逃亡者
「それについても答えは出せますよ。くん。くんくん。しかし、その前に助役さん。あんた、一木から乗って来たといったよね。一木駅の階段はホームの中央にひとつあるだけだ。河瀬駅もホームの中央だ。河瀬に行くあんたがなぜ先頭の車両に乗ったのかね。それを是非あんたの口から話して欲しいものだ」
「いっていいのかね、守山さん」
「構わないんだよ、山辺精三君」
雰囲気が凄くなった。山辺助役も目の色が変わって、顔も白じんでいた鼻の頭も紅くなった。
「守山さん。あんたに気がついたからさ。まさかここで出会うとはね。いやさ、生きていたとはね。坂田刑事。それとお集まりの皆さん。十三年前、正確には十三年と五ヶ月前に自分の妻を家ごと焼死させて保険金を受取り、それが発覚し追跡していた刑事さんたちの目の前で伊豆大島行きの連絡船から海に飛び込んだ男がありました。その事件を思いだして下さい。焼死したのは私の妹です。そして飛び込んで魚に食われた筈の男は、そこにいる守山、いや森川肇です。森川のいうとおり私は一木駅の階段を下りて、そこで入ってくる電車を待とうとしておりました。その時、私は背中を通り過ぎるある音を聞いたのです。驚愕の瞬間でした。私の鼓膜と心臓は落雷の直撃を受けたかのようでした。くんくん・・・、皆さんもお聞きになったその男の空咳です。私にとって生涯忘れることの出来ない音なのです。振り向いた私の目に映ったのは、先頭の車両の方に向かって歩くその音の主の後姿でした。なんで忘れられましょう。肇とは小学校の時からずっと一緒でした。家も近所で、学校への行き帰りもいつも一緒でした。森川はすっかり顔が変わっています。恐らく正面からだったら到底わからなかったことでしょう。けれども、歩く後姿は昔と少しも変わってなかった」
「山辺さん。お手柄です。やりましたね。森川肇、あんたには逮捕状が出ている。潔く罪を認め署まで同行しなさい」
「精ちゃん。刑事さん。そのつもりだよ。海に飛び込んだあと水を飲んですぐ気を失った。気がついたところはかなり大きい釣り船の上だった。今の私によく似た年寄りがひとりで釣りをしていたんだ。その爺さんは、なぜか近寄ってきた保安庁の船に私のことを告げなかった。その人とは、ちょうど半年だけ一緒に暮らした。テレビも新聞とも縁のない釣りだけの毎日だったよ。ある日、その人はひとりで沖に出て行き二度と戻って来なかった。残された手紙で初めて知ったよ。不治の病だったんだ。助けられてすぐの頃、なぜ私を助けたのかと聞いた時、”人の生き肝でも食べてみようか”、とぽつりといってたんだが。一瞬でも本気にそう思ったのかもしれないね。それからの十三年間、私は遠い所を転々として生きてきた。正体を隠して暮らすというのは苦しい。生き肝なんぞ必要としない丈夫な私なのに、どんどん歳をとってゆくのがわかる。見てくれ俺のこの顔、この手。このまま俺を知る者がひとりもいないところで朽ち果てるのかと思ったら、とてもたまらなかったよ。私は決心した。精ちゃん、私はあんたに見つけて欲しくて一木の駅で待ってたんだ。わかってくれるかどうか正直いって複雑な心境だったが、今はほっとしているよ。覚えてくれていて嬉しいよ。あの事件はね、今更いっても始まらないが、あれは本当に事故だったんだ。俺は美佐子を愛していた」
森川の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。助役も泣き伏してしまった。折角のノートがもう涙でおしまいだ。真相は両者の主張とは少し違ったところにあるようだ。
「これはまた、えらい修羅場になっちゃた。でもだよ。森川さんも山辺さんも泣きたい気持ちはわかるけどもうちょっと我慢をしなよ。ふたりには相当な因縁があるようだけれど、それこそ済んでしまったことじゃないか。それよりさっき守山、いや森川さんがいいかけた説はいい線いってる。その後の、ほら糞尿ホームについての解説も聞きたいんだがねえ」