大岩氏
「助役さん。俺は大岩というんだ。大きな岩だ。急ぐわけじゃないんだが記憶が少しでも新しいうちにしゃべっておきたいんだ。いいかね」
「結構ですよ。大岩さんですね。どうぞ」
早くしないと記憶が薄れるという大岩の言葉で、ペンを出して手帳や週刊誌や新聞などの余白に何事かを書き込む人が二、三人ほどいた。
「乗ってた車両は一両目だよ。俺はそのスーパーの人と違ってずっと窓の外を見ていたんだ。先生、さっきも俺はそういいましたよね」
私は仕方なく、「ええ、そういってました」と。
「駅は無かったんだ。本当に無かったんだ。バイパスの陸橋を越えた辺りから急に周りの景色が変わったんだ」
「大岩さん。あなたはどちらを向いていました?」
「東側だよ。浦和の方。吊革に掴まって立っていたんだ。俺は座席が空いていても座らないんだよ。トレーニングになるからね」
「景色が変わったというのは、具体的になんか言えますか」
「具体的に? さあて、弱ったね」
「踏切などはどうでした?」と、私が聞いてみた。
「グッグッ! そうだ、踏切だ。駅の前に踏切があるじゃないですか、あれが見えた。間違いない。いつもならあそこではぐっとブレーキを掛けるからね。だけどスピードが落ちなかった。あれっと思ったね。運転手が忘れたのか、踏切が違ったのかとね。結局、あれこれとそれを考えている内に河瀬というわけだ。ところで、ここからが問題なんだが、助役さん、ちょっと質問していいかね」
「どうぞ。但し簡単に頼みます。他の人も待っているんですから」
「踏切で、側に人がついていてハンドルみたいなのをぐるぐる回して上げ下げするやつ。あれね、今でも使ってんの?」
「まさか。とうの昔から使ってませんよ」
「それが有ったんだよ。駅前の踏切がそうだったんだ」
「大岩さん。あなたはさっき速度が落ちないまま電車が通り過ぎたといいましたよ。それでいて踏切がどうだったかなんてはっきりといいきれるんですか」
「いいきれるさ。俺は目がいいんだ。ゴルファーなんだよ」
「存じ上げておりますよ、大岩さん。でも、自分でおっしゃっていることを本当に信じているんですか? そんなことって有りますかね」
「有ったんだから信じるもなにもさ。他の人にも聞いてみなよ。俺だって不思議だと思ってるんだよ。ほら、あの運ちゃんもそういってたじゃないか」
「なんてです?」
「なんてって、あんたも聴いていたじゃないか。駅が無かったってよ」
「そっちでしたか。でも、あなたは踏切が手動なのに気をとられて考え込んでいるうちに河瀬駅になったといいましたよ。駅が有ったかどうか気がつかなかったというのが正確なんじゃないんですか。それに駅が無かったとおっしゃるのに、駅前の踏切というのはおかしいと思いますが。ま、あなたのお話はまた後でお聞きします。はい、次のかた、どなたでも結構です。お願いします」
この助役、結構やる。




