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前編

 ――その日、世界は煉獄に包まれた。


突如として世界は真っ赤に染まり、それまで幸福へと向かっていたわたしたちは地獄へと堕ちていく。

 無残にも散った人々の夢の欠片は反転して人の心を蝕む災厄へと成り果て、どうしようもない絶望に身を焦がす。


 ――あぁ。世界はどこまで残酷なのか。


 生きていた意味を失い、

生きていた価値を失い、

 生きるための意思を失い。

 いったいわたしたちはどこに光を見ればいいのか。

失った感覚は冷酷なまでにその無意味さを自らに伝えてくる。


 ――けれど。


 消失した未来への未練は幾重に重なり、混じり合い、たった一つの幸福な世界を形成していく。

 誰もが世界を呪い、誰もが世界を願った。

 寄る辺となるべく生み出される、空想の地。

 未来も過去も存在しない、理想の世界。

 赤く染まった世界は白く塗り替えられて、やがて――夢想の大地へと変化する。


 それこそ――桃源郷。


 人々の喜怒哀楽が作り出す、幻想の世界。

「そう。だからもう、怖がらなくていい。恐れなくていい。未来に、希望を持たなくったっていい。永遠がいつかは、その凍てついた心を溶かしてくれるから――」

 優しい光が眼前に灯る。

 半透明で触れたら壊れてしまいそうなその光に、

矛盾を孕み、決して輝きはしないその光に、

わたしたちは卑しくも縋るしかなかった。



「……あぁ?」

 どこからともなく聞こえる歌声に、沈んでいた意識が引き上げられる。

 なにか懐かしい夢を見ていた気もするが、所詮夢は夢だ。

 オレはパチリと瞼を開けると、その輝く光に目を細める。

「……いつ見ても綺麗なもんだな」

 ひらひらと。

 プラスチックのように透明な蝶が宙を舞う。

 給水塔の上で寝ていたオレは起き上がり、心地よさげに歌う少女を見下ろす。

「だ、誰っ⁉ あなた何者⁉」

 するとその視線に気づいたのか、少女がハッと振り返った。

「何者って。別にいいじゃねぇか。それよりもまだ歌の途中だろ?」

「え、え?」

「歌えってんだ。ほら」

「え、ええ?」

 困ったように揺れる二つの大きな瞳。

 けれど悩んだ末に、少女は歌を再開する。

「あぁ。そうだ。これが……見たかったんだ」

 すると再び蝶がひらひらと羽ばたく。

 少女の朗らかな歌声にそっと寄り添うように温かいそれは、クリーチャーと呼ばれる現象。

 この芸術のために存在する郷源(きょうげん)(とう)でのみ起こる奇跡。

 オレは給水塔から降り、歌い終わった少女に近づく。

「綺麗だな」

「えっ、あ、あははー。もう、いきなりキレイって言われても恥ずかしいじゃないですかー、えへへー」

「なにを勘違いしてるんだ。クリーチャーの話だ」

「へ?」

 少女はきょとんと目を丸くした後、バシバシと背中を叩いてくる。

「も、もー。それならそうと言ってくださいよー! 変に勘違いしちゃったじゃないですかー!」

 軽くイラ立ちを覚えながらも、オレは改めて少女を見つめる。

 背丈はオレの胸元当たりの少し小柄で、肩口で切り揃えられた深い藍色の髪をかわいらしくサイドで束ねている。

 手足はすらっと伸びていてモデルみたいだが、やはり成長途中にあるのかその体型は幸薄そうだ。

「あっ。ちょっと今、失礼なこと考えませんでした⁉」

 視線が魚でも捌けそうなその胸元にいったことに気づいたのか、ぶんぶんと勢いよく手を振る。

 なんとも、元気なやつだ。

「ふん。なんのことだか分からんな」

「誤魔化してもムダですよ! あたし、そういうのするど――って、どうしました?」

「うん? こいつが、な」

 澄んだその声に誘われたのか、透明な蝶がひらひらと羽ばたく。

 オレはそれにそっと手を伸ばすと、少女の方を向いた。

「不思議だよな、クリーチャーって」

「え、あ、はい。確か、高い感受性を持つ子供が集められたことで、この島全体でその意識の拡張が起こって発生するエフェクト、のようなものなんでしたっけ」

「授業をサボってる割に、知識はあるじゃないか」

 そう。ここは、各方面の芸術の才能が認められた子供たちが集められた学園島。

 芸術至上主義のこの島では、芸術は実体化するのだ。

「今日はたまたま自習になったんですー。でも、不思議ですよね。恋の歌を歌ったからと言って、ハートが浮かぶわけではない。『魔王』を演奏しても、実際に魔王が現れるーなんてことないんですもん」

「詳しいことはまだ研究中らしいがな。人の心の内が現れるってことなんだろう」

 すぅっと消えていく蝶を見送り、オレは踵を返す。

「ええっ⁉ ちょ、帰っちゃうんですか⁉」

「あぁ。オレはただお前のクリーチャーが見たかっただけだからな。もう用は済んだ」

「そんな私を使い捨てのカイロのようにっ」

「なんだ。なんか用でもあるのか――っ」

 振り返ると、真紅の瞳がオレを捉えていた。

 どこかメラメラと燃えるように熱く、それでいて底冷えするように冷たいその瞳に一瞬気圧されたが、その圧力もすぐに彼女の笑顔と共に掻き消える。

「あたしは、和泉(いずみ)(のぞむ)です。あなたは? 見た感じ、センパイっぽいですけど」

「あ、あぁ。千歳(ちとせ)()(づき)だ。まぁ、三年だからな。年上ってことはないだろ」

 幻でも見ていたのだろうかと思うほど、その違和感は一瞬だった。

 けれどそのせいか、屋上のフェンスに身体を預ける彼女から目が離せない。

「あたしは、クリーチャーは好きじゃないです。だって、幻だって分かっていたら、それがいつかは消えてしまうものだって、知りながら生きるってことじゃないですか。そんなの、寂しいだけですよ」

 すっと瞳が細められ、そこから見える景色を、町を、見透かしたように見渡す。

「この世は悲しいことだらけです。飛行機は飛んだら落ちちゃうし、夢はいつまでだって覚めないし。それなのに進むことさえやめてしまったら、なにが残るんでしょうか」

 その瞳に映る景色はもしかしたら、オレが今見えているものとは違うのかもしれない。

 けれど――

「あー。悪いが、オレは奏楽科でな。そういう、詩的で恥ずかしい感性にはついていけん」

「ななっ、なにをー⁉ 奏楽科なんて一番知った風に音を出して「言葉なんていらないんだぜ」的な風にかっこつけてる、イタい集団じゃないですか!」

「はっ⁉ 恥ずかしい言葉を、恥ずかしげもなく大声で口走れるお前ら声楽科の方がイタい集団だろうが!」

「なにおー、『綺麗だな』とかかっこつけちゃうくせにー!」

「お前だって、首に訳あり気にデカいチョーカー巻きやがって! 気取ってんのか」

「むー?」

「あー?」

 芸術の島なだけあって、この島の学園の生徒はそれぞれ、自らの専攻を持っている。

 奏楽科や声楽科の他に、美術科、文芸科、美装科、挙げたら切りのない芸術の数々が、この学園では唯一絶対の価値だ。

 だからこうしてお互いの間に争いも起こるのだが、オレと和泉のにらみ合いを破るように学園のチャイムが響く。

「ぷっ。なんか、間抜けですよねーこのチャイム。それじゃあ授業も終わったみたいだし、あたしは行こうかな」

 特徴的なチャイムに身を翻すと、和泉は元気よく手を振りながら屋上の入り口に手をかけた。

「センパイ、また会いましょうね!」

 ガチャンと消えゆく彼女の姿を見送り、深いため息と共に視線をフェンスの向こうへと移す。

 冬も深まって来たからか、早くも西日に照らされた町はまるで燃えるかのようで、どこか懐かしいような気分になって来る。

「和泉望……ねえ。あいつには、この景色がなにに見えたんだか」

 島の中でも高い位置にある学園からは、この島のほとんどが見渡せる。

 だから十人いれば十通りの見方があり、その感じ方も違う。

 そしてそれはきっと、クリーチャーも同じなのだろう。

「クリーチャー……オレはなぜか惹かれてしまうが、あれは……オレが見ている郷愁は、あいつも見ているんだろうか……」

 ふと、オレと他人とでは、クリーチャーが違うものに見えているのではないだろうかと思う。

 それほどまでに、和泉の言葉は鮮烈だった。

「幻ねぇ」

 その言葉の真意を読み解こうとしたとき。

 再び学園のチャイムが響き、ぼそぼそとした放送機器の音が耳に届く。

『三年奏楽科の千歳悠月と一年文芸科の久月(くづき)千歳(ちとせ)、至急生徒指導室に来なさい』

「ち。面倒な」

 一度はきかなかったことにしようとしたが、

『繰り返す。三年奏楽科の千歳悠月と一年文芸科の久月千歳は至急生徒指導室に来るように。特に千歳悠月は来なかったら、今度こそお前の居場所はなくなると思え』

 最後に物騒な言葉を放って、放送はぶつっと切れる。

 流石に無視するわけにもいかず、ため息交じりに屋上を後にしたのだった。



「さて。よく逃げずに来たな。そこだけは評価してやろうじゃないか」

 重い足取りでやって来た生徒指導室の扉を開いて早々に飛んできたのは、そんな鋭い女性の声だった。

 生徒や進路などの資料が所狭しと並び、面談をする気のない一室でひとり深々と椅子に座って優雅に足を組む女性は、進路指導担当の妹背和奏(いもせわかな)。この半年の間にオレを両手では収まらないだけ呼び出してきた張本人だ。

「は。あんな脅迫じみたことを言われて、おいそれと帰る生徒がいるかよ」

「どの口が言う。何度私の熱烈なアプローチを無下にしたか、忘れたわけではないだろう?」

「け。気色悪いこと言うなっての」

 肩をすくめて顔を背けると、そこには所在なさげに佇む少女の姿があった。

 先ほど出会った和泉よりもさらに小柄で、茶色のふわふわとした髪を腰まで伸ばしているせいでさらに小さく見える。

 ただその小さな体躯とは裏腹に胸部は制服を押し返さんばかりに膨れ上がっており、なんとも格差社会の辛さを感じざるを得ない。

「お前は……」

 ふとオレの視線に気づいたのか、それとも元からこちらを見ていたのか、黒縁眼鏡の奥から大きな瞳がオレを捉えた。

「私は久月千歳……です。その、一緒に呼び出された」

 小さくも綺麗な音色が奏でられる。

 そういえばと、先ほどの放送でオレ以外の名前が出ていたことを思い出す。

「そっちの挨拶は終わったか? なら本題に入らせてもらうからな」

 コホンと咳払いをし、妹背はまず忌々しそうにオレを睨んだ。

「まずはお前だ、千歳。今さらなにを注意すればいいのか私にも分からんが、もっときちんとしろ。そしてこの学園の生徒である自覚を持て。このままその態度が変わらないなら、退学だって夢物語じゃないんだぞ」

「は。別に、言われるまでもないさ」

「なら言われるまでもなく実践してほしいものだな。次に久月だが、もう年も越したというのに君は入学してから一度も作品を提出していないだろう。確かに一年生の間は提出義務は存在しない。けれどあまり、印象がいいとは言えないな」

 少し呆れるように、それでもオレとはまったく異なる態度で語り掛ける。

「は? お前、一度もしてないのか? オレでさえ、学内コンクールには十回は出たぞ」

「ウソを吐くな、ウソを。各科で行われる定期発表会は三か月毎。お前は二回に一回ぐらいしか顔を出さないじゃないか。出てもせいぜい、その半分だ」

「そうだったか?」

「ふん。このバカの話は放っておくとして。久月、どうして作品を出さないんだ? 文芸科の授業には、きちんと出ているそうじゃないか」

 少し鋭い視線に晒され、久月はその小さな身体をさらに委縮させる。

「えっと……、なんだか、ずっと作品を書き続けている気がして。これ以上、なにも書けないというか、書くべきものはもう、出来上がっているというか……」

「なんだ、そういう空想的なものは、形にしてもらわないとこちらも困るんだがな。私たちは君たちをひとりのクリエイターとしても扱っているから、スランプは考慮する。けれど前提は学生であるということを、忘れてもらっては困る」

「うぅ……すみません」

「まぁ、どこぞの不良はそれを理解した上で、無視しているわけだが。せいぜいこうならないように気をつけてくれ」

 嘲るようにふっと笑うと、妹背はトンと机に指を落とした。

 それだけで部屋の空気がしんと凍てつく。

「これまでのはただの優しい忠告だ。本題は別にある」

「……っ」

 この空気に久月は飲まれたようだが、こうしたとき、妹背は大概やりたくないことを強制させられているときだ。

「ふん。オレたちの追試でも、お願いされたのか」

「その方がまだマシだったかもしれないな」

 ため息にも似た息を吐くと、妹背は足を組み替えながらピンと人差し指を立てる。

「お前たちは『切り裂きジャック』の噂を聞いたことがあるか?」

「えっと……はい。最近学園で起きてる、怪事件のことですよね」

「なんだそりゃ。連続殺人事件でも起きてんのかよ」

 いくら芸術の島とはいえ、そんなぶっ飛んだ事件が起こるほどとち狂った場所ではなかったはずだが。

「いえ、そうではなく。この一か月ほど、学園でひとりでいるときにふと、自分の身体の一部がなくなるような感覚に襲われる人が続出しているんだそうなんです。実際に身体の一部がまるで切り取られたかのようになくなって、ふと意識を失って目を覚ますと、元に戻っている……らしいです」

「ふぅん。それって、ただの根詰め過ぎの幻覚なんじゃないか? 一か月前って言うと、ちょうど年末発表の時期だろ。狂ったように制作や練習に追われていたやつらの妄言じゃないのか」

 自らの芸は己を殺す狂気ともなり得る。

 オレ自身に覚えはないが、コンテストといった順位が明らかになるものの存在は、少なくはない人間の心を追い込むんでいるのではないか。

「それはもちろん考えたさ。毎年、自分を追い込み過ぎる生徒は少なからずいる。だから初めはそのせいだと教員の間でも決着がついたのだが、それにしては人数が多すぎるのだ」

 パッと示された指は三本。

「三人?」

「三十人だ。流石に、それだけの人間が幻覚を見始めたら学園としても制度を改めざるを得ないだろうな」

「それに確か、そうなるときには歌が聞こえると聞いたこともあります。誰かが人為的にそういった幻覚作用のあるイタズラをしているのかもしれません」

「へぇ。もしそうなら、暇なやつもいるもんだな」

「まったくだ。こんなこと、調べるのもバカらしいが。とにかくお前たちにはこの事件の解明をしてもらう。それで、これまでのマイナスを帳消しにしようということになったのだ」

 これで説明は終わりだというように妹背は背を向ける。

 久月は困ったようにオレと妹背の間で視線を彷徨わせていたが、オレはため息を吐くとその冷たい背中に投げかけた。

「オレとこいつに任せるよりも、もっと適任がいるんじゃないのか」

「お前たちほど暇なやつはいないだろうよ。それに千歳、お前はなんだかんだと賢いからな。これでも頼りにしてるんだよ」

 嫌に含みのある言葉に舌打ちすると、オレはそのまま部屋を出ようとする。

 後ろでは久月あたふたと慌てる様子が伺えたが、結局オレについて来ることにしたらしい。

「報告は怠るなよ、千歳」

 声に一瞬振り返りながら、オレは進路指導室の扉に手をかけた。

 予想以上に時間が経っていたのか、いつの間にかオレンジの明かりは消え、白い蛍光灯だけが廊下を照らしている。

 どこか薄ら寒いものを感じながら、窓から見える別の校舎に目を向けた。

「なぁ、お前はどう思う。本当に犯人なんてものがいると思うか?」

「えぇ? わ、私ですか?」

 いきなり話を振られて、久月が慌てたように考え込む。

「えっと、誰かの仕業と考えるのが一番自然ではないでしょうか」

「ま、そうだよな」

 常識的に考えてそんな集団催眠的なものがあるとは考えられない。

 確かに常識的な学園かと訊かれれば微妙なラインだが、内容が猟奇的な点も気になる。

 恐らくは久月の言う通り、人為的なもの。このまま放置していたら、どうエスカレートするか分からないだろう。

 オレは深いため息を一つ吐くと、歩みを再開させる。

「え、あ、あのっ」

「オレは千歳悠月だ。まぁ犯人確保まで、せいぜいせっせと働いてくれ」



 コクコクとあかべこのように頷いた久月を連れて、オレは美術棟を訪れていた。

 この学園は生徒数こそ多くはないが、それに反比例するかのように敷地も施設も数多い。

 本校舎から始まり、美術にまつわる専門の集まる美術棟、音楽にまつわる専門の集まる音楽棟、映像にまつわる専門の集まる映像棟、図書館に体育館、部室棟……と、その大きさはまちまちだが、数えるのも億劫になるほど設備は豊富だ。

 そのせいもあって、この学園ではひとりになり易い。

「美術棟に来て、どうしたんですか?」

「ここは一番広いからな。この時間だと、ひとり制作室に籠もる生徒もいるだろう。その切り裂きジャックとやらも、出るんじゃないかと思ってな」

 基本的に他の専門科の棟に入ることはまずないが、別に出入りが禁止されているわけではない。

 実際に、他科同士が集まって互いにインスピレーションを与え合ったりもすることもあるそうだ。

「こうしてみると意外にセキュリティが緩いよな。設備の割に」

「確かにそうですね。孤島ですから、管理が甘くても大丈夫ってことなんでしょうか」

「そういうことだろうな。……まぁ、どこも大丈夫じゃねぇけどな」

 ぽつりと呟く声が廊下に響く。

 明かりこそついていておどろおどろしいといった雰囲気はないが、それでも静かな校内はゾッとさせるものがある。

「そ、それにしても、本当に切り裂きジャックなんて現れるんでしょうか」

 久月は怖いのか、先ほどからしきりに辺りを見回している。

「ふん。だからそれを確かめるためにこうして来ているんだろうが」

「そ、それはそうなんですが……」

「――しっ。静かにしろ」

 咄嗟に久月の口を手で塞ぎ、耳を澄ませた。

 微かだが、なにかメロディのようなものが遠くで響いている。

「ちっ。遠いな」

「あうあう……」

 顔を真っ赤に染める久月から手を放し、音のする方角を見つめる。

 明かりの付いた廊下は真っ白で、それだけになにかが蠢いている妙な気配を感じさせた。

「お前はここで待ってろ。嫌な予感がする」

「いっ、いえっ。私も任せられたんですし、一緒に行きます!」

 ぐっと握りこぶしを作ってみせる久月だが、どうにも頼りない。

 このまま連れて行っても足手纏いになる未来しか見えずに少し悩んでいると、今度ははっきりとした音で悲鳴が響く。

「っ、行くぞ!」

「はいっ」

 左右にレールのように敷かれた明かりに沿って廊下を走り、声が聞こえた教室までやって来る。

 白い廊下に浮き出るような茶色い扉をバンッと勢いよく開けると、そこにはひとりの少女の姿があった。

「なっ」

「ひっ」

 しかし彼女の右腕から先は失われていて、その断面はグロテスクな赤で埋め尽くされている。

「あっあぁっ。そうだ、私たちはあの日もう、すべて失って……ごめんなさいごめんなさいっ」

 焦点の合わない瞳、カクカクと震える身体、虚ろに叫ぶ口。

 そのどれもが異常を伝えていて、オレは咄嗟に少女に駆け寄る。

「おいしっかりしろ! なにがあった!」

「ひひっ、ダメだって、そんなことは分かってるわ。でも、すがるしか――」

 虚ろに言葉を零して、少女の身体から力が抜ける。

 ぐったりと倒れ落ちる身体を慌てて支えていると、後ろから驚きの声が漏れた。

「えっ」

 久月の視線に誘われて彼女のグロテスクだった右腕に視線を移すと、そこにはそれまであった赤が消え去り、色白な腕がちゃんとついていた。

「ど、どういうことなんですか? だってさっきまで、この人右手が……」

「知るかそんなもん。でもこれが、切り裂きジャック――っ」

 ひらりと、視界の端をなにかが漂う。

「こいつを見てろ、いいか絶対に動くなよ!」

「えっ、あ、ちょっと!」

 ひらひらと舞うそれを追って、オレは教室を飛び出す。

「クリーチャーだと?」

 真っ白な廊下でまるで嘲るようにくるくると舞い踊っているのは、真っ赤な蝶。

 この学園で起こる、クリーチャーと呼ばれる現象だ。

「ということは、やはり誰かがなにかしらの手段でさっきの幻覚を作り出してるってことか」

 クリーチャーが発生するのは、この島で芸術を生み出しているときだけだ。

 久月の話を思い出すに、今回の媒介は恐らく歌。先ほど聞こえたあの音が、犯行そのものだったのだろう。

 けれどクリーチャーが人に害を与えるという事例は聞いたことがない。

 実態があるように見えるが、所詮はそのように見えるというだけの幻だ。触れることはおろか、物理的干渉を及ぼすことすらできない。

 それだというのに――。

 ぐるぐると回る思考を加速させるように、ひらひらと舞う蝶を追って回廊にも似た階段を駆け上がっていく。

 そうして出た屋上で、きらきらと煌めく星空の下。

 真っ黒なローブに身を包み、真っ赤な蝶たちに囲まれている人物がいた。

「てめぇは、何者だ!」

 バタバタバタと蝶が騒めいてまるでノイズが走っているかのようで、その姿はよく見えない。

 男なのか女なのか、そもそも人であるのか。

 けれどローブの下に潜む赤い閃光が、オレを捉えていた。

「誰も彼もが、その正体を知っている。みんなみんな、都合のいい夢に溺れて忘れてしまっているだけだ」

「は? なに言ってんだ。てめぇみたいな気色悪いすかした野郎なんざ知るかよ」

「ふっ。それこそ幻想だ。私は私自身を示すものではない。記憶そのものだ。優しい夢に誘われて、暢気に惰眠を貪る愚かな人々を目覚めさせる者、それこそ私だ」

 ガサガサと騒めきに紛れる蠢くような声。

 聞いているだけで、気分が悪くなってきそうだ。

「中二病ごっこはその辺にしとけよ。思い返すと、死にたくなるぞ」

 挑発するようにニヤリと笑うと、オレはぐっと足に力を入れて切り裂きジャックへと肉薄する。

「っ⁉」

 流石に迫ってくるとは予想していなかったのか反応は遅く、そのまま強く握った拳を振り下ろす。

「その奇妙なローブごと、引っぺがしてやるよ!」

 ぶんと突き出した拳が虚しく空を切る。

 ぐっと背を逸らしてなんとか回避したようだが、その黒いローブの下にキラリと光るものが見えた。

「は。いっちょ前にアクセサリーでもつけてんのか?」

 空振りした反動を活かして腰を回し、追撃を放つ。

 けれどぐっと拳を突き出そうとしたところで、歌が響いた。

「なっ」

 再び突き出した拳はノイズが走ったように半透明になり、切り裂きジャックの身体を貫通する。

 その光景に意識を持っていかれているうちにやつはタっと距離を開けると、そのまま飛び降りるように屋上のフェンスを越えて夜の闇へと消えて行った。

「あっ、ちょおい!」

 慌ててフェンスから身を乗り出して下を見てみるが、そこには切り裂きジャックの姿も赤いグロテスクな投身遺体もない。

「逃げられた……のか?」

 激動の展開過ぎて実感できていなかったが、あまりに現実味のない状況に遅れてふわふわとした狐につままれたような感覚がやって来る。

「戻ってる……」

 ふと左手を見てみると、ノイズがかったように半透明になっていたのが元に戻っていた。

 先ほどまでの光景は、本当に現実だったのだろうか。

 それこそやつが言っていたように夢か幻で、オレは微睡の中に奇妙なものを見てしまっただけなのだろうか。

 自然と、グッと握り締めた手に力が入る。

「いいや、違う。これは現実だ。あのふざけた野郎が、狂ったことをしている。その事実は、ウソじゃない」

 実体となった事件に、面倒くささと興味の二つが入り混じる。

「クリーチャーと切り裂きジャックか……」

 なんにせよ、日常はこれから慌ただしくなっていくのだろう。



 翌日。オレは久しぶりに、自分のクラスを訪れていた。

「ふん。ここはなにも変わらないな」

 いつぶりかのクラスメイトの登場にひそひそと囁く声と視線に晒されながら、オレは教室を軽く見回す。

 楽しそうに話に花を咲かせる女子たちに、一緒に漫画を開いてきゃあきゃあはしゃぐ女子たち、ひとり机に向かってノートを開く女子。

 一部オレの方を向く彼女たち以外、特に変わらぬ日常がそこには流れていた。

 一応言っておくが、オレがこうしてクラスにやって来たのは決して妹背に卒業を危ぶまれたからではない。昨夜出会った切り裂きジャック、やつが言っていた言葉が気になったからだ。

 あいつはみんなという言葉を使った。それは恐らくこの学園の生徒のことで、その口調から察するにこの学園にはなにかがあるという感じだ。

 そしてそれを生徒自身が知っているはずだ、というのがあのイカれとんちきの主張だろう。

 無論、オレもあの野郎の言葉に耳を傾ける気はない。

 けれどそれがやつに繋がる道として無視できないことも確かだと考えている。

 だからこうしてわざわざクラスに来てやったんだが……。

「暇だ」

 HRを終え、授業に突入した教室の中でオレはひとりあくびをかみ殺す。

 何度も言っている通り、ここは芸術の学園だ。

 しかしその専門科だけを勉強すればいいかと問われればそんなことを教育機関が言えるわけもなく、こうして午前中は一般教養の授業が行われる。

 ――そういえばオレが授業を受けなくなったのも、この時間が退屈だったからだなぁ。

 まるで同じことを何度も何度も聞かせられるかのような感覚に、オレはこの午前中の授業をボイコットした。

 クラスは専門科ではなくこの一般教養の授業を単位として動くため、次第に浮いていったのを覚えている。

 ――まぁ、一応専門科の授業ではちゃんとしてるはずなんだが。

 流石にそれで単位をくれというのも横暴だとは思うが。

「ふん」

 ふと途中から思考が斜めに逸れてしまったと気づき、オレは改めて昨日の切り裂きジャックについて考える。

 今のところある手掛かりは二つ。あの歌とアクセサリーだ。

 ノイズが走ったようで聞き取ることはできなかったが、クリーチャーとは人の心を映す鏡。その特徴は唯一無二だ。

 未だ解明されないクリーチャーだが、重要な手掛かりとして使えることは確かだろう。

 そして二つ目が、オレが仕掛けたときにちらりと見えたアクセサリーのようななにかだ。

 首元に付けられていたからネックレスかなにかだとは思うのだが、あんなサイケデリックな行動を起こすときに着けているぐらいだから、おそらくやつにとってのアイデンティティのようなものなのだろう。

 まぁ問題は、その両者とも特定するのが難しいということなんだが。

「どうしてオレがここまでせにゃならんのか」

 ため息交じりに窓から空を見上げると、澄んだ青い空がどこまでも続いていた。



 この学園では、昼休みを境にその雰囲気ががらりと変わる。

 それまでの学生然とした和気あいあいとした楽しげな雰囲気から一転し、シンと静まり返った聖域のような場所へと変貌するのだ。

 無論、音楽系の学科も存在するので静かというわけではないが。

 ポロンポロンと奏でられるメロディに包まれながら、オレは自分を取り囲む透明な波に目をやる。

 透明でまるでプラスチックのようなのに、流れて、しぶくクリーチャー。

 オレの奏でる一音一音を拾い上げ、その穏やかさも激しさも、その優しさや厳しさをも実体化させる。

 ポロポロポロロ……ロンッ。

 そして最後の一音と共に盛大な渦を生み出し、波が引くようにして消えて行く。

「わぁ~、千歳くんってピアノがすごく上手なんですね」

 パチパチパチと拍手の音が静かになった演奏室に響いた。

「お前、だからその千歳くんってのはやめろ。仮にもてめぇの先輩だぞ」

 オレは鍵盤の上から手を退けると、ほわほわと間の抜けた笑顔を浮かべる久月の方に振り返る。

 午後の授業は必修科目として扱われているがその実出席するかしないかは選べるので、今日は久月をオレのアトリエに呼んだのだ。

「す、すみません。なんだかその方が言いやすくて……」

 ここに呼んでから、何度注意しようがこいつはオレのことをずっとくん付けで呼んできた。

 性格上嘗めているということではないんだろうが、流石に年下にくん付けで呼ばれて喜ぶほど頭はメルヘンチックにできていない。

「そ、それにしてもすごいですよね、自分のアトリエを持ってるなんて」

「別にすごかねぇよ。三年になれば誰でももらえるもんだ。……まぁ、文芸科にそんなもんがあるかは知らないが」

 そもそも部屋を与えられて、どうするというのだろうか? ペンと原稿用紙さえあればいいんだから、自室でよくないか?

 オレが他科について考えていると久月は部屋の中を興味深そうにきょろきょろと見回していた。

「CDとかいっぱいあるんですね~。あ、この歌手わたしも好きですよ。なんかこう、ロックな感じで」

 じゃーんとそのアーティストのマネをしてみせる久月だが、オレはスルーすると肘をつきながらため息を零す。

「お前、昨日あんなのを見たのによく能天気でいられるな」

「そっ、そんなんじゃないです! というかあれから千歳くん帰ってこなくて、すごく困ったんですからね⁉」

 泣きそうな瞳で抗議の声を上げる久月。

 そう、あの後切り裂きジャックを追ったオレはすっかり被害者の女生徒とこいつの存在を忘れてしまい、そのまま帰ってしまったのだ。

「千歳くんが『絶対に動くな』って言うからジッとしてましたけど、千歳くん一向に帰って来ませんし、佐々木先輩も目を覚まさないしで怖さと心配とでわたし大変だったんですからね⁉」

「お、おう。悪かったから、もうくん付けで呼んでいいからさ、ほら、泣き止め?」

「うわぁあ、本当に、本当に怖かったんですからね⁉」

 思い出したように泣き始めた久月に、どうしていいか分からなくなる。

 ――と、とりあえず慰めればいいのか? で、でもどうやって?

 対人スキルの乏しい脳みそを必死に働かせ、とりあえず久月の頭に手を置く。

「わ、悪かった。もうあんな風に放置しないから、な?」

 慣れない手つきで頭を撫でていくと次第に落ち着いたのか、「約束ですからね?」と呟くとその涙を止めた。

 妙に疲れてしまったわけだが、今日こいつをここに呼んだ本来の目的はそこら辺の事情を聞くためだ。

 切り裂きジャックに辿り着くためには、やはり被害者の証言は欠かせないだろう。

 そう思って訊ねてみたのだが。

「えっと、実は昨日はそのまま意識を失ったままで。今日のお昼休みに妹背先生とお話を訊きに行ったんですよね。でも、右腕がなくなっていたこと以外の記憶はないそうなんですよ」

「あのとき呟いていたこととか、なにも覚えていなかったのか? オレたちのことも?」

「はい。恐らく気が動転していたせいで記憶が曖昧になっているんだろうと先生はおっしゃっていました。あ、でもわたしのことは覚えていましたよ。『あのとき駆け付けてくれた子だよね』って」

「は? お前のことだけ? 介抱するオレの後ろでただ震えあがっていたお前だけ?」

「な、なんですかその悪意にまみれた言い方は! ずっとひとりで介抱していた私だけですよ!」

 ぷんっと怒ったように話を蒸し返す久月。これ以上言及するとまた面倒なことになりそうだ。

「ふむ。でもそうか、記憶が混濁してるってこともあるのか」

 どんな人間だって、突如自分の腕がなくなったらまともではいられないだろう。

「それで、歌についても覚えていなかったか?」

「それがどんなメロディだったかとか、どんな歌声だったかとかは覚えていないそうです。でも代わりに、懐かしいって感じたことは覚えているそうです」

「懐かしい? どういうことだ?」

「さぁ? よく分かりませんが、そう言っていました。昔の有名な歌とかなんですかね?」

 そう言って久月はこてんと首を傾げる。

 ふわりと揺れる彼女の柔らかそうな茶色の髪を眺めながら、オレは昨夜の歌を思い出す。

 ――あれが懐かしい? 確かによく聞き取れなかったが、ノイズまみれの歌は聞くに堪えない異音だった。

 となると、彼女はそのノイズのない歌を聞いたと考えるのが妥当だろう。

「都合よく思い出してくれるといいが……」

 ぽつりと零れた言葉に久月は残念そうに首を横に振る。

「それは無理だと思います。これまでの被害者も全員、思い出せないそうですから」

「そうなると増々手掛かりが希薄だなぁ」

 どうしたものかと頭を抱えていると、来客のないはずの扉ががらりと開く。

「ちはー☆ センパイ、来ちゃった♪」

 間の抜けたタイミングで度の抜けた明るい声を響かせるのは、昨日屋上で出会った和泉望。

 青いサイドテールがぴょこりと跳ね、口元をぽかんとあけて固まっていた。

「なんだお前、なにか用か」

 オレが声をかけるとようやく動き出し、ギギギとさび付いたような動きでオレと久月を指さす。

「セ、センパイが彼女を連れ込んでるー⁉ じ、事案だー!」

「かかか、彼女⁉ あわわわわ、どどど、どうしましょう千歳くん! お赤飯とか炊いた方がいいんでしょうか⁉」

 和泉に連れられてテンパる久月。

 二人を尻目にため息を吐くと、とりあえずわたわたと首をぶんぶんさせる久月の頭を掴んだ。

「落ち着け。ちょろちょろされると目障りだ」

「めめ、目障りですか⁉ お、大人しくしてます!」

 予想していた反応の斜め上な返しが来たが、口元を手で覆って静かになったので放置。

 そして未だ「うわー、うわー、確かにアトリエでイチャイチャする人もいるって聞くけど、ホントだったんだー」とそわそわとする和泉に向けて手元にあったクッションを投げつける。

「へぶっ、――も、もう、なにするんですか!」

「それはこっちのセリフだ。だいたい、お前どうやってここに来たんだよ」

「え? それは事務室に行って、センパイの名前言ってアトリエどこですかって訊いただけですよ?」

「よくもまぁ会っただけのやつにそれだけの行動ができたよな……」

 普通、わざわざ会いに行こうとは思わないだろう。しかも面倒な段取りまでして。

 呆れを通り越してその精神に敬礼していると、とことこと近づいて来た和泉が自身の身体を見せつけるようにちょろちょろと動き回る。

「どうです? あたしも平均から見れば小柄な方だと思うんですよ」

「どうですって、その通りチビだな」

 意図が分からなかったのでとりあえず頷く。

「チっ……そ、それで、ロリコンさん的にはどうですか? 悪くないと思いますよ?」

 一瞬だけムッと口元を吊り上げたが、すぐに元の笑顔を浮かべると挑発的な視線と共に人差し指をぐりぐりと押し付けてきた。

「はぁ、誰がなんだというのは聞き逃してやるとして、オレの手が出る前にその手を退けろ」

「もう、そんな知らぬ振りしたってムダですよー。こんな小さな子に手を出すなんてロリコンさん以外――」

 そこでハッとしたように口に手を当てると、息でも我慢してるのか段々とわたわたし始めた久月を指さす。

「きょ、巨乳ロリ派⁉ まさかの巨乳ロリ派なんですか⁉ くぅ、ただ小さいだけでは満足せずにおっぱいまで要求するなんて重罪ですよ! 小さいってことは、それだけ成長できなかった証でもあるんですからね⁉ そこんところ考えたことありますか⁉」

 スパーンッ。

 あまりのウザさに、右手が勝手に和泉の頭をはたいていた。もちろんオレのせいではないので、恨みがましい目で見られても困る。

「い、痛いじゃないですかー! なにするんです!」

「知らん。つうかお前はマジでなにしに来たんだ。用がないなら帰れ。こっちは暇じゃないんだよ」

「暇じゃないって、だからロリっ子彼女とイチャイチャしてたんですよね?」

「違うわ! あぁクソめんどくせぇ! 久月、これまでの経緯を説明してやれ!」

 そう言って見てみると、久月が青い顔でプルプルと震えていた。……どうやら、オレに目障りと言われてから黙るために息を止めていたらしい。

 そんな久月に切り裂きジャックにまつわるあれやこれやを説明させると、和泉は興味津々といった感じに瞳を輝かせていた。

「つまりセンパイたちは、悪者を逮捕するべく動く特殊部隊なんですね!」

「ちげぇし。どこをどう聞いたらそんなファンタジーな展開になる。ただのガキの使いだ」

「えー、でもでも、かっこよくないですか? 悪を捕まえる先鋭ーみたいな感じで」

 言いながら和泉はビシッと変なポージングを決めているが、ほとほとため息が尽きない。できることなら代わってもらいたいぐらいだ。

「……ん? そうか。ならお前も一緒にやるか? 共に切り裂きジャック逮捕を目指して頑張ろうじゃないか」

「え⁉ いいんですか⁉ ぜひぜひー。これであたしも、正義のヒーローですね!」

「あぁ、孤軍奮闘の活躍を期待してるぞ」

「えっと……それって、ただ千歳くんにいい様に使われるだけじゃないかな……」

 ボソッと核心を突いた久月は無視して、話し合いを再開させる。

「んで、現状これといってやつに繋がる手掛かりがないわけなんだが、なにか案とかないか?」

「そういえば千歳くんはあの後切り裂きジャックを追ったんですよね? 姿を見たりはしなかったんですか?」

「一応殴り掛かりはしたぞ。避けられたが」

 情報はなるべく共有しておいた方がいいかと昨日のことを話すと、久月が目を丸くする。

「ふぇえええ? な、なんでそんな危ないことを⁉」

「なんでって、とりあえずぶん殴って捕まえれば終わりだろ。別に傷害罪で捕まるわけでも、暴力沙汰で退学になるわけでもないんだから」

「いやだからって危なすぎますよ! もう無茶なことはしないって約束してください」

 有無を言わさぬ謎のプレッシャーを放つ久月。

 その迫力に思わず頷いていると、それを見ていた和泉が笑いを零した。

「ち。お前はなんかないのか、今の話を訊いていて思ったこととか」

「んー、まぁそうですね。とにかくここは情報を集めることが最優先じゃないですかね? 実際にその切り裂きジャックに会ったセンパイなら、今までの証言にもなにか思うところがあるかもしれませんし。一度被害者の方々に話を訊きに行ってみては?」

 今までのノリに似合わず中々にまともなことを言う。

 それから会議は少し続いたが和泉の案以外には特に出なかったので、その間抜けな彼女らに会いに行くことになった。



「んで、初めの被害者はここにいるのか?」

「はい。美術科の二年生、北里(きたざと)先輩です」

 ファイリングされた資料に目を通す久月に連れられ、オレたちは美術棟を訪れていた。

 昼休みに妹背に会ったときにそれまでの調査資料をもらったのだそうだ。

「北里……()()か?」

 その名前にピンとくるものがあったオレが扉を開こうとしたとき、茶色の扉越しに高い悲鳴のような声が聞こえてくる。

 慌てて開いた扉の向こう側にいたのは、床から生えるようにして伸びる巨大なヘビ。

 しかしその頭部は人間の顔をしており、その異形に久月と和泉が悲鳴を漏らす。

「そ、そこの人! 今すぐその蛇に体当たりしてくれないかい⁉」

「ふぇ? えぇっ⁉」

 ぐらぐらと今にも倒れそうに揺れる人面ヘビを前に慌てふためく久月を指さし、ハスキー声が続けて発せられる。

「今やらないと、このままじゃ世界が滅んでしまうんだ!」

「っ!」

 その声に誘われるように意を決すると、ぐっと手を強く握って久月が人面ヘビに向かって走りだす。

 けれど久月が体当たりをしようとしたとき、人面ヘビの胴体が機械音と共にパカリと開き、吸い込まれるようにすっぽりと収まってしまう。

「ふぇえええ⁉」

 久月の悲鳴と共に再び駆動音が鳴り響いたかと思うと、ぴたりとその胴体が閉まってしまった。

「えっ、ちょ、なんなんですかアレ!」

「あいつの思考回路は考えるだけムダだ」

 ため息交じりに人面ヘビに近づく一本の黒色のアホ毛を指さす。

「これぞまさに蛇ーメイデン。なんちゃってね」

「おい由佐、お前なにくだらないことしてるんだよ」

 ぴょこぴょこ揺れるアホ毛ごと頭にチョップを下ろすと、少女が「うん?」と今更オレの存在に気づいたのかきょとんと首を傾げた。

「やぁ、悠月じゃないか。ボクの工房になんの用だい?」

 とぼけた調子のこいつは北里由佐。

 小柄というわけではないが和泉よりもフラットな体型の持ち主で、そのボーイッシュな雰囲気も相まってたまに男に間違われるらしい。

 そんな彼女はオレが学園で唯一といっていい友人とも呼べる人物で、見ての通り変わった天才気質の芸術家だったりもする。

「ちょっとお前に話が合ってな。というか久月を早く解放してやれ。下手したら今頃あの中大洪水だぞ」

「あ、ごめんごめん。人が来た気配がしたからつい新作の試運転をしてみたくなっちゃったんだよ」

 由佐がポケットからリモコンのようなものを取り出すと、人面ヘビの胴体が再び開いた。

 そこには予想通り、大洪水を起こす久月が立っていた。

「うぇええ、怖かったですよぉ」

「は。あんくらいでビビってんじゃねぇよ、バカが」

「そう言いつつ、駆け寄ってきた千歳ちゃんの頭を優しく撫でてあげるセンパイなのであった」

「うるせぇ」

 またも泣き虫小僧へと変貌を遂げた久月をあやすと、オレは既に制作に向かっていた由佐を呼び戻す。

「んでお前、切り裂きジャックだかに会ったんだろ?」

「そうらしいね」

 手元で手足の生えた黒いなにかが蠢くのを眺めながら、由佐は曖昧に頷く。

「でもあんまり覚えてないんだよね。確かにすごく気分が悪くなったのは覚えてるんだけど、噂に聞く手足がなくなったりなんかが起きた記憶はないんだよね」

「そうなのか? じゃあなんで切り裂きジャックだと思ったんだよ」

「別にボクが切り裂きジャックにやられたーと言ったわけじゃないからね。でも他の話を訊くに、恐らく同一犯だと思うよ」

「そのようですね。初めはただの疲労による体調不良と診断されたそうなのですが、それから事件が続くようになり、例の歌からこれが第一の犯行だったのではないかと判断されたそうです」

 捕捉するように横から資料が差し出される。彼女の目元はまだ赤かった。

 オレはなんとなく久月の頭に手を置きながら、その資料を受け取る。

「なるほどな。んで、この資料によると歌について覚えてるのか?」

「雲を掴むような話だけどね。なんて言うのかな……懐かしい場所へと回帰する、回顧録(レコード)のような歌だったかな」

「……お前のその詩的な表現はどうにも分からん。久月、翻訳してくれ」

「えっと……わたしポルトガル語はちょっと……」

「いや、どう考えても日本語だろ……」

 困った顔をする久月に困っていると、由佐は部屋の奥へと進みそこにある熊の彫刻に手をかける。

「ならこれなら分かるかい?」

 両手に握った彫刻刀をカチカチと鳴らし、自分よりも大きな彫刻にスラリとその刃を入れていく。

 シャーと彫る音がメロディを奏で、次第に輪郭を柔らかくしていく熊が懐かしい幻想林へと誘う。

 今由佐を囲むのは、いつか家族や友達と赴いた森林。

 それはキャンプ場かもしれないし、誰かの実家かもしれない。

 そんな誰しもが持つかつての光景が、クリーチャーとなって現れていた。

「す、すごいです。これが北里先輩の芸術なんですね……!」

「あいつは基本バカだけどな。その才能は本物だ」

 流石は教師たちからも一目を置かれるだけはある。

 今もオレたちに懐かしいという感情を伝えるために、一つの作品を作り上げてしまった。

 ジャッと最後の一太刀を入れると、由佐はけろっとした笑顔で振り返る。

「どうだった? 悠月なら分かったんじゃないかい?」

「あぁ。流石だな」

 素直に頷くが、本人はどこか納得がいかないところがあるのか首を傾げている。

「んー、でも本物はこんなもんじゃなかったんだよね。もっとこう、切実な、でも到底受け入れられない異物のような……。あれを再現するのはボクにはムリかな」

「お前がムリだなんて言うのは初めて聞いたな。そんなにすごいのか?」

「それはもう、ボクの中でぐるぐると蠢くくらいには。というわけでその捜索、ボクも手伝うよ。もう一度あの歌を聞いてみたいからね」

 というわけで有力な情報は得られなかったが、代わりに新しい仲間(労力)が加わることになった。

「ところでお前、さっきから手元で弄ってるその黒いのはなんなんだよ」

「うん? これかい?」

 手元でカチャカチャと続けていた作業を止め、由佐は黒くて丸くていやに艶のあるそれを見せてくる。

「これぞボクの新作、その名もGガ〇ダムさ!」

 ……果たしてこの天才(バカ)を仲間に入れることが正解だったかは、置いておいて。



 今日はあの狂気を完成させて提出するという由佐を置いて、オレたちは他の被害者たちに話を訊きに行った。

 けれどその結果はどれも同じで、歌のようなものが聞こえたと思ったら身体の一部がなくなっていることに気づき、気を失って目を覚ましたら元に戻っていたということだった。

 またその歌についても、懐かしい感じがしたというだけで詳細を覚えている者はいなかった。

時間も時間ということでオレのアトリエに戻って来たのだが……。

「……なんか、時間をムダにしたって感じだな」

「当たって砕けろって感じだったんだし、気にしちゃダメですよ」

 相当数の人数と会話をして疲れたオレに、和泉はグッと両のこぶしを握ってみせる。

 そういえばこいつ、被害者に会っている間一言もしゃべらなかったな。

「元はと言えばてめぇが言い出したんだろうが。どうしてくれる」

「ん~、センパイのためなら今すぐにでも犯人さんを捕まえてきてあげたいんですけどー。ちょっと管轄外です」

「なら黙ってろっ」

 思わずイラっとしてピアノの上に置いておいたクッションを投げつけるが、二度目ともなればこちらがなにをするのか予想できていたらしく、和泉は身軽な挙動でそれを避ける。

「そんな攻撃、あたしには効きません」

 ドヤ顔を浮かべるその顔の下で、なにかがキラリと光った。

「……そういや切り裂きジャックもアクセサリーみたいなのを着けてたな」

「え?」

「昨日切り裂きジャックの野郎をぶん殴ってやろうとしたとき、首元でなにかが光ったんだ。恐らくアクセサリーだと思うんだが……そっから辿れないか?」

「そうですね。この島だと購入できる場所は限られてますし、調べてみる価値はありそうです」

 この小さな島には、明確なお店というものが存在しない。

 その代わりにあるのが購買だ。

 制作に必要なものから娯楽品、ありとあらゆる需要に応える品揃えを有する巨大な市場。その中にはもちろん、服や装飾品を取り扱うブースも存在する。

「でも、この島で買ったかどうかは分からなくないですか? 元から持ってるものだったりしたらそれこそムダ足になっちゃいますよ?」

「ま、そうだな。それでお前に質問なんだが、それはここで買った物か?」

 首を傾げる和泉の首元――銀の錠が取り付けられたチョーカーを指さす。

「そ、そうですけど。だとしたらなにか問題でもあるんですか」

 さっと隠すように首元に手を置くと、和泉にジトっとした視線を送られる。

「なぜケンカ腰になる。買ってほしいなら買うが……ただ、似たようなものを持ってるやつとか知らないかと思っただけだ」

「ふぅん。ま、それならいいですけど。でもそれって、あたしがチョーカー着けてることとなんか関係します?」

 どうしてここまで訝しんだ視線を送られるのか。

 理不尽に思いつつも、オレは久月を指さした。

「例えばだ。このファッションにあまり関心のなさそうなやつが、通りすがった女子のアクセサリーに目を向けると思うか?」

「ほえっ、私ですか?」

 和泉は久月に視線を送ると、少し考えた仕草をした後に首を横に振った。

「……確かに思わないですけど」

「そ、そんなぁ。確かに和泉先輩がチョーカーを着けてることも今気づきましたけど……」

 がっくしと肩を落とす久月を放置して言葉を続ける。

「それにだ。自分が着けているものと同じもの、似たものを着けてるやつがいたら気になるだろ。被ったーとか、今すぐ外せこのクソ野郎首ごともいでやろうかーとか」

「ま、まぁ、そうですね。後半のは一切分かりませんけど」

 頷きながらも、和泉は半信半疑といった風にこちらをじろじろと見回す。

 どうしてそこまでこの会話に引っかかる部分があるのか分からないが、しばらく思案した後に小さく頷く。

「えっと、ネックレスとかなら見たことありますね。後他に銀のアクセだと……ペンダントとかなら着けている人を知ってます」

「ならそこから調べてみるのも手か」

 どれだけいるかは分からないが、全校生徒から探すよりはましだろう。

 とりあえずの話が終わったところでオレは立ち上がる。

「今日はもう解散だ。腹が減ったからオレは帰る」



 白々とした明かりに照らされて反射する窓に自分の姿を認めながら、オレは足音の響く廊下を進む。

 あの後久月と和泉が帰ったのを確認したオレはひとりで切り裂きジャックを捕まえるべく、音楽棟を巡回していた。

「さて、今度こそとっ捕まえてやる」

 昨日の感じから、タダで捕まえられないことは分かった。

 恐らく、というか主にオレのせいで荒事になる。なので二人が一緒に来ると逆に困るのだ。

 カツカツカツと鳴る足音を耳にしながら、ぼんやりと光る作業室のプレートを見つめる。

 音楽棟は他の施設よりも防音がしっかりとしており、美術棟の様に声で異変に気づくことはできない。

「ちょっといいか?」

「うん? あ、千歳くんじゃない。どうしたの?」

「いや、最近物騒な噂も流れてるからな。妹背に言われて、巡回だ」

 だからこうして一部屋ずつ確認していくしかない。

 そうして部屋を出たオレの視界に、小さな影が映った。

「っ」

 ぐっと、自然と手に力がこもる。

 今の人影は、明らかにオレから隠れるような動きをした。

 月の輝く時間とはいえ、まだ作業をする生徒も少なくはない。しかしオレから隠れる必要性がある人物は、切り裂きジャック以外にはいない。

「は。狙って来たところにオレがいて、慌てて逃げたってところか」

 不敵に笑って渇をいれる。別にオレだって、恐怖心がないわけじゃあない。

 初めはなんかの手品かなんかだと思っていたが、実際に半端とはいえその歌を受けたから分かる。本当になくなるのだ、感覚が。

 普通にそこにあるものが、当たり前としてあるものが、急になくなる。

 その感覚は、ただの苦痛ではない。

「けど、オレは――」

 それでも、追う理由はある。

 妹背に言われたからではない。ちゃんとした理由が――。

 影が消えた廊下の端へと向かい、そこから様子を窺う。

「上か……」

 その足音から階段で上に向かったことが分かった。

 足音をたててでも急いで追うか、それとも忍び足で不意を突くか。少し悩んだが、オレは前者を選択する。

 こちらの足音に気づいたのだろう、それまで控えめだった足音が大きくなる。

 ぐるぐるぐると音を追って階段を上っていき、着いたのは最上階。

 ここは経路が二つに分かれており、一つは屋上へと続く階段。そしてもう一つが、倉庫となっている教室へと続く廊下だ。

 この階の明かりは既に消されており、遠くの様子を窺えない。どちらかを確認している内に、もう一方からは気づかれずに逃げることができるだろう。だが――。

「は。奏楽科を嘗めるなよ」

 音を奏でるということは、音を知るということだ。

 その分、音に対して敏感になっているし耳だって鍛えている。

 オレは迷うことなく教室へと続く廊下を進む。

 倉庫代わりの教室は入り口が一つしか存在せず、窓も高い位置に点々とあるだけだ。

 唯一の出口を塞ぐように立ちながら、薄暗い室内を目を凝らして見回す。

入り口から見て右には予備の楽器類が乱雑に置かれており、左には楽譜などの資料が収められている移動式の棚がいくつもある。

 隠れることのできる場所はいくらでもあった。

「もう逃げ場はない。観念して出て来い!」

 あえて威圧するように声を上げる。

 すると一番奥の棚とその手前の棚の間で影が動いた。

「そこかっ」

 すぐに駆け寄り、そこにいた影を思い切り掴む。

 すると思いのほか抵抗が弱く、思い切り引っ張った勢いで体がぐらついた。

「うおっ」

「きゃっ」

 短い悲鳴が暗い室内に響く。

「いてて……は、年貢の収め時だ――」

 パチリと瞼を開けると、そこには、小さな月が落ちていた。

 大きな黒い瞳にハリのある白い肌、プルンとした艶のあるピンク色の唇。羞恥からか疲労からか頬は薄桃色に上気しており、放射状に散らばる茶色の髪がそれらの艶を彩るアクセントとして広がっている。

「な、なんでお前がここに……」

 バランスを崩して倒れたオレの下に組み敷かれるようにしていたのは、帰ったはずの久月だった。

「えっ、えっと……その、と、とりあえず手を退けてくれませんか……?」

 微妙に視線をオレから逸らしながら、久月は途切れてしまいそうなほど小さな声でお願いする。

「手?」

 そういえばなにか柔らかいものに触れているような……。

 今まで意識になかった右手を動かそうとすると、その手のひらにむにゅりとした弾力が伝わってくる。

「……ぁっ……あ、あの、千歳くん……?」

 頬をさらに真っ赤にさせ、疑心のたっぷり詰まった瞳を向けられる。

 嫌な予感を覚えつつオレが視線を下げると、そこにはオレの手によってぐにゃりと形を歪める久月の豊満な水蜜桃があった。

「っ、わ、悪いっ」

 状況もなにも忘れて慌ててその手を退かす。

 そう、その手だけを。

「おっ」

 支えを失い、バランスの取れなくなったオレの身体はもちろんぐらりと揺れる。

 咄嗟に再び右手を床に着くが、オレと久月の間にあった空間はさらに狭まっていた。

「……っ」

 視界いっぱいに広がる彼女の整った顔。

 相手の瞳に映る自分の姿が見えそうなほど近い距離で、オレたちは息も忘れて固まってしまう。

 薄明りに照らされた静寂の中、瞳に映るのはお互いだけで。

 そんな微妙な雰囲気の中、異変は起こった。

 ガラガラガラ、カチャッ。

 扉が閉まる音に、鍵をかける音。

 慌てて振り向くと、そこには赤い二つの光があった。

「切り裂きジャック……!」

 真っ黒なローブの下からこちらを覗く真っ赤な瞳。

 騒めくように羽ばたく赤い蝶に紛れて、その姿は一瞬にして消えてしまった。

「くそっ、待ちやがれ!」

 咄嗟に立ち上がって追いかけようとするが鍵のかけられた扉はビクともせず、オレは焦りと苛立ちを覚えながら舌打ちをする。

「あの、切り裂きジャックがいたんですか……?」

 声をかけられ、ハッと振り返る。

 どこか呆然としながら上体を起こした久月がこちらを見つめていた。

「逃げられた。というか、見ていなかったのか?」

「あ、はい。すみません、転んだ拍子に眼鏡がどっかにいったみたいで。なにかぼんやりと人っぽいのがいるなーとしか」

 あぁそうか。先程から感じている違和感はそれか。

 納得しながら、暗闇に少しは慣れた瞳で辺りを探す。

「あった。これだろ」

「あ、ありがとうございま……っ」

足元に落ちていた黒縁眼鏡を渡そうとしたとき、オレと久月の視線がピタリと重なる。

 すると先ほどの光景が脳にフラッシュバックし、弾かれるように顔を背けた。

「と、ところでお前、なんでここにいるんだ。しかもオレから逃げたりして。もしかして切り裂きジャックと共犯だったのか?」

「ち、違います。あの実は、千歳くんのことをつけていたんです。帰るって言いだしたとき、ひとりで切り裂きジャックを探すんだろうなって思って。それでまた危ないことをしないか心配になって、でもついていってるのがバレたら怒られるんだろうなって咄嗟に」

「……なるほど」

 状況を理解しながら、ちらりと久月の様子を窺う。

 黒縁眼鏡を装着した彼女は、落ち込んだように俯いていた。

「ごめんなさい。私のせいで千歳くんに迷惑をかけてしまいました」

「いや、どちらにせよやつには逃げられてたさ」

 こうして閉じ込められたわけだが、おそらくオレはやつに監視されていたのだろう。

 久月がいなかったとして、なにかしらの手段で妨害されていたと考えて間違いない。

「ですが……」

 それでも落ち込む彼女にオレは頬をかくと、その頭にぽんと手を置いた。

「気にするな。それにもし責任を感じてるなら、ここからオレを無事に出してくれ」

 ふわりとした触り心地のいい髪を撫でていく。

 久月は初め驚いた様子だったが、次第に目を細めて嬉しそうに頷いた。

「……はい。絶対に、私がなんとかしてみせます! で、でも今はまだ、もうちょっとだけ撫でてもらってもいいですか……?」

「あ、あぁ。少しだけだぞ」

「あ、ありがとうございます……」

 嬉しそうにはにかむその笑顔を見つめながら、オレの胸に言い表せない感情が浮かぶ。

 ――こ、これがペットを飼う幸せというやつなのだろうか……。

 パタパタと揺れる犬の尻尾を幻視しながら、オレは視線を窓から覗く月に移した。

 暗闇を朧気に照らす月は、今日も美しかった。

 それから久月が落ち着いた(おそらく無意識の内に不安を感じていたのだろう)後、オレたちは改めて室内を見回す。

「千歳くんにおんぶしてもらって、窓から出ることはできないでしょうか?」

「流石に小さすぎないか? というかそもそもここ七階だが、どうやって自由落下を超えるつもりだ?」

 確かに胸の柔らかさ次第ではくぐり抜けることもできそうだが、ここは最上階だ。ベランダのようなスペースもない以上、出られたとしても待っているのは浮遊感と固い地面だけだろう。

「ここの扉は内側からじゃ鍵を開けられないですし……あ、だったら千歳くんが思いっきりこう、えいっとやったらどうですか?」

「それはお前、オレに扉をぶち破れと?」

 不可能ではないだろうが、下手に壊して問題になっても困る。それに「切り裂きジャックに閉じ込められて仕方なく」と言ったところで、言い訳として通用するか怪しい。

 とにもかくにも、やるとしても最終手段だろう。

「外と連絡できればいいんだけどな。なんかないか?」

「えっと、連絡ってどうやって?」

「そりゃ……」

 こてんと首を傾げる久月に訊き返されて、オレは言葉に詰まる。

 声が届く範囲に人がいればいいが、望みは薄いだろう。

「あっ。それなら、クリーチャーで呼びかけるというのはどうですか?」

 考え込んでいたオレの耳に、ぽんと叩いた手の音が届く。

「クリーチャー?」

「はい。クリーチャーは壁に隔たれることもありませんから、ここから外に向けるように出現させられれば不思議に思って様子を見に来てくれる人もいるかもしれないと思いまして」

「そうだな……。可能性は高くはないが、やってみる価値はあるか」

 オレは頷くと、雑に管理されている楽器の中からピアノを探し出す。

「おい、スペースを作るから手伝ってくれ」

「は、はい」

 椅子も発見できたので、オレは用意を済ませるとすっと瞳を閉じた。

 タタタンタタタタララ。

 覚えのあるメロディを、想いをこめて奏でる。

 より大きく、より広く。

 この気持ちが誰かに伝わればいいと、柄にもないことを思いながら。

「クリーチャー、出ました!」

 わぁと口を開ける久月を横目にするオレの周りを、緩やかな水流が流れる。

「ふ、これからだ」

 徐々にメロディは激しくなり、それに伴って水の勢いも増していく。

「どうせだ、派手にいかせてもらおう」

 そっと鍵盤から片手を外し、まるで触れるかのようにクリーチャーに手を添えた。

 そうするとそれまで透明だった水が赤く染まっていき、バシャンと鯉のように跳ねた。

 ――ダダン。

 水の塊が屋上を超えると見えなくなってしまうが、今頃屋上の上では大きな花火のような水しぶきが上がっていることだろう。

「さて、後は誰かが気づいてくれるのを待つだけか」

 というか待っている間ずっと演奏していた方がいいのか? でも面倒だしなぁと鍵盤に置く手を眺めていると、ジッとした視線に晒されていることに気づく。

「……なんだよ」

 その視線の主に視線で返すと、久月はびくりと肩を震わせた。

「え、えっと、あの……素晴らしい、演奏でした」

 頬を赤らめ、恥ずかしそうに俯く久月。

 それでなんだかオレまで恥ずかしくなってしまい顔を背けると、その先には和泉がいた。正確には扉の外に鍵を持って立つ彼女の姿が、だが。

「あは、もしかしておジャマでした~?」

 ガチャリと鍵を開けて、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら和泉が近づいて来る。

 オレは自分の中に浮かびかかっていたなにかをごまかすと、ふんとそっぽを向いた。

「そ、そんなわけあるかっ。ていうかてめぇ、帰ったんじゃないのか」

「いや~、実はあたし、あの後学校に戻ってきて切り裂きジャックを探してまして。それで変なクリーチャーが見えたから来てみたら、センパイたちが閉じ込められてるじゃないですか。これでも驚いたんですよ」

 まさかセンパイたちも切り裂きジャックを追ってたなんて思いませんでしたよ~と笑う和泉の方に視線を戻すと、その手元には鍵が握られていた。

「そういえばお前、その鍵はどうしたんだ」

「え? えっと……扉に刺さったまんまでしたよ?」

「は? 刺しっぱなし?」

 なぜそんなことをと疑問に思うが、わざわざこんなウソを吐く必要もないだろう。

「となると、下手に鍵を所有していることで身バレすることを嫌ったのか?」

 それくらいしか思いつかなかったが、サイコパス野郎の思考を考えるだけムダだと思考を打ち切る。

「まぁとにかく助かった。その鍵はオレが預かる」

 なにかの証拠になるかもしれないと手を差し出すと、和泉は首を横に振った。

「いえいえ、センパイにそんな雑務はさせられません。あたしが事務室に返してきますよ」

「ん、あぁそうか」

 一応所持しておきたかったが、ムリに渡してもらう必要もないか。

 それになにより鍵の事務処理は面倒だ。今回の場合、余計に。

「それで切り裂きジャックは見つかったのか?」

「ダメでしたね、やられちゃいました。三年生の久保(くぼ)って人が被害にあったそうです」

「っ、……そうか」

 久保というと、今日様子を見に行った生徒だ。

 もしかしたらあのとき既に切り裂きジャックはいたのかもしれない。それで警戒するオレが邪魔をしないように追いかけて来た……ということなのだろうか。

 どこか疑問を感じつつ、オレは振り返る。

「お、お前も今日は疲れただろ。もう本当に帰るぞ」

「あ、は、はい」

 視線が絡まった瞬間、またもなんとも言えない恥ずかしさのような感情が浮かび上がる。

「切り裂きジャックの目的は、どこにあるんだろうな……」

 オレはそれをごまかすように暗闇に慣れた瞳で煌々と輝く月へと視線を移したのだった。



「昨日はどうやら、災難だったみたいだね」

 放課後。

 午前の授業をサボったままアトリエにいたオレの下に、由佐が余計な一言と共に現れた。

「……誰から聞いた」

「学園中の話題になってるよ。ついに切り裂きジャック対策班が組まれて、しかもしてやられたって」

「……そうかよ」

 ため息交じりにぐっとソファの背もたれにもたれ掛かる。

 昨日オレは久保に『妹背に言われて巡回』と言った。つまり『切り裂きジャック』に対して学園が正式に対策を取ったということであり、巡回していたのにも関わらず襲われてしまったということになるのだ。

「まぁ悠月はなにかと注目されてるからね。仕方がないよ」

「ふん。ほっとけっての」

「ふふ、そんないじけないの、悠月くん」

 まるで向日葵のように暖かな声。

 遅れるようにして部屋に入って来た女子生徒に、オレは目を丸くする。

「お前まで来たのか、水瀬(みなせ)

 さらりと揺れる腰まで伸びた黄金の髪。

 背丈は由佐よりも少し高く、起伏のある身体つきも相まって大人びた雰囲気を纏った彼女は水瀬佐奈(さな)

 由佐の幼馴染で一緒にいることも多く、それでオレも知り合うことになったのだ。

「それで切り裂きジャックを追ってるんだっけ?」

「まぁな。でもお前でも知ってるもんなんだな」

 水瀬はその大人びた雰囲気に反して割とマイペースなところがあり、流行とか噂といったものに疎い。

 そのため彼女が切り裂きジャックについて知っていて驚いたのだが、水瀬はうふふと顔に影を落とすとにっこりと笑った。

「ゆーちゃんを襲った相手のことだもん。知ってるに決まってるじゃない」

「そ、そうか……。余計なことを訊いたみたいだな」

 この通りマイペースゆえになにかと恐ろしい。

 前に一度由佐と言い合い……というか芸術性の違いのようなもので討論したことがあったのだが、そのときはオレが敵として認識されてしまい大変だった。

 オレがそのドス黒いオーラに気圧されていると、隣で由佐が困ったように笑う。

「さーちゃん、だからそんな危険なことに関わっちゃダメだって。さーちゃんまで被害に遭ったらボクも悲しいし」

 ちなみに『ゆーちゃん』と『さーちゃん』はお互いのあだ名らしい。あまり詳しいことを聞いたことはないが、だいぶ幼いころからの交流なのだろう。

「でも由佐、自分は捜査に加わるとか言ってなかったか?」

「ボクはいいんだよ、一度やられてもう狙われることもないだろうから。それに悠月だって気にならないかい? 彼女がどうやって歌で犯行を行っているのか」

 挑戦的な視線に、オレは苦笑いを浮かべるしかなかった。

 そもそもオレと由佐が知り合うきっかけとなったのは、クリーチャーがどういったものかという探求だ。

 もはやこの島では当たり前となっているクリーチャーに対して興味を引かれた変わり者同士、馬が合ったというわけだ。

 そういうわけなので同じ目的を持つオレが由佐に対してなにかを言えるわけもなく、その代わりに水瀬の厳しい視線に晒されることになってしまった。

「とにかく私もその対策班に入るから。切り裂きジャックにはそれ相応の咎を受けてもらわないと気が済まないの」

 どうしたものかと困っていると、入り口からこちらを窺う黒縁眼鏡が視界に入る。

「おい久月、そんなところで覗いてないでこっちに来い」

「あ、は、はい」

 てこてこと近寄って来る久月。

 椅子に座ってもなおオレの方が視線は高く、見上げるようにしてこちらを見つめるその瞳に昨日の光景が脳裏に浮かぶ。

「き、昨日はあれから、異変とかなかったか」

「だ、大丈夫……です」

 水瀬からの視線を回避するために呼んだのに、なぜだかそれ以上に微妙な雰囲気になってしまった。

 オレは少し視線を逸らしつつ、ちょいと手招きをした。

「……もうちょっとこっち来い」

「え、えっと……は、はい」

 突然の要求に戸惑いを見せながらも、久月はピタリと身体を寄せるようにやって来る。

 オレはそんな彼女に手を伸ばすと、黒縁眼鏡と長い前髪に手をかけた。

 ――別段、美少女ってわけでもないんだがなぁ。

 確かに普段は眼鏡と前髪に隠れてしまっている顔は整っていて、愛嬌もある。

 小柄だが出るところは出ていて色気もなくはない。

しかし見た目の美しさで言うならば、水瀬の方が上だろう。

 ――なら、どうして……。

 こんな、落ち着かない気分になってしまうのだろうか。

 オレはパッと久月から手を退けると、眼鏡を装着させてくるりと後ろを向かせた。

「え、えっと? ど、どういうことですか?」

「ふん、知るか」

 振り返ろうとする久月を掴んでそのままくるくると回す。

 自分でもなにやってるんだかと思うが、考えるよりも先に手が出てしまっていた。

「ふふ、悠月くんもお年頃だね~」

「そりゃそうだよ。悠月も男の子だからね」

「…………」

 水瀬と由佐の声が耳に届いて、オレはハタと手を止める。

「ほれ~星が、お星さまが見えます~」

 ふらつく久月をとりあえず横に座らせると、ゆっくりと視線を向ける。

「別にボクらのことは気にしなくてもいいんだよ?」

「……死ね」

 ぼっと顔に火が付くのが分かる。

「死ね死ね死ね」

「ほえー?」

 オレはそれをごまかすようにぶつぶつ呟くと、混乱したままの久月の髪をわしゃわしゃとかき乱しまくったのだった。



「悠月があそこまで慌てるのも珍しいよね」

「ふん、うるせぇ」

 あれからオレが冷静になれるまでにかかった犠牲は、ふわふわとしていた久月の髪がぶわぶわになるまでだった。

「ところで話は戻るんだけどさ」

「あぁ?」

 ギラリと由佐に向ける視線を細める。

 まだ頬の火照りは、冷めきってはいなかった。

「違うよ、昨日のこと。君、演奏してただろう?」

「あ? なんで知ってるんだよ」

 あの脱出のための演奏はオレと久月、それに気づいた和泉しか見ていないはずだ。

 他に考えられるとしたら、オレを監視していたと思われる切り裂きジャックだけ――。

「あぁ不思議に思わなくていいよ。実は昨日ボクも切り裂きジャックを探して美術棟をうろうろしていたんだ。そこであのクリーチャーを見かけてね」

「そ、そうだったのか」

 一瞬でも意気込んでしまったために、妙な肩透かしに思わず肩を落とす。

 天才とバカは紙一重と言うが、彼女ならばクリーチャーを使って不可思議な現象を起こすこともできるとオレは思っている。

 ――無論、その可能性があるというだけで限りなく低いとは思うが。

「でもまさか切り裂きジャックに閉じ込められていたとはね。てっきりテンションが上がってフィーバーしてたのかと微笑ましく思ってたよ」

「いや、どこの世にテンションが上がってSOSを出す人間がいるんだ」

「うん? h℮lpだってあるんだし、SOSがあってもおかしくはないだろう?」

 脳裏に「いや~、悠月楽しそうにしてるなぁ」とにこやかに笑いながら去って行く由佐が浮かぶ。

 思いの他簡単に思い浮かんだが、普通それで流すか?

 オレが苦笑いを浮かべていると、由佐はこちらを気にした様子もなしに続ける。

「それでね、悠月のクリーチャーを見てたらプールに行きたくなって。今日はそのお誘いに来たんだよ」

「……は? いや、悪い。もう一度言ってもらえるか?」

「うん? だから、悠月のクリーチャーを見てたらプールに行きたくなったんだよ。どうかな?」

「……そうか、うん。そうだな」

 水を見たからプールに行きたい、まず意味が分からない。

 そこでオレは考えることをやめ、首を横に振った。

「悪いが気分じゃないな。やることもあるし、今回は遠慮しとく――」

 切り裂きジャックのこともあるので断ろうとしたとき、隣に座る久月の顔が目に入る。

「のも悪いしな。いいぞ」

「悠月……微笑ましいね」

「ふん。お前もそれでいいだろ」

 そう言ってちょっと驚いたように目を丸くする久月の頭に手を置く。

「別に。ただ息抜きも必要だと思っただけだ」

 ふんとぶっきらぼうに髪をくしゃくしゃとするとパァと顔が華やぎ、久月は嬉しそうに笑顔を見せる。

 ついとこちらの袖まで掴んできやがった。

「え、えへ。ありがとうございます」

「別にお前に礼を言われることじゃない。というかお前、髪ぶっわぶわだな。羊にでもなる気か?」

 触れる髪の感触が癖があるとかいうレベルではなく、まるでバネのように力強い。

 びよんびよん跳ねる髪が面白くて遊んでいると、久月はわぁと両手をあげた。

「千歳くんがやったんじゃないですか! そういうの、本人が一番気にしてるんですからね⁉」

「お、おう、悪かった」

「むぅ、大体気安く女の子の髪に触れてはいけないんですよ? 分かってるんですか?」

「いや、うん。すまなかった」

 ぷくりと頬を膨らませ、ちょんと唇を尖らせて上目遣いに怒る久月。

 なんとなく言い返せずにオレは視線を泳がせる。

「と、ところでお前、プールに行くのはいいけど水着は持ってるのか?」

「あ、そういえば持ってないです。プールの授業もありませんし」

 あからさまな話題逸らしだったが、意外に効果は抜群だった。

「あ、それならボクも持ってないや」

「ゆーちゃんに誘われたの初めてだし、私も持ってないかも」

 オレの言葉に由佐と水瀬も反応する。

「てめぇら、人を誘いに来といてやる気あんのか」

「まぁまぁ。プールは明日にして、今日はみんなで水着を買いに行こうか」

 あっけらかんと告げる由佐に思わずため息が零れる。

 ここまで自由人だと、逆に清々する。

「元々購買に行く予定だったからな、もうそれでいい」

「うん、じゃあオールオッケーレッツゴー!」

「ゴー!」

「ご、ゴー……です」

「ふん。くだらねぇ」

 というわけでオレたちは音楽棟を出て、学生寮に隣接する購買へとやって来た。

 購買と名付けられてはいるが普通のそれとは異なり、外観も内装もデパートに近い。

 孤島に唯一ある商店だけあって、規模が段違いなのだ。

「つか、水着とか初めて見に行くな」

「プールはあっても自由に開放してるだけだからね。機会がないと」

 商品のジャンルごとにブース分けされている広い無機質な陳列棚とも思える館内を見回しながら、水着があるであろう衣類服飾品などのブースへ向かう。

 するとちょうどブースの所々に置かれている端末機器を操作していた和泉と遭遇した。

「お、なにしてるんだお前」

「え?」

 声に振り返った和泉はオレを認めると目を丸くし、視線を後ろの由佐たちに向けると再び「えっ」と声を上げる。

「ん? なんだお前、水瀬のこと知ってるのか?」

 その視線を追っていくと、水瀬が呆けた顔で首を傾げていた。

「あ、いえ。センパイがまた違う女の人連れてるなーって思っただけです」

「なんだその悪意にまみれた言い草は」

 どうやったってそうなるだろうに、こいつはオレに知り合いを作るなとでも言いたいのか。

 少しムッとしていると、和泉は慌てたようにパタパタと手を振った。

「そ、それよりセンパイたちも買い物ですか?」

「なぜかプールに行くことになってな。それで水着を買いに来たんだ」

 簡単に経緯を説明すると彼女は「こんな時期にですか?」と苦笑いを浮かべた後、楽しそうに顔を綻ばせた。

「いいじゃないですか。あたしもついていっていいですか?」

「あぁ? ん、まぁ別に今更誰が増えようが構わないが。それよりお前自身の用事はいいのか?」

「モーマンタイです☆ 既に手続きは終わってますから」

 そう言って和泉はそれまで操作していた端末のタッチパネルに触れる。

 この購買には基本的に店員というものが存在しない。

 その代わりに存在するのが、この端末だ。

 薄い板のようなものに液晶が取り付けられており、様々な画面が表示されている。

 利用者はこの購買で好きに商品を見て回り、気に入ったものを端末で注文する。その際に料金は発生せず、その代わりに購入履歴が残るのだ。

 それこそこの学園島だからこそできる購買のシステム。ただ月ごとにオレたちが使える金額の上限は決まっており、無限に買えるというわけではない。

「ふぅん」

 特に買った物を持っていないようだが部屋に配送したのだろうか。

 ちらりとその手元を見ていると、不意にぐいと手が引っ張られる。

「パーティーが増えたところで、さっそく水着選びだよ!」

「ちょ、待て。引っ張るんじゃねぇ!」

 ぐいぐいと由佐に手を引かれ、水着のブースまで連れてこられる。

 パッと見ただけでも、品揃えは女性ものの方が倍近く多い。

「ちょっとゆーちゃん、先に行かないでよ」

「あはは~、ごめんごめん。ついね」

 悪びれもなく笑い、由佐は手を放す。

「ついで人を引っ張るな。とりあえずオレは自分のを探してくるから、お前らはお前らで勝手にやっててくれ」

 区画は一緒とはいえ並びは男女で分けられている。

 そこでオレは彼女たちから離れて、自分の水着を探す。

「つっても別になんでもいいんだが……」

 ずらりと並ぶ水着の山を眺めて息を吐く。

 特にこだわりがあるわけでもないので、種類があると逆に困るのだ。

「――で、なぜお前はこっちに来てるんだ」

 適当に無難なもので済ませようと水着を手に取りながら、そんなオレを見つめる二つの黒い瞳を見つめ返す。

「お前まさかそんなデカいものぶら下げておいて、ハリボテだったなんて言わないよな」

「ぶら下げって、ななな、なにを言うんですか! だいたい千歳くん触ったことありますよね⁉」

 ぎゅっと胸元を隠すように自分を抱き、慌てたように目をぐるぐると回しながら思い切り叫ぶ。

 けれど叫んでから恥ずかしくなってしまったのか、耳まで真っ赤に染めて俯いてしまう。

「ま、まぁ今の話題は忘れてくれ。オレも色々と忘れるようにするから」

 オレもオレで妙な気分になってしまい、手に取った水着を戻してはまた別の水着を取り出していた。

「そ、それでどうしたんだ。ラッシュガードとかでも女性ものはちゃんとあるだろ」

「え、えっと、そうじゃないんです。あの……その。水着を選んでほしい……んです」

 段々と声が小さくなりながらも、それでも絞り出すように言葉を紡ぐ。

 顔を俯けたままこちらを窺う瞳は少し潤んでいて、緊張で口が乾いているのかしきりに唇に舌を這わせていた。

「お、おう? オレが? お前の水着を選ぶのか?」

「は、はい……ダメ、でしょうか?」

「あ、あぁ。別に構わないぞ」

 カチャカチャと水着を引っ張り出してはしまう。

 水着を選ぶ振りをしながら盗み見ると、嬉しそうにしながらはにかむ久月の姿が飛び込んできた。

「あ、ありがとうございます……!」

「別に。大したことじゃないからな」

 その笑顔が眩しくて、オレは思わず顔を背ける。

 その脳裏には昨日の視界いっぱいに広がっていた彼女の顔が浮かんでいた。

「あ、でも千歳くんの水着も選ばないといけませんよね」

「あぁ? それなら今決まった。行くぞ」

 別にどれでもよかったので、偶々手にしていた水着を持って移動する。

 男ものの水着なんてものは一部のキワ物にさえ当たらなければ大した差はない。

「それでお前、どんなのがいいんだよ」

 流石に女性ものの水着ともなるとその種類はとても多い。

 だから多少は方向性というものを知りたかったのだが、久月はふるふると首を横に振った。

「それ込みで、選んでもらえませんか?」

「そうか……」

 種類から選ぶとなると、水着を見ながら選ぶというよりもどんなものが似合うかを考えてから探した方がいいかもしれない。

 そう思ってオレは久月をジロジロと観察する。

「背は小さいし童顔だからあまり大人びたものを選ぶと似合わないか? でも胸とか尻は出てるし……そうなるとワンピースタイプのものは逆に似合わないかもしれないな……」

 なんとなくのイメージを浮かべながら、どの路線が似合うかを選定していく。

「なんだかんだとスタイルはいいから、大胆なものの方が似合うか。色も……そうだな、白とか水色よりも黒とか青の方がはっきりとしていていいかもしれない」

 ある程度イメージが固まると、オレは視線を身体から顔へと上げる。

「よし、さっそく探すか――って、どうした?」

 こちらを見上げる瞳はぐるぐると揺れていて、頬も赤みが差して落ち着きがない。

「今更恥ずかしくなったのか?」

「い、いえ。そうではなくて……その、考えが全部口に出ていて……」

 恥ずかしさが臨界点を超えたのか、久月はぎゅっとスカートの端を握るとぎゅっと目を瞑った。

「あぁなるほど。今の全部聞こえてたのか」

 それで彼女の言動の理由を察したオレだが。

「…………あ? 無意識に呟いてたってことか?」

 こくこくと赤べこのように首を縦に振る久月。

 それでオレの臨界点もオーバードライブし、咄嗟に彼女の小さな肩を掴む。

「いいか忘れろ忘れるんだ忘れるべきだ忘れてしまえ」

「ふぇ~」

 ぷわぷわ浮かぶ茶色の髪とスカートを眺めながら、一切の遠慮をせずにぐるぐる回す。

「忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ」

「うぇ~」

 脳がシェイクされて記憶が吹き飛ぶことを祈りつつオレは全力で回し続けた。

「うぅ~、星が、星が見えます~」

 その結果、尊い犠牲の上に世界平和は保たれた。

「――って、そう簡単に記憶はなくなりませんよ⁉」

「ちっ、まだ回転が足りなかったか」

「そういう問題でもなく!」

 再びゴーシュートしようとしていたオレの腕を万歳するみたいに掴み、ついっと突き出した唇で言葉を紡ぐ。

「べ、別に大丈夫ですから、その、私に似合いそうな水着を選んでください……」

「お、おう。了解した」

 なんとも言えない妙なくすぐったさを感じたままオレは水着に視線を移す。

 先ほどの思考でイメージはつかめたので、後はそれに合致するものを見つけるだけだ。

「……お。あれなんかいいんじゃないか?」

 多種多様な水着の海を探索していき、オレの視線はとある水着に吸い寄せられる。

「あ、あれですか? でもちょっと、大胆過ぎると思うんですけど……」

「なんだ、オレの選んだ水着が着れないって言うのか」

「それはちょっと違うと思いますけど……」

 苦笑いを浮かべながらオレの示した水着を手に取る。

 そしてちらりとオレの方を盗み見ると、決心したように頷いた。

「じゃ、じゃあ、試着してみます!」

「あ、あぁ」

 ぐっと握りこぶしまで握っていた久月を見送り、ポツンとひとり試着室の前に取り残される。

 他に客や店員がいないとはいえ、嫌にソワソワとしてしまう。

「ま、まだか?」

「も、もうちょっと待ってください」

 ごそごそと衣擦れ音を耳にしながらきょろきょろと辺りを見回す。

 客も店員もいなくてこれなのだから、普通の水着売り場で女を待てる男は尋常な精神の持ち主ではない。

 現実逃避気味にそんなことを考えていると、シャッと試着室のカーテンが開いた。

「……ど、どうでしょうか……?」

 期待と不安が入り混じったような顔でこちらを見上げる彼女が身に着けているのは、白いきめ細やかな肌とコントラストを描くような黒いホルターネックのビキニ。

 豊満な胸は零れ落ちてしまいそうで、きゅっとひもで結ばれた腰元はくらりときそうなほど艶やかだ。

 普通ならば下品にも感じさせてしまうような大胆な水着にも関わらず、彼女のかわいらしさがそれを決して下品にさせない。

 一言で言ってしまうならば、とても似合っていた。

「……ち、千歳くん?」

 名前を呼ばれてジッと見入ってしまっていたことに気づく。

「あ、あぁ。とても似合ってる。かわいいと思うぞ」

 だからだろうか。

 普段ならば絶対に言わないような言葉がすっと出てしまった。

「――ッ。あ、ありがとうございます……」

 けれどこの気恥ずかしさのおかげでこの笑顔を見られたと思ったら、それも悪くはないかもしれない。

 それからオレと久月が購入手続きを済ませるべく近くの端末に向かうと既に他の三人がそれぞれ袋を提げて待っていた。

「なんだ、オレたちが最後か」

「悠月たち長かったねー。イチャイチャするんだったら先に言っておいてもらわないと。先に帰っていいか分からなじゃないか」

「悪かったな、ミ・ズ・ギを選ぶのが遅くてっ」

 ふんと腕を組み、だんまりを決める。

「すみません、私が少しお願いをしてしまいまして」

「いや、別に怒ってるわけじゃないよ。ただこっちもさーちゃんを望に取られちゃってね。ボクが暇してただけだから」

 由佐の視線につられると、そこには楽しそうに談笑する和泉と水瀬の姿があった。

 先ほどは違うと言っていたが、やはり知り合いだったのだろうか?

「とにかく今日はもう解散して、明日の放課後また悠月のアトリエに集まろうか」

「はい、分かりました」

 こうして今日は解散となった。

 けれどオレは彼女たちと別れ、ひとり学園へと戻った。

「まぁ、別に今日でなくてもいいんだが」

 独り言ちながら白く冷たい廊下を歩く。

「こんなときに切り裂きジャックと遭遇したら逆に笑えるな」

 そう、今日の目的は切り裂きジャックの捜索ではない。一度妹背のところに報告を兼ねて情報を訊きに行こうと思っていたのだ。

 一応このことは久月にも伝えた。

 下手に黙って学園に向かって昨日のようなことになると面倒なことになると思ったからだ。

 だから今切り裂きジャックが現れると逆に困ってしまう。

「……って、別に困ることはないだろ」

 妹背がいるであろう生徒指導室に着き、その扉を開ける。

「あれ、いないのか?」

 開けようと引いてもガタンと音を鳴らすだけ。

 不在なのだろうかともう一度扉に力を入れると、今度はすんなりと開いた。

「お、開いた。建付けが悪いのか?」

 少し不思議に思いながらも入室する。

 けれどそこに妹背の姿はなかった。

「なんだ、いないのか。不用心だな」

 不在ならば長居する意味もないかと踵を返そうとしたとき、テーブルの上に置かれた冊子に視線が留まった。

「……(あい)(がく)芸術女子学院?」

 それはとある学校のパンフレットだ。

「なんだ? 転校……とかスカウトとかか?」

 別に芸術を専攻とした学校はここだけじゃない。

 だからよりその価値を高めるために本島の学校から才能ある人間を引き抜きたいということもあるかもしれない。

 少し興味を惹かれてパンフレットに手を伸ばす。

「お」

 どこかこの学園に似た校舎の写真が印刷されている表紙を捲ろうとしたとき、後ろからピシャリと冷たい声がかけられた。

「――千歳。お前、ここでなにをしている」

 その声に反応して振り返ると、そこにはこちらに訝しげな視線を送る妹背がいた。

「なにってお前に話があっただけだ。それにしても不用心だな、鍵を開けっ放しにするなんて」

「は? 鍵は閉めたはずだが――お前、なぜそれを持っている!」

 すっと視線を細めた妹背だったが、オレの手元のパンフレットを認めるとその瞳を見開いてずかずかと近づいて来た。

「答えろ! これをどこで見つけた!」

 バッとオレの手元からパンフレットを奪い取り、掴みかからん勢いで問い詰められる。

「どこでって、机の上に置いてあったんじゃないか」

 ここまで彼女が取り乱す意味が分からなかったが、その反応だけでそれが普通のものではないことが窺える。

 初めは彼女の見たことのない姿に驚いていたが、そのきな臭さに冷静さを取り戻した。

「なんだ、見られたらマズいものだったのか?」

「そんなものじゃない。ただ他校のことを吹聴されて転校しようと思われると大変だと思っただけだ」

 こちらが揺さぶりをかけようとしていることに気づいたのか、妹背も冷静さを取り戻したのだろう。

その言葉はあからさまなウソだったが、オレにそれを追求する手段はなかった。

「ふぅん。ならきちんと管理しておくことだな」

「ご忠告どうも。……しかし、これがここにあるはずがないのだが……」

 ぼそりとなにかを呟くと妹背はさっとパンフレットを隠し、オレに振り返る。

「それでなにか用事があるんだったな。ここではなんだ、どこかでしっかり腰を据えて訊こう」

「いや、なんだか忙しそうだから日を改めるさ。邪魔したな」

 すっと差し出された手を無視して妹背の横を通り過ぎる。

 このまま用事を済ませてもよかったのだが、なぜだかこの場から去らなくてはいけないと頭が警告を鳴らしていたのだ。

「そうか、残念だよ」

 そう言ってニヤリと吊り上げられた口元を残して、オレは生徒指導室を後にする。

 白い廊下の先に赤いなにかが潜むのを見つけながら――。



 この学園に体育といった授業はない。

 それは午前しかない授業体型で必要なカリキュラムを終わらせるためか、それとも午後へ向けて体力を消費することを教師生徒共に嫌ったかからかは分からない。

 とにもかくにもこの学園に運動を強制する場はないのだが、それと需要がないのとは必ずしも結びつかない。

 創作でたまったストレスのはけ口であったり、頭を空にして運動することで創作のヒントが浮かんだりと、芸術家だからといって運動とかけ離れた世界で生きているわけではないのだ。

 だから授業には存在しなくともこの学園には運動のできる施設は少なからず存在する。

 プールもその一つで、なにも考えずに浮かんでいられたり少しの時間でいい感じの疲労感を得られたりと人気は高い。

「初めて来たが、普通だな」

 プールサイドで久月たちを待ちながらその内装を眺める。

 この学園のプールは一般の学園のものとは異なり、一年中いつでも利用できるように温水プールとなっている。

 そのため特徴的なところもあるかと期待していたが、変わった個所といえばプールサイドがプールとほぼ同じくらいの広さがあるくらいだ。

「ま、プールに個性を求めるの方が間違いか」

 それはそれとして温かいプールとはどんな感じなのだろう、そう思ってオレが水面に手を伸ばそうとしていると、

「おっ待たせしましたー☆」

「うおっ⁉」

 軽快すぎる声と共に、軽快すぎるステップでドーンと背中になにかが突撃してきた。

 別段本気のタックルというわけでもなかったのだが、水に触れようと思い至った矢先のこともありそのままぐらりと重心がプールへと落ちていく。

「きゃっ」

 ――バシャーンッ。

 大きな水しぶきと共に上がる悲鳴。

 温水プールってこんな感じなのか、なんか不思議な感覚だなぁと暢気に感想を抱きながらオレは水面に上がる。

「――あぁ……そんなに沈みたいんだったら日本海でも東京湾でも行くか?」

「ひぃっ、そんなに怒らないでくださいよ! あたしだってびしょびしょになっちゃったんですから」

 顔についた水を払いながら、紺色のフレアビキニの水着を身に纏った和泉が頬を膨らませる。

 胸部は寂しいが手足のすらっとしたスレンダーな体型の彼女にはとても似合っており、首に巻かれた赤色のチョーカーもいいコントラストを描いていて普段よりも大人っぽく見える。胸部は寂しいが。

「プールで濡れてキレるやつを初めてみたんだが」

「大体センパイの方こそあたしひとり支えられないってどういうことですか! えぇそうですよ、今思っている通りおっぱいの分軽いんですからね!」

 怒りながらバシャリと手で水を思い切りすくい、こちらの顔面にビシャリと当ててくる。

「いい度胸してんじゃねぇか、胸部は寂しい癖に!」

 ――バシャバシャ。

「センパイだって濡れて怒ってるし! てか貧乳とか言うなー! 慎ましやかなんです! 大和撫子なんですよ!」

 ――ビシャビシャ。

 互いに大声を出しながら、遠慮もなしに水をかけ合う。

「あたし元々、プールに入るつもりなかったんですからね⁉」

「知るかそんなもん! だったらプールサイドではしゃいでんじゃねぇ!」

「なんだ、もうイチャつき始めているのかい?」

 ジャバジャバと水面が荒れ狂う中、からかうような声が耳に届いてオレの手が止まる。

「ダメだよゆーちゃん、こういうときは見知らぬ振りしてなくちゃ。じゃないとやめちゃうでしょ?」

「そのまま気づいてもらえないとボクも悲しいからね、仕方がないんだよ」

 談笑しながら近づいて来るのは水着姿の由佐と水瀬。

 水瀬はイメージ通りのホルターネックのビキニに身を包んでおり、その豊満な胸やむっちりとした臀部が白い水着に包まれていて大人な雰囲気が強調されている。

 それに対して由佐はボーイッシュなイメージとは異なり、水色のオフショルダーのビキニというかわいい系のものを選択していた。

「なんだお前、ちゃんと女子してたんだな」

 しかし童顔なこともあってか違和感のようなものはなく、むしろ普段とのギャップも相まってかわいらしく見える。

 けれどオレの言葉を悪くとったのか、由佐が恥ずかしそうに自らの身体を抱いた。

「うぅ、や、やっぱり似合わないかい? さーちゃんに言われてこれにしたんだけど……やっぱり別のにすればよかったよ」

「あぁ誤解するな。似合ってないわけじゃないんだ、むしろ逆だ。似合っていて、お前もちゃんとかわいいんだなって思っただけなんだ」

 しゅんとした由佐が珍しくてオレが口を滑らせると、水瀬は由佐を抱き寄せて人差し指を左右に振る。

「違うよ悠月くん。ゆーちゃんは元からかわいいの。普段はかっこいい部分が目立っちゃってるけど、本来ゆーちゃんはかわいいものが好きだもんね」

「ぁ、うぅ、さーちゃん苦しいよ」

 ぎゅっと抱き寄せられて恥ずかしそうに頬を染める由佐に、増々オレの目が丸くなる。

 つい先日黒光りするなにかに手足をつけて「Gガ〇ダム」とかのたまっていた人物と同じには見えない。

「まぁ女の子って割となんでもかわいいって言う傾向はありますよね。でもセンパイ、年頃の女の子はいつでもメタルフォーゼできるんです。だから甘く見ちゃダメなんですよ」

「さっきからお前はオレの思考を読み過ぎだ!」

「うわっぷ」

 最後に思い切り水をかけると、オレはやり返されない内にプールサイドに上がる。

「それであいつは?」

「まだ時間がかかりそうかなぁ。悠月くん連れてきてあげなよ」

 由佐を抱き締めながら、水瀬は苦笑交じりに視線を送る。

 その先には物陰に隠れてこちらを窺う久月の姿があった。

「なんだそれ……。精度の低いかくれんぼか?」

「ち、違いますっ。昨日はその、勢いといいますかやけになったといいますか、なんとかなったんですけど……。今日改めてこの水着を着たら、恥ずかしくなってしまいまして……」

 ちらりと顔だけを見せて恥ずかしそうに頬を染める久月。

 オレはそんな彼女に近づくと、その頭に手を添えた。

「ってことはもう着てるんだよな?」

「え、は、はい」

 突然頭を掴まれて少し怯えたようにオレを見上げる。

 そしてかけられた黒縁眼鏡をそっと外すと、

「確かにエロい水着かもしれんが、着た以上とっとと出てきやがれ」

「え、エロっ⁉ 千歳くんそんなこと思ってたんですか⁉」

「うるせぇ、男にとってエロいは誉め言葉だ。いいからとっとと出て来い!」

 クレーンゲームよろしく頭を掴んだままぐいっと物陰から引っ張り出す。

「うっ、うぅ……ダマされました! かわいいと言ってくれたあの言葉は私に恥をかかせるためのウソだったんですね⁉」

「かわいいのも似合ってるのもエロいのも男の中では共存すんだよ」

 逃げようとする久月を押さえ、そのまま抱き抱える。

 腕の中にすっぽりとハマった彼女はその水着も相まって、とてもかわいらしく魅力的に見えた。

「は。せっかく馬子にも衣裳にいいモン着てるんだから、とっとと濡れて吹っ切れろ」

「濡れる⁉ 濡れるってなに――あ、いえ、想像つくからやめてください!」

「うるせぇ」

 ポイッ。

「やっぱりー⁉」

「ちょっと、なにこっちに向けて投げてんですか⁉」

「「わぁあああ⁉」」

 ――バッジャーン。

 プールに投げ込まれた久月と巻き込まれた和泉の悲鳴が響き、大きな水しぶきが上がる。

「あ、悪い。ていうかお前、まだプールの中にいたのか」

「いましたけど⁉ センパイのその瞳には水晶体じゃなくてガラス玉が入っているんですか⁉」

 ぷはっと顔を出して和泉は睨んでくる。

 正直悪いことをしたなとは思うが、それよりも彼女の首元に意識がいってしまう。

「お前、その首元の包帯……」

 巻かれていたチョーカーがズレ、その下から覗いたのは白い包帯。

 プールに来たということは怪我とかではないのだろうが、意味深に巻かれているそれに視線が吸い寄せられた。

「えっ、あっ、あはは~、これはなんでもないんですよ。別に怪我とかでもないですし、気にしないでください」

 ズレたチョーカーを直し、なんでもないように笑う。

 その仕草に違和感を覚えつつもオレは彼女から目を逸らす。

「そうか。まぁ怪我でないならいいんだが……その、なんだ。その年で現役の厨二病患者というのは流石に引いたな」

「なっ、ちゅ、厨二病とか言うなー! 全国の必要に駆られて包帯をしている中高生に今すぐ謝ってください! 別に意識してなかったのに『それ、なにか意味あるの?』とかからかわれた瞬間のどうしようもなさを知ってるんですか⁉」

「いや、お前こそオレの気遣いをだな……って、久月はそれ生きてるのか? さっきからぷかりと浮いたまま微動だにしないんだが」

 人の気も知らずに和泉は謎の逆鱗に角を逆立て、相反して久月は岸壁のように静かだ。

 ある一部に限っては真逆だろうにと思いつつ久月を救出しようかと屈んだ瞬間、前のめりになったオレの両腕を誰かがガシリと掴む。

「そろそろ私たちも入りたいかな~って」

「さっきはよくもからかってくれたね。次は悠月が堕ちる番だ」

「え、ちょ、おい。冷静になれ、流石に今飛び込んだら五人とも危険――うぉおお⁉」

 人の忠告に耳も傾けず、水瀬と由佐がオレを巻き込んでプールに向かってダイブする。

「だからなんで人がいるところに飛び込むのー⁉」

 無論その着地地点周辺には久月と和泉もいるわけで、オレたちはもつれあいながら水中へと沈んだ。

「ぷはっ。……はぁ……はぁ……、ったくバカか? 脳みそはチンパンジー以下なのか? ダーウィンの進化論を全否定する気なのか? ったく」

 なんとか無事に浮かび上がったオレは、仰向けに浮きながら伸びている久月に近づく。

「おい、おい起きろ。バカとアホと厨二病は無事だぞ」

 ぐるぐると目を回す彼女の頬をぺちぺちと叩く。

「だからあたしは厨二病なんかじゃありません! 後ホントに危ないことしないでください、ここプールですよ⁉」

 オレにキレつつ水瀬に猛抗議する健気な厨二病。

 言っていることはまともなので、まともな人間はプールで人のいる場所に向かって飛び込まないようにしてほしい、いやマジで。

「寝坊助なのかお前。起きないとその水着剥ぎ取るぞ」

 実際の被害者である眠り姫こと久月は一向に起きる気配がなく、ふざけて首元のひもをちょんちょんと引っ張りながら声をかける。

 すると乙女のセンサーかなにかに引っかかったのかその瞼がぱちりと開いた。

「お、起きたか。水中での夢見はどう――」

 けれどそれが悪かった。

 オレがひもを掴んでいる間に目を覚ましてしまい、軽く身じろぎをするものだからしゅるりとひもが勝手に解けてしまう。

「……あー…………」

 そしてオレの瞳に映るぷるんと白い水蜜桃にキレイな桃色の無花果。

 余りに刺激的な光景にオレは視線を逸らすことも忘れて見入ってしまう。

「ほぇ、千歳くん? えっと今までなにして――」

 しかしそれに久月が気づかないはずもなく、ぼうっとしたようにオレを見つめたかと思えば自らの裸体を視界に収めて真っ赤に燃え上がった。

「きゃ、きゃぁああああああ! み、見ないでくださいー!」

「うごっ」

 オレの視界の塞ごうとバッと突き出した両手がオレの顎にクリーンヒット。

 肌色と桃色とお星さまがくるくると目の前で回ったかと思うと、オレの思考はぷつりとブラックアウトしてしまった。



「うぉ……由佐よ、流石にパラシュートなしのバンジーはリスキーが過ぎるだろ……って、う、うぅん?」

 妙な夢を見たような気がしながら瞼を開けると、そこにあったのは二つの立派な山。

 その存在感もさながら、黒い水着と肌色の境目の妙な肉感が艶っぽい。

「……バカか」

 なんとなく久月にアッパーをかまされて意識を失ったことを思い出しつつ、視線を彷徨わせる。

「あ、起きたんですか? さっきはごめんなさい。その、動転してしまって……」

「その声は久月か?」

 水着からそうではないかと思っていたが、声を聞いてはっきりとした。

 オレは今、久月に膝枕されているのだ。

「つか、顔が見えないとかどんだけデカいモンぶら下げてんだよ」

「も、もう! そんなこと言わないでください! 私だって気にしてるんです!」

 目の前でぷるぷると揺れる豊満な双胸。

 心の中で誰かが「絶景かな絶景かな~」とのたまっているのを感じつつ、不思議に思って口を開く。

「気にしてるって、もしかしてコンプレックスなのか?」

「はい。私って背が小さいのにおっぱいばかり大きくて、バランスが悪くて嫌なんです。水瀬先輩みたいに背も高かったらよかったなぁっていつも思います。……そうしたらこの水着ももっと似合うと思うんです」

「ふぅん」

 少し考えてから、オレはゆっくりと身体を起こした。

 それまで頭に触れていた柔らかくて温かな感触が離れてしまって物寂しく感じてしまうが、オレは頭からそれを追い払って立ち上がる。

 プールでは水瀬と由佐が水をかけ合っていたり、和泉がなかなかにキレイなフォームで泳いだりしている。

「別に、気にするようなことじゃないと思うがな。お前の幼い顔も、アンバランスに育った胸も尻も太ももも、お前の魅力の一つだ。少なくともオレはお前のことを多少はかわいいと思ってるし、多少は魅力的に感じている。それに何度も言ってるが、その水着はお前によく似合う。オレが選んだんだから自身を持て」

 もしかしたらオレはまだ体調が戻っていないのかもしれない。

 だってこんなにも頬が熱いのだから。

「っ、ち、千歳くん……ありがとうございます」

「うるせぇ。もう一回投げ飛ばすぞ」

 そっぽを向いたまま、オレは逃げるように由佐に声をかける。

 するとこちらに気づいた彼女の顔が嬉しそうに華やいだ。

「やぁ悠月、もうイチャイチャタイムはいいのかい?」

「……こっからケリかましてやろうか?」

「それは冗談じゃすまなくなるからやめてほしいかな……。とりあえず元気になったんならボクに付き合ってよ。やりたいことがあるんだ」

「別に構わないが、なにをするんだ? お前のそのアホ毛を引っこ抜けばいいのか?」

「アホ毛の魂だって百まであるんだからそんな怖いこと言わないでよ……というかやっぱりまだ怒ってる?」

一瞬不安げにこちらを見上げて来た由佐だったが、プールから上がると「ま、いっか」と用具入れの方に走って行ってしまった。

 そんな自由人を待つこと数分。

 由佐はピアノとキャンバスを持ってくるとニコニコと楽しそうにピアノを指さす。

「さ、実験の時間だよ、悠月」

「クリーチャーか。つかどうしてこんなところにピアノがあるんだよ」

 キャンバスはおそらく由佐が持ち込んだものだろうが、ピアノはオレのものではないし大体どうやってここまで運んできたのか謎だ。

 それでオレが不思議に思っていると、興味を惹かれたのか和泉がひょこひょこと寄って来た。

「確かプールの傍で演奏したい気分のとき用にって専用の楽器類が置かれてるって聞いたことがあります。実際に奏楽科の友達が一度、ここでドラムを叩いて気持ちよかったとか言ってましたよ」

「なんだその世紀末な設備……」

 プールで演奏したいって、水辺で歌いたがるオペラ歌手かよ。

 確かにプールは気分転換にはなるだろうが、そこまでする必要性があるんだろうか。

「とにかくプールならなにが起きても大丈夫だし、早くピアノについてよ」

「大丈夫な要素はどこにもねぇ」

 ため息を吐きつつ、言われるがままピアノにつく。

 由佐とはクリーチャーに対して色んなアプローチをかけてきたから、このノリには多少は慣れている。

「んで、なにをするんだ?」

「簡単に言うならクリーチャー同士を干渉させ合ったらどんな反応を見せるのかってことだね。切り裂きジャックがどうやって人に干渉を及ぼしているのか、それを考えるにあたってクリーチャー同士の干渉って考えたことなかったなぁって思って。もしかしたらそれで切り裂きジャックの犯行を防ぐ手段も見えてくるかもしれないだろう?」

「矢継ぎ早に喋るな、発情期の犬かお前は」

「わふ⁉」

「騒ぐな。言いたいことは分かったが、そのアプローチは前例があるだろ」

 オレがそう指摘すると、由佐はうんうんと頷く。

「連番のことだよね。合奏もそうだけど、複数人で合わせると個々人のクリーチャーが合わさって一つのクリーチャーに統合される、つまりはクリーチャー同士が干渉しあっているのではなく元から一つのクリーチャーを生み出しているってやつ」

「まぁそれだが。お前、さっきから喋りすぎじゃないか?」

 おそらく彼女の脳みそは今電磁コイルも真っ青な勢いでぎゅるぎゅると回っている。

 それも彼女が天才である所以の一つなのだが、要するに由佐は好きなことに対する熱意が異常なのだ。

「ちっちっち、甘いよ悠月。今回試そうとしていることは共作ではなく潰しあい、ボクと悠月のガチンコ勝負さ」

 くるりと筆を回して由佐は含みを込めた挑発的な笑みを向けてくる。

 それだけで彼女の言いたいことが分かったオレは面倒くさいことになったなぁとため息を吐く。

「あまり体力は使いたくないんだがな……」

 けれどオレたちの会話についてこれていない外野は首を傾げたままだった。

「? どういうことです?」

「簡単な話だ。連番や合奏なんかは元から一つの作品を生み出す行為だろ? だからそれぞれからクリーチャーが出ているように見えて、それは元から一つのクリーチャーなんじゃないかって話だよ」

「???」

 増々目を丸くする和泉にオレはため息を吐く。

「分からないなら見てろ」

 すっと瞳を閉じ、意識を研ぎ澄ます。

 チャンバラする相手が由佐となれば、オレもそれ相応の集中が必要だ。

「はっ、挑発しといてすぐにバテんじゃねぇぞ!」

 ――ジャンッ。

 ダラダラダラダラララララ。

 ――ジャンッ。

 ダラダラダラダラララララ。

 指を軽やかに鍵盤に滑らせ、勢いよく演奏を始めていく。

 その音に沿ってザバリとクリーチャーの水がピアノから噴き出すように流れ、プールの上で荒れ狂い、水とクリーチャーの水とが重なり合って美しい輝きを放つ。

「はは、そうでなくっちゃ」

 オレの視界の端で由佐はニヤリと口角を吊り上げ、バッと筆を下ろす。

 ものすごい勢いで描き上げられていくのは暑い日差しに照らされてサンサンと輝く向日葵畑。

 由佐の筆の動きに連動するように、プールサイドに小さな芽が生える。

「はっ、そんなもんか?」

 指の動きをより滑らかに、より激しく、荒々しく。

 そんな芽を押しつぶすかのように激しい波となったオレのクリーチャーが由佐のクリーチャーを飲み込む。

「はは、侮ってもらっちゃ困るよ!」

 ぴっと腕を振るうと、由佐は両手に複数の筆を握る。

 そしてそのまま彼女の想いのままに筆を叩きつけた。

「ボクの色は悠月にだって負けやしないよ!」

 それまで微細で緻密だった向日葵が赤く、青く、白く燃え上がる。

 これこそ彼女の才能の一端、その常識に囚われない類い稀な色彩センスが向日葵を輝かせる。

「なっ⁉」

「おぉ?」

 二人揃えて素っ頓狂な声を上げる。

 なぜならそれまで半透明だった芽に、赤く炎が灯ったからだ。

「な、なんだあれ……」

 それまで波に押しつぶされるだけだった芽が赤く染まり、どんどんと透明の波を吸い込んでいく。

 そしてそれに比例するように芽はどんどん育っていき、遂には赤い向日葵となって満開の輝きを放つ。

「……これが、クリーチャーどうしの干渉なのか?」

 あまりの光景にオレの手が止まっても、向日葵は消えない。

 普通共作の場合参加者の誰かがその手を止めると、一度クリーチャーすべてが消滅してしまう。

 それはクリーチャーと作品がリンクしているという考えから理由付けされているのだが、そこから考えると先ほどの光景がオレと由佐のクリーチャーが合わさったわけではないと分かる。

 しかもあの赤い色は――。

「まさか、切り裂きジャックはこの現象を利用している?」

「クリーチャーに干渉することで人に幻覚を見せているのか? それとも、クリーチャーを介することで人の意識にまで到達しているのか……しかしそれならクリーチャーが人の深層心理を表しているという説が証明できる――」

 ――パァアアン。

 筆を止めて由佐が考察を始めると真っ赤に輝いていた向日葵から色が抜け落ち、ガラスのように砕け散った。

「それにしてもすごい発見だよ、悠月。これを応用すれば切り裂きジャックに対する対抗策もできるかもしれない」

「あぁ、そうだな」

 先ほど由佐が呟いていた通り、クリーチャーとは作者の深層心理が実体化したものだと考えられている。

今回の実験でそのクリーチャーどうしが干渉し合えることが判明したのだが、それはつまり深層心理の表れどうしが触れ合えるということであり、オレのクリーチャーが由佐のクリーチャーに取り込まれてしまったようにその姿を変えることができるということだ。

 切り裂きジャックは一連の犯行で、生徒がひとりで創作をしているときを狙っている。それは今まで確実にひとりだからだと考えられていたが、もしかしたらその創作によってクリーチャーが生み出されていることが犯行の条件だったのかもしれない。

「ただ、お前はもう防御策なんかいらないだろ。一度被害に遭っても幻覚みたいなのは見なかったわけだし」

 オレがそう言うと由佐は静かに首を横に振り、強い眼差しで水瀬を見つめた。

「なんとしてもさーちゃんは守らないといけないからね。君だって、千歳を守りたいだろう?」

「は。自分の身ぐらい自分で守れってんだよ」

 ふんと鼻を鳴らしてオレは鍵盤に向き直る。

「あ? って待てよ、つまりさっきのはオレが負けたってことか?」

「うん? そうなるんじゃない? ボクのクリーチャーに吸い込まれたんだから」

 クリーチャーの干渉に強度というものがあるのかは分からないが、もしそうなら先ほどのオレの演奏は由佐の絵に敗北したということになる。

「おい由佐、もう一度筆を取れ」

「もう、なんだかんだとプライド高いんだから。でもヤダよ、キャンバスもこれひとつしかないんだから」

「……うぐぅ」

 ポンポロロポロポロ。

 満足したのか気分が変わったのか、由佐は早々にキャンバスを片付けてプールの中で遊ぶ水瀬と久月の下へと行ってしまう。

 ひとり残されたオレがやるせない気持ちで鍵盤を弄っていると、それまで近くでオレたちの実験を見ていた和泉が寄って来た。

「センパイ残念でしたね、負けたままで」

「ふん。あれは見たことがない現象が起きて気が持ってかれただけだ。あのまま続けてればオレが押し返したさ」

 オレがそう言うと和泉はニヤリと口元を歪めて瞳を細める。

「そうですかね~? だいぶ差があったように思いますけど~?」

「うるせぇ、オレはまだ2回変身を残してるんだよ」

「どこのフ〇ーザですかあなたは。ところでセンパイ、本当に初めて見たんですか? あの赤いクリーチャーを」

 訊き方が少し気になったが、特に思い当たる節はない。

「ないな。ただ切り裂きジャックのクリーチャーなら見たことがあるってことになるのか? あれも確か赤い蝶だったし」

「そうですか。ふぅん……」

 どこか含みを持たせて頷く和泉。

 先ほどから感じる違和感にオレは眉を寄せた。

「さっきからなんなんだ。言いたいことがあるならハッキリ言え」

「んー、ならもうひとつ窺うんですけど」

 頬に指を当て、少し悩んだそぶりを見せて口を開く。


「センパイは、優しい夢って正しいと思いますか?」


「あぁ? なんだその臭い質問は。優しい夢? なんだ、聖人君子にでもなりたいのか」

「違います。そもそも夢って憧れる方じゃなくて、寝てるときに見る方です」

「はぁ?」

 増々意味が分からない。

 しかしこうして含みを持たせて説明をしないということは、おそらく彼女の答えてほしい意図があるのだろう。

 バカマジメに答えてやる義理もなかったが、その真剣な瞳に免じて考え込む。

「優しい夢……か。現実逃避ってことか? そうなると後退、現実との乖離? 要するに傷ついて逃げてるやつをほっといてもいいのかって意味か?」

 なんとなく、オレがそれをどう捉えるのかまで知りたいのではないかとあえて口を開きながら思考を巡らす。

「まぁ、そうだな。もしオレの傍で誰かがうじうじしてるというのなら――」

 そして結論の出たオレはちらりと視線を動かし、そっと瞼を閉じた。

 ――ポロロロン。

 ゆったりとした音色が奏でられ、心が和らいでいく。

 なんともこっ恥ずかしい質問だが、オレの口からは自然と答えが出た。


「本当に大事なやつならケツ蹴り上げてでも前に進ませてやるのが、優しさってやつじゃないのか」


「そっか……センパイもそう考えるんですね」

 どうやらオレの考えは的を外してはいなかったらしい。

 どこかホッとしたように息を吐くと、和泉はピアノの上にちょこんとできていた噴水に手を伸ばす。

「よかったです、センパイがそう思える人間で」

 そして触れるか触れないかのギリギリで手を引っ込めて、そう笑って去って行ってしまった。

「……は? 結局なんだったんだ?」

 人間性を見られていたのだろうか?

 結局彼女の意図を知ることなく、呆然とその後ろ姿を見つめてしまう。

「ま、人間生きてりゃ色々あるか」

 気にならないわけではなかったが、オレは意識から切り離すとプールの中で遊ぶ彼女たちに視線を向けながら鍵盤に指を這わせたのだった。

 ――ちなみに、プールサイドで行う演奏は普段とは違った開放感のようなものがあり、とてもいい気分転換になったそうな。



 ピーガガガ、ピー。

 ぐるぐるとデッキが回るのを待ちながら、オレたちは神妙な面持ちで椅子に座る。

「あ、あの、危なかったりしません……よね?」

「あはは、どうだろうね~。なにせ切り裂きジャック直々に送って来たものだから。どんなものか予想もできないよ」

 そう。オレたちは今、切り裂きジャックからのメッセージを受け取ろうとしている。

「ふん、ぎゃあぎゃあ騒ぐな。呪いのビデオでもあるまいし、画面の向こうから女が出てきたりしないだろ」

「そうだよ、怖がったところで悪霊退散はできないもん」

 暗い室内にぼうっと灯る画面を見つめながら、思い思いの言葉を発する。

 どうしてこんなことになっているのか、それは一時間ほど遡る。



「――報告すべきことはそれだけか?」

 昼休みにわざわざ時間を使い、仕方なく生徒指導室まで行ってやり、渋々と現状を報告したかと思えばそんな言葉を投げられてオレが頭にきていたとき。

 妹背はオレの返事も聞かずに机の上に置かれていた茶封筒をこちらに差し出してきた。

「なんだ? 給料か?」

「バカか。成果もあげてないやつになにを渡すものがある。中身を見てみろ」

 オレはバカではないが言われるままに封筒を開くと、そこにはビデオが入れられていた。

「今度は映像鑑賞の課題か?」

「そんなわけないだろう。よく見ろ」

「?」

 促されるままにビデオの表面を見ると、そこに描かれていたのは赤い蝶。

 瞬間、その蝶がひらりと羽ばたいて消えていく。

「もしかして切り裂きジャックか?」

「あぁ。ご丁寧に私の机の上に置いていったらしいな。まったく、そう目立ちたいなら目の前に出て来てほしいものだ」

 やれやれと肩をすくめてひらひらと手を揺する。

 どうやらさっさと出て行けというわけらしい。

「まぁ、オレとしても長いする理由なんざないが」

 蝶の消え去ったビデオをぷらぷらとさせながら、オレはなんとはなしに資料の詰まった棚を流し見る。

「なぜオレに頼む? もっと適した人材もいるだろ」

「そうかもしれないな」

 妹背は見透かしたようにこちらを見ると、口角を少し吊り上げた。

「前にも言った通り、これでも私はお前に期待しているんだよ。それにこの事件、お前以上に適したやつはいない」

「うさんくせぇな」

 その含んだ笑みが気味悪くて、オレはそれだけ告げるとビデオを片手に部屋を出る。

 それからアトリエへ向かうと、久月、由佐、水瀬の三人が既にオレを待っていた。

「お前ら、まだ授業中だぞ。サボってんなよ」

「いいじゃないか。ボクたち三年生は午後の時間は自主研究、つまりなにをしたって勉強してることになるんだから」

「以前『サボることでしか見えない世界もある、オレは今新しい世界を手に入れるために己に挑戦してるんだ』と言ってみたことがあったが、普通に減点されたぞ」

 無論芸術家にとって練習し続ける、作り続けるだけが上達する道ではない。

 それは教師だって分かっているのだが、それで評価しろというのも中々に難しいだろう。

「流石悠月、期待を裏切らないダメっぷりだね。ボクだって本気でそんなことは言わないよ」

「うるせぇ、オレにだって休みたくなるときが――……」

 そういえばこのことを言ったのはいつだっただろうか。

 今年は基本的に授業はほとんど勝手に休んだ。それは交渉しようともムダで、その分を取り返せるだけの発表をすればいいと知っていたからだ。

 だから妹背に呼び出される羽目になったのだし、よく覚えている。

「? 悠月?」

 ちっぽけな違和感がポツンとこちらを覗き見る。

「――というか由佐と水瀬はいいとしてもお前はちゃんと授業に出ろよ、一年生だろ」

 オレはそれを気のせいだと蓋をして、久月の頭にポンと手を置く。

「えっ、でもわたし、先生に頼まれてますから。切り裂きジャックを捕まえるまでは頑張ります!」

「頑張ります、じゃねぇよ。ったく、これが次の手がかりだ。今から映像科のとこに行って機材借りに行くぞ」

 小さく握りこぶしを握る彼女にため息を吐きつつ、オレはその手にビデオを握らせる。

「今回はオレにできることは少なさそうだし、任せる」

「???」

 ビデオとオレとの間で視線を彷徨わせ、不思議そうに首を傾げる。

 そんな彼女に由佐が苦笑いを浮かべた。

「今までの調査は音楽棟か美術棟だけだったんだろう? この二つの棟……というか科の人は、悠月のアーティストととしての顔を知っている。でも他の科となると、普段の不良な面でしか知らないんだよね」

「要するに怖がられてるんだよ。ほら、悠月くんって目立つでしょ?」

 捕捉するように水瀬まで苦笑いを浮かべ、オレは鼻を鳴らしてそっぽを向く。

「うるせぇ、いいからさっさとしろ。じゃなきゃサボりとしてチクるぞ」

「あっ、待ってください。大丈夫ですよ、千歳くんは怖くないですから」

「うるせぇっての。気になんざしてねぇんだよ」

 陽光差し込める廊下にパタパタと駆ける音が響き、自然と笑みが浮かんだ。

 そして映像科の教室まで向かい、事情を久月に説明させて機器を借りたオレたちはそのままビデオを見る運びとなる。

「それにしても本当に怖がられてたね。さっきの子たち、チラチラ悠月のことを盗み見てたよ」

「は。どうでもいいことぬかしてんな。そんな無駄口叩いてると、スクリーンから出てきた亡霊にでも引きずり込まれるんじゃないか?」

 そんな会話をしているうちにテープは回り、スクリーンに映像が流れ始める。

「わぁ、赤い蝶がいっぱい……」

「集合体恐怖症の人だと見てられないかもね。かく言うボクもちょっと気分が悪いかも」

 カタカタカタと子気味いい音を鳴らしながら、そのまま画面が変わることなく映像はプツリとブラックアウトする。

「赤い蝶がいっぱいずっと羽ばたいているだけの映像でしたけど、これになんの意味があるんでしょうか?」

「自己顕示とか? ここ数日は悠月のこともあって校内は切り裂きジャックの話題でもちきりだったからね。ちょっとした自尊心みたいなのが芽生えたのかも」

「だとすると、妹背先生の机に置いたっていうのは少し不思議ですね」

「そうだね。そもそも映像媒体はこういった場所でないと見られないから、もしそうならちょっと間抜けかもしれないね。もしくは映像科の生徒が切り裂きジャックだったりして」

「…………」

 今さっき流れた不可思議な映像について議論する久月と由佐の隣を通り過ぎ、オレはデッキからビデオを取り出す。

 そして表紙をちらりと見やってからそれを気づかれないようにゴミ箱へと捨てた。

「は。結局なんでもなかったな。スクリーンから出てくるぐらいしろってんだ」

「さっきから悠月はリ〇グでも見たいのかい? それじゃあ貞子だよ」

「似たようなもんだろ」

「いやぁ、だいぶ違うと思うけど」

 苦笑する由佐を無視して部屋の明かりをつける。

 パッと明るくなった蛍光灯にチカリと一瞬目が眩んだ。

「なんにせよこれ以上気にしても仕方がないことは分かっただろ。アクセサリーに関しても目ぼしいやつの購入履歴は見つかんなかったし、手掛かりはパーだな」

「そうなります……ね。被害者の方からのお話も訊き終わってしまいましたし、手掛かりになる歌も現状よく分かっていないままですし」

「唯一分かったかもしれないのはその犯行の手口かな。ま、確証はないんだけどね」

 気落ちしたように暗い顔をする久月にあっけらかんと笑う由佐。

 ひとりなにかを考え込むように黙っている水瀬を除いて、見解は一致していた。

「これは一旦情報を整理しなくちゃいけないかもね。手がかりもなしに進展しようとしても、時間をムダにするだけだろうし」

「そうだな。とりあえず今日は解散にするか。それで各自なにかしらの方針を考えてくる」

 由佐の言う通り、情報や指針のない中で闇雲に動いても意味はない。

「ですが……」

 それはきっと久月も理解している。

 しかし妹背から依頼されたということやおそらく他の生徒からの期待、注目などがプレッシャーとなって動かないということに抵抗を覚えてしまうのだろう。

「その間に切り裂きジャックが現れて、新たな被害が出たらどうするんですか。わたしたちがこうやって動いてることが犯人に対してプレッシャーになると思うんです。実際にこの二日は被害も出ていません」

 久月は迷いの見える瞳ではっきりと告げた。

「違うな。やつの行動は元々不定期だ。それにけったいなビデオまで送りつけて来る始末だぞ。警戒されてるどころか嘗められてるだろ」

「で、でも前につけられたことだって! それで閉じ込められたじゃないですか!」

 はっきりと否定したオレに久月は揺らぐ視線で詰め寄って来る。

 流石に呆れたオレはため息を吐いて視線を細めた。

「それが嘗められるなによりの理由だって分かんないのか。バカがいくら騒ごうがなにも変わらねぇ、イタズラに事態を悪化させるだけだ」

「でも――」

 それでもなお食い下がろうとする久月に、オレははっきりと告げる。

「それが分からないならお前はここにいるな。かえってジャマだ」

「――ッ」

 キュッと唇を噛み締め、言葉も発さずに久月が踵を返す。

 ふわりと舞った茶色の髪を自然と目で追いながら、その背中はどんどんと遠ざかっていく。

「ちょ、ちょっとなにしてるの⁉ 千歳ちゃん泣いてたよ⁉」

 それまで黙りこくっていた水瀬も流石に事態に気づいたらしく、バッとこちらに振り向くと鋭い視線を向けてくる。

「知るか。オレはただ事実を言っただけだ」

「っ、悠月くんのバカ!」

 それだけを告げて水瀬は久月を追うように教室を出ていった。

 残された由佐はそれを見送ると、やれやれと肩をすくめる。

「まったく、悠月はツンデレなんだから」

「キモいことぬかしてんじゃねぇ。誰がバカだ、誰が」

ふいと顔を背けながら勢いよく椅子に座る。

「そうだよねぇ、誰かさんは彼女に冷静になってほしかったんだろう? あのままじゃあ危ないことになっていたかもしれないからね」

「心配なんてしてない。ただ面倒をかけられたくなかっただけだ」

 背もたれに肘をつき、どこかイラつく心を落ち着かせるように空を眺める。

 ゆらりと流れる雲が、サンサンと輝いていた太陽を飲み込んでいた。

「心配なんてボクは一言も言っていないんだけどな~」

「うるせぇ」

「ははっ、本当に素直じゃないんだから」

 ガタリと椅子が動く音が響く。

「それじゃあボクも行くよ。切り裂きジャックの件、よく考えておくから。またね」

 タンタンタン――キュッ。

「そうだ。悠月がバカじゃない理由、もうひとつあったよ」

 遠ざかっていた足音が止まり、振り返ったであろう由佐の視線がオレを捉えた。

「なにか手掛かりでも見つけて、それに巻き込みたくなかったのかも知れないよね」

「……勘ぐりすぎだ」

「あはは、ごめんごめん。ついね。今度こそ本当にバイバイ、少しは素直にならないと女の子にはモテないから気をつけなよ」

 最後に余計な一言を付け足し、彼女の足音は今度こそ遠ざかっていく。

「ふん。別にいいんだよ、これで」

 流れゆく雲はやはり薄暗くて、その下に隠れてしまった太陽はもがくように薄明りを照らすだけだった。



 ポンポロポロポンポンポン。

 月明かりだけが照らす暗い室内にゆったりとした音が響き、渦がピアノを取り囲んでいる。

 ポン――ポン――ポン――。

 寂しげな音。

 透明な水が、格子状に牢を作る。

「……そろそろ、か」

 ――バシャン。

 取り囲んでいたクリーチャーが飛沫となって露に消え、オレは立ち上がる。

 ガラリ。

 カツカツカツ。

 シンと静まり返った廊下を闇夜に紛れるように進む。

 芸術家たちのための不夜城も、日付けを超える頃には闇へと沈む。

 学園から人気がなくなるまで待っていたオレは音楽棟を出ると、クラスの存在する本棟へと向かった。

「いくら学園島とは言え、流石にセキュリティが甘すぎないか?」

 事前に鍵を開けていた窓から侵入すると、オレはため息交じりに辺りを窺う。

「誰もいない……か」

 この時間の校舎は初めてだったが生徒はおろか教師もいないらしい。

 当然と言えば当然なのだが、その楽観はオレにはできなかった。

「あいつ、なんか最近おかしく感じるんだよな……」

 生徒指導部の教員として何度も交流のある妹背和奏。

 彼女は特に専門の科目を持っておらず、クラス担任にもなっていない。

 別段おかしなことではないのかもしれないが、あのパンフレットを見つけた日からどこか違和感を覚えるようになっていた。

「まぁ、元より拒絶反応しか起こさなかったが」

 初めて会ったときの嫌な気分を思い出して苦虫を噛み潰したような気分になる。

 あそこまで初見でそりが合わないと感じたのはおそらくオレの人生でももう二度とないだろう。

「んで、最上階だったか」

 昼間の記憶を思い出しながら階段を上っていく。

 カツ……カツ……カツ……。

 ゆっくりとした足音が静かに響いて暗闇を彩る。

 月明かりがあるから平気かと思ったが、思いのほか暗い。

「ここか……」

 深夜になるまで待った目的のもの、本棟最上階の突き当りに存在する謎の扉。

「これを押せばいいんだったか」

 枠からへこんだ位置に存在する二つの扉が合わさったようなその扉は、今まで誰も開けたことがなかった。

 だから生徒の間では七不思議に祭り上げられたりしていたのだが、オレが昼間に見たビデオには誰かがこの扉を開ける様が映っていたのだ。

「どうしてか他のやつには見えてなかったみたいだがな」

 久月や由佐はあの映像を見て特に驚いた様子を見せていなかった。

 その口ぶりから察するに、赤い蝶がわらわらしている映像でも見えていたのだろう。

「その理由は分からないが、おそらくやつはオレだけを呼び出したいんだろうな」

 罠の可能性は十分考えた。

 帰れる保証はない。

 しかしオレはこの事件の真相に――切り裂きジャックに出会わなければいけないように思うのだ。

「は。バカなやつだからな。ちゃんと帰らないと、心配して泣き出しちまうか」

 そっと浮かんだその顔にふっと笑うと、オレは段差になっている枠に取り付けられているキーボードのようなものに触れる。

「えっと……この『開』を押す、と」

 ウィイイン。

「うおっ、開いた。なんか由佐が作ってたあの変ちくりんな蛇みたいだな」

 扉の先は小さな箱のようになっていて、内側には外にあったのと同じようなキーボードのようなものがあった。

 ウィイイン。

「おっ、勝手に閉まるのか……。逃げさないってか?」

 映像を脳裏で再生させながら、オレはキーボードの『B1』と書かれたボタンを押す。

 するとガコンッと箱が揺れ、妙な浮遊感に襲われる。

「……もしかして、下に進んでいるのか?」

 自分でも奇妙な言い回しだったが、この感覚はそうとしか思えない。

 小さな駆動音を鳴らしながらこの箱は、どんどんと下がっていっているのだ。

「なるほどな。確かにあの映像の中で次に扉が開いたとき、別の場所に移っていたのが不思議だったが。こうして移動していたのか」

 ガタリと再び大きく揺れて箱の下降が終わる。

 そして開かれた扉の先に広がる光景に、オレは思わず息を呑んだ。

「なっ、なんだこれ。見たこともないものがいっぱい並んでやがる……」

 開け放たれた広い空間には購買の端末のようなものが所狭しに並べられており、それぞれがアルファベットなどの文字が並んだ板のようなものにつなげられている。

「これは……映像?」

 真っ暗な部屋の中をぼうっと照らすように光る端末もどきが壁の一区画に敷き詰められていて、そこにはオレの見知った光景が映し出されていた。

「学園……いや、この島か」

 それぞれの液晶を覗けば教室、寮、アトリエ、体育館、プール……その他この島のすべての場所の様子を見ることができる。

 しかもその暗さと不用心に開け放たれている本棟一階の窓から、それが現在の様子であることが分かった。

「……っ」

 ゾワリと背筋に冷たいものが走る。

 オレは見てはいけないなにかに踏み入っているのではないか、知ってはいけない秘密に触れているのではないか、これこそが罠だったのではないか――。

 恐怖にも似た感情に囚われそうになったとき、オレの視界にある文字が留まる。

「藍岳芸術女子学院特別学科生徒名簿……?」

 それは壁の棚にしまわれたファイルの背に書かれていた文字。

 かつて生徒指導室で見かけたパンフレットと同じ学園名にオレの視線が囚われた。

「くそっ、開かないな。どっかに鍵でもないか――」

 ガタンッ。

 ファイルの中身が気になって戸を開けようとしていたとき、先ほど乗ってきた箱が音を立てて動き始めた。

 オレは咄嗟にいくつもある液晶の中から本棟を映すものを探すと、そこに映っていた人物に息を呑む。

「…………」

 頭上から微かに聞こえる駆動音。

 オレは辺りを見回すと机の下に潜り込んだ。

 ガコンッ。ウィイイン。

 カツカツカツ。

「…………」

 角度的にこちらから彼女の様子を窺うことはできないが、その足音がぐるぐると室内を巡っている。

 ――もしかして誰かがここにいることを分かっているのか?

 それがオレなのか侵入者なのかは分からなかったが、その場合のことを考えて息を潜める。

 しばらくすると足音はピタリと止まり、ガタガタと戸を開けようとする音が聞こえた。

 そこでオレは机の下から出ると、彼女に接近する。

「鍵がないと開かないぞ、水瀬」

「――ッ⁉」

 オレが声をかけると彼女は勢いよく振り返り、その黄金の髪がふわりと舞う。

 そう、オレに続いてこの部屋に入って来たのは一緒にあのビデオを見た水瀬佐奈だった。

「な、なんで悠月くんがここに――」

突然話しかけたからか驚きと疑惑に満ちた表情を浮かべながら後退った水瀬だったが、勢いがよすぎたせいか思い切り棚にぶつかってしまう。

「きゃっ」

「おっと」

 オレは咄嗟に手を伸ばすとぐらついた彼女の身体を支える。

「大丈夫か?」

「え、あ、う、うん」

 意図せず抱くような格好になってしまったが、突然のハプニングに逆に彼女も冷静になれたようだ。

 水瀬はオレから離れると少し息を整えてこちらに向き直る。

「もしかして悠月くんもあのビデオを見て来たの?」

「あぁ。久月と由佐には別の映像に見えていたようだったから、オレを狙った罠かなんかだと思ったが……お前にも見えてたんだな」

 こうなると増々疑問は深まる。

 確かに水瀬も切り裂きジャックに対して並々ならぬ感情を抱いているとはいえ、やつとコンタクトを取ったことがあるのはオレだけだ。

 だから罠だと思ったのだが、水瀬まで呼びつけたとなると事情は変わって来る。

「罠……じゃなかったのかな」

「もしかしてこれは切り裂きジャックからのメッセージなのか?」

 やつと対面したのは一度だけだが、そのときに意味ありげなことを言っていた。

 そうなるとなにか果たしたい目的があって、それにオレたちを利用しようとしているのかもしれない。

「ど、どうしようか? とりあえずここから出る?」

「いや、もし利用されているのだとしても少しこの部屋を調べたい。なにかがここにはある気がするんだ」

 この部屋が普通でないことは明らかだ。

 オレたちの知らないなにかがきっとある――。

「おっ」

 そう思って視線を彷徨わせていたところ、オレは足元に転がる鍵を発見する。

「もしかしてさっきの衝撃で?」

 棚の上に置かれていたのが落ちたのだろうか。

 水瀬にも心当たりがないことを確認すると、オレはイチかバチか先ほどの棚の鍵穴に刺しこむ。

「あ、開いた……」

 なにか仕込まれているような気がしなくもなかったが、オレたちは迷わずファイルに手を伸ばす。

 そしてその中身を開いた瞬間、驚愕にオレと水瀬が目を見開いた。

「――っ、なにこれ。この名簿って、そのままこの学園の名簿じゃない!」

 ぺらぺらと捲られるページに載っているのはこの学園の生徒の名前。

 流石に全校生徒を把握しているわけじゃないからきちんとした照らし合わせはできないが、おそらくは一致しているだろう。

「どういうことなんだ。藍岳芸術女子学院……聞いたこともないが」

 一度妹背の持っていたパンフレットを見たぐらいで、その名前は特に記憶にない。

 水瀬も同じらしく、困惑していた。

「この学園の前身の名前なのかな? でもそんなの聞いたことないし……」

 パラパラとページを捲っていく水瀬が唸る横で、オレは別のファイルの背表紙をなぞる。

 この違和感を拭えるなにかがないかと探すが――。

「航空事故調査委員会?」

 ピタリと視線が留まったのは、そんな背表紙のファイルだった。

「どうしてこんなものがここに?」

 空港事故調査委員会はその名の通り、飛行機などの事故の原因を調査したりする団体だ。

 その資料がなぜ学園にあるのだろうか。

「おかしい。やはりなにかがおかしいぞ」

 言い知れぬ違和感がオレの中でとぐろを巻く。

 ――誰も彼もが、その正体を知っている。みんなみんな、都合のいい夢に溺れて忘れてしまっているだけだ。

 ふと、脳裏に切り裂きジャックの言葉が浮かぶ。

「まさかこのファイルに書かれている事件がここで起こったとでも――」

 ごくりと息を呑んだところで、パチリと部屋の電気がつく。

「っ、水瀬、なにかしたか?」

「う、ううん。なにもしてない」

 ぶんぶんと首を横に振る水瀬。

 無論オレがつけたわけでもないので、そうなると第三者がつけたことになる。

「逃げるぞ。そのファイルも棚にしまえ」

「でっ、でも、まだよく分かってないし――」

「いいから言う通りにしろ! ここがおかしいのはお前も気づいてるだろ」

 コツコツコツと軽快な足音と共に、鈍い駆動音のようなものが聞こえる。

 その音がする方向へ視線を向けるとそれまでそこにあった本棚が横にスライドしており、重厚な鉄の扉が姿を現していた。

「――っ」

 咄嗟に水瀬の手元からファイルを奪い取って棚にしまうと急いで鍵をかけ、その手を引いてやって来た箱へと走る。

「――――」

 女性のものだろうか。

 微かに聞き覚えのある声を残して、扉はガタンと閉まった。

「た、確かになんか変だったけど、それでも今の人って先生とかじゃないの? 見つかったって怒られるくらいじゃない?」

「だといいがな。オレはそこまで楽観視はできない」

 そうオレが否定すると水瀬も思うところはあったのか口を噤んでしまう。

 自分のいる学校になにかがあると、思いたくはないのだろう。

「オレも正直よく分かってない。ただ、状況が理解できるまでは慎重になるべきだ。だから今はオレの言うことを聞いてくれ」

 そう、現状の問題はこの後だ。

 本棟最上階に戻ったとしても、そこもあの端末もどきで見ることができるのだ。

 今は気づかれない内に部屋から出ることができたが、そこから寮に帰るまでの間に気づかれてしまってはマズい。

 オレと水瀬、おそらく切り裂きジャックが意図して選んであろうこの二人にはきっと意味がある。

 そしてそれは先ほどの女性にとっても同じなのではないか。

 頭の中に色々な疑惑が浮かび上がる。

「もしなにかあった場合、オレたちの周りに飛び火するかもしれない。それはお前も嫌だろ? だから今は気づかれないように寮に帰る」

「……うん、そうだね。ゆーちゃんに迷惑はかけたくないし。でも『お前も』ってことは悠月くんも心配なんだね」

 ニヤリとどこか嬉しそうな笑顔を向けて来る。

「は? 別にオレは久月のことなんざ心配してねぇよ。言葉の綾だ」

「別に私、千歳ちゃんだなんて言ってないけど?」

「うるせぇ、だからそもそも心配なんかしてねぇんだよ」

 顔が熱くなる。

 してやったり顔で笑う水瀬もだが、一瞬でも彼女のことが頭に浮かんだ自分にも。

「あぁクソ。ごちゃごちゃ言ってる間に着いちまったじゃねぇか。とにかく顔を隠して突っ走れ!」

「えっ、ちょっと⁉」

箱がガタリと揺れて扉が開く。

 そこから既に映像に映ってしまうのでオレたちは制服の上着を頭からすっぽりと被ると全力で駆け出した。

「これどこまで行くの⁉」

「寮までだ! 自分の部屋に着くまで脱ぐんじゃねぇぞ!」

 必死に走るオレの視界に、赤いなにかが通り過ぎる。

 けれどオレはそれから意識を切り離し、全力で駆け抜けた。

 それこそ、煌々と輝く美しい満月が雲に隠れてしまっていることに気づかないほどに。



「あぁ……クソ。ねみぃ」

 あれから朝を迎え、少し躊躇いながらも学園に向かったオレだが、その日常は平穏そのものだった。

 一度気になってあの扉の前まで行ってみたのだが、それでも特に変わったことはなかった。

 ただ問題があるとすれば、考えることが多すぎて眠れていないことぐらいだ。

「まったく、どうしてサイコパス野郎を追ってこんなことにならにゃいかんのだ」

 元々は切り裂きジャックというイタズラ犯を捕まえるという話だったが、こうなってしまっては目的が変わるかもしれない。

「やつの目的がどこにあるのか、それを突きとめない内は下手に動けないか……」

 考えすぎて茹った頭をふらふらと揺らしながらアトリエへと向かう。

 そんなときだった。

 待ち構えるように音楽棟の入り口にいた水瀬が視界に入ったのは。

「やっほ。なんか具合悪そうだね」

「お陰さまでな」

 一応挨拶を返すとそのまま彼女の横を通り過ぎて中に入ろうとしたのだが、そんなオレを水瀬が掴んだ。

「アトリエには今ゆーちゃんがいるの」

「…………」

 掴まれた腕と彼女の顔とで視線をしばらく彷徨わせ、オレはため息を吐いた。

「流石のお前も由佐には話せないか」

「というかゆーちゃんには絶対に話しちゃいけない気がしたから。だから今日は、私とデートしよう?」

「気色悪いこと言ってんな」

 水瀬の手を退かすとオレは踵を返す。

 てこてこと水瀬もついて来た。

「やっぱり悠月くんってツンデレだよね」

「オレはただ図書館への用事を思い出しただけだ。それより由佐のことは放っておいてもいいのか?」

「うん。今日は用事があって悠月くん来ないって伝えておいたから」

「先に外堀は埋めてたってわけか。……あ? じゃあなんであいつは今もオレのアトリエにいるんだよ」

「なんかそんな気分なんだって。画材持ってきて絵を描いてたよ」

「人のアトリエを勝手に私物化してんじゃねぇ。ったく、鍵どころかスペースまで侵略してきやがって」

「え? 鍵は悠月くんが開けてたんでしょ?」

「は? ここ最近一度も使ってないぞ。お前らが勝手に事務だかで借りて、勝手に開けてたんじゃないのか?」

 風潮としてオレのアトリエに集まるような雰囲気が流れていたから、誰かが毎日先に開けているのだと思った。

 そのこと自体は別段おかしなことでもないので放っておいたのだが、

「……まさか違うのか?」

「う、うん。少なくとも私とゆーちゃんは鍵なんて一度も使ってない。千歳ちゃんと望ちゃんは知らないけど」

「……そうか」

 となると久月だったのだろうか?

 彼女なら先に来ておいて準備して待っていた、というのも頷ける。

 しかしそれだと説明できない場面もあったような……。

 オレが思い出そうとしていると、そういえばと水瀬がピンと人差し指を立てた。

「そういえば望ちゃん、プールの日から来なくなっちゃったね」

「たった二日で来なくなったってのはどうなんだ? あいつだって用事があるだろうしな。……まぁ、正直来なくていいんだが」

「そうかな? だってあんなにやる気を見せてたんだよ? なにかあったんじゃないかな」

「だとしてもそれはあいつの事情だろ。オレらが首を突っ込むことじゃない」

「もう、悠月くんは本当に素直じゃないんだから」

「てめぇ……」

 呆れたように肩をすくめてみせる水瀬に口元をひくつかせていると、大きなドーム状の建物が視界に入る。

「まぁいい。今はこっちが優先だ」

 どこか歴史を感じさせる白いレンガ造りのその建物こそ今日の目的地である図書館だ。

 休館日は設けられておらず、誰でも自由に利用することができる。

 調べ物ができる場所がこの島ではここ以外にはないので利用者は少なくない。

それに芸術の学校らしく書物や資料だけでなく絵画や彫刻、レコードといった様々なものが貯蔵されている。

 エントランスに設置されている端末(形状は購買に設置されているものと同じで、図書館では資料の検索などを行うことができる)で手続きを済ませると奥へと進む。

「いつ来ても思うけど、すごい綺麗だよねぇ」

 隣で感嘆するように声を漏らす水瀬から視線を外すと、そこに広がっているのはドーム状の天井を中心とした広々とした館内だ。

 天井に設置された大きなシーリングライトから温かな光が降り注ぎ、中世ヨーロッパを想起させるようなレトロチックなデザインが浮き彫りになる。

「というかもうこんな時間か」

 広々とした中央階段の前に設置されたこの図書館の中心ともいえる時計塔に目をやりながら、オレは少し歩くペースを速くする。

 休館日の存在しないこの図書館だが、その代わりに閉館時間が早いのだ。

 コツコツコツとモノトーンなチェック柄のカーペットが敷かれた通路を進み、資料検索用の端末のある場所までやって来る。

 オレがその端末の正面からずれて立ったのを確認すると水瀬はため息交じりに端末に触れた。

「そういえば悠月くん、あんま端末好きじゃなかったね」

「まずは藍岳芸術女子学院について資料がないか調べてみてくれ」

 ジトっとした視線を無視してオレは口を開く。

 水瀬もそこは受け入れて端末の前に立ったはずなので文句は言わずに画面に指を這わせる。

 ただ、ため息を吐かれたが。

「うーん……該当するものはないって」

「そうか」

 昨日の段階から……もっと正確に言うなら妹背があのパンフレットを隠したときから、そんな予感はしていた。

 この学園島にとってその名がタブーであるということは。

 だから別段驚きもせずに頷く。

 しかし水瀬はそこまでの覚悟はできていなかったのか深刻そうに顔を歪める。

「……まだ悪い方向に話がいってるわけでもない。なにかがおかしいことは確かだが、その全貌はまだ分かってないんだ。そう決めつけるもんじゃない」

「ふふっ、やっぱり悠月くんってツンデレだよね」

 そう言って顔を上げると、水瀬は「次は?」と訊いてくる。

「そうだな……日本で起きた航空事故についてだ」

「航空事故? いいけどなんで?」

 首を傾げながら水瀬は操作を続ける。

 そういえば水瀬にあのファイルのことを言っていなかった。

「昨日の棚に類する資料があってな。ちょっと気になった」

 簡潔に理由を述べると彼女は納得したようだったが、その検索結果に顔をしかめた。

「ダメ。航空事故だけじゃ流石に多すぎる。もっと絞れない?」

「あぁ?」

 あれがどんな事故の調査資料だったのかは見ていないのだ。

 それなのに絞れと言われても――。

「――女学院、航空事故」

 頭の中に浮かんだワードを口にすると、水瀬がパチンと指を鳴らす。

「ビンゴ! ちょうど一件引っかかった。記者がこの事件について独自に調べたことをまとめた本みたい」

「じゃ、それを見に行くか」

 どこの区画にあるかをメモして端末から離れる。

 一度中央フロアに戻って二階に上がると、くるりとドーナツ状の通路を回って隣のフロアへと移動する。

 そこは無数に並んだ木製の本棚が形成する迷宮だった。

 下手にその本棚がアンティーク調なだけあって、魔法の国に迷い込んだかのような錯覚に陥る。

「えっと……本がある場所はKの78番だって」

「どこだそりゃ」

 言いながら迷宮の入り口となる棚に目をやると、そこにはA―1と彫られている。

 続く棚を眺めて規則性を理解すると迷宮の奥に視線を送る。

「……これ、辿り着くのにどんだけ時間がかかるんだ?」

 黙々と入り組んだ通路を棚の番号を気にしながら歩く。

 こうして紙の匂いに包まれるというのも、中々に不思議な感じがした。

「そこ段差になってるから気をつけろよ」

 オレも水瀬も普段図書館をほとんど利用しないし、したとしてもそれぞれの専門の資料を閲覧しに来るくらいなのでこの本の迷宮には慣れていない。

 だからきょろきょろと見回しながら歩いてしまうのだが、そのせいで足元が疎かになったのか水瀬が段差に躓いてぐらりとバランスを崩す。

「え? ――きゃっ」

「ったく、注意しただろうが」

 けれど近くにいたこともあり、咄嗟に支えることに成功した。

 体勢としては昨夜のように抱き寄せるような形になってしまったが、まぁいいだろう。

 しっかりと体勢を整えたのを確認するとオレは水瀬から離れる。

「あ、ありがとう」

「何度こけかければ気が済むんだ。わざとやってるのか」

 そう悪態を吐くと背を向けて歩みを再開させる。

 けれど水瀬がついてくる気配はなく、どこか呆けたような視線がオレに注がれているだけだった。

「……なんだよ」

 思わず振り返って訊くと、彼女はハッとしたように意識を取り戻した。

「いや、何気に悠月くんって紳士だなって。昨日もそうだったけど、女の子の守り方? エスコートの仕方って言うの? 分かってるんだなって」

「……は?」

 突然の言葉に目を丸くするオレだったが、水瀬は構わず続ける。

「普段からそうしてればもっとモテるのに。勿体ないよ?」

 ただそれが賞賛ではなく悪口だと気づいたオレはふんとそっぽを向いた。

「うるせぇ、別にモテたくもねぇし。大体興味もない」

「えぇ? だって悠月くんは学園唯一の男子生徒なんだよ? もうちょっと普段から愛想よくして、今みたいな紳士的な態度を取れば彼女だってすぐ作れるのに」

「興味ないって言ってるだろ」

 背を向けたまま今度こそ歩き始める。

 確かにこの学園に男はオレしかいない。

 それこそハーレムだのなんだのとの想像が浮かぶだろうが、その実オレの学園生活に女っ気があったことはない。

 普通に考えればオレの精神に多少の欠陥があるんじゃないかと疑われるのだろうが、興味がないものは興味がないのだ。

 オレ自身が別段いいと思っているのだから、お前も気にしてんじゃねぇという話だ。

「あっ、ちょっと待ってよ!」

「ふん。迷ってろ、バカ」

「ごめんって。ね?」

 てへと舌を出してかわいらしく謝りながら水瀬が横に並ぶ。

「でも最近は千歳ちゃんのこともあるし、遂に悠月くんにも春が来たかと思ってたんだけどなぁ。というか今はいいけど、後で謝りに行きなよ。千歳ちゃん泣いてたんだから」

「お前、いつまでこの話を引っ張るつもりだ。流石にウザいぞ」

 立ち止まって睨むような視線を送るとうっとたじろぐ。水瀬にもしつこいという自覚はあるらしい。

「で、でも千歳ちゃん昨日、『千歳くんに迷惑かけなくても済むようになりたいです』って泣きながら言ってたんだよ?」

「それはオレとあいつの事情だ。お前には関係ない」

 何度も泣いていたことを強調しないでほしい。

 内心思うところはあるものの、それをわざわざ水瀬に伝える義理もないのでそのことには触れない。

 その代わりにずっと気になっていたことを口にした。

「お前はオレにどうしてほしいんだ。なんでそんなに久月を気にさせようとする」

 思えば水瀬からはずっとオレの意識が久月に向くようにする意図が感じられていた。

 初めはただ女特有の恋愛脳が発揮されていたのかと思っていたが、ここまでしつこくするからにはなにかしらの理由があるのだろう。

 そう思ったのだが、

「だって……億が一にもないとは思うけど、このまま悠月くんが誰とも付き合わないでいたら一番仲いいのってゆーちゃんだから。阿僧祇が一にもないとは思うけど、そのまま二人が付き合う……なんてことに無量大数が一にもなっちゃうかもしれないじゃない」

 露ほども深刻じゃない悩みだった。

 くだらなさ過ぎて思わずオレが本棚に倒れかかるぐらいにはどうでもよかった。

「てめぇ……そんなことで悩むくらいだったら、さっさと由佐を嫁にでももらったらどうだ」

 どうでもよ過ぎて天を仰ぎながら口を開くと、今まで以上に真面目な顔で水瀬が頷く。

「本当はそうしたいんだけどね。でもこの島は東京都ではあるけど渋谷区じゃないから、同性での結婚はできないんだよ」

 真顔でそう言ってのける水瀬にオレはもう、由佐が旦那役じゃないのか……と半場現実逃避することしかできなかった。

「あぁそう。由佐はオレの好みからは離れてるからな。精々お前が幸せにしてやってくれ」

 オレがため息を吐くと、水瀬は驚いたように目を見開く。

「えぇ? ゆーちゃんあんなにかわいいのに、好みじゃないってウソでしょ⁉」

「かわいいっていうよりかっこいいって感じじゃないか? それにそもそもあそこまでフラットだと、正直な……」

 なにがとは言わなかったが、それで伝わったのかジトっとした視線が返ってきた。

「ひどい胸囲差別だ。確かに悠月くんっておっぱい大きい方が好きそうだよね、スケベ」

「ふん。ていうかあいつの思考回路はオレには分からん。まずはそこからだな」

 話すようになって結構経つが、広大な宇宙でも広がっているんじゃないだろうかと思うほど未知数だ。

 話こそ合うものの、その感性の違いに溝を感じることは多い。

「まぁ、ゆーちゃんって昔から周りに溶け込めないタイプではあったよね。天才だと私は思わないけど、ちょっと独特ではあるから。だから昔は私しか友達はいなかったかな」

 この辺が由佐と水瀬が親友である由来なのだろう。

 オレからすれば由佐はれっきとした天才だが、そう思っていてはいつまでも溝は埋められない。……まぁ、水瀬的には親友で留まる気はないのかもしれないが。

「増々オレにはムリだな。というかそろそろ進みたいんだがいいか?」

「うん。なんかごめんね」

 そう言って申し訳なさそうに頭を下げると、思い出したように続ける。

「あ、でも千歳ちゃんとちゃんと話してねっていうのは本心だから。別に付き合うとかそういうんじゃなくて、悠月くんに千歳ちゃんは必要だと思うから」

 またかとイラつきそうになるが、その真剣な瞳に茶化しているわけではないと判断したオレは歩を進めながらぽつりと呟く。

「……ま、その内な」

 それからしばらく迷宮を進んで行くと、目的地であったKのブロックに到着する。

「78番……78番……あっ、あった!」

「ムダに分厚いな……。表紙もなんか変にごてごてしてるし、合ってるのか?」

 水瀬が棚から抜き取った本を受け取り、パラパラとページをめくっていく。

 そこに書かれていたことを要約すると、『A女学院にて起きた航空事故は、政府が利益を追求するために飛行機のルートを変えさせて高度を下げさせたことが原因だ、現行政府はクソだ』の一辺に限る。

 女学院に対する情報はAという(おそらく)頭文字と、被害に遭った生徒は全員が特別学科に所属していたということだけだった。

 また航空事故に対する情報は重軽傷者百二十名、死者一名の被害者数だけで、その直接的な原因には言及されていなかった。

 ただその事件に対する政府の対応だけは「事件が発生してから動き出すまでが遅い」「謝罪する気のない会見」「医療施設の優遇だけでなく、被害者に対して財政を分け与えろ」「医療目的のメガフロートの建設は、世論を宥めさせようとするだけのプロパガンダだ」「税金のムダ遣い」「そもそも政府が対応すべきことではなく、もっと他にするべきことがあっただろう」「国会議員の娘がいるからだ。国税の私的利用だ」等々、本文の中でさえ主張に矛盾や揺らぎの見えるようなバカ丸だしな罵詈雑言だけが長々と綴られていた。

 とりあえずこの著者であるらしい記者は小学校に戻って文章の書き方を一から学び直すべきだし、土に還ってこの本に使われた物資たちに全力で謝るべきだとは思う。

 四分の一以上意味のない言葉の羅列を読まされたことに対するイラつきはここまでにしておくとして、それでも本として最低限の役割は果たしてくれた。

 それは情報源となること。

 おそらくこのぐだぐだと意味不明な言葉の羅列と化した本だからこそ、藍岳芸術女子学院というタブーワードを掻い潜ってこの島にやってこれたのだろう。

「色々と考えられるが、このA女学院ってのが藍岳芸術女子学院のことなんだろうな」

「つまり、その事件っていうのが要は今回の根っこってことなのかな?」

 水瀬の言葉にオレは頷く。

 この切り裂きジャックによって示唆された一連の違和感の根幹は、その航空事故にまつわるなにかなのだろう。

 しかしそれがどうこの学園に繋がるのか、それは分からなかった。

「情報の大部分は既に揃ってるんだろうが……」

「分からないね」

 二人して首を傾げながら、図書館の閉館を知らせるチャイムに思考を切る。

 ここまで来て分からないということは、なにか見落としや欠陥があるのかもしれない。

 だから答え合わせをするためにも一度切り裂きジャックとコンタクトを取る必要があるのではないか、ひとまずの結論を出すとオレたちは図書館を後にした。



「藍岳芸術女子学院か……」

 名前しか知らない学園のことを考えながら静まった廊下を歩く。

 図書館で水瀬と別れた後、オレは自分のアトリエへと向かっていた。

 理由は色々とあるが、一番は鍵についてだ。

 あのときはうやむやになったが不可解なことに変わりはない。

「あぁ? 由佐のやつ、まだいるのか?」

 今日は由佐が勝手に作業場にしているとのことだったので施錠がどうなっているのか確認しに来たのだが、扉の上部にはめ込まれている型ガラスから光が漏れていた。

 扉を開いた先に聞こえる音は絵筆に乗せたパッションを勢いのままに叩きつける音か、はたまた木材に魂を入れる滑らかな音か、手の広い由佐のことだからどんな音が聞こえてきても不思議ではない――そう思っていたのだが、少し開いた扉から聞こえたその音にオレは思わず固まる。

「ピアノだと……?」

 部屋の中からオレの耳に届いたのは、正真正銘ピアノの奏でるゆったりとしたメロディだった。

 確かにピアノが専攻の人間のアトリエからピアノの音が聞こえてくるのは当たり前のことだが、由佐は楽器は専門外だ。

 もちろん知らない内に嗜んでいたという可能性はあるが、なによりオレを驚かせたのはその音が、旋律が、聞き馴染み過ぎるということだった。

 ――まったく一緒だ。オレの演奏と瓜二つじゃないか。

 ちょっとした癖まで馴染み過ぎるそのメロディに驚きつつ、その正体を暴くべく扉を完全に開ける。

「――あ。千歳くん」

 茶色の髪がふわりと揺れる。

 黒縁眼鏡の奥に潜む黒い瞳が、オレを捉えた。

「な、なんでお前が――」

 そう、オレのアトリエでオレみたいな演奏を行っていたのはつい先日喧嘩したばかりの彼女。

「――久月」

 久月千歳だった。

「あ、あはは……。勝手に使っちゃってすみません」

 けれど彼女はそんなことはもう忘れてしまったかのように申し訳なさそうに謝る。

「……いや、それは別にいいんだが。演奏できたのか?」

「あ、はい。できるようになった……というか、思い出したんです」

 そう言って薄っすらと笑うと、久月は深々と頭を下げる。

「昨日はすみませんでした。取り乱して色々と言ってしまいまして」

「え、あ、別に気にするな。オレだって言い過ぎただろうしな」

 元々、水瀬に言われるまでもなく久月とはきちんと話そうとは思っていた。

 けれどそれは彼女が落ち着きを取り戻してから、少なくとも切り裂きジャックを捕まえようと躍起にならないまでに整理をつけられてからだと思っていた。

 だからこそこんなにも落ち着いた様子で話しかけられて、逆にオレが戸惑ってしまう。

「なぁお前、なにかあったのか?」

「……いえ、なにもありませんよ。ただそうですね、ちょっとだけ思い出したんです」

 なにか大切なものを手にしたように、目を閉じてそっと両手を胸に当てる。

 彼女の言葉の通り、思い出しているのだろうか。

 それとも、覚えているのだろうか。

 ゆっくりと瞼を開けると、久月はぞっとするほど柔らかな笑みを浮かべた。

「初めて会ったときからずっと不思議だったんです。千歳くんの傍は温かくてほっとして、とてもとても居心地がよかったんです。ずっと傍にいたいって、こんな気持ちのままでいたいって思っていました」

 その表情に見惚れて、恐れて、オレが動けないでいると久月がそっと立ち上がって近づいて来る。

「その理由を思い出して、わたしは――わたしは。失いたくないって思ったんです」

 そしてそのままオレのことをどこまでも柔らかく――どこまでも強く抱き締めた。

 いきなりのことに固まってしまったが、彼女の身体から伝わってくる温もりや柔らかさにオレもそっと抱き締め返す。

 なんだかこの熱に浮かされて、今なら普段言えない本音も口にできそうだ。

「そうか。……奇遇だな。オレも、不思議とお前が傍にいるのは嫌いじゃなかったよ」

 頭がふわふわとして、足が地面に着いている気がしない。

 けれど思考はどこまでもクリアで、言葉はすらすらと出てきた。

「お前はいつでも温かかった。その温もりを、オレは守りたかったんだ」

 ぎゅっと抱く手に力を込めると折れてしまいそうなほど細かった彼女を、オレはきっと守りたかった。

 浮いて来た気持ちを表すように、腰に回した手を動かして彼女の頭を撫でる。

 触り心地のいい茶色の髪が揺れて、久月が顔をあげた。

「まだ演奏の途中だったろ? 続きを聞かせてくれ」

 くるりと大きな瞳にオレの姿がいっぱいに広がる。

 久月はそれだけで嬉しそうに顔を綻ばせ、大きく頷いた。

「――はい!」



 ――ポンポロポロポンポンポン。

 その懐かしいメロディに耳を澄ましながら、オレの意識がゆっくりと闇へと沈んでいく。

 夢を見るように、理由を思い出すように、決して覚めないように。

 ポン――ポン――ポン――。

 音は、奏でられた。


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