第7話「なんでか精霊が追い返さないんだけど!?」
走っている。
裸足のまま、夕暮れの森を南東へ。精霊たちが慌てたように後を追ってくる。——ごめんね、急で。でも止まれない。
精霊が追い返せない人間。結界が道を曲げても出ていかない人間。そんなの、気になるに決まってるでしょ?
「パピーに言わなきゃ」って、さっき精霊に叫んだっけ。「あとで」って。——あとでいいよね? 見るだけだもん。ちょっと見て、すぐ帰る。たぶん。
辺境まではそれなりに距離がある。転移したいけど、どこにいるか分からない相手のところには飛べない。
「ねえ、風に乗せて。上から探す」
精霊が応えて、風が渦を巻く。身体がふわりと浮き上がって、梢の上に出た。森が一面に広がる。夕暮れに染まり始めた緑の海——南東の辺境に向けて、風が髪を引く。
精霊が五つ、ついてきている。慌てて追いかけてきた子たちだ。一つがわたしの肩に飛び乗って、残りが風に煽られながら必死についてくる。
風に乗りながら精霊に話しかける。
「ねえ、その人間ってどのへんにいるの? 南東って言ってたけど、もうちょっと詳しく教えて!」
精霊が前方を光で指す。森の辺境——人間の領域との境界。ここから先は精霊の結界が道を曲げて、普通の人間は気づかないうちに森の外に出てしまう場所。
「どんな人? 武器とか持ってた?」
精霊が光をくるくる回す。「分からない」の合図。
「分からないって何! 追い返すか無視するかのどっちかでしょ、いつもは!」
精霊がもごもごと光る。追い返しもしない。無視もしない。どうしていいか分からない、って。——なにそれ。そんな精霊、見たことないんだけど。
結界を抜けてくる人間なんて、普通いない。迷い込んでも精霊が道を曲げて帰しちゃうのに。
上空から見下ろすと、森の色が変わっていくのが分かる。中心部の深い緑から、辺境に近づくほど薄くなる。精霊の気配も薄い。肩の精霊の光も、心なしかおとなしくなっている。
精霊が一つ、下を指した。
「……いた?」
精霊が光る。——あそこ。
風を弱めて、梢の隙間から降りていく。裸足で苔を踏む。夕日が差し込む、小さな空地の手前。
深呼吸を一つ。森の空気を肺に入れて、吐く。
* * *
気配があった。人の気配。
木立の向こうに、少し開けた場所がある。風が木の葉を揺らしている。
——切り株に、誰かが座っていた。
黒い髪。白い肌に灰色の瞳。線の細い青年。膝の上に分厚い本を広げて、何かを読んでいる。
ちょっと見て、すぐ帰る。——そのつもりだった。
枝を踏んだ。ぱきり、と音が鳴った。
青年が顔を上げた。
——刺すような気配が、一瞬だけ空地を走った。
短い。息を吸うより短い。でも精霊が反応するには十分だった。肩の精霊がびくりと竦んで、わたしの周りの空気が震える。白焔が灯った。精霊がわたしを守ろうとしている——あの気配から。
白い光が身体から溢れて、周囲の木々の葉が白く発光し始める。空地に注ぐ木漏れ日が白い光に変わっていく。
でも——もう、あの気配は消えていた。
顔を上げた青年は、穏やかな顔をしていた。さっきの鋭さが嘘みたいに。灰色の瞳がわたしを見ている。驚きはある。でも恐怖がない。白焔の光を、静かに映している。
……なに、今の。気のせい? ——え、なんでわたし白焔出してるの? やだ、消して消して!
でも精霊は気のせいで反応しない。それなのに目の前の青年からは——何も感じない。穏やかで、柔らかくて、膝の上の本を閉じもしない。
「……興味深い」
声が聞こえた。低く、穏やかで、温度のある声。
「あなたが、この森のエルフの方ですか」
丁寧な言葉遣い。震えていない。白焔に照らされた空地の真ん中で、切り株に座ったまま、本を膝に乗せたまま、穏やかに——見ている。
わたしは、止まった。
白焔を纏ったまま、動けなくなったのはわたしの方だった。心臓が一拍だけ早く打って、次の拍を忘れたみたいに間が空く。息を吸うのを忘れている。
……え、なんで逃げないの?
白焔を見て逃げなかった人間なんていない。なのにこの人、座ったまま。焔じゃなくて——わたしの顔を見てる。
その時、視界の端で何かが光った。
精霊が一つ——青年の肩に止まっている。
「……え?」
声が出た。子供っぽい、間の抜けた声が。
精霊がいる。わたしの精霊ではない。森の精霊の一つが、この人間の肩に寄り添っている。光が穏やかに脈打っている。怯えも、警戒もない。
白焔が揺れた。
身体を包んでいた熱が引いていく。消そうとしたのではない。消えていく。わたしの意志ではなく——精霊が、白焔を鎮めている。
「この人は大丈夫」
精霊がそう伝えてきた。光の言葉で。短く、はっきりと。
白焔が消える。腕から、肩から、指先から。白い光が溶けるように空気に吸い込まれて、木漏れ日が元の橙に戻る。木の葉の発光も収まり、空地に夕暮れの光が戻ってくる。
残ったのは、静けさ。
それから——精霊たちが動き始めた。
一つ、二つ。わたしの周りにいた精霊が、ふわりと浮き上がって、青年の周りを飛び始める。きらきらと光を散らしながら、くるくると回っている。
歓迎している。
精霊が——人間を歓迎している。
「…………」
精霊が青年の周りを飛ぶたびに、灰色の瞳がその軌跡を正確に追っている。——見えているのだろうか。いや、人間に精霊は見えないはず。
青年が目を細めた。精霊の光が灰色の瞳にちかちかと色を落としている。その顔に浮かんでいるのは、驚きではなかった。不思議そうに、でも嬉しそうに、光の粒を目で追っている。
わたしは、白焔が消えた手をぼんやりと見下ろした。
精霊が白焔を鎮めたのは——初めてだった。
わたしが止めたのではない。精霊が自ら鎮めた。——そんなこと、今までなかった。
「——あの」
青年の声。
わたしは顔を上げる。
「驚かせてしまいましたか。すみません、僕は……この森の植生を調べていて」
本を少し持ち上げて見せる。分厚い革装丁の本。表紙に何か文字が刻まれているけど、ここからでは読めない。
「精霊さんたちが案内してくれたものですから、つい長居を」
精霊が案内した?
この人間は精霊が「案内した」と言った。見えていなければ、精霊の導きだとは気づかないはずなのに。
肩の精霊に目をやる。精霊がちかちかと光る。——否定しない。むしろ、「そうだよ」と言っている。
追い返そうとしたのではなかったのか。霧を出して、道を曲げて——追い返せなかったのではなく、途中から、案内に変わった?
「ちょっと待って」
精霊に話しかける。声に出して。
「追い返せなかったんじゃないの? 案内したの? どっち?」
精霊が困ったように光る。もごもごと、曖昧に。——最初は追い返そうとした。でもこの人間は穏やかで、精霊を怖がらなくて、本を読んでいるだけで、だから……。
「だからって案内する!?」
青年が、小さく笑った。
声を立てない笑い方。口元だけが微かに緩んで、灰色の瞳が細くなる。精霊がその笑顔に反応して、またきらきらと光を散らす。
わたしは——困惑していた。
分からない。この人間が何者なのか、分からない。精霊の結界を越えて、白焔に怯えず、精霊に歓迎されている。わたしの記憶のどこを探しても、こんな人間に会った覚えがない。
でも、怖くはなかった。精霊の光が穏やかに脈打っている。害はない、と。精霊はわたしに嘘をつかない。ずっと、一度も。
「……あなた、変な人」
口をついて出た言葉は、それだった。
青年が瞬く。灰色の瞳が少し驚いたように見開かれて——それから、穏やかに戻った。
「よく言われます」
そう言って、また微かに笑う。——不思議な笑い方。白焔を目の前で見たばかりなのに、怖がりもせず、かといって媚びてもいない。ただ、面白がっている。
わたしを面白がる人間なんて、いなかった。怖がるか、敬うか、どっちか。なのにこの人は——変な人。
* * *
風が吹いた。木の葉がさわさわと揺れて、精霊の光が風に流される。
青年は切り株に座ったまま。わたしは空地の端に立ったまま。五歩分くらいの距離。なんとなく、これ以上近づく気になれない。
名前を聞いていない。聞いた方がいいのは分かってる。パピーに報告しなきゃいけないし。でも、聞いたら——この人のことを、もっと知りたくなる気がする。
帰ろう、と思った時、青年が口を開いた。
「また来ますか。精霊さんたちが、あなたが来ると嬉しそうでしたから」
精霊が、ぱちぱちと光る。同意しているみたいに。——ちょっと、この子たち。いつからこの人間の味方なの。
「どうだろうね。わかんない」
振り向きかけて、思い出したように付け足す。
「——あと、この辺にいるのはいいけど、これ以上奥には来ないでね。ここはわたしたちの森だから」
言ってから、なんでわたしがこの人間の心配してるんだろ、と思った。
踵を返す。木立の中に入っていく。
背中に、あの穏やかな気配が残っている。怖がらなかった人。面白がってくれた人。——もうちょっとだけ話してみたかったのに、自分から帰っちゃった。なんでだろ。
精霊が一つ、わたしの肩に乗る。光が穏やかに脈打っている。「どうしたの?」と聞いている。
「……別に。なんでもない」
足元の苔を踏む。裸足の指先にひんやりとした冷たさが伝わる。
……あー、名前聞けばよかったな。なんで聞かなかったんだろ。
まあいいや。また会えたら、その時聞こう。——また来るかって聞かれて「わかんない」って答えたけど、まあ、精霊の様子は見に行かなきゃだし。うん。そういうことにしとこ。
精霊が肩でちかちかと光る。——笑っている。絶対笑ってる。
「うるさーい!」
精霊に声をかける。「帰るから、風に乗せて」。ふわりと身体が浮いて、梢の上に出る。茜色の空が広がっている。
風に吹かれながら、なんとなく空地の方を見下ろした。切り株の上の青年が、こちらを見上げている気がする。遠すぎて、顔は見えないけど。
——なんだろ、この感じ。ふわふわする。風のせいかな。たぶん風のせい。
* * *
空地に、夕暮れの光が落ちている。
レーヴェンは帳面を膝の上に広げたまま、ペンを止めていた。さっき現れたエルフの令嬢は、白い焔を纏って——すぐに帰ってしまった。
精霊が二つ、肩の近くを漂っている。この不思議な光の粒が、ここに来た初日から離れない。帳面の上をくるくると回って、ペンの先を追いかけている。どの文献にも「精霊は人間に懐かない」と書かれていたのだが。
帳面に目を落とす。小さな文字がびっしりと並んでいる。精霊の分布。結界の構造。森の地形。——そして今日、新しく書き加えた一行。
「エルフの令嬢。白い髪。琥珀の瞳。裸足。精霊が異常に懐いている」
その下に、書きかけの一文。
「また来ますか、と聞いた時——」
帳面を閉じる。
「わかんない」と答えた声を、思い出している。振り向きかけて、やめて、それでも最後に「奥には来ないでね」と付け足した。——追い出すつもりなら、あの一言は要らない。
精霊が一つ、帳面の上でちかちかと光る。まるで「書きなさい」と急かすように。
「……君たちは、彼女の味方だな」
声に出して言ってから、少しだけ困ったように笑った。
ふと、肩の精霊の色が翳った。金色の光がくすんで——すぐに戻る。レーヴェンの灰色の瞳が、南の方角に向いた。何かを見たように。
帳面を開き直す。記録すべきことが——一つ、増えた。




