001 飛ばされて、流されて
通り魔による犯行が多発中だってさー、怖いねー、気をつけなさいよー、と母さんがしきりに注意喚起してきたのが午前七時。
僕は焦げたパンをもしゃもしゃ齧りながら、うん、わかったー、うん、わかったー、と聞き流しつつ寝ぐせ頭を揺らしていた。
午前八時、親父が出社。僕も登校につき家を出る。
わっはっは、父さんは今朝も快便だったぞお!
うるさい、朝っぱらから汚い話すんなよ!
そんなふうに言い合いながら、分かれ道でグッドバイ。
学校へつき、授業を消化し、部活を終えて下校したのが午後六時半。
その帰り道、本屋へ立ち寄った。
流行りの異世界小説を立ち読みする。
どれを読んでも、一定以上おもしろいのはスゴイと思う。
「異世界かあ」
僕も行ってみたいなぁ、なんて思う。
剣で無双したり、魔法を使って「滅びよ……っ!」とか言ってみたい。
でも、トラックに轢かれたり、通り魔に刺されたりするのは勘弁だ。
そんなの痛い。たぶん泣いちゃう。泣く前に死んじゃう。
だからアレだ、天寿をまっとうして、生まれ変わって異世界へ行くのがベストかな。
そのためにも、今夜から寝る前に欠かさずお祈りしよう。
来世は異世界に生まれますように、と願掛けしよう。
冒頭が気に入った一冊を持ってレジへ行く。
会計を済ませて外へ出る。
ずいぶん長居してしまったらしく、その時点で午後九時になっていた。
鞄のなかでスマホが怒っていた。
正確には母さんが怒っていた。
アンタ何時に帰って来るの! ご飯は! 通り魔あぶないよ! 危険があぶない!
ごめんなさい、ただちに帰ります。ご飯もいります。
午後九時十五分。近道しようと入った路地裏。
そこが運命の分かれ目だった。
何かの気配がして、野良猫かなあ、なんてのん気にその姿を探して――グサリと。刺された。たぶん、ウワサの通り魔に。
え、なに? え、なに?
ワケがわからないうちに倒れ、意識が遠のいていく。
一刺しで行動不能におちいらせるとか通り魔やべえな、達人かよ。
だけどそれが幸いしてか、想像していたほどには痛みを感じなかったのが、せめてもの救いだったといえるだろう。
最後に、まばゆい光を見た気がした。
それが僕の、生前最後の記憶になった。
◇
……という、夢をみたのさ!
と、言いたい。
しかし夢ではないかもしれない。
最初に知覚したのは、ザワザワという騒々しい音響だった。
人の話し声の集合体だ。
目をあけて僕は、
「うぇっ?」
仰天する。
まばたきを忘れた。
どこだかわからない場所に、僕は立っていたのだ。
それなりに広い道は土の地面。
両脇を固めるのは、木材やレンガなどで作られた建物。
軒先にはランタンめいたものが吊り下げられ、煌々と夜の闇を照らしている。
なんといえば良いのか、西洋かぶれな下町という感じ。
そして人が多い。
多いし、みんなヘンな格好をしている。
ローブみたいなものを羽織っていたり、鎧を着込んでいたり。
店先で客寄せしている店員らしき人なんか、頭にターバンを巻いている。
インド? サウジアラビア?
いや、そういう雰囲気でもない。
どこの国とも言いがたい。
少なくとも日本ではないし、中東でもなければヨーロッパでもないし、北米でも南米でもなさそう。
じゃあ、どこだよ。
「……コスプレ会場?」
その可能性が最も高そうだった。
世界中のOTAKUたちがひしめき合うフェスティバル。
それなら、周囲の人たちの頭髪が、赤だったり青だったり緑だったりするのにもうなずける。
ズラかな? ズラならいいけど、それ染めてるんだったら自分で自分の毛根を殺す行為に等しいよ? 毛根自殺だよ? 大丈夫?
いや、大丈夫じゃないのは僕のほうかもしれない。
さっきからずっと、行き交う人たちが、僕に注目とヒソヒソ声を向けていた。
「なに道の真ん中で突っ立ってんだよ、邪魔くせぇな」「あの子、何かおかしくない?」「髪の毛黒いな」「ヘンな服着てるぜ」「あいつ魔族じゃね?」「え、魔族? こわーい」「話し合いの余地はあるのでしょうか」「魔族は怖いものではないよ、ジュリエット。それに安心して良い、何かあっても僕が守るからね」「あぁ、ロミオ……」「ジュリエット……」
好き勝手言われていた。
僕からすれば、キミたちの髪のほうがおかしいし、服もヘンだし、ロミオだしジュリエットだよ。
だいたい、何でみんなして日本語ペラペラなんだ?
しかもやたらネイティブ。
いつから日本語は世界のスタンダードになったのか。
流行ってるの? 日本語が。
「ん……?」
ピンとくるものがあった。
――流行り。
異世界小説。
「待て待て待て」
思い出せ。落ち着いて想起しろ。
僕は何をしていた? 何がどうなってこんな状況に立たされた?
異世界小説を本屋で買った。
そのあと母さんがブチ切れていたので、近道をしようと普段は通らない路地へ入った。
猫がいると思ったら人がいた。
たぶん通り魔だった。
刺された。
たぶん、死んだ。ヤツは通り魔の達人だった。
「……異世界、なのか」
しっくりくる答えだった。
異世界。
なるほど、そう考えれば、この異様な光景にも辻褄が合う気がする。
異世界、それはすべての理解をマイルドに変える魔法の言葉。
やったー、異世界転移した!
と、安易に喜ぶことはできない。
母さんにゴメンナサイしていないし、親父とは今日は排便についてしか語り合っていない。家の冷蔵庫には、楽しみにしていたプリンもあった。
未練というのか、心残りがありすぎる。
せめてお別れくらいはさせてもらえないものか。
あぁ、母さん親父、先立つ不孝をお許しください……。
とりあえず、だ。
自分の体を見下ろしてみる。
刺された痕跡が見当たらないことに、まずホッとした。
着ているものは学ランだ。
僕の高校は学ラン指定だった。
つまり死んだ(のであろう)ときと、格好自体は変わっていない。
ただ、鞄がなかった。
手ぶらだった。
手ブラは素晴らしい文化だと思うが、手ぶらなのはよろしくない。
困る。
どうしたら良いのこれ。
なにもできんよ。
途方に暮れかけたときだった。
「待てやクソウサギがあああぁぁぁッ!!」
遠方から、すさまじい怒鳴り声が飛んできた。
◇
人波が割れる。
ダダダダダと派手な音が響いてくる。
複数人分の足音だ。
見れば、一人の少女がこちら側へ駆けて来ていた。
ミディアムな長さのピンク髪を、二つ結びにした子だった。
ツインテールではなく、ツーサイドアップというやつ。
その結んだ髪が、走るのに合わせてピコピコ上下運動している。
こんなときに何だけど、僕はその少女に見惚れそうになった。
ウサギさんって感じだった。
べつに少女の頭にウサギ耳が生えているわけではないが、パッと見た印象がそれだった。
髪がピンクなせいか。
ウサギって実際はピンクじゃないのに、なんで絵に描くときは、しばしばピンクにされるんだろうね?
それはさておき、少女からだいぶ離れた後方には、三人の男たちの姿もあった。
全員デカいが、真ん中の男がとくにヤバかった。
筋骨隆々でモヒカンだった。
世紀末かな?
とにかく、少女が男たちに追われているらしいと、そこまでは一目でわかった。
少女は身をひねって追走者たちを見やりながら、こんなことを叫び返した。
「べ――っ、待てと言われて待つあたしじゃないのよ! ほれほれ、捕まえてみなさいよこのゴリラあ!」
「誰がゴリラだクソウサギぃぃ! この《剛胆者》クランがリーダー、ギルバート様をバカにすんじゃねぇぇ!!」
「ごーたんものクランがリーダー! キリッ、ですってー、うっけるうぅぅ! 三人で三年もやって、いまだ冒険者レベル20の雑魚のくせしてー! クラン名、軟弱者に改名したらいかが?」
「テメェだってレベル20だろうがぁぁ!!」
「あたしはソロで二年目ですけど何かー!?」
冒険者レベル! そういうのもあるのか。
と、冷静に分析している場合ではなかった。
女の子は追いかけるゴリラ――もとい、ギルバートというらしい男のほうを向いて走っていた。
つまり前を見ていなかった。
そして彼女の前には、道の真ん中に突っ立ったままの僕がいた。
あ、やべ、避けなきゃ。
そう思ったときには後の祭り。
僕は少女と激突した。
「うおっ!」
「わぎゃっ!?」
甚大な運動エネルギーに襲われる。
受け止めきれず、僕は少女と一緒にゴロゴロ地表を転がった。
「うわわっ」
「あぎゃ――っ」
はしたない声のほうが少女である。
五回転くらいしてやっと止まった。
砂ぼこりに顔をしかめつつ、上半身を起こす。
知らず、僕は少女を抱きしめる恰好になっていた。
少女が、僕の胸に埋まっていた顔をバッと持ち上げた。
「な、なになにっ! なによ!?」
こっちのセリフだ――と言いかけて僕は口をつぐむ。
息を呑んだ。
間近にある少女の顔立ちに。
気が強そうなツリ目はぱっちり二重。
青っぽい瞳、小さなくちびる。かたちの良い耳。
二次元からそのまま飛び出してきたような美少女だった。
走って転がったせいか、ピンク髪が乱れまくっているけど、そこがまた良い。
健康的な生命力みたいなのを感じる。
歳はたぶん僕と同程度、すなわち十五歳前後といったところか。
少女は僕の顔から胸周辺にかけて、二度ほど視線を往復させた。
僕に乗っかったまま少女は言った。
「黒い髪にヘンな格好……ひょっとしてあんた、魔族? 冥族?」
「い、いや、人間。普通に人類」
やっと喋れた。
「ふーん……?」
うさんくさげに僕を眺め回した少女が、また何か言おうと口を開きかけたとき。
「よーし、ナイスだ。誰だか知らんがナイスだ少年。そのままそのクソウサギを捕まえといてくれ!」
「あ、しまった。めんどくさっ」
少女、渋面。
ギルバート with 男二人が、息を切らしつつも、こちらに肉薄せんとしていた。
彼らはみんな、胸のところに、マッチョな腕のマークのバッジめいたものを付けていた。
クランがどうとか言っていたし、その証のようなものだろうか。
センスないマークだなあとは思うが。
「ねね、おにーさん。あたしのこと助けてくれる?」
少女が小声で訊いてきた。
僕はしどろもどろに答える。
「えーと……なに? キミは、あの男たちに追われているの?」
「そう、そうなの。聞くも涙、語るも涙な事情があるの。理不尽な理由なの。その理不尽のせいで、あたしの純潔が散らされようとしているの。許されないわよね、そんなの」
「う、うん……そうなのかな?」
「そうなのよ。そうなの」
「うん」
「助けてくれる?」
「まぁ、僕にできることなら」
「ありがと!」
「!?」
ちゅっ、とされた。
ほっぺに。
え、なに? キスされた? いまキスされたの僕? 初体験なんですけど?
頭に血がのぼっているあいだに、少女はすっくと立ち上がった。
ついでに僕の腕を引き、僕にも起立させた。
「聴きなさい、ゴリラおよび《軟弱者》クラン諸君っ!」
「だれがゴリラだ軟弱者だ! 俺たちゃ《剛胆者》、ほどなくここニューラウノ大陸全土に名を轟かせる予定の、屈強なナイスガイたちだ!」
「なんだって良いわそんなの!」
少女は僕の肩にポン、と手を置いた。
ちょうど軟弱者……いや、《剛胆者》というチームのメンバーらしい三人が、僕と少女から数歩の距離までたどり着いた。
立ち止まった彼らに、少女はそれなりにある胸を張って言った。
「こちらの……あ、アンタ名前なに?」
「的橋慶」
「マト・ハシケイ……? ヘンな名前。どこの村出身よ、あんた」
「名古屋はそんなに田舎じゃないぞ。意外と都会だぞ。馬鹿にするなよ」
「ナゴヤあ? どこの辺鄙な島よそれ」
「日本っていう列島の真ん中らへん」
「……意味不明。まぁいいわ。なに、ハシケでいいの?」
「ハシケはないな。せめてケイにして」
「おっけー」
少女は改めて男たちへ向きなおり、堂々と告げた。
「こちら、ケイたんはあたしの仲間よ!」
ケイたんって。
「ケイたんが、あたしの代わりに戦ってくれるわ! あたしのために!」
「!?」
「ほう……?」
ギルバートなるモヒカンが、ニヤリと口端をつりあげた。
ごつい棍棒で肩をトントンしている。
おっかない。
少女へ視線を移せば、こちらは満面の笑み。
かわいい。
かわいいけど、許されない。
許したらマズイ。
「じゃ、そういうことで。あとよろしくー♪」
許す許さないの間もなく、少女は反転して駆け出した。
あっという間に人混みにまぎれていく。
すばしっこい。
呼び止める隙もない。
ギギギ、と機械めいた動きで僕は首をまわした。
下卑た笑顔のギルバートと、ほか二名がいた。
ギルバートが言った。
「よくわからんが、クソウサギの味方につくとは不運なヤツだな」
「よくわかりませんが、僕もそう思います」
「うぇっへっへ! ……いいぜ、テメーをボコって憂さ晴らしだ」
控えめに言ってオワッタねこれ。