6、精霊種族
翌朝、日が昇り切ってない時間にルゥは寝ぼけ眼のネロを引っ張って食堂へと降りてきた。
昨日の騒動が嘘のように、破壊された椅子や机が綺麗に片付けられ全て元通りになっていた食堂には、やはり早朝のために誰もいなかったが奥の厨房へと続く扉から光が漏れていて何かを洗う水音が聞こえてくるため姉妹のどちらか──あるいは両方──は居るだろうと思って声を掛けた。
「エーテル? クレアさん?」
「はい?」
扉を開けて出てきたのはクレアだった。
扉の奥にエーテルの匂いはなく、かすかに漂ってくる土と青物の香りから彼女が一人で朝食の材料である野菜を洗っていたのだろうとルゥは予想をつけた。
「あの、何かご用でしょうか?」
「えっと、エーテルと話がしたいんですけど、呼んできてもらっていいですか?」
「……かしこまりました。少々、お待ちください」
昨夜、姉妹の間で起こった出来事をルゥは知らないため、クレアがなぜ浮かない顔をして去って行ったのか首を傾げた。
入り口近くの席に着いて未だに覚醒しきらないネロを起こしながら待っていると、エーテルが一人でやってきた。
「エーテル一人? クレアさんはどうしたの?」
「なに? クレアにも関係ある話なわけ?」
「いや、そうじゃないけど……。どっちかって言えばエーテル一人の方が良いかな」
クレアの名前を出した途端に表情が強張ったエーテルの様子に違和感を感じながらも、ルゥは話を進めるためにネロを本格的に起こすことにした。
「ネロ。ネロってば。エーテルが来たよ。……もう、起きてってば!」
「ん……。わかっ……てる、わよ……ふわぁあ」
「アタシも、ルゥ達に話があるんだ。寝ぼけた状態のネロにするような話じゃないから、しっかり起きて欲しいんだけど」
エーテルの、どこか焦りを含んだ言い方にネロもなにかを感じ取ったのだろう、緩慢な動きはそのままだが思考はすっきりと目覚めたようで先ほどよりも流暢に話を始めた。
「貴女の話も、気にはなるけれど……こっちから一個、先に質問させて貰うわよ」
これからネロが聞こうとしている内容に、ルゥもゴクリと生唾を飲み込んだ。
この問いにエーテルがどう答えるか……。
いつも強がった事を言ってはいるが、他人に嫌悪や憎悪されるという不安は簡単に拭えたり慣れたりするものではないのだろう。机の下で強く握られているネロの手は微かに震えていて、ルゥはそっと自分の手を重ねて頷いてみせた。
ゆっくりと深呼吸をしたネロは、真っ直ぐエーテルを見つめながら口を開いた。
「エーテル。貴女、精霊種族について、どう思ってる? 思ったまま、素直に答えて。誤魔化したり、思っても見ない事を言っても、変に勘の鋭いルゥがすぐに気付くわよ」
ネロの言葉通り、ルゥは肉食獣が獲物を観察するように、エーテルの挙動を一切見逃さないよう五感を集中させた。
エーテルは精霊種族という単語を聞いて少し目を伏せ、そして壁に掛かっている肖像画を見つめた。
「アタシは──」
「もう、良いわ。ルゥじゃ無くても、分かるわよ」
「ネロ! 待ってよ!」
そう言って席を立ったネロは、制止の言葉を掛けるルゥを置いてさっさと宿を後にしてしまった。
無理もない。
エーテルの表情は辛く悲しい、そして恐怖を堪えるような、そんな表情をしていたからだ。
「……ルゥ、ネロは──」
「エーテルになにがあったのかは分からないけれど、精霊種族を嫌ってるとか憎んでる、っていうわけじゃなさそうだね」
「ルゥとネロは、アタシに何を求めたのさ……」
「うーん……。一緒に旅が出来たら良いなって思ってたんだけど、今のエーテルはネロに会わせられないや。ごめんね」
ルゥは言いたいことだけを伝え、先に出て行ってしまったネロを追い掛けた。
後に残されたエーテルは、ただ呆然と背中を見送っていた。
宿屋を出たルゥは、顔を上に向けて早朝の冷たい空気を鼻から大量に吸い込んだ。
冷たい空気は鼻腔にツンとした痛みを与えたが、嗅ぎ慣れた匂いを見つけたルゥは、その匂いが風に溶けて無くなる前にもう一度空気を吸い込んだ。
「えっと…………こっちの方かな?」
多種族都市と言う都会的な名前を冠しているカジュカでも、まだ日が登らない早朝では人通りは皆無と言っても過言ではない。
唯一、朝市の準備を始めるため荷車を引いている数人の露天商が居るくらいで、後は静かなものだった。
都市と町の違いは規模の大きさもあるが、決定的な見分け方としては特産の有無である。
ケイナンは硝子製品が特産であり、都市の中心から少し北に行ったところに産業地帯──と言っても規模は田舎の商店街並み──がある。
初めて見るものばかりで、目を輝かせながら物珍しそうに左右をきょろきょろと観察しながら歩いていたルゥは、ネロの匂いをはっきりと嗅ぎ取って歩みを速めた。
産業地帯の一角に建築予定の空き地があり、積み上げられた角材を椅子にネロが小さくなって座っていた。
「ネロ……」
ルゥはどう声を掛けたら良いのか悩み、結局恐る恐る名前を呼ぶだけになってしまった。
「別に、悲しんでなんかいないわよ」
抑揚のない平坦で無機質な声は言葉通り悲しんでいるわけではないようだが、感情がないわけではないとルゥは感じた。
「ただ……自分に苛ついたのよ」
そこでネロは顔を上げたが、相変わらず頭巾で表情は見えない。
ルゥはゆっくりと近付いて隣に腰掛けた。
何か言われるかな……と身構えていたが、特に何も言われることはなかったので、そのままネロが苛ついている理由を尋ねてみた。
「ルゥに、期待を持たせちゃったこと。彼女なら、大丈夫だって思っちゃったのよ。それでルゥに期待を持たせて、断られて、悲しい想いをさせて悪かったわ」
「僕は全然大丈夫だよ? それより、ネロは平気なの?」
「言ったでしょう。私は慣れているもの」
──だったら、エーテルに質問するときに手が震えていたのはなんで?
聞こうとした言葉を飲み込んだ。
本能的に、これは彼女の自尊心に関わることだとルゥは理解したのだった。
少しの静寂の後、ネロには見えていなくともニコニコした顔でルゥは言った。
「エーテルはねえ、精霊種族を嫌いなわけでも、憎んでるわけでもないと思うよ。ただ……えっと……なんて言えば良いんだろう? 難しいお年頃? なんだよ」
「……ふふっ。何よ、それ」
久しぶりに聞いたネロの笑い声に、ルゥの笑みは濃くなり外套の下の尻尾もゆらゆらと揺れだした。
「えへへへ……」
「気色悪い笑い方やめなさいよ、もう。……はぁ、なんか、お腹空いたわね」
「そうだよ! 朝ごはん! どうしよう? この時間だと、どこも開いてないよね?」
ようやく太陽の頭が見えてきた時間。
朝市が始まるのももう少し時間が掛かる。
食事処やその他の店は言わずもがなである。
ネロの鞄の中にも食料になるようなものは何も入っておらず、どうすることもできない。
「朝市が始まるまで待つ?」
「そうするしかないわね」
早朝の空き地でゆったりとした時間を過ごしていた二人だが、もうすぐ朝市が始まろうという時間に差し掛かったところで何事か争うような声が聞こえてきた。
「おい! そっちに行ったぞ!」
「逃すな!!」
「捕まえたぞ! こっちだ!」
どうやら男三人が誰かを追っていたらしい。
面倒ごとには巻き込まれたくないネロだったが、ルゥは追いかけられて捕まったのが女性だと匂いで判断し、勢いよく立ち上がって場所を特定するため顔を上に向けてネロを探したときと同様に鼻から空気を吸い込んだ。
「……近い。あっちだ!」
「ちょっとルゥ! 全く、厄介ごとを持ち込むのは相変わらずね」
場所を特定したルゥは一目散に駆け出し、おいてけぼりを食らったネロは肩を落としてため息をつきながらもルゥの後を追ったのだった。
今日中に投稿しきるのは無理なので、二回に分けさせていただきます。
申し訳ありません。
そしてエーテルさんは仲間になりませんでした……(´・ω・`)