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狼の騎士  作者: 透水
第六章「石狼の目覚め」
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胎動

 フェルティアードが向かったのは医務室だった。まさかここが目的地だとは思わなかったゼルは、彼がこの扉に足を止め体を向けた時、部屋の名を示す壁の札と彼を二度も見直してしまった。

 扉のそばに控えていた男は、大貴族と軽く言葉を交わすと、部屋に入り何者かを呼びに行った。すると、すぐに見覚えのある初老の男が出てきた。デュレイを訪ねた際、彼のことを教えてくれたあの医師だった。

「これは閣下殿。お待ちしておりました」

「あまりその呼び名を使ってくれるな。わたしはジルデリオンという階位の男に過ぎない」

 医師はにこやかに微笑んで二人を招き入れた。彼は初めて聞く敬称を口にしたが、フェルティアードは別段気に障ったわけでもないようだった。むしろ気恥ずかしがるような、その名を呼ばれるのに困っているような、その唇ははにかみにも見える形に動いていた。

「おや、きみはあの時来てくれた子だね」

 フェルティアードの後ろにいた青年を、彼はちゃんと記憶していた。ゼルははい、と頷いて答える。

 白い上衣を羽織った医師は、治療中ゼルが横になっていた寝台の列を通り過ぎていった。作り付けの棚や台で作業をしている人の中には、ゼルの担当だった男もいた。

「心配をかけてすまなかったね。事情が事情で、特にきみには教えたくなかったんだ」

 案内する彼は、一般の患者が入ることのないよう注意書きされた、奥まった扉の一つを開け放つ。わたしだ、入るよ、と呼びかけながら、医師は中へと進んでいった。

 狭い室内には寝床が二つ並んでおり、それぞれは薄絹で隔てられるようになっていた。手前のものの布は取り払われ、その向こう側を遮る一枚布には、うっすらと影が映りこんでいた。

 まさか、あそこにいるのは。先行く医師のあとを追うゼルの歩く速度は、いつしか彼を追い抜きそうになっていた。すぐ隣を、一歩前ほどを歩いていたフェルティアードは、知らずのうちにゼルの後方へ移動していた。

「フロヴァンス君。お客さんをお連れしたよ」

 合図代わりか、医師が布地を軽くたわませた。その裾に内側から指が添えられ、快い音と共にそれが引かれる。

「先生。お客さんって……」

 久々に見た彼はやはりいい体格をしていたが、ほんの少しだけ痩せたように思えた。それでも、薄手の質素な寝巻きは若干窮屈そうだ。医師の肩越しにこちらを見つめる濃い青目は、死んだ人間にでも遭遇したかのように丸くなっていた。肩には、普段一つにまとめていた金髪が幾筋か流れている。

「え、あれ……。ゼル?」

 医師が足音さえ消して下がり、ゼルは彼の全身を視界に収めることができた。とはいっても、起こしていた上半身以下は真っ白な上掛けに隠れていたが。

「……デュレイ!」

 己の体が前方へ倒れ込んだ。気持ちが先走って、脚のほうが遅れをとってしまったのだ。

 耳元で上がった叫びも気にせず、ゼルは友人の体を抱きしめ、いっぱいの力を込めてやった。傷の程度もわからなかった彼が、確かに今ここにいる。今までと同じ、元気そうな姿で。

「よかった。安心したよデュレイ。ずっと心配だったんだ」

 川での一件とは逆に、彼がゼルの命を救ったわけではない。大げさだが生死が不明だったのは、またもやデュレイのほうだった。だというのに、嬉しいという思いの流れる向きは逆転していた。

 ゼルの行動に目を白黒させていたデュレイも、やっと落ち着きを取り戻して話し始める。

「おれも馬鹿なことしたからな。こっちこそずいぶん気に病ませたみたいで」

 ゼルに触れようとしたデュレイの腕が、空中で硬直した。同時に、彼の口から痛みを訴える小さな悲鳴が漏れる。ゼルはすぐ身を起こすと、

「ごめん、どっか痛むとこ触っちゃったか?」

「いや、違うよ。大丈夫」

 静止したままのデュレイの左腕を見つける。手首から短い袖の内側まで、白い細布が肌を埋め尽くして巻きついている。ゼルの脳裏に、決闘と“手術”の言葉が浮かんだ。

「その傷なんだがね」

 再会を喜んでいた二人に、医師は詳細を語り始めた。この場で事態を知らないのはゼルだけらしい。フェルティアードはゼル達に近づきもせず、壁際に立ち腕を組んでいる。

「決闘での傷だけだったなら、もっと早くに帰せたんだ。でも治療する過程で、彼の腕にある腫瘍が見つかってね」

「腫瘍、って、病気があったってことですか?」

 首を縦に振り、医師は続けた。

「幸い、大事には至らない大きさだった。それを彼の腕から取らなきゃならなくて、こうして予定より長引いてしまったんだ。しかし彼は幸運だよ。早くに見つかっていなかったら、腕を切り落とすことになっていたかもしれない」

「やめてくださいよ先生。そうならなかったからいいけど、何度聞いてもぞっとするんですから」

 からからと笑い合うデュレイと医師だったが、初耳だったゼルは腹の底が冷えるようだった。兵士でなくとも、腕を失くすなんて冗談じゃない。

「自覚症状がほとんどないのも、発見が遅れる一因だからね」

「そう言われてみれば、時々痛むこともあったけど、ちょっと腕をぶつけたり荷物を運んだりした時ぐらいだけだったな」

 包帯の上から腕をなでながら、デュレイが呟いた。

「その点では、ある意味では彼に感謝しなくてはいけませんな」

 眼鏡を押し上げ、医師は一人距離を置く男を見やった。気配に気付いたのか男は身じろぎしたが、剣の鞘も音を立てなかった。

「あなた様が彼を手にかけていなければ、さらなる絶望が彼に降りかかったいたでしょう」

 親友を斬りつけた男が、ここではなんと救済者であった。医師の言うことも一理あるので、ゼルは頭から否定できない。デュレイの腕がなくなるかもしれなかったと思うと、なおさらだった。

 フェルティアードのほうも、まさかこんなことを言われるとは予想していなかったようだ。姿勢を崩さず目を細め、医師を見返す。この時初めて大貴族の存在を知ったデュレイは、自分が睨まれていると誤解したのか、かすれた声を上げて固まってしまった。

「こんな時までわたしを持ち上げんでもいいのだぞ」

「いいえ、そんなつもりはございませんよ」

「フェ、フェルティアード卿!」

 親しげな会話を中断させたものの、その声は怯えに満ちていた。医師が振り向き、フェルティアードは今度こそ発言者に――デュレイに目を向ける。

「その、先日は(わたくし)の浅はかな決闘の申し出をお受けくださったうえ、結果的に我が身の病を見つけるに至ったことを感謝しております。どうか、数々のご無礼をお許しいただきたく存じます」

 ぴんと伸ばした背筋は、棒でも差し込んでいるかのように真っ直ぐだ。上掛けの上の両手は、布がしわくちゃになるぐらいに握り締められている。フェルティアードはしかし、腕を解くと顔色を変えて詰問しだした。

「何を言う。侮辱に怒り剣を向けたのが浅はかだと言うのなら、おまえの友への想いはその程度ということだ。そんな男の相手をしたとなれば、わたしの面目が立たん。今ここで斬り殺すぞ」

 詰め寄りながら得物を抜こうとするフェルティアードを、医師が必死になって押し留めた。彼の職業上、目の前で人斬りなどされたらたまったものではないだろう。言い返されたデュレイは、泣きそうになりながら「すみません!」と早口に謝罪した。

 フェルティアードも、それなりにデュレイを認めていたということか。不承不承といった面持ちで剣を戻したのを見て、彼も突き放してばかりではないのだと感じた。彼なりにからかったのかもしれない。そうは見えないほどの剣幕だったので、にわかには思い至らなかっただけだ。

「ところで、どうしてきみとフェルティアード卿が?」

 そうだ、デュレイはおれがフェルティアードと言い合ったことも、戦での一件も知らないんだ。そしてついさっき、騎士になると承諾したことも。

「うん、全部聞きたい? 結構長くなるぜ」

 医師が気を利かせて、隅から丸椅子を持ってくる。フェルティアードがわざと聞かせるようにため息をついた。

「あまり長居するな。約束の時刻には陛下が来られる。わたしは外に出ているからな」

 退室する彼の背を途中まで追ったあと、デュレイは椅子に座ったゼルに視線を戻した。

「陛下? 一体何があったんだ?」

 フェルティアードに続いて扉へと歩いていった医師を見送ると、ゼルは堰を切ったように話を吹き出させた。どんなに頭にくるような出来事であっても、親友の前では何を教えるにも笑顔になれた。



「いたいた! どこ行ってたんだ二人とも! おまえらを探すのにおれまで担ぎ出されたんだぞ!」

 医務室を出て廊下を曲がったところで、走ってきたゲルベンスにそんなことを言われてしまった。フェルティアードはさも無関係だという風に、彼に愚痴まがいの台詞を吐く。

「わたしが原因ではないぞ。こやつがいつまでも話し込むからだ」

 首を下に傾ければ、それを予期していたゼルが全身の力を両目に注ぐ勢いで仰視する。

「なんだよ。そんなに急ぎだったなら部屋に戻って引っ張り出せばよかったじゃないか」

 貴族であれば、一兵卒がこんな具合に大貴族と言葉を交わしているのを見たら、その顔は畏れで青ざめるか、不敬だと怒り紅に染まったことだろう。ゲルベンスも確かに貴族で、しかも高位に属する男だった。それなのに彼はゼルをまじまじと見つめると、我慢というものを知らないのかと思う豪快さで笑い出した。

「いや、こいつはいいな! レイオス相手にして、んな喋り方するとは……くっ」

 笑い過ぎてまともに声すら出ていない。内側から出てくる衝動に巨体も耐えられなくなったか、腹を押さえていないほうの手をフェルティアードの肩に乗せてくる。

 緑の大貴族は、心底うんざりしているようだった。呆れ笑いすらない、どちらかといったら見慣れた冷たい顔つきなのに、ゼルにはなぜか彼らしくなく見えた。棘のような威圧感もすっかり消え失せている。

 この人がいるせいだろうか。腹にやっていた手でもう片方の肩をばんばんと叩く大柄の貴族。思い起こせば、フェルティアードとゲルベンスが一緒にいるところに立ち会うのは初めてだった。ゲルベンスの話しか耳にすることはなかったが、お互い気の知れた仲なのはよくわかった。あのフェルティアードが追い払いもせず、渋い顔をしつつ彼を受け入れているのだ。

「やあ、ゼル君。傑作だなあこりゃ。おまえもそう思うだろ?」

 涙まで浮かべたゲルベンスが、自身の腕の下から覗くようにゼルに声をかけてきた。だが後半の問いかけはフェルティアードに対するものだ。にこりともしない男の何が面白いのか、ゲルベンスはまた喉を震わせ出す。

「いつまで笑っている。足止めしているのはおまえじゃないか」

 それもそうだな、とゲルベンスはぱっと手を放した。

「で、おまえらの様子を見る限りでは、予定通り叙任式ってことでいいんだな?」

 話は歩きながらすることにしたらしい。先導しようと歩き始めたゲルベンスは、だが一歩しか進むことができなかった。ぽかんと棒立ちになっている小さな青年を目にしたからである。

「叙任って、え? 何しに行くんだ?」

 ゼルは傍らの大貴族に尋ねる。その相手はゲルベンスを追う歩みを止めずに答えた。

「陛下にお言葉を頂くだけだとでも思っていたのか? 一芝居打っていただいたと言ったろう。おまえがわたしの騎士になると承諾した今、陛下がおまえにしてくださるのは騎士の位を叙することだ」

 行くぞ、とゲルベンスの肩を押して、フェルティアードは歩き続けた。ゲルベンスはそれに逆らわないまま、棒立ちの式の主役を振り返り、

「早く来いよ、ゼル君! 叙任式ってのは作法だらけで面倒臭いんだ、来ないとやり方教えてやらないぞ!」

 これからすぐ騎士になる儀式が行われるとは。日を改めるものとばかり思っていたゼルは、その事実を半分しか受け止めていなかった。そこを追い打つように、ゲルベンスのこのからかいである。

 何もかもが初めてのゼルをフェルティアードが、式に関する知識が皆無の状態で参上させるとは考えられない。絶対に間違えてはならない箇所だけは洩らさず指導するだろうが、ゲルベンス卿だったらもう少し親身になって教えてくれそうな気がした。

「い、行きます! 行きますから、詳しく聞かせてください!」

「んー、どうすっかな~」

 ゼルが追いかけると、ゲルベンスは駆け足になった。足を早めれば、同じくらい速度を上げて彼は遠ざかってしまう。

「ゲルベンス卿っ、なんでいきなり走るんですか!」

 叙任式について多くを知りたかったゼルは、その糸口をちらつかせたゲルベンスにすがりつくようだった。彼に遊ばれているのは、貴族でない者でもわかる。気付いていないのは、強烈な緊張で圧死することを憂うゼルだけだったろう。

 こんな追いかけっこをするのは、半分は早めに控えの間に戻るためだ。しかし残りの半分はゲルベンスの性分なのだろう。フェルティアードは、親友と騎士身分を約束された青年の忙しい背中を見送り、ふうと吸い込んだ空気を吐いた。

 こうしてこの場を去る三人の背後で、二人の男が足を止めていた。一人は求めるものを何一つ見落とさんとばかりにじっくりと、もう一人はさも興味がなさそうに、そのくせしっかりと視界の中心に、遠ざかる金色の頭を留めていた。

「シャルモールのやつ、しくじったのか」

 光を跳ね返す片眼鏡の奥で、瞳が横に流れた。

「彼、というよりは、彼が持っているあの使いですかね。どうも詰めが甘かったようで」

 大した損になることではない。そう言いたげな答えを返され、男は角に消える三つの影の端だけを垣間見た。

「あの男が騎士を取ったか……。これから面白いことになりそうだな」

「面白くするのはあなたでしょう」

 遊び半分のような、真摯さの見当たらない微笑の中に、薄く狡猾なひずみが生じる。男は否定を示すしぐさも言葉もなく、傍らの者しか気づけない程度に唇を緩ませただけだった。

「さ、わたし共も参りましょう。かのジルデリオンが騎士を抱える、またとない光栄な場に立ち会えるのですからね」

 流れ落ちてくる黒髪を背に払い、彼が先立つ。男は刀傷の走る片目をぴくりとしかめ、半歩遅れて続いた。

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