14、折り合い
霧が徐々に薄くなり、ぼんやりと誰かが立っているのが分かる。輪郭からして小さな少女のものではなく、大人の女性である。
やがて霧が晴れたその場所には、美しい青い女性が立っていた。
アイネやレイディとも違った美しいその女性は、ネロの面影を残しながらもより洗練された芸術品のようで、美人を見慣れていると思っていたルゥでも思わず息を飲んだ。
川の流れるが如く青く艶やかな髪は、胸元の長さから膝丈まで伸び、顔の輪郭もふっくらとした幼さないものからシュッとした大人の細さへ変わり、澄み渡った海のような瞳もいくばくかの凛々しさを帯びたものへと変化していた。
ネロが心配していた衣服については……足首まで覆う長さだった外套が今やスラリとした太ももが僅かに覗けるほどであり、少しでも動こうものなら際どい部分が見えてしまいそうなほど危うい丈になっていた。
本人が言ったように、大人の姿を保っていられたのはほんの一瞬のことだったが、動物種族としての優れた動体視力で全体像を把握したルゥは、こんがらがった記憶領域の中において鮮烈な記憶として刻み込まれたのだった。
──……あんまり考えすぎないようにしよう。ちょっと、いや、かなり恥ずかしいから……。
雄としての本能なのか、可愛いものや美しいものに自然と目が奪われ、意図せず記憶してしまうのだろうか。考えないようにしようと思っていてもネロの際どい姿が思い浮かんでは顔が熱くなり、尻尾も落ち着きがなくなってしまう。
「ふぅ……。今のが私が成長した姿よ」
元の姿に戻ったネロが衣服を整えながら、何事もなかったかのように声をかけてきた。
ルゥも彼女に倣い何事もなかったかのように答えたが、その実、未だに頭をチラつくネロの姿に揺れる尻尾と震える耳が何を意味しているのか追及されないかとヒヤヒヤしていたのだった。
「うん。凄く綺麗だった。アイネにもレイディにも負けないくらい美人だね」
「っあ、んたは……もう。相変わらずなんて言うか……もう…………」
後ろめたさに揺れる心と体を押さえながらも素直な褒め言葉を口にしたルゥだが、その効果は抜群だったようだ。
照れて顔を真っ赤に染め、いつもの歯に衣着せぬ物言いに怒るかと思いきや、次には顔を覆ってため息と共に色々な言葉を飲み込んだようだった。おかげでルゥは止まらない耳や尻尾からネロの注意を逸らし、落ち着かせる時間を稼ぐことができたのだった。
「はぁ……。それで?」
「え?」
「ルゥはこのまま一人で行くつもり?」
項垂れた状態のままでネロが聞いてきた。
表情を窺い知ることはできないが声音は真剣そのものであり、浮ついた心を沈めきるには十分だった。
恥ずかしい話だが、ルゥの本心は大人気ない言い方をして居た堪れなくなって逃げただけであり、本当に一人で進もうと思っているわけではなかった。誰かを褒める言葉がスラスラと出てくるように、ここで素直に「違う」と口にできればよかったのだが、どうにも意固地な部分が消えてくれずになんと答えるべきが迷ってしまう。
「はぁ……。マイムの我儘に苛立つのも無理ないけれど、ルゥはきちんと愛されていたわ」
見かねたネロが再びため息を吐いてから、ルゥに一歩近付いて話し始めた。
「昔も、今も。私やアイネ、口も悪いし冷たく見えるかも知れないけれどエルデだってそう。神様だって貴方を愛してるわ」
「俺を? サラマンダーじゃなくて?」
「アイネはどうか分からないけれど、間違いなく私はルゥとフーを別に見ているわよ」
──ネロは嘘つきだね。
ネロはルゥの中にサラマンダーを見ている。サラマンダーという家族を取り戻すために、ネロは辛い旅をしていると……。しかし、それと同時にルゥを大切にしてくれていると感じていることもまた事実。
悲しみと独占欲と、少しの嬉しさとくすぐったさを感じながらも、とりあえずは納得することにしたルゥは、久しぶりにルゥらしい笑顔を浮かべた。
それを見たネロの顔も懐かしい優しい笑みへと変わったのだった。
「なんなんですかー? 二人は愛し合っちゃってる感じですかー?」
「許さないぞ! ネロの隣に立つのはこの俺様だ!!」
「異種族は結ばれない運命」
「そう…………いいえ! 私は応援しますわ!」
ゆっくりと歩きながらこちらに近付いてくる『始まりの精霊種族』達は、ただ一人を除いてルゥとネロの不思議で歪な関係を否定した・
唯一応援するといったレイディは困惑しているルゥの両手を握りしめ、自らの考えと思いの丈を力説し始めた。
「異種族での恋愛が成立しないというのは時代遅れですわ! 私も長く生きてきましたが、時代とは移り変わるもの。昔はただただ煩いだけだったラウディに惹かれているのも、私がラウディと結ばれる運命だったからこその些細な障害ですわ! そもそも恋愛というものは障害があってこそですのよ。貴方も、今は辛いでしょうが耐えるのです」
暴走状態のレイディは、必死に隠していたラウディへの想い(本人は隠せていると思っているが、周知の事実である)を暴露しているのも気付かず、正午を過ぎて沈み行くだけの太陽を指差して尚も熱弁を振るう。
「そう! あの燃え盛る太陽の如き熱いをぶつけましょう! 強く願えば叶わぬ想いなどありませんわ! この世界に、異種族間の恋愛を、婚姻を、繁栄を願いましょう!!」
「あの……レイディ? 熱くなってるところ悪いんだけど、僕とネロはそういう関係じゃないよ? そうでしょ?」
「……そうね。私達は、家族……みたいなものよ」
歯切れ悪いネロの言い方に、すかさずルゥは「家族だよ」と言い切った・
──そう、俺はただ、この世界でも家族が欲しかったんだ。
愛されたかった。
──昔みたいに。
叱られたかった。
──あの時みたいに。
音にならない声で、優しかった家族の名前を呟いた。
──戻りたい、あの頃に。俺も、マイムみたいに……。
ルゥがマイムを嫌いな理由。
羨ましいという気持ち、無い物ねだり、羨望、やっかみ。そういう気持ちが抑えきれなかった。与えられているにも関わらずなおも求めることができる、年相応に振舞うことが許されるのが羨ましくて憎らしかったのである。
(子供時代があるだけマシだろう)
ふと、脳内にもう一人の自分の声が聞こえた気がした。
──サラマンダー?
しかしルゥが呼びかけても反応が返ってくることはなかった。
──……当たり前か。俺ってば何変なことしてるんだろう。でも、君は俺で、俺は君だ。別々になることはないから、俺の子供時代は君の子供時代でもあるんじゃないかな?
「あれれれー? 二人ともいい感じですねー。ラウディが入る隙間はなさそうですよー?」
「っおいお前! ネロから離れろよ!!」
考え事に没頭していただけのルゥだったが、どうやら側から見たらネロと見つめあっているように見えたらしい。
ネロもネロでルゥの口からはっきりと「家族」という言葉を聞いて嬉しかったようで、慈愛の表情でルゥを見つめていたらしく、ラウディの声でハッとしてすぐに視線を逸らしたのだった。
ラウディによって言葉だけでなく物理的にもネロと引き剥がされたルゥは、自分の中で折り合いを付けるように一つ頷いてニッコリと笑った。
「戻ろうか、みんなのところに」
清々しく言い切ったルゥに『始まりの精霊種族』は面食らったようだった。
確かにルゥは「先に行く」と言って離れていった。彼女達からすれば元の場所に戻ろうがこのまま進もうが、結局はネロと共に行くという選択肢しかない。
エレメステイルから離れたことがない彼女達にとってネロは命綱に等しい存在である。
ルルディとリバディはネロの先導のもとエレメステイルを出た。レイディとラウディはそんな二人の気配を追ってエレメステイルを出てきた。これだけでも結構な労力であるが、問題は戻る時である。
ウンディーネであるネロがいなければエレメステイルに戻ることができない。アイネでも可能かもしれないが、行きと帰りで道が違うと浪費する力も大きくなる。せっかく通り道が作られているのに、わざわざ手間暇かけて一から道を作る人はいないだろう。それと同じである。
「え……。ここまできたルル達って……」
「無駄だった」
「リバちゃん、分かってても口にしないでほしいなー」
カザミ達がいる場所からここまで大した距離ではないが、面倒臭がりで自分の楽しいことしか基本的にしたくない彼女達の疲労は大きかった。
「戻るのか?! 全く、お前のせいで無駄足を踏んだぞ!」
「確かに無駄に疲れましたが、愛の前には必要な障害ですわ!」
レイディが変な方向へ吹っ切れ始めてしまったが、やる気のなくなった他の『始まりの精霊種族』達3人を横目に、ルゥは元気よく来た道を戻るため先行するのであった。