあげるから。二人を保護するんだ」

 由佐の声に従うように二つの銃口が向けられる。

 水瀬が現れたことには驚いたが、逆に追い詰められたのでは――そう思ったとき、ノイズ混じりの歌が響く。

「うっ、ぅあっ」

 ノイズが走り、久月と由佐が苦痛に頭を押さえる。

「な、なんだっ⁉ ――うわぁ」

 突然のことに背中を見せた男たちに近づき、思い切り蹴りをぶち込んだ。

「は。なんだ、ただ無鉄砲に来ただけじゃなかったんだな」

「無鉄砲なのは悠月くんの方でしょ。……まぁ、そのおかげでゆーちゃんに言いたいこと言えたし、私たちには必要なことだったって分かってるんだけどね」

 彼女のおかげで開けた道を走る。

 けれど部屋から出る前に、オレたちは後ろ髪を引かれるようにそっと彼女たちに視線を送った。

「……またな、久月」

「……じゃあね、ゆーちゃん」



 翌日、学園は喧騒に包まれていた。

「ねぇ、あの人たち誰?」

「分かんないけど、先生は臨時コーチとか言ってたような?」

 それもそのはずで、昨夜の白衣の男たちが生徒のいる学内に現れていたのだ。

 ――目的はオレたちの捜索か、それとも新たな反逆者を出させないためか。

 恐らくはそのどちらもだろうが、それを気にせずオレは本棟で話し込む女子に話しかける。

「……なぁ、放送室使えるやつって誰だ」

「え? えっとぉ……三年生の間宮先輩です……かね? 放送委員会の委員長らしいですしぃ……」

「そうか。わかった」

 知りたいことも分かったので離れようとするオレの背中に、彼女たちの視線が突き刺さる。

「ねぇ、あんな人いたっけ?」

「み、見たことないよね? なんか声も低かったし、ちょっと怖かった……」

 そう、オレは今まことに不服ながら、女子生徒に紛れるべく女装させられていた。

「んー、でもこれだけ女の子多かったら男の子っぽい子もいるよねー」

「そだね。ま、私たち全校生徒把握してるわけじゃないんだし、誰だっけ?なんてよくあるよくある」

「……んなわけあるか」

 首だけを回してちらりと少女たち窺いながら、ぼそりと言葉が口を出た。

 服飾も専門としている水瀬の尽力があるとはいえ、オレの女装はムリがありすぎた。

 けれど彼女たちは根本的に己を偽っているため、疑うという行為から綻びが生まれることを無意識に恐れてしまっている。

 だから多少の疑念も、都合よく納得してしまうのだ。

「確かに言う通りだったが。和泉……後で覚えておけよ……!」

 どうしてこんな状況になっているのか。

 それは、昨夜に遡る。



「まったく! ムチャしないでもらえます⁉ 合わせるこっちの身にもなってくださいって言いましたよね⁉」

「知るか。オレのせいじゃない」

 久月と由佐から逃げ、駆け付けてくれた和泉に先導されてオレたちは学園から見て島の裏側に位置する森林へとやって来ていた。

「知らないってまったくもう……」

「まぁまぁ。悠月くんも照れてるんだよ、格好つけたシーンを見られちゃって」

「は。照れるとか、ふざけたことぬかしてんじゃねぇ」

 やれやれといった感じに生暖かい視線を向けて来る水瀬から顔を逸らし、月明かりだけがうっそうと照らす木々の奥へと視線を移す。

「つかこんな場所があったんだな。島の裏手には行くなと言われていたが、普通に森だな」

「当初はこの付近に専用のセラピーが作られる予定だったそうですよ。結局不要となったらしいですけど」

「そうなのか」

 頷きながら視線を彷徨わせているとふとした違和感に気づく。

「ってお前、どうしてそんなに詳しいんだよ」

 ――そうだ。

 記憶を思い出したからこの島の現実を知っているというのはいい。

 けれど、いくら現実が分かったからと言って島の管理者である妹背たちの事情を知ることはできない。

和泉はこの島の裏側について、詳しすぎる。

 オレが疑惑の眼差しを向けると和泉は胸の下で腕を組んで唇に手をやり、バツが悪そうに苦笑した。

「えっと……秘密にしておいてもらえます?」

 そんな風にちろっと舌を出した彼女に案内されて訪れたのは、どこか落ち着く癒しを感じさせるようなログハウスだった。

「ここが先ほど言ったセラピーの予定地だった場所です」

 慣れたように中に入るとパチリと明かりをつける。

 数時間振りの蛍光灯の明かりに思わず目を細める。

「ここは……」

 段々と色を取り戻す瞳に映ったのは外装に対してひどく無機質な、机と椅子がひとつずつ置かれているだけの寂しい室内だった。

 机の上には本棟の地下で見た端末もどきが置かれており、そこから伸びたいくつものケーブルが壁へと続いている。

「あたしが記憶を思い出したのは、偶然でした」

 白い光を浴びて、赤い蝶が舞う。

 和泉はそっと天井を仰ぐと、くるりと振り返って言葉を続けた。

「たまたま、たまたまだったんです。今年の始め、朗らかな春の陽気に誘われるように屋上でうとうととしていたとき。微睡に呑まれて無意識に歌を口ずさんでいたんです。それこそが藍岳女子学院の象徴だった、それに気づいたときにはもう、あたしは思い出していました」

 そっと首元に手をやり、「それから首の傷が見えるようになっちゃいまして。包帯もチョーカーも、付け始めたのはそれからです」と冗談でも言うかのような口調で付け足す。

「思い出した始めの内は割と塞ぎ込んだりもしたんですけど、そこから段々と現実(今)に対して興味を持ち初めまして。図書館に行ったりして調べました。そして開かずの扉の開け方も思い出してましたから、あの地下室で……その、パソコンを盗みまして」

 照れるように笑うと和泉は机に置かれていた端末もどき――パソコンというらしいそれに指を這わせる。

「昔からこういうのは好きだったので、そこからホストコンピューターに侵入して色々とデータを拝借させていただきました。そのときに監視カメラの録画機能も停止させたんですけど、流石に停止させることはできなかったので。盗んだ情報にあったここに、本拠地を作らせてもらったんです」

 和泉の視線につられるように室内を見回すと、無機質な中にも確かな生活感が見受けられる。

 ただそう長い期間滞在していたわけでもないのか、部屋の中に生え始めている植物などは放置されていた。

「そうして情報を集めていく内に、自分がどうして思い出したのか、そんなことを考えるようになりまして。……まぁ、さっきも言いましたけど、それで切り裂きジャックとして活動するようになったんです」

 そう言うと和泉はすべてを伝えたと判断したのか、黒いローブをばさりと脱ぎ捨ててグッと伸びをする。

 ふぅと息を吐いた彼女の顔からは先程までの緊張感は抜け落ちていた。

「今までは偽装のためにローブを羽織ってましたけど、地味に動きにくいんですよね~、これ。走ったりすると蒸れて汗かいちゃうし。もう身バレしちゃいましたし、着なくていいと思うと楽ですね~☆」

「変わり身早いな。正直今日一で戸惑ってるぞ、今」

「まぁいいじゃないですか~☆ あたしだってずっと気を張ってて疲れたんです。ここなら気を抜いても問題ないですし」

 そう言って和泉は椅子に座ると上に物が置かれているというのに器用に机に突っ伏す。

「はぁ~。センパイたちの協力を無事得られてよかったです。お二人はクリーチャーですからあたしを止めることもできますし、逆にあたしに対するカウンターになり得る生徒のみなさんを押し留めることもできます。まぁ今回はそれがおふたりの……いえ、だからそんなおふたりを仲間にすることは、あたしが目的を果たす上で割と重要だったんですよ」

 顔をうつ伏せにしたまま軽い口調で告げる和泉の身体は微かに震えている。

 こいつはオレたちがどんな立場にいて、自分の側に着くということがどんなことを意味しているのかを知っている。

 平然を装っているが、彼女はその重みを受け止めているのだろう。

「は。バカなやつだな」

「そうだよ。もう望ちゃんはひとりじゃない。私も悠月くんも、あなたの想いに突き動かされて、そうして自分で決めたんだから」

 そっとオレと水瀬が和泉に手を伸ばす。

 労わるようにその頭を撫でると、

「アハハ、確かにそうですね☆ ならあたしは、お二人をうまく活用して目的を果たそうと思います。センパイだからって、遠慮はしませんよ☆」

 和泉は努めて明るく、オレたちに気づかれないように泣いた。

 それから彼女が落ち着くまで待っていると、なぜかローブを被って顔をあげた。

「話を戻しますが、実は今絶賛ドン詰まり中だったりしまして。これまでひとりひとりクリーチャーに干渉して思い出させていくのには成功してたんですけど、ご存知の通りそれって一時的なんですよね。それというのもクリーチャーが共通意識を元に形成されているからなのか、無理やり思い出させた状態だとまるで砂に穴を開けたみたいにすぐ元に戻ってしまうんですよ」

「へぇ。ま、そもそもそうじゃなかったらクリーチャーなんて見えないわけだしな。となると、生徒全員同時にお前の歌を聞かせなくちゃいけないってことか?」

「理論的に考えるとそうなります。しかもできるならクリーチャーが発生しているとき、つまり放課後とかがベストですね」

 こくりと頷いて和泉はアハハ~と苦笑いを浮かべる。

「でもそれができないから困ってるんですよね。先生に正体がバレちゃった以上、今までみたいに地道な行動もできなくなりますし」

 う~んとオレたちが悩んでいると、それまで黙って聞いていた水瀬が口を開く。

「なら全員に聞こえるように、放送とかで流せばいいんじゃないの?」

「それは考えました。でも媒体を介すると耳に馴染みにくいのか、思い出すまでに時間がかかるんですよ。本棟の放送室を占拠するとしても、流石に突破されて捕まってしまうかと思って結局行動に移せなかったんですよね」

「確かに間に合うかどうのってチャレンジはできないよね」

 そっか~と頷きながら、水瀬の視線がピタリとパソコンと呼ばれるものに留まる。

 それから人差し指を頬に当ててしばらく考え込んでから、

「ハッキングができるんだったら、放送室とここを繋ぐことってできたりしないの? ここからなら学園から離れてるから時間は稼げるんじゃない? 私たちもいるんだし」

 こてんとかわいらしく首を傾げた。

 オレには意味がよく分からなかったが和泉にとっては衝撃的なことだったらしく、バッと弾かれたようにカチャカチャと板を叩く。

「イケる……! 距離が遠すぎる点は中継器を置けば問題ないし、ここならすぐには発信元が特定されない!」

 そしてローブすら振りほどく勢いで顔をあげると、満面の笑みを浮かべた。

「イケますよセンパイ! ただそのためには準備が必要なので、センパイには変装をして校舎に忍び込んでもらいます!」



 と、いうことでオレはそのハッキング?とかいうやつの仕込みをしなければいけなくなったのだ。

 無論事前に準備ができていたわけではないらしく、昨夜は多少の危険は顧みずにオレと和泉で再度学園へと戻って物資を調達しての突貫作戦となった。

 ――まさかまたあの研究室って場所に戻ることになるとはな……。

 結局的に和泉には振り回されっぱなしなので、機会を見てし返そう。そう思いながら三年生の教室に着くと、オレは入り口付近で雑談している生徒に声をかける。

「なぁ、間宮ってやついるか? 放送委員の」

「うにゅ? いるんじゃよ?」

 話しかけた生徒はやけに小さく、声も作り物みたいに高くて変な語尾もついていたが、その返答さえもらえればいい。

「それでどいつだ?」

 まるで小学生な彼女の容姿を無視して話を続けると、少女は自分を指さしてニコリと笑う。

「吾輩のことじゃね。放送委員になにかようじゃよ?」

「お、お前か……。うん、まぁいい。とにかく好都合だ。なら一緒に来い」

 問答無用で間宮の首根っこを掴んで連行する。

「じゃよ⁉ うぇ、ちょ、ちょっと待ってほしいんじゃよ、悠月氏⁉ そんな言うこと聞かない猫連れてくみたいに連行しないでほしいんじゃが⁉」

「知るか。こっちは忙しいんだ……ってお前、今なんて呼んだ?」

 聞こえるはずのない言葉に思わず立ち止まる。

 彼女の顔を窺うと、不思議そうにその大きな目をぱちぱちと瞬かせていた。

「うにゅ? だって悠月氏じゃろ? この学園唯一の男子生徒の。まぁ今は女子生徒の制服着てるみたいじゃけど、分かるに決まってるんじゃね」

「は。ははははは。よしお前、生きて帰れると思うな」

 ひょいと担ぐように持ち直すと、オレはわざと揺れるように歩く。

「うぇっぷ。悠月号は乗り心地最悪なんじゃね~、ガクッ」

 グロッキーになる間宮を連れて放送室を訪れる。

 部屋の鍵は和泉から事前にマスターキーを借りていたが、間宮に開けさせると様々な機材がひしめく混然とした空間が開かれた。

「なんかごちゃごちゃしてるな。こんなところにいてよく平気だな」

「放送室なんてだいたいこんなものじゃよ。あ、そこケーブルあるから踏まないように気をつけてほしいんじゃね」

「おっと。マジにジャングルかよ……」

 物だらけの室内を案内される通りに進み、促されるままにパイプ椅子に座る。

「それで放送室になんの用じゃね? ま、まさか、我輩の溢れ出る大人の魅力にノックダウンして、我慢できんくなったと?」

「バカか。後なんで急に博多弁を出してくる」

 恥じらうようにポっと頬を赤らめる間宮。

 そんな彼女を鼻で笑うと、むくれるように唇を尖らせた。

「吾輩も悠月氏みたいな不良は願い下げじゃねん」

「うぜえ……。とにかくお前にはここの仕組みを教えてもらう。これを取り付けなくちゃいけないみたいなんでな」

 そう言って和泉から渡されたものを簡易テーブルの上に置くと、間宮はなぜか妙に感慨深そうにそれを手にする。

「なるほどなんね。この島の生活も、そろそろ潮時ってわけなんじゃね」

「なんだお前、意味あり気に呟いて。それがなんだか分かってるのか?」

 嫌な予感が頭をよぎり、咄嗟に器具を取り返す。

「遠隔で放送するつもりなんじゃろ? それでどうやるのかは正直知らないんじゃが、あのセラピストの人たちも出て来てることじゃし、切り裂きジャック氏がとうとう本格的に動き出したってことなんじゃろ? 我輩たちの記憶を取り戻すために」

「っ、お前、なんでそれを――」

 ヤバい。今すぐここから逃げ出した方がいいかもしれない。

 そんな言葉が頭に浮かんだが、間宮はあっけらかんと笑った。

「あー、警戒しなくていいんじゃね。我輩元々、そんなに過去に固執してないし。なんとなく今のまま過ごしてるだけの放浪者じゃからねん」

「……つまりお前は、全部知ってるのか?」

「全部っていうのがどんなことかは知らないけどねん。まぁ、藍岳芸術女子学院のことは覚えてるんじゃよ」

 特に気にした様子も見せずにあっさりとその名を口にする。

 そのことに驚いている内に間宮はさっとオレの手からものを攫うと、ガチャガチャと周辺の機材を弄り始めた。

「悠月氏が持ってきたこれじゃけど、音量とか色々とアナログな操作はここでするしかないんじゃね。悠月氏はそれも込みで頼まれてたんじゃろうけど、他にもやることはあるんじゃろ? だからここは我輩に任せてほしいんじゃね」

「……いいのか?」

 オレはこのとき、なにに対していいかと訊いたのだろうか?

 自分でも答えの出ていない質問に間宮はパチリと瞼を瞬かせて、

「別段気にしなくていいんじゃね。我輩はなんとなく藍岳で過ごしてきて、気づいたら終わってて。延長できるのならいっかなって軽い気持ちで数年を過ごして来たんじゃよ。だから残しておきたい思い出とか、失いたくない記憶とか、そういうのも特にないと思ってたんじゃけど……今日、我輩たちのために頑張っている人を見て、ふと思ったんじゃよ。停滞の中にいても、思うことはある。生きている。でもやっぱり前を向けなくちゃ、そういうのは無になってしまうんじゃって」

 作業音がやかましく響く室内で、その声は静かに流れた。

「は。ここにも止めさせようとするやつらが来るだろうからな。せいぜい気をつけろよ」

「ふぇっふぇっふぇ~、伊達にこの島で長々とここを仕切ってたわけじゃあないじゃよ。何人たりとも、我が放送は止められないんじゃね」

「そうかよ。……じゃあな」

 和泉から渡されていたもうひとつの物を簡易テーブルの上に置くと、短く答え、放送室を出る。

 始業前の喧騒を耳にしながら、オレは駆け出した。



 ログハウスへの帰り道は監視カメラというやつを避けなくてはいけないらしく、指定された経路を通るため通常よりも時間がかかる。

 元々着ていた服は事前にその道中に隠しておいたので、男子の制服に謎の安心感を覚えていたその帰路の最中、草陰でごそごそとなにかをしている不審者と遭遇した。

「おい水瀬、お前こんなところでなにしてるんだ」

「あれ、悠月くん? 放送室で準備してるんじゃなかったの?」

 草木の中から顔をあげ、きょとんと瞳を丸くする水瀬。

 オレが簡単に間宮のことを説明すると、どこか嬉しそうに優しい瞳を校舎のある方向へと向ける。

「……そっか。彼女たちの中にも、明日を向こうとしてる人もいるんだね」

「そうらしいな」

 どうやら感傷に浸っているらしいのだが、身体の半分ほどを草木に隠したままの姿なのでなんとも共感しづらい。

 むしろこれは笑いを取りに来てるのではないだろうか? そんなことが頭を過ぎっていたときだった。

 ベチャと水音が聞こえたかと思うと、赤い蔓がオレたちに向かって伸びてきた。

「あぶねぇ!」

「きゃっ⁉」

 咄嗟に飛び出し、水瀬もろともごろごろと地面を転がる。

「惜しかったね。やっぱり君の主人公は伊達じゃないってことかな、千歳」

「もちろんです。千歳くんはなにからでもわたしを守ってくれるヒーローですから。でも今は、少し寝ぼけているようですけどね」

 耳に馴染むその声に一瞬でも嬉しくなってしまうのはどうしようもない性なのだろうか。立ち上がりながら、オレたちの前に現れた久月と由佐を見つめる。

「安心してください。怖いことなんてなにもありません。ただあるべき姿に、あるべき形に戻るだけですから」

 ふわふわとした茶色の髪が風に揺れ、黒縁眼鏡の奥に潜む赤い瞳がオレを捕える。

「そうさ、なにも変わりはしない。これまで通りのボクたちだけの楽園を、後悔も絶望もなにもない桃源郷を取り戻すんだよ」

 ぴょこんとアホ毛が跳ね、丸々とした赤い瞳が水瀬を捕まえる。

「なんだお前ら、カラコンでも着け始めたのか? ガキじゃねぇんだから、似合わないことはやめとけよ」

「ゆーちゃんも千歳ちゃんも元のままの方がかわいいのに。もったいないよ?」

 オレたちの挑発に、彼女たちはそっと瞼を閉じた。

「そうですか。少し痛いかもしれませんが、我慢してください。これも千歳くんのためなんです」

「さーちゃん、ボクたちはいつまでも一緒だって、誓い合ったよね」

「「ッ!」」

 バッと弾かれるようにオレと水瀬は正反対に走り出す。

 それを追って久月と由佐が駆け出した。

「ま、当然お前が来るよな」

 振り返ると、こちらを一心に見つめて追ってくる久月の姿が視界に入る。

「待ってください! これ以上逃げたって……けほっけほっ」

 けれど所詮彼女も文化系女子。

 足場の悪い森林を軽やかに走り抜けることなどできるはずもなく、早々に息を切らしていた。

「は。もうちょっと体力つけた方がいいんじゃないか? フルとは言わないが、クォーターぐらいは走り切れた方がいいだろ。色々と心配だしな」

「べ、別に……いいです。そういうのは、千歳くんがしてくれれば。心配なんてする必要ないんですから」

 立ち止まり、久月は膝に手をついて息を整えようとする。

「そうかよ。じゃ、お言葉に甘えてここは逃げさせてもらうか」

 そんな彼女を尻目にオレが草木の影に姿を消そうとしたとき、久月がすぅと息を大きく吸ったのが視界に入った。

「千歳くんだって、別に体力あるわけじゃないのに! 男の子だからわたしよりあるってだけで、どちらかといえば体力ない方じゃないですか!」

「うぉっ」

 ズシリと身体が急に重くなる。

 疲れが押し寄せるようにわいてきて、思わずその場でこけてしまいそうになった。

「マジか。和泉の言ってた通りだな……」

 疲労感に包まれる身体を見下ろしながら、オレは事前に和泉に言われていた言葉を思い出す。

『センパイがあのとき動けなくなったのは、単純にセンパイが千歳ちゃんのクリーチャーだからなんです。言ってしまえば、作品にとって作者は神です。その言葉に逆らうことはできません。ましてセンパイは小説の主人公なんですから、なおさらその言葉には弱いんですよ』

 確かにオレはあいつに対して色々と甘い部分があったと少しは思っていたが、まさかそんなカラクリがあったとは。

 それならば仕方がないと、よく分からない言い訳を自分に言い聞かせたのを覚えている。

「でもま、仕掛けが分かっちまえば対策はとれるわけだからな」

 オレはポケットからボイスレコーダーを取り出すと再生ボタンを押す。

「ぅあっ、またこれですか……っ」

「悪いな。使えるものは最後まで利用する派でな」

 それは以前実験的に和泉が自らの声を録音しておいたものらしい。

 効果自体は生の歌にはだいぶ劣るらしいが、これでオレへの干渉ぐらいは防げるのだとか。

「これでようやくゆっくり話せるな、久月」

「千歳くんとのトークタイムにはとても賛成ですが、それは千歳くんが正気に戻ったらです」

 忌々しそうな瞳でオレを見つめる久月。

 ……いや違う。あいつはオレを見てはいない。オレの後ろに見えているであろう、和泉を睨んでいる。

 彼女はきっと、本当に……。

「…………」

「……あれ」

 ふっとノイズが消える。

 オレは真っ二つに壊したそれを捨てると、一歩久月に近づく。

「オレの質問に「はい」と答えられたら、いくらだってトークタイムをしてやるよ。あぁ、もちろんそうだ。オレはずっとお前の傍にいてやる。この世界すべてを敵に回して、オレがお前を守ってやるよ」

 突然の申し出に久月はぱちぱちと瞼を瞬かせていたが、その意味を理解できたのか次第に顔を華やがせる。

「やっぱり千歳くんはわたしの傍にいてくれるんですね⁉ はい、なんでも言ってください。どんなことだって、「はい」と言って見せますから」

 オレは彼女が頷いたのを確認すると、そっと確認するように言葉を紡ぐ。


「……なぁ、お前は……。もう全部、いらないって言うのか?」


「え……」

 予想外の質問に久月は呆然とする。

 なにを言っているのか分からないといった風に、その瞳はオレを見つめ返してくるばかりだった。

「お前が手にしようとしたもの。人の温もり、絆。それらはもういらないのかって訊いてるんだよ」

「そ、そんなことあるわけないじゃないですか! わたしは千歳くんの温もりがほしいんです。それさえあればいい、わたしの願いは変わっていません!」

 久月はそう言って勢いよくオレに迫って来る。

 オレは間近に迫ったその肩を掴むと、そっと遠のけた。

「お前はまた、そうやって自分を偽るのか? 奏楽科(ピアニスト)であったことを忘れていたように、そうやって本当の願いさえも忘れてしまうのか?」

「……さっきからなにが言いたいんですか? 千歳くんはわたしがウソつきだって言うんですか?」

 イラ立ちか、焦燥か。

 それとも意識の底に心当たりがあるのか、久月にしては珍しく鋭い視線を送って来る。

「そうだな。思い出せ、小説(オレ)はあくまで手段だっただろ。自分の弱いところを、人付き合いが苦手で、不器用な自分を、お前は小説(オレ)にのせて曝け出した。壁を作られちまうような天才としてではなく、寂しがりやなひとりの少女としての姿を見てほしかったから」

 それは、オレの中に確かにある想い。

 不器用ながらに、誰かに触れたいと、願った心。

「なぁ。お前は、どうして奏楽科(ピアニスト)ではなく文芸科なんだ? 腕だって、ひけるようになっているのに。それでもお前は文芸科を選んだ。それはどうしてだ?」

 目を逸らした彼女に問いかける。

 久月は事故で両腕を失った。

 この世界に置いて、クリーチャーとは損失を埋めてくれる過去(魔法)でもある。

 声を失った和泉が歌い続けていられるのも、そのおかげだ。

 だから久月には二つの選択肢があったはずなんだ。

 まずは奏楽科(ピアニスト)として、それ以前からの延長線上の生活を送ること。

 そしてもうひとつが、文芸科としてオレを生み出すこと。

 おそらく無意識の内にそれは行われたのだろうが、久月は選んだのだ。確かな昨日ではなく、不確かな明日を。

「オレを生み出したせいでお前が書いた小説はみんなの中で現実の記憶として扱われ、この世界から作者の記憶は消えた。つまり学園で話題になっていた小説の作者という席を捨ててまで、会えるかどうかすら分からないオレを選んだんだよ、お前は」

実際にオレたちは今年になるまで会わなかった。

 久月の小説が話題になったのは航空事故の起こる一ヶ月ほど前。

 藍岳芸術女子学院の少女たちはあの日までの日常を自然と繰り返すのだから、本来ならば久月が人気者になったはずの世界を経験できたはずなんだ。

「お前がオレを選んだのは、そうまでしてオレに会いたかったからなのか? それとも――」

 言いかけたところで、久月がオレの両腕をガシリと掴んでくる。

「わた、わたしは、温もりがほしかった。それなのに伸ばした手までも失って、もうどうしようもなくなって、わたしは千歳くんを願った」

 自分でも分かっていなかったことを問われて、混乱しているのだろう。

 ギリギリともの凄い力で腕が締め付けられる。

「でも、千歳くんが現れたのは、偶然? わたしの中にある、唯一わたしの手を取ってくれる人だったから? ……わたしは、千歳くんを願ったわけじゃないかったの?」

 オレはその手を振りほどこうとはせず、名前を呼んで顔をあげさせる。

「もう一度訊く。お前が願うのは、オレか? それとも、伸ばすことのできるこの腕か?」

 黒縁眼鏡の奥で黒い瞳が揺れる。

 自分の本当の願いはなんだったのか、己を見透かすようにオレを見つめる。

「わたしは……助けてほしかったんです。どうしようもない世界で、たったひとつの希望に縋ったんです。……でもそれは、きっとわたしを知ってほしくて踏み出した小説(一歩)と一緒。だって千歳くん(あなた)は小説(あなた)だから。わたしが本当に願ったのは、進むための一歩。伸ばすことのできるこの腕」

 そう、久月は知っている。

 誰かに与えられた温もりは、いつかは冷めてしまうことを。

 自ら掴み取ったものにしか本当の温かさは存在しないのだと。

 久月は真っ直ぐにオレの瞳を見つめ、オレの腕からその手を放した。

「わたしはまだこの手を伸ばし続けます。千歳くんの温もりは温かいけど、その分冷たくもあるから。だからわたしは、この手で温もりを掴み取ろうと思います。……でも、それでも。私は強欲だから。……ずっと、わたしのことを見守ってくださいね」

 ふわりと、泣きそうな顔で笑顔を浮かべる久月。

 それは今まで見た中で一番の笑顔で、オレはそっと彼女を抱き締めた。

「あぁ、そうだな。お前はそんぐらい欲深い方が似合うよ。ただ、勘違いするなよ。お前は確かにオレを願った。助けてほしいと、手を伸ばした。だから。お前が辛くなったら。お前が現実に耐え切れなくなったら。オレは、お前を助けに行ってやる。いつだって、どこでだって、オレはお前の傍にいるよ」

「はい……。わたしは信じて、今は前を向こうと思います」

 抱き合うオレたちを風が撫でる。

 それはとても冷たかったけれど、いつか訪れる春を知らせるかのようでもあった。



「ところでわたしたちを分断したのは作戦だったんですか?」

 暗い森林を気をつけて進みながら久月が訊ねてくる。

「作戦なんて大層なもんじゃない。ただ自分の大切なやつは自分でなんとかしろって、事前に決めてただけだ」

 目はだいぶ慣れてきたが、平たんな道ではないのでやはり歩きづらい。

 足元をきょろきょろと見ながら続ける。

「ただ実のところオレの方が心配だったけどな。確かに由佐は水瀬のことを大切に思ってたみたいだが、あいつなら本人に説得されりゃ聞き分けだって持つだろ」

 確かに昨夜の彼女は様子がおかしかったが、それでもオレの持つ由佐のイメージが説得を楽観視させていた。

 けれどそんなオレの考えを打ち砕くように久月が重い声音を発する。

「そうでしょうか。わたしはあくまでもこの島で手に入れた夢に縋っていただけです。でも北里先輩は大切に持っていたものを、ある日突然失ってしまった。元々持っていたものを失ってしまうというのは、とても立ち直れるものなんかじゃないと思いますよ」

 確かに久月と由佐はある意味で正反対のところにいるのだろう。

 久月は手に入らないものに手を伸ばし、由佐は失ってしまったものに手を伸ばした。

 どちらがより辛いか、悲しいかなんて量ることはできない。

 けれども――。

「なっ」

「……な、なんですか、これ……」

 茂みを超えた先に広がる少し開いた空間で、オレたちは驚愕に目を見開く。

「……なんだ、千歳と悠月か。二人とも仲良くなれたのかい?」

 嬉しそうに振り返った由佐の後ろで木漏れ日に照らされるのは、赤い蔦の群れに幾重にも縛られて宙づりにされる水瀬の姿。

 オレはもう少し、北里由佐という少女の心に踏み込むべきだったのだろう。

「……おい由佐。お前、なにやってるんだ」

「うん? あぁ、さーちゃんったらボクと別れたがったから。こうして捕まえて、元のさーちゃんに戻してあげようと思ったんだ」

 心の底から嬉しそうなその笑顔に、オレは言葉を失う。

「悠月もそうだろう? この島を壊すだなんてバカげたことはやめて、千歳と一緒にいるって決めたからそうして一緒にいるんじゃないのかい?」

 迷いのないその言葉、その笑顔にオレがなにも言えずにいると、久月が一歩踏み出した。

「いいえ、違います。わたしはまた手を伸ばすことに決めたんです。だから今は……今だけは、千歳くんとはお別れします」

「――――」

 なにを言っているのか分からないといった風に由佐が目を丸くする。

 そんな彼女に久月は言葉を続ける。

「北里先輩。わたしたちはいつまでも後ろを向いているわけにはいかないんですよ。こうして会いに来てくれた人たちのためにも、いつかは前を向かなきゃいけないときが来るんです。もう、長いこと休んだじゃないんですか」

「…………」

 久月の瞳をまっすぐに見つめ、由佐はその話に耳を傾ける。

 けれど久月が口を閉じたのを認めると、由佐はすっと瞼を閉じた。

「……悲しいよ。所詮千歳は悠月たちと同じさ。後ろに守るべきものがないからこそ、明日に光を見ることができる。休むだなんて軽々しく言うことができる。昨日に寄る辺がある人間は、そんな簡単に割り切ることなんてできないのに」

 振り返り、そっと蔦に巻かれた水瀬の身体に触れる。

「さーちゃんだってきっとそのはずだった。この島にいる生徒――藍岳女子学院特別学科にいた生徒はみんな、芸術という目標だけを支えにして生きてきた人ばかりだったんだ。……たまたま持ち合わせた才能で、奨学生として入れるからというだけで入学した君には分からないだろう。みんながみんな、評価というプレッシャーに圧し潰されそうになりながら頑張って来たんだ。……それが、生きる意味だったから」

 木漏れ日が、その表情を照らす。

「ボクだってそのひとりだった。異質な性質を持ち、さーちゃんしか理解者がいなかったボクは、その期待に応えるべく必死だった。世間からの評価なんてどうでもよかったけど、さーちゃんからの視線に死に物狂いで努力した。さーちゃんにすごいねってホメてもらうことだけが、ボクの生き方だったんだよ」

 苦しみの中生きることが自分たちの生き方だと言わんばかりに、由佐はすました顔でこちらを振り向く。

 その生き方はもうここでしかできないのだと、悟ってしまったようなその眼差しに、グッと握った拳に力がこもる。

「……バカが。そういうのはなぁ、覚悟だとか悟りだとか、んな大層なもんじゃねぇよ。ただ立ち止まろうとしてるだけだ。現実が辛いと休むことさえ諦めて、御託並べてそんな自分を正当化してるだけだ」

 ただ真っ黒な、虚無な瞳に語り掛ける。

 オレたちが彼女たちにできることは、いつだってそれだけだ。

「こっちに逃げてくるのはいい。たまには楽しい過去に思いを馳せたくなるときもあるだろう。……でもな。逃げもせず、前も向かず、今が一番だと時を止めて、諦めるのだけはしてんじゃねぇよ。お前は休めもするし、進めもするんだから」

 由佐はジッとオレの瞳を見つめ返すと、ふと空を見上げた。

「なんで君がそうまでしてボクたちを進ませようとするんだい? 君だって、この世界がなくなってしまったら存在できないんだよ。それでもいいっていうのかい?」

「あぁ、構わないさ。別に滅私奉公とか、そんなきれいごとじゃない。オレにだってまぁ、見てみたい世界ってものあるさ」

 彼女につられて空を見上げると、草木の合間からさんさんと輝く太陽がオレたちを照らしていた。

「でもな、友達が立ち止まってんのを歩かせてやるのは、オレたちの役目だろうが」

 パチリと光が瞬く。

 由佐が不機嫌そうに口を歪めた。

「そうか。ならボクは停滞だっていい、そんな君たちと共にいたいから。ずっとずっと最高のひとときでいたいから、ボクはそのために立ち止まる!」

 ピッと手が振るわれ、ビシャと水音が響く。

 色付いた木の根元から、透明の蔓がこちらに向かって伸びてきた。

「上等だ! だったらそのケツ蹴っ飛ばしてでも進ませてやる!」

 咄嗟に動き、オレを捕えようとする蔦から逃れようとする。

 しかしあと一歩の差で――。

「くそっ、間に合わない!」

「いいえ、千歳くんなら間に合います!」

 グッと踏み込んだ足に力がこもる。

 ――ポロロロン。

 避けられないはずだった蔓がオレの横を通り過ぎた。

「なるほどね。流石クリーチャー。でもそれなら千歳を狙えばいいだけのこと!」

 またもビチャリと水音が鳴り、由佐の手に握られた筆によって彩られた木から蔦が伸びる。

「は。今度の狙いは久月か」

「でもムダです。千歳くんに、その程度の攻撃は通用しないんですから!」

 久月に向かって真っすぐに伸びる蔓の前に飛び出る。

 そして赤く染まった手で、その蔓をぶん殴った。

 ――ダ、ジャンッ。

「いいぜ、やり合ってやるよ。嫌々だろうと、オレはお前を連れだしてやる」

 まるで水蒸気のように消え去る蔓を視界に捉えながら、オレは挑発するように口角を上げる。

 由佐を蹴っ飛ばしてやれる方法、それが分かったから。

「くっ、これはなんだい? なにか違和感のようなものが身体の中に入って来る……っ」

 こちらを睨みながら不快そうに顔を歪める由佐。

 そんな彼女に向かって駆け出すと、由佐は咄嗟に筆を振るう。

「なんだって、お前が解いたんだろうが。クリーチャーの秘密を!」

「そうです。千歳くんなら、北里先輩を救えます!」

 身体の内から湧いてくる力に従って、出現したクリーチャーに向かってオレは蹴りをかます。

 ――ポロロロンッ。

 赤く燃えた足は抉るように蔓を消し去り、由佐が再び不快感に顔を歪めた。

「は。どうやらオレは前にお前に負けたらしいからな。その雪辱戦だ」

 ビシリと人差し指を突きつけ、再び駆ける。

 本来、芸術というものは意識の共有みたいなものだ。

 個人の頭の中に広がる無限の世界をなにかしらの形にして発し、それを受け取った人と共有する。

 要は一緒にとあるイメージの世界に飛び込むようなものなのだ。

「そうか、君たちはボクのクリーチャーに(クリー)(チャー)をぶつけることで干渉してくるつもりだね! 切り裂きジャックのように!」

 そう、イメージの共有。感性の共有。

 でなければこの世界に、クリーチャーなど存在しなかっただろう。

 けれどこの共有は、ただ受け取るだけでもない。

 それに対して新たな刺激を加え、変えることだってできてしまう。

 いつかの日、自信満々に作った作品が、ちょっとした拍子に崩れ落ちてしまったこともあっただろう。

 圧倒的な感性に敵わないと思ったとき。自分の甘さに気づかされたとき。

 それがプラスにしろマイナスにしろ、芸術(世界)は干渉し合うのだ。

「今さら気づこうとおせぇよ、オレに負けてとっとと道を譲られやがれ!」

「ふん。でもムリだよ。以前ボクと悠月は勝負したけど、ボクは負けない。圧倒的なまでの天才性こそボクなんだから!」

 どこから取り出したのか由佐は筆を両手に三本ずつ握ると、腰に取り付けられたパレットを展開する。

「逆に君たちの心からそんなキレイごとを消し去ってあげるよ!」

シャッ。

 無造作に振られた筆が殴りつけるかのように木々を燃やす。

 緑と茶色、そして微かな木漏れ日だけの寂しい森林が紅に染まった。

「ボクはさーちゃんのためにも絶対でなくちゃいけない。そのためなら、ボクはいくらだって努力して来たんだ」

「あぁ……そうだな。お前はやっぱりすごいよ」

 赤い瞳を見つめ返し、火の粉を振りまきながら暴れる(クリーチャー)を睨んだ。

 確かに彼女は並外れた才能を有している。

 その特異な性質によるものだろうと、きっとそれだけでここまでの才能を身にしたわけではなかったのだろう。

 でも、だからこそ――。

「お前は勘違いしてるぞ。オレは千歳悠月(オレ)であり、久月千歳(オレ)でもあるのだから。それがてめぇみたいに自己だけで完結して、依存するだけで人の話もろくに聞かねぇようなやつに負けるわけねぇんだよ!」

「うるさい! 理屈ばかりこねたって、結局ボクたちは感情でしか生きられないんだ!」

 燃える蔓がオレを絡めとろうと伸びてくる。

「だからこうしててめぇに構ってるんだろうが!」

 しかしオレが腕を振るうとそれに沿うように川が流れ、蔓を丸ごと飲み込んだ。

「てめぇがひとりでないと、なんでもっと信じてやらない! てめぇの大事なもんをなんでもっと見てやらないんだ!」

 駆ける。

 ―――ポンポロポロポンポンポン。

 彼女へと届くべくかけられた川をバシャバシャと踏み抜く。

 ――ポン――ポン――ポン――。

 水の跳ねる音、流れる音、オレというすべてが一体となって奏でる。

 それはまさしくオレたちから彼女へ贈られた夜想曲(ノクターン)

「ッ、そうか! 君たちの狙いは初めからボクではなく――」

「あぁそうだ。オレと久月が繋がっているように、お前も水瀬と繋がってんだろ!」

 水瀬まで伸びた川を渡り切り、彼女に向かって手を伸ばす。

 赤く燃えたオレの手が水瀬の腕を掴んだ瞬間、まるで爆発したかのように辺りを光が包み込んだ。

「……ここは……?」

「わぁ……辺りが真っ白です……」

 光が収束し、開けた視界に映ったのはただ空白だけが続く世界。

 なにもない空間だというのに、なぜだか少し温かい。

「ゆーちゃん。ごめんね、今までずっと大変だったんだね」

「さーちゃん、どうして。なんで今君が謝るんだい?」

 そんな中で向かい合う水瀬と由佐。

 ひとりは優しい笑顔を浮かべているのに、その笑顔を向けられた彼女は泣きそうな表情を浮かべていた。

「ねぇ、ゆーちゃん。初めて話したときのことを覚えてる?」

「もちろんだよ。小学校で写生大会があったとき、孤立しているボクにさーちゃんが話しかけてくれたんだよね」

「うん。ゆーちゃんの絵を見たとき、すっごくキレイだなぁって思ったの。こんなにもステキに彩る人と、お友達になりたかったんだ」

「ボクはずっと、それで悩んでいた。心の向くままに彩っても、身近な人は誰もボクを褒めてはくれなかった。でもさーちゃんがキレイだって言ってくれて、初めてボクは絵を描くという意味を知ったんだ」

 きゅっと対面する水瀬の手を握り、グッと引くように力を込める。

「ボクの絵にはさーちゃんの言葉さえあればいいんだ。ボクの指標、ボクの道標、さーちゃんがいるからボクはここまで生きてこれた」

 水瀬は握った手は離さずに、けれども一歩として由佐に近づこうとはしない。

「違うよ。確かに一緒にいることで、ゆーちゃんもわたしも、頑張ることができた。私たちはいつまでも親友だよ」

 にこりと笑い、首を横に振る。

「でも、それが生きる意味にはならない。いつまでも後ろを向いていていい理由にはならないんだよ」

 ちらりとオレたちの方を向き、水瀬は由佐の手を放す。

「だってゆーちゃんにはもう、私以外の理解者がいる。隣ですごいねって言ってくれる人がいる。ぶつかり合えるようなライバルだってできた。……幼かった頃には誰にも分からなかった絵も、私たちが成長することで分かってくれる人が増えたんだよ」

「あぁ。こいつだって、お前と仲良くやれるはずだ。なにせオレとお前が友達だったんだからな」

 少し気恥ずかしくて頬をかきながら、オレは久月の頭に手を置く。

「は、はい! 人は誰かの代わりにはなれないけど……それでも、わたしにも先輩の傍にいることはできますから。だからわたしにも先輩に手を伸ばさせてください」

 そう言うと久月は由佐に近づき、下ろされたその手を掴む。

 由佐はその手を握り返しながらも、まだなお泣いてしまいそうな顔で水瀬を……そしてオレに視線を向ける。

「でも……そうだな。それでも前に進めないって言うんなら、オレたちのためと思ってくれ。お前のことを思う友達たちが、その進む先を見たがっていることを思い出してくれ」

 近づきはしない。

 オレたちは一緒に進んでやることができないのだから。

「私は一緒についていってあげられないけど……そんなゆーちゃんの傍にいつまでもいるから。その歩みを、いつだって応援してるよ」

 けれど――。

 願いは。祈りは。いつだってオレたちに届いているから。

 春に惑うあなたの背中を押す温かな風として。

 夏に俯くあなたを覆い隠す雨として。

 秋に黄昏れるあなたを照らす木漏れ日として。

 冬に彷徨うあなたの顔をあげさせるべく舞い落ちる雪として。

 オレたちはいつだって――。

 瞬間、なにもなかった空間に様々な絵が浮かび上がる。

「ゆーちゃん」

 それは幼かった二人の少女が共に過ごして来た時間。

 思い出として、あなたを支えたいと願ういくつもの祈り。


「――生きて」


 確かな言葉を残して、少女の身体は微睡へと溶けていく。

 再び、彼女が立ち止まってしまうそのときまで。

「……由佐」

 気づけばオレたちは先ほどまでいた森林へと戻って来ていた。

 けれどそこに水瀬の姿はなく、由佐は呆然と虚空を見つめていた。

「これは……クリーチャー同士の干渉の結果ということなのでしょうか。つまり今水瀬先輩は千歳くんの中に――」

 喋る久月の口を手で覆う。

 そして黙ったのを認めると、オレは彼女を連れて歩き出した。

「違うさ。水瀬はいるべきところに……あのバカの心へと帰っていったんだ。自分の役目をまっとうしてな」

 進むオレたちの背後で、少女の泣き声が響いた。



「――あれ、センパイと……千歳ちゃん⁉ なんでここにいるの⁉ というか佐奈センパイは?」

 ログハウスへと帰ってくると、せわしなく準備を進めていた和泉が不思議そうにオレたちを見つめた。

 どう説明するか迷ったが、事のすべてを話すことにした。

「……なるほど。千歳ちゃんは覚悟を決めて、佐奈センパイは由佐センパイを救ったんですね……」

 悲しそうに、けれどどこか誇らしそうに和泉は頷く。

 オレはそんな彼女の額を指で突いて俯いていた顔をあげさせる。

「そんで、のじゃロリ野郎の協力を得たわけだな」

「急に出た新単語⁉ のじゃロリって誰ですか⁉」

「あぁ? 知らないのか? 放送委員長だ」

「間宮センパイは知ってるけどそんな狂ったあだ名は知らない!」

「知っとけ」

 水を得た魚のように突っ込む和泉の額をもう一度指で突くと、タイミングをはかったかのようにprrrrrと電子音が響いた。

「あれ、電話? これってセンパイに渡した携帯の番号だよね? ……もしもし? どちら様ですか?」

『今話題の、のじゃロリパイセンこと我輩なんじゃよ』

「だからそのあだ名はご存知じゃないですが⁉」

『ところでのじゃロリってヒドイあだ名じゃよね。我輩の語尾、「のじゃ」じゃなくて「じゃよ」なんじゃけど』

「突っ込むところはそこですか⁉」

 向こうの声はオレには聞こえなかったが、和泉の口ぶり的に恐らく間宮だろう。

 このまま放置していると話が進まなそうなのでオレは和泉の手からその携帯を奪う。

「よぉ、元気してるか?」

『おぉ、悠月氏~。もう昼休みになるっていうのに、なんにもなくて緊張感ZERO~ってぐらいには元気じゃよ』

 そういえばあいつに頼んでから、既に結構な時間が過ぎていた。

「悪いがオレたちの計画では放課後にゲリラライブを行う予定なんだ。それまで今日一日自分が何回「のじゃ」と言ったか数えて待っていてくれ」

『残念ながらそれ、ZERO~じゃから暇つぶしに使えないんじゃね。どんだけ我輩にのじゃって言わせたいんじゃよ』

「は。既に四回は喋ってることに気づいてないのか、バカめ」

『はっ、これが孔明の罠⁉――ってそうじゃないんじゃね。放課後まで待つのは別に構わないんじゃけど、どうやら先生とかあの怪しげなホワイトクローズメンが本棟から移動したみたいなんじゃよね。悠月氏たちが今どこにいるのか我輩知らないけど、マズいんじゃないのじゃ?』

「く。ようやく語尾にのじゃをつけ始めたな。それでこそのじゃロリだ」

『悠月氏なんかテンション高い? とにかく伝えるだけ伝えたんじゃよ』

 これ以上付き合ってはくれないのか、間宮の声はこれまでになく平坦だった。

「なんだお前、ノリ悪いな。あー、待て。今そっちに教師は誰もいないんだな?」

『我輩放送室に籠ってるから、たぶんじゃけどね。外から生徒たちの困惑する声が聞こえてくるんじゃよ』

「ふーん」

 適当な相槌を打ち、ちらりと和泉に視線を送る。

「じゃあ今から、午後の授業は取りやめになったっていう放送を流してくれ。生徒たちは全員各専攻科に分かれて活動するようにって」

「ちょ、ちょっとセンパイ⁉ まだ準備が――」

 パッとこちらに詰め寄る和泉を裏腹に、

『うにゅ。了解じゃね』

 短く返事が返って来るとプツッと糸が切れたみたいに声が聞こえなくなる。

 そして和泉が抗議の声を上げるよりも先に、校内放送を告げるチャイムが鳴った。

『あーあー、マイクテスマイクテス。困惑している生徒のみんな~、本日の午後の授業は先生方の都合により自習となったんじゃよ。各自専攻科に移って、それぞれの活動を始めるんじゃね。繰り返すんじゃよ――』

 キーの高いソプラノボイスを耳にしながら、弾かれたように和泉が機器を弄り始める。

「あーもう、なに勝手に予定繰り上げてくれちゃってるんですか! まだこっちとあっち、繋がってないんですよ⁉」

「うるせぇ。やる前にやられたら元も子もねぇだろうが」

「先手必勝ってやつですね、千歳くん」

 きらりと久月の瞳が光る。

「あぁそっか。千歳ちゃんってセンパイの……だもんね。それが地なんだ」

「地、とかありませんよ⁉ 確かに千歳くんはわたしの主人公ですけど、別にわたしの性格をまねたってわけじゃありませんから!」

「いや、なんだかんだ言ってお前もオレと似たようなもんだろ。雑なとことか」

「雑ですか⁉」

 本当に心外だったのだろう。

 黒縁眼鏡の奥に潜むまんまるな瞳が大きく開かれる。

「確かに千歳ちゃん、結構豪胆と言うか大胆なことするよね。藍岳のときに噂で聞いたんだけど、四月の定期試験のときに課題曲四つの内どれかひとつを演奏すればいいのに、特に決めてなくて当日全部演奏したんだって?」

「あっ、あれは、そもそも定期試験があることを聞いてなくて……! 当日四曲分の楽譜を渡されたから、これ全部演奏するんだって勘違いしただけなんですっ!」

「ふ~ん。じゃあ特別講師の先生を追い返して自分の授業を開催したって話はどうなの?」

「それも特別講師の方が独自のやり方で教える方だったので、教えるんだったらこっちの方がいいって指摘したら怒って帰っちゃっただけなんですよぉ! その後教えたのも、授業自体は聞きたかったからってクラスの子にお願いされただけで!」

 和泉がイタズラっぽく笑い、久月が慌てたように手をパタパタと振る。

 久月は藍岳女子学院でも有名だったらしいので、話のネタも多いのだろう。

「うぅ、どうせわたしはガサツですよう。だってしょうがないじゃないですか。それぐらいの図太さがないと、一つ屋根の下で色んな子と一緒に暮らすなんて出来なかったんですから……」

 ぼうっとその様子を眺めていたらいつの間にか久月は意気消沈しており、こちらにバッと駆け寄って来ていた。

「いじめられましたぁ」

「ふん。自分の本性を認めないからだ。お前がそんな繊細にできてるわけないだろ」

「千歳くんも敵ですか⁉」

「敵って言うな。現実を見ろ」

 手を久月の頭の上に置き、ぐるぐるかき混ぜるように撫でる。

「それで和泉、ぺちゃくちゃ喋ってる間に準備は済んだのか?」

「モチですよ。間宮センパイにも連絡してるんで、いつでもイケます☆」

「ふーん、じゃ、やるか」

 短く返すと視線を窓の外へと向ける。

「久月、行くぞ」

「ふぁい~」

「あ」

 手を止めるのを忘れていた。



「もう、頭がぐわんぐわんします。千歳くんはわたしの頭をよくぐるぐるさせますけど、なにか恨みでもあるんですか?」

 ログハウスの近くを歩きながら、久月が唇を尖らせる。

 和泉がここから歌を届けると言ってもオレたちにできることなど妹背たちの妨害から彼女を守ることぐらいなので、今はこうして巡回をしていた。

「別に恨みなんざない。ただ……その、なんだ。触るにしても頭撫でてやるぐらいしかないだろ」

 視線が揺れつつ、オレはそっぽを向く。

 すると久月がなにかを悟ったのか、顔を真っ赤に染めた。

「な、なにを考えてるんですかっ。もっと普通な場所があるじゃないですか!」

 手で自身を庇い、ジトっとした視線を向けて来る。

 その恥じらう姿に視線を奪われながら、オレはその頬に手を伸ばした。

「例えばこことかか?」

 ぷにぷにと程よい弾力のある頬を弄る。

「あ、あとは……手、とか?」

 その手を久月が取り、にぎにぎと感触を確かめるように握ってくる。

「は。おこちゃまか」

「子供じゃ……ないです。わたしはいつだって、千歳くんのことが……好き、ですから。どこだって、いいんですよ?」

 そう言って久月はオレの手を握ったまま、潤んだ瞳でオレを見上げた。

 黒縁眼鏡の奥で輝くブラックダイヤモンドに吸い込まれそうになりながら、オレは久月の手を放させる。

「バカが。こんなときに発情してんじゃねぇよ。てめぇはこの辺りを回ってろ。オレはあっち見てくるから」

 こつんと久月の頭を小突き、踵を返す。

 彼女はなにかを言いたそうだったが、オレはそれを無視して足早にその場を後にしたのだった。



「……ったく、本当にバカかよ」

 先ほどいたのとは反対の場所で、木の葉の隙間から見える太陽に目を細める。

 ――オレは、思った。

 先ほどの久月と和泉の会話。

 オレを見る久月の視線、その言葉。

 それらを見て――思ってしまった。

 もし、こんな形ではなく。

まっさらな千歳悠月で彼女たちと出会うことができたのなら、と。

 久月がいて、和泉がいて、由佐がいて、水瀬がいて。

 くだらないことで集まり、くだらないことを話し、ただ隣にいるだけの、温かな毎日。

 それはきっと幸せなのだろう。

 そしてそれこそが、この島だったのだろう。

「――ふふ、迷っているのか? 今ならまだ取り戻せると」

 そんなオレの心の声に応えるように、冷ややかな言葉が背後からかけられる。

「ッ、妹背!」

 振り返った先で、妹背が嘲笑を浮かべている。

 まるで、オレが敗北したと喜んでいるかのように。

「気づいたんだろ? この島がいかに幸福で、いかに尊いものなのか」

 ニヤリと上がった口角がムカつく。

 だからオレは不敵に、いつものように笑って見せた。

「は。バカ言ってんじゃねぇよ。過去が幸せに思えるのは、そのとき頑張った証拠だ。今を生きようと抗った証拠だ。なんもなく幸福が降ってくることなんてねぇ。だからこそ、人は願い、望み、手を伸ばすんだ」

『皆さん、こんにちは。あたしは巷で噂の切り裂きジャックです。今日は皆さんに思い出してもらいことがあってこうして放送をお借りしています』

 響く。

『突然消えてしまった懐かしい日々。その輝きに誘われて、あたしたちは随分と長い間立ち止まってしまいました。だからもう、その足で歩き始めてみませんか? あたしたちを支えてくれた人たちのためにも、その一歩を、踏み出してみませんか?』

 彼女の想いが、

『本当の意味であたしたちが懐かしめるために。彼らに、報いるために――』


 ――――――――。


 歌が、聞こえる。

 ノイズ混じりなんかじゃない、とても澄んだ、美しい音色。

 聞こえはしないけれども、それでも聞こえる、確かな(おと)

「あぁ――そうだ。あいつらはこうして、立ち止まっていては見られない世界を見せてくれる。――それがあるから。オレたちは、こうして何度だって背中を押してやれるんだ」

 軽くなった足で地面を踏みしめ、グッと妹背に向かって駆ける。

「だからそれを妨害するてめぇは黙って寝てろ!」

「だからバカだと言っているんだ。今ならまだ帰れるというのに!」

 振り下ろした拳が妹背に届こうというとき、突如横から男が現れて庇われてしまう。

「お前が寝ていろ!」

 三人もろとも倒れる中、鈍い輝きがオレを捉えた。

 ――パンッ。

「ぐっ」

 鋭い痛みが腹部に走る。

「千歳くん!」

「なっ、なんでお前がここに……!」

「ちょうどいい。久月、お前も大人しくしていろ。そうすればこいつとの日常だって手に入るのだから!」

 銃口が久月に向けられる。

「させるかぁあ!」

 急激に重くなった身体で無理やりに踏ん張り、ただ力の限りに妹背に掴みかかる。

 すると妹背の手から銃が落ちた。

「くっ、クリーチャーには効き目が薄いのか!」

「オレをどうこうしたいなら、てめぇもなにかを作ってみせるんだな」

「ならばお前らに構っている暇はないっ」

 揉み合いから一転、妹背はオレの足をひっかけてバランスを崩させると地面に転がる銃を拾って走り去った。

「千歳くん大丈夫ですか⁉ 傷は⁉」

「あ、あぁ。なんだこれ、注射針……? やっぱり和泉が言ってた通り麻酔銃だったのか。……クソ、ねみぃ」

「だ、大丈夫です! 千歳くんは全然眠くなんてありません!」

「うえっ、眠気と活気が身体の中でごちゃ混ぜになってる……」

 変な気分だが、問題はないだろう。

 それを認めた久月が深く息を吐く。

「よかった……」

「ったく。お前、どうしてこっちにいるんだよ。オレの後でもつけてたか?」

「うっ……ごめんなさい。様子がおかしかったから、気になっちゃいまして……」

 気まずそうに俯く久月。

 でもすぐに顔をあげると、真っ直ぐな瞳でオレを見つめた。

「でも分かりました。千歳くんが見たい景色、いつか絶対に見せてあげますから」

「は。そりゃいい。もし表彰でもされることがあったら、そんときは祝いに行ってやるよ」

 彼女に手を引かれて立ち上がる。

「とりあえずは和泉のところに戻るか。妹背たちが向かうだろうし」

「分かりました。ところでこの人はどうしますか?」

 視線に連れられて見ると、オレに殴られた白衣の男がのびていた。

「ほっとけ。どうせ盾役だ、大したもんも持ってないだろ」

「そうですか。では一応動けないように手だけ縛っておきますね」

 頷き、ポケットから取り出した結束バンドで手早く男の手を拘束する。

「なんでお前、そんなもん持ってんだよ」

「え、あ、いえ。違うんですよ? 千歳くんを捕まえようと思ってたから、一応持ってただけで」

「なにが違うんだ」

 一歩間違えば今頃あのバンドが拘束していたのはオレだったかと思うと背筋が寒くなる。

 というかやっぱり、物理的な手段も用意している辺り彼女もいい性格をしている。

「さ、さぁ、和泉先輩の下に急ぎましょう!」

 そんなこちらの胸中を察したのか、久月はオレの手を引くと足早にログハウスの中へと向かったのだった。



 近づくにつれて心により響く歌声を感じながら中に入ると、和泉がこちらに振り返る。

「マズいぞ和泉。恐らく妹背たちがもうじきここに来る」

「それまでになんとかできませんか?」

 彼女は歌い続けながら首を横に振った。

 確か事前に聞いていた話だと三十分は必要とのことだったが、それだと――。

 ――プツッ。

 どうするべきか思案していたとき。

 糸が切れたような音が響いたかと思えば、それまで外からも聞こえていた歌が聞こえなくなる。

 和泉も驚いたようで歌うのをやめると、不思議そうに首を傾げていた。

 ――prrrrr。

「和泉先輩! もしかして放送室の方になにかあったのでは?」

「う、うんっ」

 響いた電子音にハッとすると、和泉は携帯を手に取る。

「ど、どうかしたんですか⁉」

『悠月氏……じゃない。切り裂きジャック氏かね? ごめんじゃが、こっちは回線を元から切られてそろそろ押し入られてしまいそうなんじゃよ。だから、後は放送なしで頑張ってほしいんじゃね』

 漏れ聞こえる声には、男のものと思われる怒号も微かに混じっていた。

 こちらに来ると思われていた妹背の妨害は、どうやら放送室に向かったらしい。

「え、え、ちょっと⁉ 放送器具なしに島中に歌を届けるなんてできませんよ⁉」

『そんなこと言われても我輩、雇われの身じゃし。そういうのは管轄外なんじゃね』

「えっ、あ、ちょっと!」

 携帯を覗き込むように見つめると、和泉は困った顔でこちらを向く。

「き、切れちゃった……」

「しょうがないだろ。それにあいつはあいつで頑張ってくれたんだろうし」

「でもこれからどうします? このままだと最悪の形で作戦が中止ということに――」

 そんな風に顔を見合わせていると、外から声が聞こえた。

「はは、お前たちの計画も崩れたな。なに、心配するな。教師は素行の悪い生徒にだってつきやってやるもんだ。お前たちもまたあの中に戻れるように、きちんと教育してやる」

「げっ、妹背先生来ちゃった」

「喋ってる暇があったら走れ」

 和泉の背中を押し、声のした反対側の窓から外に出る。

 するとそこにも数人の白衣を着た男たちが待ち構えていた。

「え、ええっと、どうしましょう⁉ と、とりあえずさっき北里先輩にやったみたいにわたしと千歳くんのコンビパンチであの人たちを倒しますか⁉」

「バカかお前は。落ち着け」

「そうだよ千歳ちゃん。ここはセンパイを囮にあたしたちだけでも逃げよう!」

「てめぇを囮にしてやろうか」

 テンパるふたりに突っ込みつつ、彼女たちの盾になるように前に出る。

 妹背からどんな情報が伝わっているのかは分からなかったが、彼らはすぐにオレを撃つということはしなかった。

 ――もしかしたら、オレに麻酔が利かないと勘違いしてるのか?

「あ、由佐助けてくれ!」

 だとしたら所詮ただの研究員である彼らがオレに対して怯えて様子を窺っているのも分かる。

 そこでオレはイチかバチか誰もいないところに手を振って声を上げたところ、幸運にも彼らはオレのバカみたいな作戦にのってくれた。

「――は。そんな怖いんなら寝てろってんだ」

「デスネー。いやホント、バカみたいな作戦で」

 その隙をつき、オレと和泉が彼らに接近する。

「なにっ」

 流石に彼らも気づいたようだが遅い。

 オレは一番右側にいた男を殴って意識を飛ばし、そのまま中央にいた男ごと押し倒すようにタックルする。

「くっ、貴様らなにを――うがっ」

 そして速やかに起き上がると、顔をあげたその頭にもキツイ一撃をお見舞いしてやった。

「和泉! そっちは平気――そうだな」

 どうやらオレの作戦にいち早く気づいたらしい和泉の方を向くと、そこにはマイクスタンドを握りしめて息を荒げる彼女の姿があった。

 そしてその傍らには、

「それじゃあ身動き取れないようにしちゃいますね。また起きてきたら嫌ですし」

 嬉々として結束バンドで男たちの腕を拘束していく久月の姿が。

「お前ら本当にたくましいな……」

 思わず苦笑を浮かべると、「必死だったんですよ⁉」との反論をいただいた。

「それでどうするんですか?」

「とりあえずあいつらの手の届かない場所まで逃げるしかないだろ。どうするにせよ、考えるのにも安全が必要だからな」

 ひとまず事件現場――その場から逃げ、森林にまぎれる。

「いっそのこと、先生たち全員倒すっていうのはどうでしょうか?」

「久月お前、段々思考が攻撃的になってないか?」

「そうでしょうか? だって和泉先輩の歌が届けられない以上、実力行使するしか道はないと思うんです」

 極めて真剣な眼差しで極めて頼もしいことを言ってくれる久月。

「けどムリだよ。確かに先生たちは普通の人だから不良のセンパイがいれば多少はなんとかなるけど、人数が違いすぎるもん。さっきまでのは上手く行き過ぎただけだと思うな」

「おい和泉。誰が不良だって? この切り裂きジャック(殺人鬼)が」

「さっきのは誤解だし切り裂きジャックと書いて殺人鬼と読むのはやめてくれません⁉」

 丁寧に突っ込んでくれた人殺しを無視して思案する。

「だから人のこと人殺しとか呼ぶの本当にやめてくれませんか⁉ だいたい殺してないし! ちょっと気を失わせただけですからね⁉」

「などと供述しており――って人の心の声を拾うな……あぁ?」

「? なんですか? そんな人を殺しそうな顔でこっちを睨めつけて……」

 心の声を拾う……たとえ声が届かなかったとしても、その心を届けることができるとしたら。

 クリーチャーを運ぶ、その足となるものを作ることができるのならば――。

「よし。とりあえずやつらが来なさそうなところまで逃げるぞ」

 やれることを見つけたオレは、そう言って顔をあげる。

「わ、分かりました。ではついて来て下さい。これ以上ないって場所にお連れします」

 そう言った和泉に案内されて来たのは、森の最果て。

「これまた切り裂きジャックに似合うような場所に来たな……」

 つまりはこの島を囲う海に面する、崖だった。

「それって切り裂きジャック関係ないですよね⁉ まださっきの人殺しネタ続けるんですか⁉」

「被害妄想も甚だしいな。切り裂きジャックだって断崖に来て罪を告白したことだってあっただろ」

「絶対ないですよね⁉」

 元気に吠える和泉を放置し、オレは久月に向き直る。

「久月、ピアノを出してくれ」

「はい。ちょっと待っててくださいね、すぐに出しますから――って、わたしは〇次元ポケットも魔法も使えませんよ? 確かにちょっとここ数日魔法使いっぽい感じは出してましたけど」

「その流れはもう和泉とやった。ピアノをクリーチャーで出せないのかってことだよ」

「どうなんでしょう? わたしはこの島に来て、千歳くん以外のクリーチャーを出していませんから、可能性としてはあるのかな……。でもクリーチャーってどうやって出すんですか?」

「あ、そっか。千歳ちゃんってここに来てからずっと定期試験パスしてたんだっけ」

 きょとんと小首を傾げる久月に和泉が頷くと、

「特に意識することはないよ。以前みたいにすればいいだけだから」

 軽く歌い、周りに透明の蝶を出現させる。

「え、えっと……以前みたいにと言われましても。言葉を紡いでも、それは千歳くんへの言葉になってしまいますからダメですし……どうすればいいんでしょうか?」

「あぁ? なに言ってんだ。お前には演奏があるだろ」

「えぇ? 今ピアノを出そうとしてるのに演奏を持ち出すんですか?」

「真の天才なら物がなくても表現できるものだ」

「それだったら千歳くんがやればいいのでは……。わ、分かりました。やってみます」

 困惑した顔で頷くと久月はしばらくの間うんうんと唸り、

 トン―――トン――トン――と指でリズムを取った。


 ――ラ――ラ――ラ――ラララ――ララ――。


 奏でられる。

 彼女の言葉が音色となって、世界が彩られる。

「お」

 久月から波打つように生み出された光が集まり、形取っていく。

 それはいつかの昔、独りぼっちだった少女が初めて手を伸ばしたもの。

 彼女の踏み出した一歩目。

「は。やればできるじゃないか」

 オレはそのピアノに腰掛けると、

 ――ピチョン。

 オレの身体が赤く燃える。

 クリーチャーであるオレだからこそ奏でられる音。

 透明の川が島中に向かって流れ始めた。

「――は。無音の歌の伴奏なら、夢幻の音ぐらいがちょうどいいだろ」

「なるほど。まさに水先案内人ってところですか?」

「うるせぇ、最後にうまいこといってんじゃねぇよ」

 オレのやりたいことが分かったのだろう。

 笑顔を向ける和泉に、こちらも笑顔で返す。

「そうですか。なら、期待に応えて見せますよ」

 こちらの音を感じるようにすっと瞼を閉じ、神経を研ぎ澄ませる。

 そしてパッと瞼を開くと透明の声で歌った。


 ――――――――。


 赤く燃える川に沿うように、赤い蝶が飛んでいく。

 クリーチャーは想いの結晶。

 ならばその歌が届かなくても、こうして(おと)は届けられる。

「あぁ、そうか。これが藍岳女子学院だったんだな」

 歌を聞きながら想い馳せる。

 彼女が歌っているのは、学生ならばみんなが知っている歌。

 学園と出会うときに聞き、また学園と別れるときにも聞く歌。

「校歌……か。最後にはふさわしいじゃないか」

 叶うならば、彼女たちが共に歌えていることを願うだけか。

 どこかしんみりとした空気に感傷に浸っていると、

 ――パンッ。

 世界を切り裂くように、甲高い音が鳴り響く。

 追ってきたであろう妹背が、和泉に向かって銃を向けていた。

「今すぐ歌うのを止めろ!」

「久月っ!」

 咄嗟に和泉を庇った久月が膝から崩れ落ちる。

 駆け寄ろうと腰が浮いたが、差し出された手にオレは動きを止める。

「だ、大丈夫です! 千歳くんは演奏を続けてください! あなたならもう、わたしがいなくても演奏できるはずだから!」

 ふらふらと揺れる身体を引きずって、久月は妹背の前に立ちはだかる。

 そんな彼女に妹背は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべると再び銃口を向けた。

「なぜそうまでして壊そうとする。君にだって、この島は楽園のはずなのに」

「先に立てた人が手を差し伸べるのもまた、義務なんです!」

「そうか。なら君は忘れるべきだ。希望を、夢を。進めば進むほど、それは人を蝕む災厄にしかならないのだから」

 トリガーが引かれる。

 すると妹背の手元でボンっと小さな爆発が起こり、その手が血に濡れる。

「くそっ、あのとき壊れていたのか」

 恐らく暴発したのだろう。

 忌々しそうに自分の手を見て、それでもなお妹背は不敵に笑って見せる。

「だとしてもムダだ。ここはまだ箱庭(クリーチャー)の中。一度思い出したとしても、また忘れさせればいいだけ――」

「――それはムリだよ」

 妹背の声を遮り、ボーイッシュな声が響く。

 森林から姿を現したその姿は、まぎれもなく由佐だった。

「前にも言っただろう? ボクは覚えている。ボクが国会議員(パパ)に言えば、支持率(すうじ)のためにテレビ局だろうがなんだって、連れてくるって。この島はもう終わりだよ」

 バラララララ。

 けたたましい音を立てて、上空をヘリが飛ぶ。

 それを認めて、妹背の形相が変わった。

「どうして君がジャマをする! 私たち側の人間ではなかったのか⁉ 大切な人を、永遠に繋ぎ留めておくのではなかったのか⁉」

 忌々しそうに由佐を睨む。

 その視線を受けて、彼女はそっと自分の手を見つめた。

「そうだね。そうだった。さーちゃんにはずっとこの手を握っていてほしかった。でもその大切な人に、前を向いてほしいって、ボクになら未だ見ぬ明日を作れるからって言われちゃったから。……それに、もしかしたら――」

 言葉を途中で切り、そっと視線をオレに向ける。

「悠月。君との勝負はさっきので一対一だ。このまま勝って逃げられるのも嫌だし、次の機会にきちんと決着をつけさせてもらうよ」

「あぁ? んなもん――」

 久月とつけろ。そう言おうとしてオレは口を噤む。

「あぁ、いつだって受けてやるよ。お前がもっと成長できたらだけどな」

「そっか。ならボクは、増々進まなくちゃいけないわけだ」

 そっと瞼を閉じると、由佐はいつもの笑顔をオレに向けた。

「君が驚くほど大きくなってみせるから、悠月だってサボるんじゃないよ」

「は。余計なお世話だ」

 ニヤリと挑発的に笑い合い、顔を背ける。

 これでようやく、オレの心配事もなくなる。

 そう安堵していると、肩を震わせていた妹背が駄々っ子のように地団駄を踏んだ。

「なぜだ、なぜジャマをする! 私は桃源郷を作るんだ! この世界は悲しみが多すぎる。不条理が多すぎる。絶望に打ちひしがれる人が多すぎるんだ! だから私は悲しむことのない、決して傷つかない、誰もが幸せでいられる世界を作らなければいけないんだ! なのにどうしてそれをジャマしようというのだ! 他でもない、お前たちが!」

 妹背の叫びに、初めて彼女の心を見た気がする。

 ――こいつはこいつで、願っていたということなんだろうか。

 理想へ向けて歩く一人として、オレが妹背からそっと視線を逸らしていると。

「いえ、間違っていますよ、先生。確かに生きていれば辛いことだって悲しいことだっていっぱいあります。ときには後ろを向いて閉じこもりたくなるときだってあるでしょう。……でも、それでも、いつかは前を向かなくちゃ。癒されたら、痛くったって歩き始めなくちゃ、自分の幸せなんて見つかるわけないんです」

 血に濡れた彼女の手を取り、久月が確かな瞳で告げる。

「先生のお考えも、ひとつの救いになると思います。現にわたしたちはそのお陰でこうして、また前を向こうと思えましたから。……ただ、永遠なんてものは存在しない。それだけなんです」

「……ぁ……」

 久月の言葉を聞き、妹背は小さく声を漏らしてその場に崩れ落ちた。

 久月はそんな彼女を認めるとオレの下までやって来て、まだ演奏を続けるオレの手にその手を重ねた。

「だからわたしはこの幸せを胸にしまって歩き始めます。この気持ちが、決して失われてしまわないように」

「そうか。お前なら大丈夫さ。……いや、お前らならな」

 自然と笑みが零れ、オレは彼女へと視線を向ける。

「さぁ、歩み出せ、和泉!」

「和泉先輩!」

「望!」

 過去からの声も、共に歩もうとする友の手も借りて、和泉は先陣を切る。

 まるでひとつの楽団の指揮者であるかのように。

 ――瞬間。

「なんだ? 歌……か?」

 森の向こう――学園のある方向から、微かに歌声が聞こえてきた。

「もしかして……みなさん思い出したのでしょうか?」

「どうかな。だとしても混乱してるはずだから、これはきっと――そう」


「お前たちが作り上げた、奇跡の卒業式だ」


 ぐらぐらと世界(クリーチャー)が揺れる。

 とうとうこの郷源島(とうげんきょう)にも終わりが来たらしい。

 鍵盤の上を滑る自分の指が、腕が、どんどんと薄くなっていく。

「久月」

 オレが呼ぶと、彼女は悲しいような、誇らしいような、それでもやはり寂しいような、表現しきれない顔でオレを見た。

「千歳くん……」

「は。言っただろ、オレはお前の傍にいる。お前が歩み続けたとしても、千歳を超え、悠久にだってお前の隣にはオレがいる。辛くなったら思い出せ。悲しくなったら逢いに来い。……だってお前は願ったのだから」


「――(はるか)果てまで届くこの手を」


「――はい」

 霞ゆく視界の中で。

 大人になった彼女の姿が、見えたような気がした。



 あの日、みんなが全てを思い出して、郷源島が政府によって閉鎖されてから、早くも四年が経ちました。

 藍岳芸術女子学院特別学科のみなさんは前を向いてそれぞれの生活を送っています。

 例えば――。

「―――――」

 わたしは手元のスマートフォンに目を向けます。

 そこでは増々綺麗になった和泉さんが歌っている動画が流れていました。

 もちろんそこに声はありません。

 あの日、クリーチャーを介してわたしたちに歌を届けてくれた和泉先輩。

 その光景がニュースで放送されたこともあり、必死に歌う彼女の姿は世の人に多くの感動を与え、一躍有名人になりました。

 それから彼女は無音のミュージックを発足させて、アーティストとして頑張っています。

 例え届けられる音がなかったとしても、確かに届けられる想いがあると、以前笑顔で言っていたのを覚えています。

 北里先輩はあの事件の後すぐにとある作品を世に出すと、お父さんの地盤を継いで国会議員になりました。

 そして今は当時の政府によって凍結されたクリーチャーの研究を再開させたとニュースで話題になっています。

 妹背先生たちは捕まってしまいましたが、どうやら北里先輩の元で共に活動しているそうです。

 そんなところでわたしはというと、あのときの経験を元に一冊の小説を書きあげました。

 光栄なことにそれは評価をいただき、名誉ある賞を受賞できる運びとなったのですが……。

 ――押しに弱いところは、治っていませんね……。

 主催者側の熱烈なお願いにより、授賞式でピアノの演奏をすることになってしまったのです。

 こんな義手(わたし)になにを期待しているんでしょうか……。

 とはいえ、引き受けてしまった以上は頑張らないといけません。

『――受賞、久月千歳さん』

「は、はいっ」

 と、とりあえずはスピーチです。

 大丈夫、何度も練習しましたから。多少しどろもどろしてしまうでしょうが、どうにもならないということはないはずです。

 だから問題は、演奏だけです。

「…………」

 スピーチを無事(?)に終えて、わたしはピアノの前に座ります。

 ――あれから、ピアノに触れたことはありませんでした。

 それはきっと、まだわたしの中にあの日々への憧れが残っているから。

 触れて、奏でられなかったら、彼がしてくれたことが無意味であったと証明してしまうみたいで、どうにも触れることができませんでした。

 ドッドッドッと心臓が痛いぐらいに飛び跳ねます。

 じわりと汗も滲んできました。

 ……きっと、外で見かけたら不審者と間違われるくらいに息も荒くなっているんじゃないでしょうか。

 手が動かない。鍵盤が遠い。

 ピアノが(はるか)先にあるように感じられて、震えが止まりません。

「――ッ」

 思わずあげていた手を下ろそうとしたとき、ポーンと澄んだ音が奏でられました。

 ピチョンと水滴が垂れたようなその音に、わたしはハッとして顔をあげます。気づかない内に俯いていたんです。


「――は。せっかくの晴れ舞台だってのに、俯いたまんまじゃなにもできないだろ。とりあえず今は前を向くって、決めたんだろ?」


「千歳……くん……っ」

 それはとても温かい、ずっとほしかったもの。

「悠月だけじゃないよ。遅くなって悪かったね」

「北里先輩……和泉先輩……っ」

 入り口から差し込む光と共に、わたしは照らされる。

「言っただろ、いつでも助けてやるって。オレはお(ヒロイン)の、主人公(ヒーロー)だからな」

「――はいっ」

――ポンポロポロポンポンポン。

それはいつか見た夢の続き。

 幻想の世界で掴んだ、わたしの大切な人。

 ポン――ポン――ポン――。

 会場が騒がしくなる中、優しい音色は続く。

 ――そうだ。

 たとえ道を違えたとしても、繋がりは消えない。

 自分が辛いとき、悲しいとき、その繋がりがわたしたちを助けてくれる。

「……これが、わたしが本当にほしかったものなんですね」

 温かな音色に包まれながら、わたしの友人たちに思いを馳せる。

 ……でも、ただ今は。

 ここにあるだけの幸せを噛み締めよう。

 なぜならここには、


 ――少女ヒロイン少年ヒーローがいるのだから。



「ふふ。ゆーちゃんも中々粋なことするようになったよね」

「どうかな。こんな場にふさわしくない人を連れて来てしまったし、後で怒られちゃうかも」

 ボクの隣で望が苦笑いを浮かべる。

 やっぱり彼にこういう場は似合わない。

「……でも、本当に良かった。この日を迎えられて、ボクは本当に嬉しいんだ」

 慈しむように、ボクは抱えていた絵をそっと部屋の隅に置く。

「うん。とってもいい絵だよ」

 そこでは五人の少年少女が、ただ楽しそうに笑っていた――。

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