河瀬駅
駅
桂川駅のエスカレーターで上がるとすぐに下りの電車が来た。外が酷く暑いので、私は一番前の車両に駆け込むように乗りこんだ。冷房が効いてほっとひといきついた。
駅を発車し、鉄橋を越え・・・そこから先がはっきりしない。しかし電車が止まって腰を浮かした時、あっと思った、河瀬駅だった。穂波駅を乗り越したのだ。
ひと駅だしもどるかと、少し迷った。友人の小野寺君が河瀬駅の近くにいるから寄ってみようか、暫く会ってないし・・・迷いながら中央の階段の方に歩きかけた時だった。
背中の方から、いい合っているような声が聞こえて来た。
「ち、違うんです。なかったんですよ。車掌もそういってますよ」
「何をいってるんだ、君は」
みると、いい合っているのは運転士らしい男と駅員だった。帽子に黄色い筋が入っている男で五十を超えているようにみえた。運転士の方は三十前だった。
運転士がホームにいるから電車は止まってる。ふたりの周囲にはすぐ十人ほどの人垣が出来ていて、私は興味を引かれて輪に近寄って中を覗いてみた。
珍しいことだ。大人どうしが声を上げて口論しているなんてなかなか見られない。ましてや同じ会社の人がお客さんの前で怒鳴り合ってるのだ。
おまけに二人の他にも周りから口を出す人が何人かいて、初めはわからなかったが、話は途方もないことを知った。
電車が穂波駅に止まらず通過した、と駅員が咎める。それに対する運転士の返事だった。
「駅が無かったんですよ」
すぐに、そんな馬鹿なという声が飛んだ。ところが、無かったという声はその運転士からだけではなかった。
「助役さん。この人のいうとおりだ。間違いないよ。無かったんだ。本当だよ」
野太い声でいいはなったのはプロスポーツマンらしい日に焼けた堂々たる体躯の男だった。
「やめて下さいよ。穂波駅から、今、電車が止まらないで行ってしまったと苦情の電話が入ったんですよ。だからこうやって事情を聞きに来たんです。横から口を出さないようにお願いしますよ」
「助役さん。俺は客だよ。客に向かって口を出すななんていっていいの? 駅は本当に無かったんだ」
「そう、この人のいうとおりよ。駅は無かったわ」
プロスポーツマン氏だけではなく若い女性の声も出た。よく響く勢いのいい声だった。助役はその声を聞くと力が尽きたようで、滝に負けた鯉みたいによろよろと柱にもたれかかってしまった。
「わかりました。君。事情はまたあとで聞くから、とにかくすぐに電車を出してくれ。次の駅は見逃すなよ。信用に関わるんだから」
助役氏は発車ベルを鳴らした。運転士は奇妙な表情で助役の顔をまじまじと見ていたが、やがてくるりと向きを変えると運転室に入り電車は出て行った。
妙な芝居だ・・・
と、階段の方に向かって進むと、
「あの、もし」と、うしろから太い声で呼ばれた。
みると先ほどのプロスポーツマンだ。
「先生も穂波で降りる筈だったんじゃないんですか? 無かったですよね、駅が」
「どうでしょうか。でも、どうして私が穂波で降りると知ってるんです?」
「よく見かけますから。穂波の駅で」
「そうですか。ということは、あなたもあの駅なんですね」
「そうです。駅は本当に無かったんです。他にも大勢居たでしょう、乗客で騒いでいたのが。私は立って窓の外をずっと見てたんです。桂川の鉄橋を越えて、そのあとすぐバイパスの陸橋を越えるじゃないですか。あれっと思ったのはその辺りからなんですよ。景色が変わってきたんです」
彼はなかなかの話し上手だった。
助役と話をしていた時は応援団の学生のような大きな声を出していたのに、私には内緒話をするような調子で声をひそめていう。不思議だがその方がよく聞こえるのだ。