1、痛み
ケイナンを出発してから五日が経った。
小さな村もなく、ほとんど歩きっぱなしの二人の表情は相当疲れていた。とりわけ、食料確保をできないままケイナンを出発してしまったため水の消費が激しく、ネロの精霊種族としての力を使って水袋に水を補給する回数が明らかに多くなり、結果彼女の疲労はピークに達していた。
「ネロ、大丈夫?」
「……ん。へい……き」
息も切れ切れで他人の支えがないとまともに歩けない状態のネロに、分かり切ったことを聞いてしまった自分を殴りつけたくなったルゥだった。
──早く、ネロをちゃんと休ませてあげなきゃ。
そう思うルゥだったが、歩けども歩けども家の一軒や動物の一匹、木の一本すら生えていない広い平原地帯に、ついに心が折れて歩みを止めてしまった。
「ごめん、ネロ。ちょっと休もう?」
「……ええ」
喋るのが辛いのか、吐息に近い返事だった。
負担を掛けないようにゆっくりと腰を下ろし、自らの体に寄り掛からせるように位置を落ち着ける。普段は自分でなんでも熟し、ルゥに頼るということをしないネロが今だけは体重を預け、介護される形になっていた。
早くなんとかしなければ──と気持ちばかりが先走ってしまう。
真上で燦々と輝く太陽を恨めしく思いながらも大きく深呼吸をして気持ちを落ち着けたルゥは、自分に寄り掛かっていたネロの体を少し浮かせて立ち上がり、足に寄り掛からせると邪魔なマントを脱いで腰に巻き付けた。
「ネロ、僕の背中に乗って。歩くよりは楽だと思う。なるべく揺らさないようにするから」
ネロは少し考えるそぶりをした後、ルゥに向かって両手を伸ばしてきた。
普段の彼女だったら、背中に乗るよう提案しただけで「そんなことできるわけないでしょ!」と照れて怒鳴っていたところだろうが、甘えるように両手を差し出してきたことで内心がっかりしたような、どこか得したような変な気分になってしまったルゥだった。
そんな変態のようなことを考えていたルゥだったが、ネロを背負って立ち上がったとき風に乗って運ばれてきた美味しそうな匂いに、変な思考はどこかへ吹き飛んだ。
──近い……? ううん。少し距離がある。けど、確実に家がある!
鼻を上へと向けて匂いの元を正確に把握する。
若干距離はあるが、走れば三十分もしないでたどり着けると弾き出した答えに、逸る気持ちを押さえつけてネロを揺らさないよう慎重に足を進める。
やがて、粗末な家が点在する小さな村にたどり着いた。
雑多郡と呼ばれる、動物種族がややこしい理由や譲れない拘りから独自に集まり生活を営んでいる、集落に近いものである。
地元でジュームと呼ばれているこの雑多郡は、草食動物のみが集まり自給自足をしていた。
ルゥはすぐ近くの家の扉を叩くと、穏やかな表情の牛の老爺が出てきた。
旅人の訪問に慣れているのか、ルゥの姿を見ても嫌な顔一つすることなく「食料でも尽きましたかな?」とこちらの要求を先に言い当てたのだった。
「っはい! 少しでいいので、分けてもらえると助かります!」
「良いですとも。あちらから来たということは、カジュカへ向かうのでしょうな。あそこまではまだ距離がありますから……」
そこまで言ったところで、老爺の視線がルゥの後ろでぐったりしているネロに固定された。
「そちらはお連れの方ですか?」
「はい。彼女が倒れてしまって……」
「妹さんかね?」
「いえ、彼女は……旅の仲間です」
ルゥは少し悩んで血縁関係を否定した。
その答えを聞いた老爺は、今までの穏やかな視線を鋭くして、こう聞いてきた。
「何の動物種族だ? いや、もしかして……精霊種族か?」
反精霊種族派はどこにでも居る。いや、こういう地図にも載っていないような小さな集まりにこそ彼らは居る確率が高い。
そのことを瞬時に悟ったルゥは、ネロのことを誤魔化そうと必死に言い訳を考えるが、考えを巡らせる前に老爺の罵声が飛んで来た。
「誤魔化そうったってそうはいかねえ! 青い髪の動物種族なんて鳥しかおらん。その彼らは羽を抑えられるのを嫌い、外套を羽織ることはない! ハッ。卑しい精霊に魅入られたか、はぐれ狼が!! お前のような裏切り者がいるから奴らは付け上がるんだ! 出て行け! ここから一刻も早く! そして二度とこの土地に足を踏み入れるな!!!」
手近にあったのがそれだったのか、小型の花瓶を投げ付けられ、ルゥは額に当たり傷を負った。
小さいゆえに強度が高く、花瓶は砕けることなく水を撒き散らしてそのまま地面へと落ちた。
浴びせられる暴言と暴力。頭から滴る水と、花の匂いに混じって血の匂いが漂ってくるこの現状に思考がついていかず呆然としているルゥに、老爺はさらに追い打ちを掛けてくる。
「早く出て行け! おい、皆の者! ここに悪魔に魅入られた裏切り者がいるぞ!」
箒を振り上げながら声高に叫ぶ老爺にルゥは急いで踵を返して雑多群ジュームを後にしようと歩みを進めるが、老爺の声に呼び寄せられた人々に手当たり次第に物を投げつけられ、ついには後ろから小さいうめき声が聞こえてきて足を止めた。
「早く出て行け!」
「動物種族の裏切り者が!」
良い的だと言わんばかりに絶え間なく投げつけられる石や小物に、ルゥは震える声を悟られないように拳を強く握りしめて囁いた。
「……ネロ、ごめん。ちょっと揺れるけど我慢してね」
「……ん」
食器が砕けようとも、投げる物が無くなって攻撃力のない衣服や布製品すら手当たり次第お構い無しに投げつけてくる住民達の怒りの排斥行為を身体で受けながらネロを前へと抱え直し、呼吸を整えて一気にジュームを駆け抜けた。
狼の最高速度は時速70キロメートル。
最高速度を保ったまま20分は走り続けられる狼は、速度を落とせば7時間以上は走り続けられるとされている。
普通の狼より身体能力の劣る狼の動物種族だが、ルゥは何かを振り切るように最高速度を保ったまま10分ほど走り続け、次の目的地であるカジュカから少し道を逸れた林へとたどり着いた。
フラフラする足を気力で支えながらゆっくりと速度を落とし、森の奥へと分け入っていく。
途中で見つけたヤマモモと野いちごが群生している場所にひとまず腰を落ち着けようとネロを木の幹にもたれ掛からせた。
「ネロ、野いちごだよ。食べれそう?」
「う、ん……」
採ったばかりの野いちごを差し出すと、緩慢な動作で受け取って少しずつ口に入れて咀嚼した。
どうやら食べる元気はあるようで一安心したルゥは、自分もヤマモモを口にした。
「美味しい……」
久しぶりの美味しい食事に、思わず涙を流したルゥだった。
「ルゥ、泣いて、るの……?」
「大丈夫。大丈夫だよ、ネロ。それより、まだいっぱいあるから、どんどん食べて、早く元気になってよ」
「うん」
弱々しくも笑顔を返せるまでになったネロだが、まだ立ち上がって歩くようになるまではしばらく時間が掛かりそうだった。
彼女が動けるようになるまで、ルゥが気力を取り戻すまで、どのくらいの日数をこの林の中で過ごすのか見通しの立たない不安の中、二人は食事もそこそこに身体を休めるため眠りに就いた。
二つ目の場所はゆっくりする間もなく旅立ちました。
今後もちょくちょく出てくる雑多群ですが、戸数としては多くても十戸くらいの想像です。
住居も1Rや1Kが殆どですね。
本文でも説明したように反精霊種族派という精霊種族を嫌っている住人しかいません。
今後も利用する予定なのに、どうするんだろう……。