4、優しい象と手のひら
全員が寝静まった夜も深い時間、のそのそと起き上がる影が一つ。
体を覆っていた外套が外れ月明かりに照らされた影は、赤茶色の髪と同系色の尖った耳、フサフサした尾を持つ狼の動物種族の青年ルゥ。
彼は、数時間前と同じように西の方角を懐かしそうに見つめていた。
焚き火の消えた極寒とも言える深夜だが、ルゥは寒そうにする素振りもなく、むしろ夜風を気持ち良さそうに感じて目を細めていた。
しばらくの間、星空と夜風の清浄な空気に包まれて心を落ち着かせていたルゥだが、背後で誰かが動く気配がして身体を緊張で強張らせた。しかし、それが嗅ぎ慣れた匂いではないと判断し、だったらまあ良いかと警戒を解いた。
「き、君……ずっと、起きていただろう?」
象の男はゆっくりと体を起こし、ルゥの隣に移動した。
「……なんで分かったの?」
「に、匂いで分かった。少し、き、緊張していただろう?」
「凄いね。みんなにバレないか、ちょっとドキドキしてたんだ」
悪戯っ子のような笑みでそう返したルゥは、徐々に眉尻を下げていった。
「この砂地を歩いているときに思い出したんだ。僕の故郷のこと。全部じゃないけど……。燃えて無くなったことだけは、はっきりと思い出した」
「か、悲しい……な……」
「……それは分からないんだ。真っ赤な炎が、僕を包んでる。けど、全然熱くない。それだけ」
サラサラとした砂を手にとって、風に攫わせる。
記憶の箱を開ける鍵は多すぎて、一つ開けたくらいでは己の感情さえも分からない。
あとどれだけの鍵があるのか、それも未知数……。
感情を抱けという方が難しいのかもしれない。
「火、火の精霊種族が少ないことに、き、君が関係していると彼女は思っているんだろう。君と、か、彼女は、似た匂いがする。獣じゃない、匂い」
「そんなことまで分かるの?」
「ふ、不安は多い。けど、君は一人じゃないだろう? 辛いこと、悲しいこと、思い出したこと。さ、さっきみたいに、吐き出した方がいい」
そう言って頭を撫でる男の手はどこまでも優しく、そして暖かかった。
──この撫で方、エーテルと似てる……。でも、大きい手が、彼女よりも落ち着く……。
心の底から湧き上がる覚えのない懐かしさに、ルゥの目からは涙が一筋、流れて落ちた。
「あれ? 僕、泣いてるの?」
「と、時には、泣くのも良い」
「……でも、ネロ、困らないかな?:
「彼女は大海の精霊だろう? う、受け止めるのは、息をするのと同じこと。彼女達も、皆優しい」
「……っありがとう。えっと……」
「お、俺の名前、は……タスカ」
「ありがとう、タスカ」
タスカに頭を撫でられながら、少しだけ静かに泣いたルゥは、また一つ記憶の箱を開ける鍵を見つけた。しかしそれは、他の物とは違って錆び付き、簡単には開けられそうにもなかった。
──懐かしい、大きい手のひら。彼の存在は、きっと今思い出しちゃダメなんだ。それでもいつか、思い出したら……ネロに聞いたら、ちゃんと教えてくれるかな……?
今となってはもう姿形も思い出せない人影の存在を、自分の手のひらに残った砂粒に投影しながら感慨に耽っていたルゥだったが、頭にあった温かみが離れたことでタスカの方へ意識を移した。
タスカはルゥの視線を感じ取って微笑んで見せると、ゆっくりと立ち上がって北の方角を向いた。
「か、風が変わった。俺、はもう行く。君達も、気を付けて……」
「行っちゃうの?」
「え、縁があれば、また……会える」
最後にもうひと撫でだけルゥの頭を撫でて行ったタスカは、鼻で大きく空気を吸い込んでから南へと歩き出した。
「……っ寒!」
急に夜風の冷たさを感じるようになったルゥは、燃え尽きて灰になった焚き木に新たな薪を足し、手を翳して火を点けた。それはルゥにとってはとても自然で、晶霊石を使わずに第三種族としての力を使ったことになんの違和感も感じることなく、炎の温もりと急いで羽織った外套の温もりに、先ほどまで頭を撫でてくれていた暖かさを思い出しながら眠りに就いたのだった。
ルゥの記憶の蓋が少し開きました。
トワイノースにはルゥの故郷があります。
今後の話で登場予定です。




