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中編の間

告白しなさい!

作者: 岩尾葵


「好きな子がいるならとっとと告白しなさいよ!」

 姉は僕にビシッと指を指しながら、まるでどこぞの芸人の突っ込みのような鋭さで言った。

「だから、それができたら苦労しないってさっきから……」

「あんたがそういう風にモタモタしてるからいけないのよ、このヘタレが」

「う……」

「図星ね」

 ふふん、と姉は鼻を鳴らして蔑んだ目でこちらを一瞥する。何だこの高圧的な視線は。

「僕だって、そうしなきゃいけないとは思ってるけど」

「けど、何?」

 けど、無理なのだ、僕には絶対、告白なんてことはできない。

「あんたが告白できない理由が、ヘタレだってこと以外のどこにあるっていうのよ」

 姉は胡坐をかいて座っている僕の肩に爪先をぐりぐりと押しつける。止めろ、僕はMじゃない。

「もう、何で最近の男の子って皆こうなのかなあ」


 僕らがどうしてこんな会話をしてるかというと、勝手に恋愛論を展開する姉に対し、僕が好きな人ができたって言ってしまったからだ。

 姉はその時眉根を潜めて「はぁ!?」と素っ頓狂に叫んだ。続いてもう一言「リア充死ね、爆発しろ」と付け加えた。言葉の使い方を間違えている気がしないでもないが、それは置いておくとして、地味で鈍間で大して他人のことなんて気にしてなさそうな僕に好きな人ができたということが相当意外だったのだろう。

 でも僕も一応男だ。高校2年にもなれば好きな子だってできる。

 ちなみに相手は同じクラスの吉永さんと言う子で、別に学園アイドルだとか、クラスでモテモテだとかそういうタイプではない。短髪に眼鏡、背も大きすぎず小さすぎずという中途半端な外見で、性格の特徴と言えば人一倍大人しいということくらいしかない。目立つようなことには一切手を出さず、委員会なんかも唯一親しい友人が一緒だからという理由だけで、図書委員を選んだ。地味な子たちと地味な生活を細々とおくっているような子だった。

 だが僕はそんな吉永さんに、どういうわけか出会ったときから強く惹かれた。ただ、一言もしゃべったことはないし、もし告白して何で好きになったのかって言われても、上手く答えられる自信がなかった。

 だからそれを姉にどうしたらいいのかと相談したのだ。そして返ってきた答えは、「好きな子がいるならとっとと告白しろ」という何の解決にもならないものだった。


「大体さぁ、最近の男子は草食系とかオトメンとかって言葉のせいで全然男らしさがなくなってるでしょ。そのせいなのかは知らないけど、世の中には女の子は肉食系だとかツンデレだとか……あらぬ概念を生み出し過ぎなのよ!」

「はあ」

 僕から言わせれば、そっちの方がよっぽど現実的なんじゃないかと思うんだけど。実際、クラスを見ていても「この子肉食系だな」って思う子はいるし。

そのようなことを言っている姉の方こそ、時代遅れも甚だしいのではないかと思う。そんなことを言っているから、大学の友人たちから前衛的だとか渋いだとか言われるのだろうし、何考えてるか解らないと思われるのだろうし、何より

「だから、いつまでたっても彼氏ができないんだよ……」

「何か言った?」

 かなり小さな声で呟いたつもりだったのだが、姉は恐ろしいばかりの地獄耳でその呟きを捉えた。畜生、そういうところが駄目なんだっつーの。

「とにかく男は男らしく、好きな子ができたらその子に向かってどんどん自分を売り込んでいくべきなの。じゃないと女の子はあんたが気にかけてるなんて絶対気付かないって!」

「……そんなこと言われてもなあ」

 そんなこと言われても、一言もしゃべったことのない異性にいきなり近づいて「好きです、付き合ってください」なんて言えるわけがない。下手をしたら、今まで特に問題もなく過ごしてきた円満な学園生活に終止符を打ちかねない。自分が告白される立場だったら、どのくらい自分の恥ずかしい生活態度を見られてしまったのだろうと考えて、死にたくなってくる。

「あのね、そんなこと言ってるから、いつまでたっても彼女ができないのよ」

 さっきの台詞を引用しやがった。余計な御世話だ、馬鹿姉貴。

「男は躊躇わなければいいの! 女の子は基本的に待つしかできないのよ。男が告白しないで、どうやってカップルが成立するのよ!?」

「いや、それは女の子から告白する場合だって」

「ない!」

 ハイテンションで上ずった声がさらにトーンを上げてひっくり返り、同時に姉が前のめりに近づいてきたせいで体に引っかかった机がガタっと音を立てる。

「ない、断じてない! あんたギャルゲーのやりすぎじゃないの!?」

 酷い言われようである。確かに僕は中学の頃にギャルゲーにもエロゲーにも手を出したは出したが、さすがに現実と2次元を混同するほど僕も落ちぶれてはいない。

「なんでそうなるかな」

 姉の論理の飛躍ぶりには、弟の僕でさえ閉口せざるを得ない。

「女の子から告白してくるなんて、現代社会が生み出したコミュニケーション能力欠如の象徴であるギャルゲーが原因に決まってるじゃない。甘い幻想を抱く前に自分で努力しなさいよ!」

 謝れ、勇気を振り絞って告白をしようとしている全国の女の子に謝れ。

「とにかく、あんたは好きな人がいるんだから、とっとと告白しなさい。告白すれば、今まで脈がなさそうだと思っていた子もとりあえず気にかけてくれるようになるでしょ!」

「うう……」

 ここまでグダグダと話し合ってきたけれども、確かに言われてみればそうなのかもしれない。自分が相手に好意を寄せているのかどうかが分からなければ、その相手のことをこれほど意識することはない。立場が逆だったら、相手が自分に好意を持っているのかわからなければ、その子のことはスルーだ。

 姉の言うとおり、告白と言うのは一種の賭けみたいなもので、死にたくなるほど恥ずかしい思いをする代わりに、相手が自分を気にかけてくれるチャンスが巡ってくる。運が良ければ、絶対ダメだろうと思っていた相手でも、意外と脈ありだったりするのかもしれない。そしてその真意は、告白してみないとわからないわけだ。

「でもだからって……」

 だからって、一言もしゃべったことがない子にいきなり告白だなんて。

「ダカラもポカリもない!」

 しかし姉はそんな僕の胸中を知らずにわけのわからない言葉を一括した。もういいよ。

「自分で好きな人がいるって自覚してるだけでも十分告白する要素になるでしょうが。理由なんてあんたらの年代だったらどうでもいいのよ。ていうかね、初対面でいきなり惹かれる相手なんて人生でそうそう出会えるもんじゃないわよ? これ逃したらもしかしたらもう会えないかもしれないわよ?」

「そんなもんなのかなあ」

「さっきから何度もそう言ってるでしょ、バカ」

 僕は眉根を顰めながらハア、とため息をついた。もう、姉に何を言っても通用しそうにない。というか、こうなることを予想していながら、こんな姉にアドバイスを求めようとした僕がバカだった。疲れた。とりあえず、ここは引き下がって話を納めるしかない。

「わかったよ、今後は自分でどうにかするよ」

「こ・く・は・く・し・な・さ・い」

「あー、ハイハイ、もうわかったって!」

 僕は耳を塞ぎながら頭を振って、迫りくる姉から逃れようと後ずさる。振り返ると僕の背後には姉の部屋のドアがあった。ここはこれから「非常口」とでも名付けた方がよさそうだ。僕は素早くそれを開き、姉の部屋からの脱出を試みた。幸いなことに、部屋の中で起こった火事はすぐに扉を閉じたおかげで廊下に及ぶことはなかった。


 告白か。

 僕はそのあと食事をしている間も風呂に入っている間も、この問題をどう処理すべきなのか途方に暮れ、答えを求めて考えあぐねていた。

 姉の言っていることは、実際に正しい、のかもしれない。

 そもそも、僕があんな大した意見も言えない姉に相談を持ちかけたのは、単に女の子はこういう場合にどう思っているのかを聞きたかったからなのだ。小学校も中学校も男子とばかりつるんでいた僕には、同世代の女の子の気持ちなんて想像することもできない。だから女の子が何を考えてるのかを知るには女の子に聞いてみるしかない、というのが僕の結論で、母と姉以外特に口をきけそうな女子もいない僕は、少しでも年代が近そうな姉に頼るしかなかったのであった。

 姉は大分古い価値観をお持ちであるようだが、男が攻める方で、女が待つ方、というのは案外当たっていると思う。特に吉永さんみたいに普段おとなしい子は、きっと好きな子ができても告白するような勇気はないだろう。いや、もしかしたらあれだけ強い意見を言える姉も、男女の関係においては「待つ」ことしかできないのかもしれない。だから好きな子ができたらとっとと告白しろだの、気付いてもらえなければ意味がないのだの言いだすのかもしれない。

 それに則って考えれば、僕が告白して吉永さんがそれを受け入れる可能性は、皆無ではない、とも思う。

 でも――僕は彼女と喋ったことがないのだ。

 いくら待ち続けるしかないと考えている女の子でも、通りすがりの人にいきなり告白されて受け入れるわけがない。あるいはそんな状況下なら、ストーカーだと思うかもしれない。身の危険を感じることさえあるかもしれない。

 吉永さんにとって、一言もしゃべったことがない僕はクラスメイトの一人でしかなく、認識は通りすがりの人と同レベルでしかないはずだ。イケメンで何でもできて頼りがいもある熱血漢ならともかく、大して顔もよくないし別にこれといって何かの取り得があるわけでも、大して目立つこともない僕が、特に理由もなしにいきなり告白してきたらどう思うだろうか。ストーカーだと思われ、身の危険を感じた吉永さんは逃げ出してしまうのではないだろうか。下手をしたら高校卒業までの向う一年半、ずっと避けられてしまうのではないか。

 しかし僕はストーカーではない。これだけは断言できる。

 理由はないと言ったが、吉永さんへの気持ちは、たぶん性欲云々から来るものではないと思う。もちろん誰でもいいから彼女が欲しかった、なんて安直な理由でもないし、容姿とか性格とかでもないんじゃないかと自分では思っている。でもそれが何なのか僕自身にもよくわからないし、たぶん人に指摘されても腑に落ちるものではない。ただ、出会ってから彼女と仲良くしてみたい、という気持ちがあって、それが好意なんじゃないかと思った瞬間に、これが女の子を好きになるってことなんじゃないかと考えて、妙に納得してしまった。当然と言えば当然だけど、そんな子に出会ったのは初めてだった。気付いてしまってからはずっと吉永さんのことを目で追うようになってしまっていて、今では姉に相談を持ちかけるほど、強い気持ちになってしまっている。

 このやり場のない思いをどうすればいいのかさえ、僕にはよくわからなかった。仮に吉永さんと「恋人」と呼ばれる関係になったとしても、それがどういうものなのか、何をすればいいのか、何がしたいのかなんていうのは、普通に考えればとても単純なはずなのにそれ自体がひどく現実的じゃないみたいに思えてくる。そもそも僕は吉永さんと一緒にいて何がしたいのかすらわかっていなかった。ただ一緒にいたいと思う気持ちばかりが強くて、その先のことが何一つ思い描けない。僕の彼女への思いは、伝えていいレベルに達しているかどうか、怪しいのである。

「あーあ」

 僕はどうしようもなくなって、自室にあるテレビの電源を入れた。画面はビデオ2という緑色の文字と真っ黒の画面を映したままで静止する。さらにPS2のスイッチをつけると、一度Play Station2という文字を映しだしてから、とあるルートを攻略中の恋愛シミュレーションゲームのロゴが中央に表示される。続いて明るいテンポのBGMに乗せて神作画とネット掲示板で評判のオープニングアニメが流れてくる。タイトル画面でロードボタンを押して、前回アイキャッチに至らずかなり中途半端なところで止めたセーブデータをロードし、主人公カズが後略対象のユミとプールでキャッキャウフフと仲よさげに遊んでいるところからゲームが始まる。

 確か前回はカズがユミの着ている水着を褒め、ユミがウォータースライダーに乗りたいとか言いだしたあたりで止まっていたはずだ。それからは、二人乗りなのに意外に浮輪が小さいという大分お決まりの展開だった。

「おいユミ……これ、二人乗りの割に異常に小さいけど大丈夫か?」

「まあ、大丈夫でしょ。さ、乗った乗った」

 ちなみにこのゲーム、ギャルゲーにしては珍しくプレイヤーキャラであるカズにボイスが付いている上、全編通してモノローグと言うものが一切ない。物語は全てキャラクターの台詞のみで構成されている。二人は浮輪に乗って、係員の指示に従いスライダーを滑り始める。暫く行ったところで浮輪にかなりの加速が出たらしく、水がはじけ飛ぶ音と共にユミが「いやっほぉおお!」と軽快な叫びをあげる。カズの方は、「おいユミ、あんまり羽目外すな」となぜかユミに注意を促しており、それに対してユミがさらに「わかってるわかってるぅ」と楽しげに返事をする。いやに冷静だったカズの反応に、ユミが「あれぇ、カズひょっとして怖いの……?」と突っかかる。

 これはフラグだ。

「ってあれ!? うわあ!」

 台詞だけだと分かりにくいが、カズの方を振り返って体勢を崩したらしいユミは浮輪の外に投げ出されかけているようだった。やはりフラグだったか。

「ユミ!」

 カズが叫んで、ここで3つの選択肢が出てくる。一つは「ユミの腕をつかむ」二つ目は「ユミの足をつかむ」そしてもう一つは、「ユミを抱え込む」である。

 さて、と僕は一呼吸置いて考える。

 ギャルゲーにおいて最も重要なのは、如何に女の子の性格を理解して選択肢を選ぶか、だ。つまりこの場合であれば、ユミが嫌がりそうな選択肢を消していけば、好感度が上がる選択肢は簡単に選べる。

 しかしながら、このゲームは「前の選択肢まで戻る」機能が搭載されている。万が一好感度を下げてしまっても選択肢の選び直しが可能だ。とりあえず最初はユミが最も嫌がりそうな選択肢である「抱え込む」を選んでみることにした。

「ユミ!」

 カズはプレイヤーが選んだ如何にもイケイケな選択肢に従って、ユミに抱きつく。

(うわあ、体柔らけえぇえ、女の子の体ってこうも……)

 よくあるパターンだがここでプレイヤーキャラは女の子の体が如何に柔らかいかを知るわけである。カズの心の中の声を、ゲームはありがたくも読み上げてくれる。ザブーンという水の音と共に、二人は着水。抱き合ったままの状態で、水の中にもぐった。やがて体が浮き上がってきて、ユミはカズに抱き起こされる。

「大丈夫か、ユミ」

「ん、カズ……」

 ユミはうっとりとした声でカズを見つめる。

 さあ、ここからである。大人しめの女の子であればこの選択肢は普通に見ている方が恥ずかしくなる程度で問題ないのかもしれない。しかしながら、今回の攻略対象であるユミは御転婆元気っ子、ご機嫌を伺うのが難しい、という設定なのだ。しかもこのデートシーンはまだ告白もしていない段階なのである。

「……って、何抱きついてんのよぉおお!!」

「ぐふぁ!」

 当然だがこういう展開になる。ユミが放った鉄拳は見事カズにクリーンヒット。バシッと体を叩くような効果音が何回か流れる。

「アンタ最低、もうやだ、帰る」

 それと同時に好感度も大きく下がる音。予想通り、さっぱりとした関係が好みだとされるユミと「抱え込む」という選択肢は相性最悪だ。ツンデレ好きにはこれは一種の愛情の裏返しなんだと捉えることもできようが、ゲームは主観だけではハッピーエンドに辿りつけない。でも購入者の側からすれば、この時に選んだ選択肢が違ったら、という妄想もしないわけではないし、選択肢に戻るという素晴らしい機能があるのだから、最初はとことん主人公を虐める方向で話を進めるのも一興と言うわけである。

 つまり、主人公乙。語尾に雑草でも生やしてやりたいくらいだ。

 その後に「足をつかむ」を選んだら、カズがユミのことを「重い」とか言った挙句に今度は助けることができずに二人はバラバラでプールに落ちた。これも割と予想通りだったのだが、「抱え込む」よりひどい扱いなのに、高感度が下がる音がしなかったのが意外と言えば意外だった。

 ちなみに最後の選択肢「手をつかむ」を選ぶと、そのままユミはカズの浮輪に乗せられ、照れながら「離しなさいよ」と言いつつ「少しくらい我慢しろ」というカズの言葉を受け入れざるを得ず、二人仲良く無事に着水できる、と言う塩梅である。結局ユミは「帰る……」と言って踝を返すのであるが、その言い方は「抱え込む」を選んだ時よりも明らかにカズを意識している。微妙に好感度が上がる音も聞こえたから、ツンデレのフラグであることに間違いはない。

「はあ……」

 僕はため息をついて、大して進んでもいないうちにデータを保存して、PS2の電源を切った。

 ゲームの中はいつも単純だ。自分から行動を起こさなくても選択肢一つ選びさえすれば、後はプレイヤーキャラが勝手に行動していってくれる。やってて一番精神力を使うRPGとかアクションゲームでさえも、実際に心身を痛めるわけじゃない。物語なんて言うものは、ちょっとリアルでどこか見ていていい気分になれば、それでいいのだ。今の僕の心境だって、どうせ僕のことを全く知らない他の誰かから見たら、感情移入しにくくてどうしようもないヘタレ草食系男子の堕落した一日、みたいに見えるのだろう。何か行動を起こすということが、実際にはどれくらい難しいことか。

 考え始めて、また深みにはまりそうだったので、頭から無理に思考を追い出した。

 もういいや、考えても始まらない。告白するかどうかはともかく、とりあえず明日は何でもいいから吉永さんに話しかけるようにしよう。それでいいんだ、少しは今までの葛藤から逃れられるかもしれない。

 僕はコントローラーを投げ出して、押入れに入っている布団をスローペースで敷いてから枕元に頭を沈めた。


 翌朝の僕の心境を、僕以外の誰か、例えば姉が想像できるであろう可能性は、万に一つもないと思う。高々一言話しかければいいだろう、と他人なら思うかもしれない。でもそれは違う。その高々一言話す、が僕にはできない。

 朝起きてまず頭をよぎったのは、今日は吉永さんに話しかけるんだ、話しかける日なんだ、というまるで戦地に行くかのような決意だった。それから家を出て教室の椅子に座るまでの間に、吉永さんに一言かけるとしたら、やっぱり「おはよう」だろうか、いや、いきなりそんな馴れ馴れしく挨拶するのも逆に不自然ではないか、じゃあどうすれば自然に会話ができる、いや、どうすれば会話が出来そうな一言目をかけられる? ……などということを延々1時間半ほど考えていた。そしてやっぱり「おはよう」がベストだ、という結論に達した頃には、もう2時間目の授業も終わっていた。自分の駄目加減には本当に死にたくなってくる。

 こんな時、ギャルゲーだったら何か適当な事件でも起きて上手いこと話すきっかけを得られるものなのだが、僕の世界の神様は実に不親切なのか、その後も吉永さんと僕の間には何の事件も起きずに、とうとう昼休みになってしまった。

「あーあ、世の中って不平等だよなあ」

「どうしたんだよ、いきなり」

 僕が散々頭の中で半日分の無駄な労力を捏ね繰り回してようやく発する呟きに、友人の金井が答える。中学の頃から男子とばかりつるんでいると言っても、今昼食を共にしているのはなぜか金井だけだったりする。

「どうして僕らには大して面白いことも起きないのに、世の中には面白いことで満ち溢れている生活してる奴がいるんだろうって思っただけだよ」

「なんだ、ただの僻みか」

 僻みじゃない。ストレス発散だ。

「まあでも、分からないこともないかな」

 金井が箸で焼き肉弁当の肉の部分だけをひきはがして口に運びながら言った。大きく開かれた口が二枚の肉をいっぺんに咀嚼する。

「というと?」

「俺らは満足ってのを、他人の庭に求めがちってことさ」

 ごくん、と音が出るほど豪快に咽喉を鳴らしてそれを飲み込み、金井は箸の先で僕を指す。

「そんなお前には『涼宮ハルヒの憂鬱』を読むことをお勧めする!」

「はあ?」

 突然の話の展開に思わず素っ頓狂な声が出る。片や金井は先ほどまで一杯にしていた口を大きく開き、得意げにニヤリと歯を出して笑った。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』は、谷川流作の角川スニーカー文庫から発売されたライトノベルである。少し前に京都アニメーションによって2006年(だったような気がする)にアニメ化され、その独特の演出方法、作画クオリティ、エンディングでの振付けおよび放送順序から当時のアニメ界に革命をもたらし、世にその存在を知らしめた。メディアミックスもCDからフィギュアに至るまで多種多彩であり、今なおその人気は絶えず、ファンによる最新刊執筆の催促が絶えないとか何とか。

「なんで今更ハルヒなんだよ。アニメならもう見」「いやあれはお前絶対原作を読むべきだ」

 そういわれてみればあまりライトノベルには手を出したことはなかったので、原作の方は未読だ。金井が僕に激しく勧めてくる理由はよくわからないが、拗ね始めた姉同様、こうなったときの金井の話に収拾がつかないのはよく知っている。

「わかったよ、読むから」

「おぉし、じゃあさっそく明日持ってくるからな」

 なにやらはりきり始めた金井は、昼食の弁当をひっくり返さんばかりの勢いで、世間では長門派が多いが俺はやっぱりみくるちゃん派だとか、ハルヒはツンデレと見せかけて実は哲学的なキャラであり、その思考の深遠さが読者を掴んだんだとか、昼休み中涼宮ハルヒトークを繰り広げるのであった。

 さて、どうしてこんなことになったんだったかな。


 その後もやはり平凡に日常が過ぎるばかりで、今朝の戦地に赴く特攻隊のような決意はどこへやら、放課後にはもうすっかり吉永さんに話しかけることなど僕の頭から消えていた。というよりも、僕としては今日の結果を不本意に思わざるを得ないわけであり、吉永さんのことは5時間目の現代文の授業の以降忘れる「ことにしていた」。例え僕と彼女の関係が進まなかったとしても、その方が精神衛生上よいはずなのだ。きっとそうに違いない。

 放課後、僕はもう何も考えずにそのまま帰り道につくことにした。

 三階にある僕たちの教室から一階中央玄関の下駄箱までたどり着くためには、階段を二階まで降りた後に、本校舎と教室棟を結ぶ渡り廊下を通らなくてはならない。三階から一階までの移動の間にある渡り廊下は、面倒臭がりな僕たち高校二年生の天敵である。だが僕はそんなことも気にせず『明日があるさ』を鼻歌で歌い、実に素晴らしい曲だと感心しながら、長く続く渡り廊下を進んで行った。

 やがて渡り廊下も渡り終え、本校舎の方へ移った僕であったが、右手の部屋の中から何かのデジャブを感じて立ち止まった。

「あれ?」

 それはまさしく今日の昼食時の話題に上っていた『涼宮ハルヒの憂鬱』だった。本が置いてあった部屋の扉が開いていたため、勝手に入って棚に近づいてみる。同じ場所には「涼宮ハルヒの」から始まる一連の作品群がずらずらと並んでおり、改めてその人気ぶりを思い知らされるようだった。

 うちの学校にライトノベルが置いてあったことに驚きつつ、中身をパラパラとめくってみる。

 プロローグの部分は、アニメの何話だったか忘れたが、物語を時系列順で並べた時、最初に来る回の主人公の台詞と一緒だった。ライトノベルを全く読んだことがない僕だから思うのかもしれないが、こういうインパクトのある文章は、読者を惹きつける上で重要な役割を果たしているんじゃないかと思う。文章量が少し多い気がしないでもないが、それも気にならないほど自然な文章構成だ。

 これなら確かに買っても損じゃない。金井がはまり込むのもよくわかる。

 そんなことを思いながら重くて邪魔になった鞄を床に置き、本を読むのに没頭していると、いつの間にか傾きかけていた日がすっかり沈んで暗くなってしまった。窓から入る光が徐々に少なくなっていって、やがて本の文字が見えなくなる。

 しまった、話に夢中になってつい帰宅途中だったのを忘れてしまった。

 僕は中ほどまで読み終わった本をパタンと閉じて壁の棚に戻した。どこから取り出したのか覚えていなかったので、とりあえずシリーズの先頭と思しき場所の一番左側に置いた。急いで帰ろうと床に置いた鞄を手元に引き寄せようとした、その時だった。

 突然、部屋の奥の方からガタっという物音が聞こえた。

 反射的にそちらの方を振り返る。この学校には七不思議なんてない、と分かっていても体の反応はそんなことには関係がなかった。早鐘を打つように心拍数が上がり、背筋に怖気が走った。誰もいなかったと思っていたその部屋の奥には――夕闇に隠れるようにして椅子の上にちょこんと座った、吉永さんがいた。

 僕は一瞬何かの見間違いかと思った。あるいは僕が今日一日ため続けてきた潜在意識が見せた幻覚か何かなんじゃないかと疑った。しかしよく周りを見てみれば、僕たちのいる部屋には壁際一面に本棚が連なっていて、しかもその全てに本がぎっしり詰まっていた。入った時はデジャブに感激したあまり気付かなかったが、ここは図書室だった。すると吉永さんはおそらく、図書委員の役目である放課後の貸出の当番というところなのだろう。しかし真面目に任務をこなす図書委員なんて初めて見た。図書館に初めて来た僕が言えることではないかもしれないが。 

「や、やあ」

 僕は驚きと嬉しさのあまり訳のわからない第一声を出した。なんだよ「やあ」って、今時少女漫画の男キャラでさえそんなこと言わねえよ。

 吉永さんは僕を見たまま何も言わず、それどころか眉毛一つすら動かさない。おそらく心の中では僕の間抜けた第一声にあきれ返っているに違いない。

「えと、あの……委員会の、仕事?」

 またもや緊張のあまり変な繋ぎ方になってしまった。吉永さんは首を縦に一つゆっくり振る。

「そ、そっか。まだ帰らないの?」

 今度は首を横に振る。先ほどの物音は多分バッグか何かを拾った音なのだろう、そろそろ帰るということだ。

 この瞬間、僕が何を考えていたのかは言うまでもない。

「じゃ、じゃじゃじゃじゃあ、い、一緒に帰らない?」

 極度の緊張に僕の頭は完全にオーバーヒートしていた。滑舌の悪さは最早人生最大の域に達しており、恥ずかしさは隠していたエロゲーが母親に見つかった時の100倍でも1000倍でも足りなかった。思わず消えるか死ぬかどっちかにしてくれ、自分、と思ってしまったほどだった。

 だが吉永さんはそんなどうしようもない僕の反応に対して、もう一度首を縦に振ってくれた。

 この時の僕の心境は、やはり他人にはわかるまい。僕自身も、最早分からないほどなのだから。

 あヽ神様、僕の神様はゲームの上に在らず、ラノベの上に在ったんですね。


***


 最近、弟が妙に機嫌がいいのが気になる、すごく気になる。

 つい数週間前まで家で遊ぶ時は決まってゲーム、プレイ中は何を話しかけても反応しないほど大人しかったのに、今では突然奇声を発しながら走り回ったり、部屋の中でジタバタしながらもだえ苦しんでいたりする。

 また、弟はある日を境に、今まで集めていたゲームを全て捨て始めた。パズルゲームも格闘ゲームもRPGもギャルゲーもエロゲーも、とにかく家にあるゲームというゲームを全て捨てた。

 私は捨てるなら誰かに譲るか、どこかで売ってお金にして来ればいいのに、と言ったが、弟はなぜかそれを良しとしなかった。そして理由を尋ねると「僕の神様はラノベの上にいるから。貧乏神が憑いたゲーム売った金でラノベ買って、神様が逃げたら困るだろ?」と凄いんだか凄くないんだか分からない言葉を返された。

 さらにその言葉が象徴するように、今まで全く手を出さなかったはずのライトノベルの収集を始めた。最初に買ってきたのは何とかのユーウツとかいうシリーズ物で、それからほぼ毎日のように新しい本を買ってきては、暇が少しでもできればひたすら自室で読書をしている。弟の部屋にあった本棚の大半は、新規購入したライトノベルで埋まってしまった。

 別に弟がライトノベルを収集すること自体にはなんの違和感もない。寧ろ前々から、あいつはオタクだからそのうちライトノベルにも手を出すんじゃないか、と思っていた。私にはそれより弟があれほど溺愛していたゲーム達を捨ててしまったことが不思議だった。このゲームのこのヒロインは俺の嫁、とかのたまわっていた弟君は、今や全くそんなことは仰らない。中学生ぐらいに連呼していた「萌え」という単語すら使わない。

 一体何があったのやら。

 それを聞いてしまうのは簡単だったが、私には、聞いてしまったら何だかすごく不愉快になるんじゃないかという変な女のカンと、ぶっちゃけ聞かなくてもそのくらいわかるんじゃないかと言う妙な冴えが働いていた。そしてそれが、実は私の助言とも言えない助言によって、もたらされたんじゃないかと言うことも、何となくだが想像がついてしまう。

 勉強が本分の高校生に、生活態度まで変えてしまう出来事なんてそうそう起こるものではない。きっと弟は、吉永さんと上手くいったのだろう。前に聞いていた吉永さんの性格から察するに、その吉永さんから弟に話し掛けた、という可能性はゼロだ。何かのきっかけで、弟が吉永さんにアプローチして、流されやすい吉永さんは適当に弟の会話に相槌を打ったのだろう、弟はそれに対して無上の喜びを感じている。女の子が自分にこだわりのない部分で流されやすいのは、自分自身がそうであるからよくわかる。たぶん、吉永さんも同じような考え方で、弟の相手をしているのだろう。

 弟が告白したかどうかまではわからないが、話ができたなら「好きな子と一言も話したことがない」という奴の第一のコンプレックスはどうにか克服できたはずだ。そのうちもしかしたら本当にそういう気持ちも起きるかもしれない。そうしたら、またあのバカな弟のことだから、激しい葛藤をした後に私のもとにやってくるに違いない。その時はもう一回「告白しなさい!」とだけ言ってやろう。世の中には何をするのにもきっかけが必要で、それなくしてはどんな物語も始まらないのだから。

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