第5話「怒られるのと報告するの、どっちが先?」
精霊転移の光が消えて、足の下に森の土の感触が戻る。
紙袋四つ、無事。焼き林檎の匂いもまだ残っている。——でも指先には、あの冷たさの記憶がまだ残っている。
精霊たちが寄ってくる。いつもならきらきら嬉しそうなのに、今日は——そわそわしている。「あのね、あのね」みたいな落ち着かない光り方。
「……パピー、怒ってる?」
精霊がぷるぷると揺れた。答えるまでもない、という光り方。
館の前に——見えた。
銀髪の長身が立っている。
ヴェルディナス・ファ・アルネスティア。わたしのパピー。——穏やかな顔をしている。腕を組んで、背筋をまっすぐに伸ばして、午後の木漏れ日の中に佇んでいる。
静かだ。微笑んですらいる。
藍色の瞳が、笑っていない。
「……」
わたしは紙袋を一つ、前に突き出した。
「おみやげ……」
* * *
「座りなさい」
柔らかい声だった。荒げない。怒鳴らない。——でも、婚約破棄の夜に帰った時とは違う。あの時は大気ごと揺らすような怒りだった。今日のは——怒りじゃない。
いつものソファに沈み込む。紙袋をテーブルに並べて、隣を見上げる。
——ソファの端に、毛布が畳んであった。パピーが仕事をしている横で、わたしがこのソファで寝落ちするのはいつものこと。その時用の毛布。でも朝は畳んでいなかったはず。隣の小卓には、蓋をされた陶器のカップ。触れてみる。ぬるい。——何度か淹れ直した温度だ。
窓から午後の陽が差し込んでいる。壁一面の本棚に光の筋が渡り、革表紙の背が鈍く光る。暖炉には火が入っていない。でも、この部屋だけ妙にあたたかい。精霊が——多い。隅っこに一つどころじゃない。五つ、六つ。窓辺にも、本棚の影にも、パピーの机の脚元にも。みんな小さく光って、ただじっとしている。パピーの不安を吸い取ろうとするみたいに。
——パピーが、ずっとここで待っていたんだ。
パピーが隣に座る。同じソファ。銀髪に午後の光が落ちている。
「——無事であったか」
え。
お説教じゃなかった。最初の一言が。
「お前の気配は森の端まで筒抜けだ。部屋を出た瞬間から、精霊がざわついていた。——蜜花堂を出るまでは、様子を見ておった」
全部知っていた。最初から。知った上で、あの静かな笑みで立っていた。
「だが——」
パピーの声が、ほんの少し揺れる。あの揺るぎない声が。
「昨夜から、精霊たちが怯えておった。南の方角を向くと、光が鈍り、小さな精霊は近づきたがらぬ。——お前がその傍を通ったかと思うと」
言葉が止まる。パピーの指が膝の上で握り締められている。——怒りじゃない。これは。
「心配、してくれてたの?」
「王都には出るなと申したであろう」
叱責に切り替わる。でも遅い。先に心配が出てしまった。千年パピーを見てきたから分かる——本当に怒っている時は、心配なんて言わない。
「……ごめんなさい」
「フードを被れば気づかれぬとでも思ったか」
「……うん」
「正直だな」
「だって嘘ついても精霊がバラすもん」
膝の上の精霊がびくっと跳ねた。ごめんね、あなたのせいにしてるわけじゃないの。——いや、ちょっとしてるかも。
パピーが額に手を当てる。銀色の前髪の間から、深いため息が漏れた。底なしに深いため息。
「お前が王都を歩けば——人間は怯える。怯えた者がお前を傷つけることはできぬ。だがお前が誰かを傷つけてしまえば、それは二度と戻せぬ」
叱責ではなかった。戒めだ。千年ずっと言われてきた同じ言葉。でも今日は響き方が違う。——あの焔を見た後だから。
「……うん。分かった」
「二度目はないぞ」
「うん」
お説教はここまで。前に精霊蜂の巣を突いた時は三日間叱られたのに——短い。精霊が怯えていた、とパピーは言った。何かがある、と。パピーも気づいていたんだ。あの黒い焔の——気配だけは。
だからこそ、隠してはいけない。心配してくれた人に、嘘はつけない。
* * *
窓の外が暗くなりはじめる。精霊たちの光が、夕焼けに代わって部屋を照らす。
背筋を伸ばした。
「パピー、一つ報告がある」
声が変わったのは、自分でも分かる。
パピーの目が、わずかに鋭くなる。——気づいている。わたしの空気が変わったことに。
「聞こう」
一拍。パピーの藍色の瞳が、ほんの一瞬だけ南の窓に向いた。——精霊の異変には、とうに気づいている。わたしが何を言おうとしているのか、半分は読めているはず。
「王宮の地下から——何かが滲み出してる」
短く言い切る。遠回りはいらない。——でもパピーの瞳が、微かに揺れた。半分は読めていたはずの答えの、もう半分が想定の外にあった。
——でも、その先を口にしようとして、喉が詰まる。
あの冷たさを言葉にしたら、もう一度触れてしまう気がした。指先に残った痺れが疼く。膝の上で手を組む。——震えている。千年生きて、こんなことは覚えがない。声なら作れる。表情なら繕える。でも指先は嘘をつけなかった。
「焔みたいなもの。黒くて——」
部屋の隅にいた精霊が、ぱっと色を失くす。
わたしの言葉に反応している。「焔」と口にしただけで、淡い光がちりちりと萎み、壁際まで後退していく。膝の上にいた精霊も、するりと離れて浮き上がる。精霊は嘘をつけない。感じたものをそのまま光にする——わたしの言葉が、恐怖を映した。
「……怖いの?」
精霊が答えない。光をぎゅっと細く絞って、ただ縮こまっている。——千年ずっと一緒にいて、わたしの言葉から逃げたのは初めてだ。白焔が暴走した時ですら、この子たちは傍にいてくれたのに。
隣で、パピーの手が止まる。精霊の異変を、見逃すはずがない。
「続けよ」
静かな一言。でもその声に、「急げ」の響きが混じっている。
「温度がないのに燃えてる。わたしの白焔と正反対の——地下の、ずっと奥深くから這い上がってきてた」
言い終えて、息を吐く。言葉にしてしまった。もう取り消せない。
沈黙が降りる。
夕焼けはもう消えている。精霊の光だけがパピーの横顔を照らしている——その光が、揺れている。風もないのに、窓の外の木々が静まり返る。森が息を詰めている。この書斎の中の感情に、木々の一本一本が耳を澄ませるように。
何も言わない。パピーが、言葉を探している。——見つからないのだ。この人が。
五百年前に一度だけ見た。白焔が暴走したわたしを抱き止めた時——その時と同じ瞳が、精霊の光の中でわたしを見つめている。
「……地下から、と言ったか」
「うん。結界が蓋になってて、見えなかっただけ。たぶん、ずっと前から——」
パピーが立ち上がる。ソファのばねが、ぎし、と鳴る。
窓に歩み寄り、南の方角を見つめる。片手を掲げると、精霊たちがさっと集まる。——精霊を飛ばして、王宮の地下を探らせるつもりだ。
でも、精霊たちは飛ばなかった。
パピーの手のひらの上で集まったまま、王宮の方角に向けられた途端、一つ、また一つと離れていく。怯えるように。
パピーが手を下ろす。精霊たちは命令に従えなかった。
「我は、そのようなものは知らぬ」
この大陸と共に永い時を過ごしてきたパピーが、「知らぬ」と言っている。窓ガラスに手を添えたまま動かない。——あの結界を維持してきたのも、止めたのもパピーだ。その下に何が眠っていたのかを、知らなかった。
「……結界を停止した判断は変えぬ。あれは人間を守るための壁ではない。我らの怒りの表明だ」
声に揺らぎはない。でも——次の一語が、遅い。
「だが——あの結界の下に何があるのか、我は知らぬ。知らぬまま、止めた」
それだけ。言い訳も、弁明もない。ただ事実を口にした。——それがパピーだ。
* * *
パピーがしばらく窓の前に立っていた。銀髪の背中が精霊の光に浮かんでいる。
テーブルの紙袋は温もりを失いかけている。砂糖の衣が冷えて固まる匂い——甘さの名残だけが書斎に漂っている。
「……父上ならば、何かご存じかもしれぬ」
「おじぃに聞くの?」
パピーが振り返る。
「父上は——我より遥かに長く、この大陸を見てきた。我の知らぬ時代の記憶を持っておる。あの結界が張られるより前の時代を」
「おじぃ、腰が痛くて来れないんじゃない?」
「来る必要はない。知っておるかどうか確かめるだけだ」
パピーが手を掲げると、ひときわ強い光の精霊が一つ、応えた。おじぃの霧泉の森は、外からは見つけられないようになっている。そこを越えて飛べるのは、この子だけ。
「……飛べ」
精霊がぱっと光を強め、窓の外へ飛び出す。北へ。梢を縫い、夜空を駆け——やがて闇に溶けていく。
「届くまで、どのくらい?」
「分からぬ。父上の結界は、容易には通さぬ」
パピーが座り直す。動揺はもう見えない。できることをしたら、あとは待つ。——でも、さっきの「確かめていなかった」がまだ胸に引っかかっている。
「お前が王都に行ったことは、結果として重要な情報をもたらした。——だが許したわけではないぞ」
「……さっきも『二度目はない』って言ったでしょ」
「大事なことゆえ、二度申したのだ」
パピーの口元がほんの少しだけ緩む。——怒りが解けたんじゃない。わたしがいつも通りなことに安堵している顔。
* * *
緊張が解ける。
紙袋を開けて、焼き林檎を並べる。冷めてしまったけど、蜜花堂のは冷めてもおいしい。砂糖の衣がぱりぱりになって、噛むと蜜がゆっくり溶ける。
「パピーも食べる?」
パピーが紙袋を見る。藍色の瞳に、さっきまでの鋭さはもうない。
「……お前は、こういう時にも菓子か」
「だって、おいしいもん。——パピーのぶんも買ってきたんだよ? 怒られるの覚悟で」
パピーが一つ手に取った。渋々、という顔をしている。——でも手は迷わなかった。わたしが買ってきた菓子を断ったことは、千年で一度もない。
皮をひと口。咀嚼する。昨日も食べたくせに、初めてみたいな顔をしている。
「……甘すぎる」
「おいしいでしょ?」
「甘すぎると言っておる」
でも二口目を食べている。三口目も。——やっぱりおいしいんじゃん。
窓の外に目を向ける。伝令の光はもう見えない。夜の森に精霊たちがいつもの光を灯している。静かで、やわらかくて、甘い空気。
でも——南の方を向くと、精霊たちの光が少しだけ翳る。あの黒い焔がある方角。
「……パピー」
「なんだ」
「あの国、大丈夫かな。結界がなくなって、あの焔が——」
パピーが焼き林檎を飲み込む。一拍。
「あの国がどうなるかは、あの国の者どもが考えることだ。——我らの与えた庇護に甘え、その恩を忘れた者らがな」
静かな声。怒りではない。ただの事実として。
パピーが目を閉じる。精霊の光に照らされた横顔が、一瞬だけ——ただの父親に見えた。娘が買ってきた菓子を食べて、娘の隣で目を閉じている、ただの父親。一万年も生きているのに。いや——一万年も生きたから、こういう瞬間が要るのかもしれない。
わたしは焼き林檎をもう一つ噛む。ぱりっと衣が割れて、蜜がじわりと広がる。甘い。さっきまで胸の底に沈んでいた冷たさが、この甘さに少しだけ押し返される。おじぃに届くまで、あの光はひとりで飛び続けている。それまでは——
その時、南の窓辺で精霊が一つ、びくんと弾けた。
王宮の方角を見張らせていた子だ。光が脈打っている。規則正しくじゃない。断続的に、ばらばらに。何かを伝えようとしている。
パピーの目が開く。藍色の瞳が、精霊に向けられる。
「……今のは、なんであるか」
精霊の光が一段と強く明滅する——そして、ふっと色が褪せた。あの黒い焔に触れた精霊と、同じ褪せ方。
指先に、あの冷たさがよみがえる。
触れてもいない。ここは森の奥だ。なのに——口の中の蜜の甘さが、すっと引いた。焼き林檎のあたたかい匂いが消えて、代わりにやってきたのは——空白。匂いの抜けた空気。
——森にまで、届き始めている。
焼き林檎をテーブルに戻す。パピーの手元を見る。——パピーも、二つ目の焼き林檎を置いていた。同じものを感じている。
パピーの藍色の瞳と、目が合う。わたしが何を言うか、もう分かっている目。
「パピー、おじぃの返事を待ってる暇、なさそうだよ」




