また会う日を楽しみに
彼岸花の花言葉『また会う日を楽しみに』『×××××××』
「ようやくここまでたどり着いたよ」
老いた男は孤独に呟いた。彼は今、平らな世界の中心に立っている。周りのどこを見ても一面荒野なその場所で、彼は満足そうに微笑んでいた。
「これでやっとまた君に会える」
男は誉れ高そうに両手でナイフを掲げ、刃先を首に向けた。視界の先には真っ赤な太陽。異世界の太陽は丁度天の真上に座しており、これから男がやろうとしていることに丁度いい。
「君の世界を人で満ちさせよう。そうすれば君は蘇るんだ…リコリス」
男は愛する女の名前を告げ、安らかな表情のまま掲げたナイフを首に突き刺した。
赤い血が、世界に満ちる。
*** ***
「お前は役立たずだ。だから死んでくれ」
「う、うわぁぁぁぁぁぁ!」
トン、と手で押される。セイシの体はグラリと傾き、後ろにある真っ黒な大穴に落ちていく。
どうしてこうなった?セイシは視界に広がる青空を見ながら自問する。その答えはすぐに出た。
(俺が無能だったから。チートを持っていなくて邪魔だったから。逃げ出したから。だからこんな目に合わされたんだ)
ある日他愛もない日常を過ごしていたら、突然教室に魔法陣が広がってまばゆい光に包まれた。光が消えたらそこは異世界の王宮だった。現実にはありえなくとも、作り話ならばよくある展開。ありふれたお伽噺だ。
その後、王族たちから世界の危機と呼び出された理由を聞き、驚きと先の知れぬ恐怖の中、他のクラスメイトたちが「炎を自在に操れる能力」や「どんなものにでもふれることのできる能力」など多種多様なチート能力を発現させる中、自分だけが何のチートも得られない落ちこぼれだった。これも手垢のついた展開だ。
(でも、でもだからって俺を殺すことはないじゃないか!)
きっと王宮の人間はセイシに優しく接していたのだろう。少なくとも彼らの中ではそうだった。異世界から拉致のように連れてきて、しかも恩恵として得られるはずのチート能力すら与えることができなかったのだ。
王も王女も王子も皆誠実そうな人に見えた。誠実な人達だった。けれどそれ以上に追い詰められていた。異世界からどこの誰とも知れぬ者を呼び出して、魔王と戦わせようとするくらいには、彼らの視野は狭くなっていた。
王宮の人間はセイシに過酷な訓練を与えた。他の召喚者たちがぬくぬくとした生活を送り、じっくりとチート能力を鍛えている中、セイシだけは本職の騎士にも劣らぬ訓練を強いられた。
何度も蹴り倒され、罵倒され、苦痛に涙を流す日々。初めて剣を持った時は命を奪うことの恐ろしさに恐怖し、魔物を殺した時は気分が悪くなった。罪人を殺した時は吐いて、吐いて、その日一日食事がのどを通らないありさまだった。
それは生きるため。戦うための力を一切持たないセイシを異世界で生きていけるためのことだった。あるいは眠ったままかもしれないチート能力を目覚めさせるためか。
しかし現代日本で恵まれた生活をしてきたセイシには、そんな過酷な戦士の生活は到底耐えられるものではなかった。
だから逃げた。そしてすぐ捕まった。そこには思いの行き違いがあって、価値観の違いがあった。セイシにしてみれば過酷な生活に耐えかねて逃げ出しただけ。しかし王城の人間にとって、恩をあだで返す非道な行為だった。
その結果がこれ。セイシは処罰を受けた。それでもまだこの殺し方は慈悲深いものだったのだろう。セイシが落ちたのは生者の世界と死者の世界をつなぐ穴。そこに落ちた者は眠るように死に、魂を霧散させる。
それに逃げ出せていたとしても、外の世界は魔物が跋扈する無法地帯。剣を少しかじっただけのセイシでは、数日ともたずに死んでいたことだろう。
だからこれは慈悲。せめて苦しまずに殺してやろうという王家のくそったれな優しさだ。遠のく青空の端にセイシをつき落とした兵士の姿が見えた。彼の口が小さく動く。
すまない。彼はそう言った気がした。ふざけるなよ。そう思った意識は穴に吸いこまれるように消滅する。
*
と、思っていた。
「あれ…?」
冷たい空気を感じて目を開ける。セイシは生きていた。どうして?その疑問が頭に満ちる。自分は穴に落ちて死んだはず。なのになぜまだ生きているのか。
セイシは起き上がり、周りを見る。真っ暗だ。確かにセイシは息をして、立って歩くことができる。
だがいくら目をこらしても何も見えない。耳を澄ましても物音一つしない。
「ここが死後の世界…なのか?」
呟いた声は耳で聞き取ることができた。ならこの体は死んで霊体になったわけではない。
「…〈燃えよ〉」
確認のために、セイシは騎士団で訓練を受けていた時に覚えさせられた火を起こす魔法を使う。かざした手の平の上に生まれる小さな火の玉。その明かりに照らされて、周囲の光景が浮かび上がる。
(あの訓練の日々も無駄じゃなかった…)
ひそかに感動しながら、セイシはようやく周りの状況を知ることができた。どうやらセイシは光の届かない洞窟の中にいるらしい。淡い光に照らされた洞窟の足元は薄い青色で、上を見上げても光は見えない。周囲を見ても壁らしきものは見つからない。
「どんだけ深いところまで落とされたんだ…」
常識的に考えれば、セイシはあの大穴の下にいるはず。なのに上を見ても光はない。つまりセイシは恐ろしく深いところまで落ちてしまったということだ。
「なのになんで俺は生きてるんだ…?」
だからこそ浮かぶ疑問。生者と死者をつなぐ大穴に落ちても生きているのはなぜか。墜落の衝撃で体がミンチになっていないのはなぜか。そして本当に落ちた大穴が生者を死者に変える力があるなら、セイシが死んでいないのはなぜか。
分からないことは多いが、ここに立ち止まっていてもしょうがない。どこかへ向かって歩き出そう。そう決意したセイシの真上に、フワリとした「何か」が降りてきた。
「はっ?なんだこれ…人魂?」
セイシがそう思わず言ってしまうのも無理はない。上から降って来て、今セイシの目の前にあるのはフヨフヨと浮かぶ青白い揺らめき。まさしく人魂と言われて連想する形そのものだ。
人魂は上からフヨフヨ落ちてきて、そのままある方向に向かって進んでいった。セイシはいくらかのためらいの後、人魂を追うためにセイシは洞窟の奥へと踏み出していった。
*
暗闇の洞窟を小さな人魂に導かれて進む。少ない魔力を節約するために、セイシはすでに火を生み出す魔法を解除していた。
光の射さない洞窟で、唯一の光源は前にある人魂だけ。どれほど歩いたことだろう。まるで暗幕を抜けたかのように、セイシの目の前に光が満ちた。
「うっ…」
セイシは思わず目を押さえる。久方ぶりの光は彼の目を白く焼き、しばらくすると正常な視界が返ってきた。覆っていた手を元に戻すと、セイシは目を見張った。
「なんだここ…」
セイシの眼前に広がっていたのは白と赤。二色で満ちた花畑だった。
セイシが立っているのはどこまでも真っ白な世界。空は白く、広がる果てもまた白。のっぺりとした生きた感じのしない白だ。
そしてそれとは対照的に、セイシの足元には目が痛いくらいの赤が広がっている。不気味さを感じさせる細く伸びた花弁。それを支える長い茎。痛々しいくらい生に溢れたその花を、セイシはよく知っている。
「彼岸花だ…」
そう、彼の足元に広がっている花はセイシが日本にいた頃によく見ていた花、彼岸花だった。違いは日本の彼岸花は茎が緑だが、ここの彼岸花は茎まで痛々しいくらいの赤だということ。
セイシはその光景にしばし言葉を失う。生を感じさせない白と生に満ちた赤。対極に存在する二つはこの空間にあって、奇妙な調和を生み出していた。
その間、人魂が困惑するセイシに構うはずもなく、人魂はフヨフヨと辺りを飛び回りフッと消えてしまった。
カサリと、人魂の真下にあった花が揺れた。
「あっ…」
得体も知れない場所で道しるべを失い、焦りが胸の中に広がり始める。
「ど、どうすれば…」
ここはどこで自分は今からどうすれば。恐怖に顏を歪めたセイシは目を左右に泳がせる。すると赤い彼岸花で埋めつくされた地面の中に、白い何かを見つけた。
「これは…」
すがるものをなくしたセイシは一縷の望みにすがって赤の中の白に向かう。その正体を見て、セイシは息を飲んだ。
「女の子…?」
そこにいたのは一人の少女だった。目を離せば掻き消えてしまいそうなくらい存在感の薄い彼女。だがその少女はとても美しかった。
眠っている少女が身につけているのは染み一つない白のワンピース。そこから伸びる手足もまた瑞々しい白。装飾のないワンピースに遮られた胸はゆっくりと上下していて、少女が生きてここにある存在であることを伝えている。
白に彩られた彼女だが、ある一点だけ白ではないところがある。髪だ。彼女の髪は燃えるような赤。色鮮やかで、けれど生を感じさせない赤色をしていた。
再び言葉を失ったセイシが呆然として少女を眺めていると、少女がゆっくりと目を開いた。彼女はしなやかな腕で体を持ち上げて、眠たげに瞼をこすっている。
「あの…」
「ふぁ…」
とても眠そうにあくびをして、ポーッとした顔のまま少女はフラフラと視線を動かす。そしてその真赤な目がセイシの姿を捉えた瞬間。
「え…」
少女は突然、声も出さずに泣き始めた。
*
「ご、ごめんなさい。誰かと話せる機会なんて本当に久しぶりで」
少女が泣き止んで、話ができるようになるまで一時間はかかった。その間はセイシにできたことは、おろおろとすることだけで無用な疲れを感じてしまった。
「そ、そうなんだ」
「うん。それであなたは…」
少女はセイシをじっと見つめる。セイシは少女の赤い鏡のような瞳に映った自分の姿を見てドキリとする。
非現実的な世界に、美しい少女と平凡なみてくれの自分。セイシはこの場において明らかに場違いに思えた。
「そっか。変なの」
「何が?」
しばらくセイシを見つめて、少女は納得したように頬を緩める。同時に、少女は落胆した様子で目線を下に落とした。
「あなたは死んでないの。生きてる」
「生きてる?」
「そう。あなたはここにどうやって来たの?」
「どうやって?それは…落とされたんだ」
「生きたまま?」
「うん」
「やっぱり…」
少女はセイシにぎこちない笑みを作る。その笑みはまるで人と接したことのない、幼子のように見えた。
「あなたは生と死。二つの世界をまたいだ。生き物が生と死の世界を渡る時、命を失うはず。でもあなたは命を二つ持ってた。だからあなたは生きたままここにいる」
命を二つ持っていた。セイシには身に覚えがなかった。セイシは異世界から召喚されたただの日本人で、命をいくつも持っているような人間では…。
「あっ」
そこで思い至る。いくら探しても見つからなかったセイシのチート能力。それこそが複数の命を得ることではないかと。
「命を二つ持っている。それが俺のチート能力だったのか…」
「ちーと?」
「あ、あぁ、それが…」
小首を傾げる少女にセイシは自分がここまで来た経緯を話した。少女は興味深そうにセイシの話を聞いていたが、セイシが軍から逃亡し、大穴に落とされた話を聞いてから、目に涙を浮かべてしまった。
「ひどい…そんなことがあったなんて」
「なぁ、ここはどこなんだ?」
目から涙をポロポロ零す少女だが、セイシの方はよく考えれば何も事態は変わっていない。正体不明の少女に成行きを話して大泣きされだだけだ。誰にも話せなかった苦しみを理解してくれた喜びで、セイシの胸はドキンと跳ねたが、まだセイシはここがどこで、少女が何者なのかも分かっていない。
「ひっく。ここ?ここは『煉獄』。生者の世界と死者の世界の狭間にある世界」
「煉獄?」
少女はコクリとうなずいた。そして目尻の涙をぬぐって、目線を地面に広がる彼岸花に向ける。
「そう。煉獄は生者が死者の国に行く時に必ず通る場所。人は死んだらここに来て一度花になる」
「ならこの花は皆…」
「死んで死者の国に行くのを待っている魂」
足元に広がる花が皆死者だと思うと、途端に気味が悪く思える。それが表情に出たのだろう。少女は悲しそうな顔をした。
「そんな顔しないでほしい。人は皆死ぬもの。怖がらないで」
「そうは言っても…」
正体を知ってしまえば恐ろしいことに変わりはない。だがふと気づいた。
(待てよ。この花一本一本が死んだ人って言うなら、どれだけの人が)
どこまでも広がる彼岸花の花畑。その全てが死者というなら、人はどれほど死んでいるのか。
「最近、死者が増えた。死者の世界は一杯一杯。だから煉獄に魂が集まるし、『私』が出てこられた」
「どういうことだよ」
セイシの問いに、少女はそっと目を伏せる。
「私は煉獄を管理する存在。煉獄に魂が満ちた時、私はここに現れる。飽和する魂が死者の世界に滞りなく行けるように見張る存在が私」
「ならあんたは…」
「多分…あなたたちがいうところの神様。あなたたちが思うよりもずっと弱くて、儚い存在だけど」
一歩、また一歩と少女はセイシに近づく。足元に生える彼岸花は少女の歩みを遮ることはなく、わずかに揺れることもない。
「ちょ…」
少女は一体何をするつもりなのか。たじろぐセイシに少女は手を伸ばす。
少女の手がセイシの間近まで迫る。もう少女の手とセイシの体は触れる寸前だ。少女が皿に手を伸ばした。けれど、少女はセイシに触れることはなく、少女の手はセイシの体をすり抜けた。
「え…」
「私は通り道の神様。そしてあなたは通り道に彷徨い込んでしまった生者。ここに咲く花はすべからく死者」
すり抜けた手をそのままに、存在が希薄な少女は囁くようにして言った。
「生者は私に触れない。死者は私に触れない。私に触れられるのは生者でも、死者でもない人だけ。生者であり、死者でもある人だけ」
それでも話はできる。それだけで私は嬉しい。そんな孤独な少女の言葉が、不思議と高鳴るセイシの胸に落ちて溶けていった。
*
生者は死ねば、その命を引き換えに死者の世界へと渡る。煉獄はその通り道。死者は死者の国で転生し、新しい命を持って生者の世界に還っていくらしい。
そしてセイシのチート能力は「命のストック」。殺した命も数だけセイシは死ぬことができる。命の通り道を司る少女がセイシを見て、初めて知った。
セイシは生前(?)、一度だけ人を殺したことがある。罪人の処刑だ。そのおかげでセイシは生者のまま煉獄の中に入ることができた。
「死者は大体形のない人魂になってここに来るから」
とは少女の言だ。死者の魂は穴に落ちて煉獄で花になるが、セイシが始め見たような半実体の人魂として来ることは稀なのだそうだ。
大抵の死者はよく見てもわからないほどの欠片の形で煉獄に来る。人魂ほどの大きさということは、魂の大きい、つまり偉大な人物であったということなのだそうだ。
「あんたが生まれたのはいつの頃なんだ?」
「今の私が生まれたのは大体100年前」
命を対価にすれば、煉獄から生者の世界に戻ることはできる。だがセイシが殺した人間の数は一人。無理に戻ろうとしても、死者として生者の世界に帰ってくるだけだ。
やむなく、セイシは少女と共に煉獄で暮らすことにした。そこで始めに困ったのが名前である。
「私には名前がない。つけてくれる人がいなかったし、その必要もなかった」
少女は生者の世界で人が大量に死に、煉獄に死者の魂が満ちた時にのみ顕現する神だ。人が大量に死ぬ。それこそ魔王が生まれた時くらいしか存在できない。
そして煉獄に彼女以外に言葉を交わせる者はいなかった。自我を保ったまま煉獄にたどり着いた人間など、セイシが初めてだったから。
「私は魔王が立って人の死が増える時に生まれて、魔王が斃れて人の死がなくなるとともに消えゆく神。私はこの煉獄で、何度も違う私として生死を重ねているの。生者の世界や死者の世界にも神はいるし、それらの神はよく知られているから名前もあるし、信仰もされている。でも誰も私のことを知らないから。だから私に名前がないのは当然」
「でも名前がないと不便だろ」
「…かもしれない」
クスリと少女が笑う。セイシが煉獄に来て数日あまり。とはいえ天に広がる白と地に広がる彼岸花だらけで変化のない世界だ。いずれ時間の感覚もあいまいになるだろう。
それを考えれば自分が生まれてどれくらい経ったかを言える少女の感覚は人並み外れていることが分かる。
孤独な少女は「名前、名前」と呟いた後、セイシにねだった。
「ねぇセイシ。あなたが私に名前をつけて」
「俺が?」
「うん」
少女の赤い目は期待に満ちていて、断りづらい。少女自身は無垢な性格で、どんな名前でも喜んでくれそうだが、おかしな名前をつけることもできず、セイシはうんうん言いながら頭を抱える。
(名前か…)
白い肌に白い服。背丈は小柄な少女のそれで、髪と瞳は赤。シロ。チビ。アカ…ろくな名前が思いつかない。
困り切ったセイシは目線を少女から外して下を見る。見えたのは一面に広がる彼岸花。茎から花に至るまで赤で彩られた花だ。
ふと、セイシは暇つぶしに読んだ植物事典の内容を思い出す。
「リコリス」
「ん?」
「あんたの名前。リコリスでどう?」
彼岸花の別称は確かリコリスだったはず。別の植物と名前が混同されやすいと書いてあったからたまたま記憶に残っていた。
少なくともシロやらチビよりはずっといい名前だろう。それに名前の響きもいい。そんな思いを秘めた名前だったが、少女は何度もその名を唱えて微笑みを浮かべた。
「ありがとうセイシ。リコリス。これが今日からの私の名前」
少女―リコリスの言葉に、セイシもまた微笑んだ。
*** ***
それから二人だけの長い時があった。寝ても覚めてもあるのは白の世界と赤い彼岸花。変化のない世界で、セイシとリコリスだけが絶え間ないお話に興じた。
セイシは生者で、リコリスは人ならざる者。互いに伸ばした手は届かない。けれど二人はそれで良かった。
体を重ねることはできなくとも、言葉を重ねることはできる。そして言葉を重ねることができれば、心を重ねることができる。
あるいは二人以外誰もいない世界。そんな環境が想いを育てたこともあったかもしれない。けれど、互いを思いやるその心は確かに本物だった。
果てのない世界で、時間だけはたっぷりあったから、セイシとリコリスは長いお伽噺を作った。ある時は悪い王子様に狙われた心優しい魔女の話を。またある時は苦難の道のりを進む英雄の話を。
セイシの知る話をアレンジしたものから、空想から生み出したオリジナルの話まで。ざっくばらんで取り留めも、テーマもない話の数々。でもただ一つ共通点があった。
「物語の終わりはハッピーエンドで」
不幸な終わりは嫌いだ。だから主人公はどれほど不幸にまみれ、苦しみに溺れていても最後には必ず幸せになって終わる。
そんな話を、二人は紡ぎ続けた。
「リコリス」
「セイシ」
二人が名前を呼ぶほどに想いは深まる。気づけば召喚されて摩耗していたセイシの心は癒え、リコリスの孤独も埋められていった。互いの存在が、互いの傷と欠落を埋めたのだ。
セイシもリコリスも、今が永遠に続けばいいと思っていた。二人きりの世界で、永久に他愛のないお話を続けられたら。セイシは生者の世界に還りたいとは思わなかったし、リコリスもセイシと共にある世界の存続を望んだ。
けれどそれは叶わない。二人の世界は当たり前のように終わりを迎える。
始めは無限にあるように見えた彼岸花が減ったことから始まった。果てまであった赤色が薄れ、次第に白に埋もれていく。
「魔王が斃れそうなのね」
リコリスが言った。
「セイシが言っていた召喚者。その人たちが矢面に立って魔王の力を削いでいるんだわ。だから死者が減って煉獄が縮まってる」
「縮まってる?」
セイシは首を傾げる。
「煉獄は生者と死者の通り道で待合所。死者が減れば煉獄は必要ない。だから死者が減れば減るほど煉獄も小さくなる」
「小さくなったら、最後にはどうなるんだ?」
「始めに言った通り。私も消えるわ」
セイシがハッと息を飲む。目に浮かぶのは恐怖。長い時間の中、セイシの中でリコリスの存在は何よりも大きくなっていった。
そのリコリスが消えてしまう。それほど悲しいことはない。
リコリスもまた、目に悲しみを浮かべていた。セイシと出会う前なら常のことと思えたが、セイシと出会い、無為の時を過ごす少女ではなく、セイシと心を重ねたリコリスにとっては、その事実は悲しみを抱かせるものだった。
「悲しまないで」
けれどリコリスは神だ。彼女は微笑み、セイシに手を伸ばす。その手がセイシに触れることは叶わない。しかしセイシはリコリスの手の温もりを心で感じることができた。
「どうして…」
「物語はハッピーエンドで終わらないといけないんだよ。煉獄があるということは、人がいっぱい死ぬ不幸があるということ。だから煉獄がなくなることはいいことなの」
語るリコリスはもはや無垢な少女ではない。人とふれあうことの喜びを知った女だ。だからこそ、リコリスの言葉には重みがあった。
「魔王が斃れれば、ほどなく煉獄は閉じて私はまた眠りにつく。次に目覚める時は魔王が立って人がたくさん死んだ時。でもそれって幸せではないのでしょう?」
リコリスは悠久の時を一人で過ごすことの辛さを知っている。その辛さは人を知ったリコリスであるからこそ、より強く知れることだ。
それでもなお、リコリスは知りもしない人の幸福な結末を望むのだ。
「…」
リコリスの想いを知って、セイシは口を閉じるしかなかった。
*
煉獄は日を追うごとに小さくなっていった。セイシとリコリスは努めていつも通りであろうとした。
いつものように眠り、目覚めて、力尽きるまで言葉を交わして物語を紡ぐ。それは花畑が縮まり、小さな公園くらいになるまで続いた。
「もうすぐ、私は消えるね…」
寂しそうに、リコリスは呟く。セイシはそれに答える言葉をもたない。消えないでほしい.ずっと一緒にいてほしい。
でもそれはできない。方法がない。
セイシは涙を飲んで、別れの時までリコリスと思い出を作るしかない。
「でもそれだとセイシが一人ぼっちになっちゃうね」
だから…と、内緒話をするように、リコリスはセイシの耳元であることを囁いた。
「それは…」
「うん。だから…」
「俺は死にたくない。死にたくねぇんだよぉ!」
別れの時は彼らが思うよりも早く訪れた。リコリスが自身の秘密を告げた翌日。煉獄に一人の男が現れた。
黒髪黒目の立派な鎧を着た男。彼は間違いなく死者だった。だが彼は生者のように実体を伴って煉獄に存在した。
「お前は…」
セイシは驚愕の呟きを唱える。セイシは彼のことを知っていた。なにせ元クラスメイト。セイシと同じく異世界から召喚された者の一人だったからだ。
男は魔王との戦いで死んだのだろうか。胸に真っ黒な穴を空けていた。それ以外にも、全身に大小さまざまな傷を残していた。
男は煉獄の花畑で悲痛な絶叫を上げる。そしてそばにいたリコリスに目を向けた。
「お前は…神か?」
「…あなたは私が見えるの?」
「答えろ!」
「止めろ!」
リコリスの問いに男は逆上したようで、顔を真っ赤にしてリコリスに手を伸ばす。セイシは男を止めようと声を上げたが、男にはセイシの声が聞こえていなかった。
…生者と死者。それは本来重なることのない存在だ。死者には生者の姿が見えないし、生者にも死者の姿を視認することはできない。
セイシが男の姿を認識できるのは、彼が命にまつわる異能を持っているからであり、長い時間を煉獄の中で過ごしたからだ。
セイシの手は果たしてリコリスに伸ばされたのか、それとも男にだったのか。分かるのは一つ。
ポキン。
「あっ…」
「嘘だ…」
セイシの伸ばした手は誰にも届かない。あっけないほど簡単に、男の手はリコリスに触れ、彼女の細い首を折った。
*
目の前の光景を信じたくない。けれど信じざるをえない。
「やった。やったぞ。これで、これで俺は…」
男は死んだリコリスの前で狂気の笑みを浮かべている。彼の中にあるのは死にたくないという妄執のみ。その妄執でリコリスは殺された。
そんな醜悪な願望でリコリスは殺された。
呆然としながらも、セイシの頭はうなりを上げて回転する。そこにリコリスを殺した男への憎悪はない。リコリスが、己の半身が死んだ時セイシの心もまた死んだ。心の死んだセイシは「これからどうするか」を思考する。
どうしてリコリスに男が触れられたのか。リコリスとの間に紡いだ膨大な記憶に埋もれて消えそうだった記憶が蘇る。
(そうだ。思い出した。こいつの異能…チート能力は)
どんなものに触れられる異能。ならば。
「俺だってお前に触れられるよな」
男はセイシの存在に気づいていない。そしてリコリスを殺したことに酔っている。隙だらけだ。
死者を殺すことは誰にもできない。しかしセイシは本能に近い部分で死者の殺し方を知っていた。セイシは男の胸に空いた大穴に手を突っ込む。
「あぎっ…」
「消えろ」
セイシは男の胸から壊れた心臓を掴み取り、握り潰す。死者の魂はその身の中心に宿る。男のこの壊れた心臓が、男の魂だった。
セイシの虚ろな光を宿した瞳で男の魂が消滅したことを確認する。男の命がセイシに入り込むことはなかった。
(当たり前か。こいつはもう死んでるんだから)
セイシのチートは命のストック。それはつまり魂ごと相手の命を取り込むことに他ならない。それはすなわち魂へ干渉するということ。ならば命のない、魂しか持たない死者でも殺すことができる。
リコリスから聞いていたセイシのチート能力。練習もなしに土壇場で成功させたことへの喜びはない。セイシの意識はすでにリコリスに向かっていた。
「リコリス…」
「セイシ」
首を不自然に折れた状態のまま、リコリスはセイシを見て微笑んだ。リコリスは死んでいる。首が折られて死んでいる。けれどリコリスは『煉獄』の神。生者でもあり、死者でもある存在。
リコリスは死者に触れられて殺された。死者であるリコリスが殺された。あくまでリコリスを構成する存在の半分を殺されただけ。だがそれは確かな半分だ。
もうリコリスには幾何の時間も残されていない。
「ごめん。終わりが早まった。だから…」
「分かった」
セイシはリコリスに向かって手を伸ばす。煉獄に広がる彼岸花が散っていくのが視界の端に見える。
リコリスの死も近い。だから早くしないといけない。
セイシは震える手をリコリスの胸の上にかざした。やっぱり、セイシとリコリスが触れあうことはない。けれど。
セイシはリコリスの心臓を掴む動作をする。ギュッと温かなものを掴む感覚があった。
「リコリス。約束する」
「セイシ?」
白と赤で満ちた世界が朽ちていく。果てまで続く白は汚れた黒に侵され、赤はしおれた茶へと変わる。
その中心で、セイシは独りよがりな約束をした。
「また会おう。リコリス。今は俺と君は触れられない。だけど次は、次は俺と君は手をつなぐことができるから」
その瞬間、リコリスによぎった感情がなんだったのかは分からない。リコリスが目を大きく見開くと同時に、セイシはリコリスの「命」を握りつぶした。
淀んだ死の黒と、生の果てた茶の世界の中。セイシはリコリスの命をその身に取りん込んだ。
「しばらく待ってて」
真っ暗な世界にセイシは一人たたずむ。胸の中にあるのは二つの命。セイシはためらうことなくリコリスの命を支払って、煉獄だった世界から生者の世界へ帰還した。
煉獄から生者の世界に還る直前、彼の口には嫌な、嫌な嗤いが浮かんでいた。
*** ***
セイシが煉獄に落ちてから、生者の世界では20年が経過していたらしい。その間、煉獄にいたセイシは齢を取っていなかったから、セイシの素性が誰かにばれることもなかった。
もっとも彼の素性を知る人間といえば城の人間と、同じように召喚されたクラスメイトのみ。その彼らとて、この20年濃密な生活を送って来ていたはずであり、遙か昔に死んだはずのセイシのことを覚えているはずもなかった。
「だからできることもある」
セイシが生者の世界に還ってきた時点で、魔王は討伐されていた。大方煉獄でリコリスを殺した男が魔王を討伐した者たちの一人で、その戦いの最中に命を落としたのだろう。
魔王が死に、世界が平和になっているかといえばそうではなかった。大穴の近くに出現し、近くの町を放浪しながら情報を集めれば、自国の拡大を求めていくつもの国が戦争をしていることが分かった。その戦争に召喚者―勇者たちがかり出されているということも分かった。
セイシはこの天の巡り合わせに感謝した。あまりに自分にとって都合のいい状況。セイシは兵士になって戦争に参加することにした。
セイシのチートは命のストック。命に付随する魂へ干渉する能力。そして魂には宿った存在の知識や経験も刻まれている。
セイシは戦場で人を殺し、その命と魂を収集した。胸に秘めた独りよがりな約束のために人を殺すことなどためらいはなかった。
初めて参加した戦場でセイシは誰よりも人を殺し、数多の人間の知識と経験、そして命を手に入れた。
「こんなに簡単なことだったのか」
体の中を巡る無数の命の鼓動を感じて、セイシは呆然とした。もし20年前にこのチートに気がついていれば。セイシはまた違った人生を歩んでいたことだろう。
「でもリコリスに会えない人生なんて価値はないんだ」
過ぎ去った時は戻らないし、リコリスに会えない世界なんていらない。そう呟いて彼は命を溜め続けた。
それから時は流れる。セイシは独りよがりな約束を胸に秘め、命を溜め続ける。10年が経ち、セイシは救国の英雄と呼ばれるまでになっていた。何千の命を取り込み、その知識と経験を身につけたセイシに敵う者はそれこそ、同じ召喚者くらいしかいない。
年老いた召喚者と戦ったこともある。その召喚者は強く、セイシは何度も殺された。だがセイシの有する命は膨大だった。数多の命を消費して、彼はついに召喚者を殺すことに成功した。
手に入れたのは膨大な力。セイシはその日から同郷の人間を選んで戦うようになる。
*
「やっとここまでたどり着いたよ」
あの別れから40年。戦争は終結した。いまや召喚者はセイシの他におらず、彼は戦争を終わらせた英雄として名を馳せている。
セイシは剣士、商人、魔法使い、学者、貴族、王族、農民、職人、盗賊そして召喚者とあらゆる人物をその身に取り込んでいた。
彼は誰もいない荒野の中心に立っている。彼の頭上には異世界の真っ赤な太陽。セイシの目的を果たすにはもってこいだ。
「これでやっとまた君に会える」
目を閉じれば思い浮かぶのは、赤と白で形作られた煉獄の世界。遥か先まで広がる彼岸花の花畑。けれどそれは死と血によって作られた世界だ。
煉獄が生まれるのは、死者の世界が受け入れられないほどに人が死んだ時。すなわち魔王が立って人間の大量虐殺が行われた時のみ。お行儀よく戦争が起きた程度では煉獄は生まれない。
魔王は大体千年周期で現れる。命をストックしたセイシとは言え、不老不死になることは叶わなかったし、なろうとも思わなかった。
千年も待てない。セイシは大地に描かれた広大な魔法陣を見てほくそ笑む。
高名な学者や魔法使いの持っていた得た知識だ。魔王の作り方。知識の断片をつなぎ合わせ、齟齬がないか何度も確認し、ようやく実行に移すことができた。
セイシはこれから魔王を生み出す。彼を慕い、尊敬する人間は数多いが、彼にとってみればそんな人間たちのことを考える必要などまるでない。
対価にするのはセイシの溜めた何千万の命と経験。いわば『救国の英雄セイシ』の力そのものが魔王となるのだ。誰も勝てない。誰の手も届かない。究極の存在。
セイシにとって唯一つ価値のあるもの。それがリコリスだ。大穴から落とされて、長い時間を二人きりで過ごしたあの日々は、セイシにとってかけがえのないものだ。あの日々をもう一度手にするためなら、セイシは何だってやろう。生者の世界を終わらない地獄にでも変えてみせよう。
終わらない魔王の時代を作って、永遠の煉獄を生み出そう。
「君の世界を人で満ちさせよう。そうすれば君は蘇るんだ…リコリス」
これからセイシは死ぬ。セイシの命を対価にして魔王を生むのだから。何千万の命を切り離して、たった一つの命を持った死者として煉獄へ向かう。
生者はリコリスに触れられない。死者はリコリスに触れられない。だがセイシは命を持った死者として煉獄へ向かう。生者でもあり、死者でもあるセイシなら、きっとリコリスに触れられる。
掲げたナイフは救いの証。結局、セイシはあの日から何一つ変わっていなかった。あの日、あの時、リコリスが死んだあの瞬間から、心を殺されたセイシは何一つ変わることはできなかった。
研ぎ澄まされたナイフの刃がセイシの顔を映し出す。妄執と狂気にまみれた顔だ。その顔は奇しくもリコリスを殺した男と似ていた。
死にたくないと叫んだ男。
リコリスに会いたいと願ったセイシ。
形は違えどそれが醜悪な願望であることに変わりはない。
(リコリスは笑ってくれるだろうか。喜んでくれるだろうか)
最期にそう思って、セイシは己の首元に、墓標のようなナイフを突き立てた。
「リコリス…」
死に至る感覚の中。セイシは最後まで、リコリスのことしか考えていなかった。
また会う日を楽しみに 終わり
彼岸花の花言葉『また会う日を楽しみに』『想うは貴女一人』
果たしてこの物語はハッピーエンドで終われたのでしょうかね。