第14話 天性の才能
「――はぁ、はぁ、はぁ……っ!!」
早朝の冷気が満ちる演習場に、激しい息遣いと足音が響き渡っていた。ルイザミーネの身体はすでに限界を迎えつつあった。
汗で額に張り付いた栗色の髪、打ち身で青く腫れ上がった膝と肘。普段の公爵令嬢としての華やかさは微塵もなく、泥と汗に塗れたその姿は、まるで野良犬のようだった。
しかし――その双眸だけは、折れるどころか爛々と強い輝きを放っている。
「まだまだ……っ! あたしは……こんなところで止まらないの……!!」
ルイザミーネが手にした二本の練習用木剣を固く握り直し、低く構えた。
その対面に立つレオンは、相変わらず黒いローブ姿で佇んでいた。だが、昨日までのように両手をポケットに入れた軽薄な姿勢ではない。彼の右手には、一本の細身の竹刀が握られていた。
「どうした、ルイザミーネ。動きが鈍っているぞ。……口ほどにもないな」
「黙りなさいよッ!!」
ルイザミーネが地面を蹴った。
昨日までの「単調な風の補強」ではない。彼女の足元から弾けた風の魔力は、一瞬で彼女の姿を左右にブレさせ、三本の残像を生み出した。
(速い……! だが、ただ速いだけじゃない!)
木陰の特等席で見守っていたシェラが、紫の瞳を僅かに細めた。
昨日までのルイザミーネの突撃は、ただ筋力と魔力に頼った猪突猛進だった。しかし今の走法は違う。
自分の体重の移動、風の抵抗、地面の反発力を極限まで計算し、無駄な力を一切削ぎ落とした「効率の塊」のような神速。
それもそのはず――ルイザミーネが幼少期から「スリ」という最悪の手癖の中で無意識に培ってきた『相手に察知されずに死角へ滑り込む隠密と身ごなしの才』が、レオンの適切な指導によって「戦闘技術」へと昇華されつつあったのだ。
『――不意打ちの極意は、無心にあり』
レオンの教えが、ルイザミーネの脳裏を駆け巡る。
(気配を消す……あたしが『公爵家の令嬢ルイザミーネ』であることを捨てる……! ただの『風』になるんだ……!)
シュッと、ルイザミーネの姿が視界から完全に消えた。
(右下……いや、背後上空!?)
レオンの頭上に、風の刃を纏ったルイザミーネが舞い降りる。
「喰らい……なさいッ!!」
完璧な死角からの二連撃。音すら置き去りにするその斬撃は、かつてレオンが戦ってきた並のB級、いやA級冒険者すら初見では防げない領域に達していた。
──ガキィィンッ!!
鋭い衝撃音が弾け、激しい風圧が二人の周囲の芝生を刈り取った。
「……っ!?」
空中で目を見開くルイザミーネ。
彼女の渾身の一撃は――レオンが頭上に掲げた竹刀一本によって、寸分狂わず受け止められていた。
だが。
――メキッ、
レオンの持つ竹刀の表面に、筋のような小さな亀裂が一つ、入っていた。
「……あ」
ルイザミーネが着地すると同時に、レオンは持っていた竹刀を引いた。
静寂が、演習場を包み込む。
ルイザミーネは肩を揺らしながら、悔しそうに拳を握りしめた。
「……また、防がれた……。やっぱり、かすりもしないわ……」
「馬鹿ね」
ベンチからシェラがフワリと浮き上がり、呆れたような、だがどこか感心したような声で言った。
「見なさいよ、お転婆娘。レオンの竹刀を。……ほんの少しだけど、ヒビが入ってるわ」
「え……?」
ルイザミーネが顔を上げると、レオンは自分の竹刀に入った亀裂を静かに見つめていた。
「……悪くない」
レオンの口から、低く掠れた声が漏れた。
「え……? レオン……いま、なんて……?」
「言ったはずだ。悪くない、と」
レオンは竹刀を静かに下ろすと、まっすぐにルイザミーネの目を見据えた。
「お前には『資質』がある。単なるお転婆な令嬢の戯れ言だと思っていたが……お前のその異常な手癖の悪さ、素早さ、そして風の魔力との親和性は、天性のものだ。正しく研磨すれば、王国のどんな刺客や忍者をも超える『冒険者』になれる」
「あ……あたしが……?」
ルイザミーネの胸が、ドクンと大きく跳ね上がった。今まで、誰からもそんな言葉を掛けられたことはなかった。
公爵邸の大人たちは、彼女を「危なっかしいお嬢様」「困った手癖の持ち主」としてしか見ず、腫れ物に触るように扱ってきた。誰も彼女の真の実力や、内側に秘められた情熱など見てはくれなかったのだ。
それを――あの冷徹で、地下迷宮の地獄を生き抜いてきた現・S級冒険者のレオンが、本気で認めてくれたのだ。
「だが」
レオンの眼光が、一段と鋭く冷ややかさを増した。
「今のままでは、ただの『筋が良い素人』止まりだ。実戦で本物のバケモノと対峙した瞬間、お前のその浅はかな自信は打ち砕かれ、命を落とす」
レオンは左手を差し出し、ゆっくりと拳を握りしめた。
「ルイザミーネ。お前に真の『強さ』を叩き込んでやる。……俺の教えは過酷だ。血を吐くような苦痛と、死の恐怖が伴う。途中で逃げ出すなら、今すぐ公爵邸に帰ってドレスでも着ていろ」
レオンの言葉は厳しかったが、その瞳には明確な『期待』が宿っていた。
裏切りと憎悪の中で生きてきたレオンが、シディスへの復讐を終えた今、初めて誰かを「育てる」ということに本気で向き合おうとしていた。
ルイザミーネの目から、溢れそうになった涙が引いた。代わりに、全身に熱い炎が燃え上がるような感動と決意が満ちていく。
「逃げる……わけないじゃないっ!!」
ルイザミーネは木剣を強く握り直し、ニッと八重歯を見せて力強く笑った。
「あたしは! レオンの『弟子』になるんだから! どんな厳しい修行でも耐えてやるわ! そして絶対に……あんたに『参った』って言わせてみせるんだから!!」
「……威勢だけは一人前だな」
レオンの唇の端が、僅かに上がった。
それは、彼が心の底から浮かべた、珍しい微かな「笑み」だった。
「よし。ならば次は――『魔力遮断の中での回避訓練』だ。教えてやれシェラ」
「はいはい。容赦なく叩きのめしてあげるわ」
シェラがクスクスと笑いながら、周囲に無数の小さな魔力弾を展開し始める。
「うえっ!? ちょっと待ってシェラちゃん! それ、当たったら普通に痛いやつじゃ――」
「死にはしないわよ。さあ、避けなさい!!」
「きゃあぁぁぁぁぁっ!?」
叫び声を上げながら、必死に魔力弾をかわし始めるルイザミーネ。過酷だが、どこか温かく生き生きとした「弟子育成」の時間が、演習場に流れていった。
◇◆◇
その日の夕刻。
鍛錬を終え、疲れ果てて泥のように眠りこけたルイザミーネを公爵邸へ送った後、レオンとシェラは王都の冒険者ギルド本部を訪れていた。
「――あ、レオンさん! シェラちゃん!」
受付の奥から、クララが嬉しそうに駆け寄ってきた。
「お疲れ様です! ルイザミーネ様との修行、いかがでしたか?」
「手のかかる奴だが……筋は悪くないな」
レオンが短く答えると、クララは驚いたように目を丸くし、それからほっこりと微笑んだ。
「レオンさんがそこまで人を褒めるなんて、久しいですね。ルイザミーネ様、本当に頑張っているんですね」
「まあね。でもまだまだ甘い口だけ番長よ」
シェラがレオンの肩の上で腕を組みながら言った。
「ところでクララ、何か用だったんじゃないのか? ギルド長から呼び出しだと聞いてきたが」
「あ、はい! そうなんです」
クララの表情が、少しだけ真剣なものへと変わった。
「実は……先日、シルフィア様を通じてご相談されていた『王国外縁部の調査依頼』の件で、ギルド本部から正式な報告が届いたんです」
「報告……?」
「はい。ここ最近、王都から遠く離れた農村や集落で、いくつか通信が途絶えている件ですが……先ほど、現地に派遣されていたC級冒険者パーティーから定期連絡が入りました」
クララは羊皮紙の書類をめくりながら説明した。
「なんでも、季節外れの記録的な大雨で土砂崩れが起き、通信用の魔導具が壊れていただけだったそうです。村人たちも無事で、山賊などの被害も一切確認されなかったとのことです」
「……そうか」
レオンは胸のつかえが下りたような感覚を覚えた。シディスとの戦いを終え、心のどこかで警戒を強めすぎていたのかもしれない。
王国のどこかで不審な事態が起きるたびに「まさか」と勘繰ってしまうのは、死線を潜り抜けすぎた者の悪い癖だった。
「ギルド長も『レオン殿の危惧はもっともだが、今回はただの自然災害だったようだ』と仰っていました。ですので、レオンさんが気に病む必要はありませんよ!」
「……分かった。手間をかけたな、クララ」
「いいえ! それじゃあ、気をつけてお帰りくださいね!」
笑顔で手を振るクララに見送られ、レオンとシェラはギルドを後にした。
夕闇が迫る王都の街並みを歩きながら、シェラがぽつりと呟いた。
「なんだ、ただの土砂崩れか」
「事故で済んだなら、それに越したことはない」
「まあね。……これで明日からも、落ち着いてあのお転婆娘のしごきに集中できるわね」
「……ああ」
レオンは頷いた。
ルイザミーネの成長は早い。あと数週間も集中して鍛え上げれば、公爵家の護衛など不要なほどの一人前の戦闘者になれるだろう。
彼女が自信を持って誇れるような冒険者にしてやる――レオンは密かにそう心に決めていた。
二人は、自分たちの選択と状況を何一つ疑っていなかった。ギルドに届いた「無事である」という報告を。
彼らは知らなかった。
そして、土砂崩れで孤立したはずのその村が、すでに誰一人として生者の存在しない『屍の村』へと変わり果てていることを。
さらに――ヴァルフレイドの第一の幹部『狂刃のレヴィン』の冷酷な視線が、ルイザミーネの持つ「グランヴェル公爵家の秘宝」と、彼女自身の持つ天性の風の魔力に向けられ始めていることを。
「……順調だ」
暗闇の中で、誰かの嘲笑が静かに響いていた。誰も気づかぬまま、偽りの平穏と、真実の覚悟を深める師弟の時間が流れていく。




