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閻柔、友好度MAX――なぜか鮮卑に愛され続けた男

作者: 田子 泰
掲載日:2026/09/25

正直、史書記述が少なすぎて書ける気がしません。


本作品はカクヨムにも転載しております。

【閻柔】。弟は【閻志】(魏の上谷太守)。

幽州広陽郡出身。


「少沒烏丸、鮮卑中,為其種所歸信。」

若い頃に烏丸・鮮卑の中に身を置き、その種族の人々から信頼されていた。


説の中には捕らわれた、攫われたなどもあるが、史書は「没」。


「若い頃、烏丸・鮮卑の中に身を没していた」

没の意味合いは「沈む」「埋没する」「隠れる」「ある場所・集団の中に入り込む」「没入する」。


「沒=人質だった/捕虜だった」という意味も、この字だけからは出ないこと。ここを間違えないように。


中国語のwikipedia維基百科でも「閻柔自少在烏丸、鮮卑為俘虜」と書いてあったりするが、史書は入り込んだ、没入した止まり。


「絶望スタートなろう系主人公」のように捕虜から始まる逆転劇でないと認識してください。



大事な事は【閻柔】が烏丸・鮮卑の中に入って、彼らから『帰信』されるほどの関係を築けた事だけ。

ちなみにコレ、初期チートです。登場前に烏丸・鮮卑からの好感度MAX。

なんでか??わからん。だからそれで済ませる。



【劉虞】支配時期の記録は皆無。

ただし、【劉虞】治世下では異民族との交易も重視していたため、異民族に身を置いていた【閻柔】も恩恵を受けていた可能性は高い。

それだけ。


194年~195年。

『後漢書』公孫瓚伝付・鮮于輔伝によれば、【鮮于輔】らは【閻柔】を【烏丸司馬】に推戴する。


【劉虞】の死後、【公孫瓚】は幽州において、【劉虞】が築いていた北方異民族との関係とは異なる政治方針を取るようになる。

烏丸・鮮卑の異民族層は【公孫瓚】の殲滅対象。和解する道はない。戦うか逃げるかの二択だったと言える。


【閻柔】は、身を置いていた過去からも烏丸・鮮卑との間に強い信頼関係を持つ人物だった。

【公孫瓚】と対立する幽州勢力が結集する中、戦う選択をした【閻柔】もまたその一員として【公孫瓚】に対する討伐側に立つことになる。


【閻柔】は胡漢数万、異民族漢人混成部隊を指揮して、漁陽太守【鄒丹】を撃破し、その後【鮮于輔】【劉和】【麴義】【蘇僕延】らと合力し、鮑丘の戦いで【公孫瓚】を打ち破って【易京】まで追い詰める。

しかし、【公孫瓚】は【易京】に籠もって抵抗を続け、この段階では討ち滅ぼすことができなかった。討伐軍は長期戦の末に兵糧不足に陥り、やがて攻囲を維持できなくなった。

その後、【袁紹】が本格的な易京攻撃を開始し、最終的に【公孫瓚】を滅ぼした。


ここでの【閻柔】の役割は重要である。

【鮮于輔】が繋いだ、【劉虞】が形成していた幽州の人的・政治的ネットワークに、【閻柔】が北方異民族層を代表する存在として加わったのである。

そして【閻柔】自身も、烏丸・鮮卑との間に築いていた関係を背景として、彼らを率いて【公孫瓚】との戦いに参加した。


つまりこの時期の【閻柔】は、単なる漢人勢力の一武将ではない。

【劉虞】の旧勢力と、烏丸・鮮卑という北方異民族勢力とを結びつける人物として、反【公孫瓚】勢力の中で独自の位置を占めていたと考えられる。



【閻柔】と【袁紹】。

【閻柔】は【袁紹】のために異民族との交渉などにあたったとある。

後漢書・烏桓鮮卑列伝より

「建安初,冀州牧袁紹與前將軍公孫瓚相持不決,蹋頓遣使詣紹求和親,遂遣兵助擊瓚,破之。」

建安(196年~)初、袁紹と公孫瓚が対峙して決着しない中、【蹋頓】が使者を【袁紹】のもとへ送り、和親を求め、兵を派遣して【袁紹】を助けて【公孫瓚】を攻撃し、これを破った。


【鮑丘の戦い】は興平2年(195年)の事なので、【公孫瓚】が籠城後。

【蹋頓】が【袁紹】に援軍として参戦したとある。



この交渉を【閻柔】が担当したのではないだろうか?

【遼西】と言う、【漁陽】【代】【広陽】【上谷】【右北平】を離反させた【鮮于輔】の支配下にない地域であること。

三郡烏丸【蹋頓】が207年、【袁尚】兄弟の助けをしている事からも【遼西】の支配権などを交渉材料にしたのではないだろうか。

【丘力居】が初平年間に没したとあるので、【丘力居】からの引継ぎもあり、【鮮于輔】らの決起から遅れて参戦したのだろう。

【閻柔】も【鮮于輔】もその支配権を否定しないから、共存できそうだし。


ここの関係は周囲、後世の状況からの逆算からの推測にすぎない。



そして199年、【公孫瓚】滅亡後。

【閻柔】は【護烏丸校尉】【邢挙】を攻撃して撃破。【護烏丸校尉】を自称した。


『後漢書』公孫瓚伝付・閻柔伝だと鮮于輔の戦の記録無しでいきなりここに飛ぶが、【護烏丸校尉】>【烏丸司馬】である事から【公孫瓚】攻撃が先である事。

田疇考察より【邢顒】が200年頃に【田疇】の下へ逃げ込んでいる事から199年から200年の出来事だと推測する。

※【邢挙】自身は名前と役職しか残っていないが近場で同じ姓の人物はいる。魏【太僕→太常・関内侯】【邢顒】・魏【太常・高平侯】【邢貞】。共に冀州河間郡鄚県出身。

あくまで推測。


史書上だと【烏丸校尉】とあるが、流石に【護烏丸校尉】の事だとする。在任者が居ない事、200年に【閻柔】が【曹操】から正式に任命されている事からも奪って自称、追認と判断する。



【鮮于輔】に比べると【閻柔】は【袁紹】に協力したと言う史書記録が残っているが、【閻柔】は【閻柔】で独自に支配下に入れていた鮮卑が居ると推測する。

この時期の鮮卑で【閻柔】と縁がある者で名前がわかっているのは【軻比能】【素利】【彌加】【厥機】。

烏丸は【蹋頓】【難楼】【楼班】【蘇僕延】【烏延】【能臣氐】。

後の記録でも【閻柔】は鮮卑には影響力が大きいが、烏丸は【袁紹】の影響が大きい。

上記烏丸伝でも【袁紹】に結びつくし、【鮮于輔】に協力した烏桓峭王【蘇僕延】も【閻柔】以外の伝手と見られる事からも鮮卑が得意、烏丸は一部な感じだったと推測する。



建安5年(200年)に【閻柔】は【曹操】に使者を派遣して正式に【護烏桓校尉】となった。同時期に【鮮于輔】も将軍位に就いている事から協力して送った可能性もありうる。協力関係にあるし。


ただし、この時期に袁紹から離反していたかと言うと非常に疑問に思う。


【鮮于輔】考察でも述べたが、【鮮于輔】は【袁紹】を見限って【曹操】についたわけだが、上記五郡に近場の涿郡を加えた幽州六郡は支配していても【袁紹】、烏丸からは挟まれている。【曹操】の支援を受けられずに孤立する事については何を考えていたのだろうか?

205年。【鮮于輔】は烏丸から攻撃を受けた時、自力では打開できず、【曹操】の援軍によって打破した。【曹操】が来ていたから助かったが、何故?となる。漁陽太守【王松】と【劉放】もそうだけど、どうするつもりだったのだろうか。実際は205年降伏なところを200年と語ったか。役職を受けた時期は200年でいいだろうが、【官渡の戦い】への【曹操】側での参戦を訝しむ。


これは【閻柔】にも同様の事が言える。



205年、曹操の支配域が幽州に届くと、【閻柔】は鮮卑と烏桓を率いて参上し、名馬を献上、【関内侯】となる。207年、三郡烏丸【蹋頓】征伐に参戦した。

以降も引き続き上谷郡寧城で異民族との交渉にあたった。



207年。ここで少し問題が。

【閻柔】の207年から220年までの役職は何???

200年から207年までは【護烏丸校尉】。

207年、白狼山の戦い後、【牽招】が就任する。

じゃあ、207年以降何だったかのか。ここには記録がない。

だけど、鮮卑との窓口は引き続き継続しているので、何らかの役職はあったと思われる。

わからんけど。



211年。【曹操】が西北に進軍している最中。【田銀】【蘇伯】が【河間】で叛旗を翻した。【閻柔】は【軻比能】3千余騎を引率して【田銀】を攻め、これを打ち破った。

【曹操】側からは【賈信】が参戦したとある。


【閻柔】が【曹操】軍に従って動いていた記録である。

また、鮮卑を動員できる信用がある事を改めて証明している。

それだけ。



【閻柔】は鮮卑の朝貢を支援したとあり、【軻比能】【素利】【彌加】【厥機】彼らの間を取り持っている。

故に【閻柔】は鮮卑を軍事的に動員できるだけでなく、複数の有力者について、朝貢・交易を中原政権につなぐ仲介者でもあった。



ただし、この辺から記録が無くなる。


最後の記録は220年。特進として【閻柔】が【度遼将軍】【都亭候】になった事、魏国建国時の魏上尊号碑に名前を連ねた事。

これが最後。


224年。【軻比能】が【田豫】に攻撃されて【鮮于輔】に泣きついた事件において、「夷狄不識文字,故校尉閻柔保我於天子。」とある事から、この地点で亡くなって、窓口が【鮮于輔】に切り替わったと思われる。

故校尉が元【護烏丸校尉】とも読めなくないが。


228年。今度は【軻比能】が【田豫】を攻撃して包囲するも、【閻柔】の弟【上谷太守】【閻志】が【軻比能】を説得した記録が残っている。


この二つからも【閻柔】が【軻比能】ら鮮卑からは晩年以後も慕われていた事がわかる。

晩年死後も好感度MAXとかチートだな・・・。



後、忘れてはいけないのが、【曹操】【曹丕】親子との関係だが・・・。

人たらしなのか、取って付けた話なのか。

由来は三国志注釈【魏略】。


【曹操】から【閻柔】へ

「私は卿を子のように見ている。卿も私を父のように見てほしい」

【閻柔】から【曹丕】(五官将)へ

「自ら五官将に託し、兄弟のようだった」


と言う記録。


「【曹操」が【閻柔】を子のように扱い、それを背景として、【閻柔】は【曹丕】に身を寄せ、兄弟のような関係になった」


鮮卑からの信頼 → 【曹操】からの信任 → 【曹丕】との「兄弟」関係

中心との関係を【曹操】【曹丕】との個人関係から結ぶ逸話だが、その割には記録残ってなさ過ぎて逆に浮いている話なんですよね。


ただ、【閻柔】を良く書いてるだけ。批判材料もないのでこのままです。



最後に【閻柔】まとめ。

ガチで鮮卑との仲は初登場時から終始MAX。これはチート以外の何物でもないです。

そして烏丸も交渉の伝手がある。

だからこそ、【鮮于輔】【曹操】【袁紹】からも北方の交渉役として大事にされた。


だけど、その記録はあまりにも少なくて、空白を埋める事すら困難で薄味です。

いいネタないかなぁ・・・。



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