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第2話「ただいま——って、パピー怒ってる?」

森に入った瞬間、空気が変わる。


精霊の息吹が混じった、甘くて深い——ティルナ大森林の空気。木々の葉が月光を受けて銀色に輝き、足元では苔が淡く光っている。


わたしは大きく息を吸い込んで、両手を広げた。


「——ただいま!」


精霊たちがわっと寄ってくる。光の粒みたいにきらきらして、髪や肩にまとわりつく。おかえり、おかえり——声はないけど、そう言ってるのが分かる。


「うん、ただいまなの! ちょっと大変だったけど、もう帰ってきたよ!」


侍女が隣で小さく息をついている。「ちょっと大変」の中身を知っている顔。


わたしは手に下げた紙袋を掲げた。蜜花堂(みつはなどう)の焼き林檎の砂糖がけ、四箱。一箱開けて、歩きながら頬張る。皮が弾けて、中の蜜がとろりと溢れる。砂糖の衣がぱきんと割れる。


「——おいひい」


口いっぱいに甘いものを詰め込みながら、森の奥へ。精霊たちが光の道を作ってくれる。ティルナの森は夜でも暗くない。わたしの森。わたしの帰る場所。


 * * *


森の奥に着いた時、父が立っていた。


銀髪を長く垂らし、月明かりの下、微動だにしない。穏やかな顔をしている。いつもと同じはずなのに——森が、静かすぎる。


さっきまで飛び回っていた精霊たちが、ぴたりと動きを止めている。風すら、止まっている。


「……パピー?」


「おかえり、ミレーゼ」


声は穏やかだった。この人の、深くて静かな声。


笑っていない。口元は穏やかなのに、深い藍色の瞳が笑っていない。


侍女がそっと目を伏せている。——あ。


「……もしかして——」


「精霊伝令を受け取った」


やっぱり。


「もう知ってるの? ……早いなぁ」


侍女に振り返ると、彼女は深く頭を下げた。でも謝罪の姿勢ではない。「報告すべきことを報告しました」という、揺るぎない姿勢。


「こちらへ来なさい」


わたしはお菓子の箱を抱えたまま、広場の中央へ歩いた。大樹の根元に座ると、苔がふかふかで気持ちいい。


しばらく、何の言葉もなかった。


「あの場で何が起きたか、全て聞いた」


声を荒げる必要がない。代わりに——森が応えている。


森全体が低く震えはじめる。足元の苔から、大樹の根から、遠くの梢から。精霊たちの光が明滅を繰り返し、古い大樹の幹が呻きを上げる。枝が軋み、葉擦れの音が波のように広がっていく。森そのものが、父の感情に共鳴している。


わたしが王宮でやったのは、白い炎で広間を壊したこと。でもパピーは違う。炎なんか出さない。森ごと呻かせる。もっと静かで、もっと深い怒り。


「……怒ってる?」


聞くまでもなかった。森が答えを出している。


わたしは砂糖がけの焼き林檎を一口噛んだ。ぱりっ、と衣が割れる音。森の静寂の中で、その音だけがやけに響く。


「べつにいいのに。大げさだよ」


「——いいはずがない」


ほんの少しだけ声が低くなる。それだけで、周囲の精霊たちがびくりと身を縮めた。


「我が娘を——公衆の面前で、あのような言葉で侮辱した。赦す道理がない」


父の拳が、体の横で握り締められている。指先が白い。永い永い時を刻んだ手が、たった六年の付き合いの人間の言葉で強張っている——娘のために。


「ほんとにいいの。わたしべつに気にしてないし——」


「嘘をつくな」


ぴたり、と。わたしの言葉が止まる。


「お前の白焔(はくえん)が顕現したと聞いた。大広間の床を砕き、窓硝子を割り、壁の紋章を剥がしたと」


藍色の瞳が、まっすぐわたしを見据える。


「お前が本当に気にしていないなら——白焔は、出ない」


わたしは黙った。足元の苔を見つめる。光る苔がぼんやり滲んで、なんだか視界がおかしい。——泣いてない。泣いてないからね。


……そう。その通り。婚約破棄はどうでもよかった。聖女も興味がない。でもあの言葉だけは——べつになんかじゃなかった。


 * * *


父の手が、わたしの頭にそっと触れる。銀色の髪を、ゆっくり撫でてくれる。


わたしが生まれるずっとずっと前から存在していた手。千年間、こうやって撫でてくれた手。この手だけは、どんな人間の言葉よりも確かなもの。


「……すまなかった、ミレーゼ」


え。


「あの婚姻を決めたのは、我だ」


木々の震えが、ふっと止まる。さっきまで森を震わせていた怒りが、別の形に変わっていく。


「政治的に必要だと判断し、お前に義務を押しつけた。——この長き生で、政を知らぬわけではない。だが、あの小童の器を見誤った」


「その結果、我が娘が——あの場で、あのような言葉を浴びた」


「やめてよ。パピーのせいじゃないでしょ」


「我のせいだ」


目を逸らさない。月明かりに照らされた銀髪の横顔が、石像みたいに動かない。


「一万年を生きて——あの小童がそこまでの愚か者だと、見抜けなかった」


その言葉の重さに、精霊たちが身を縮める。怒りのときは呻いていた森が、今度はしんと静まり返っている。あの父が、自分を責めている。——その沈黙は、怒りよりずっと痛い。


「守れなかったんじゃないの! わたしが自分でぶっ壊してきたんだから! 王宮の床とか窓とか壁とか!」


「……修繕費は相当なものだろうな」


「あはは、ごめんね? でもぱりーんって割れた時、ちょっとすっきりしたの!」


銀髪の背中が、ほんの少しだけ緩んだ。


でもすぐに——パピーの目が、再び深い色を湛える。自責を振り切るように、判断を固めるように。


「——ミレーゼ。この件は、看過できない」


「成人の宣言で王太子がエルフの公爵令嬢を公衆の面前で侮辱した——それは王太子個人の言葉ではない。国の次代の意志だ。アルネスティアの名を汚した。これは個人の無礼ではない。——同盟への冒涜だ」


傍らの古木の幹に手を添える。月光が銀髪を白く染める。一瞬、精霊たちの光がすべて父に向かって集まり——また散った。


「八百年前、我はグランリーデンと盟約を結んだ。人間にとっては永遠に等しい盟約——だが我にとっては、少し前のことにすぎない」


八百年前。わたしも覚えてるけど、ぼんやりとしか。でもパピーにとっては「少し前」。——この人の時間は、わたしよりずっと長い。


振り返る。


「盟約の重みを忘れた者に、それを守り続ける理由はない」


淡々としている。感情はもう片づけた。残っているのは判断だけ——だからこそ、覆せない。


「……報復するの?」


「報復ではない」


首を振る。


「維持を、停止するだけだ」


その一言が、森に落ちる。精霊たちがざわめく——彼らにも意味が分かるんだ。


わたしが年に二回、退屈な点検をしてた結界。森の精霊たちが見守ってた国境の防壁。——全部止まったら、あの国の守りはどうなるんだろう。


「やりすぎじゃない?」


「精霊は王宮と国境を守っておった。民の畑を耕していたわけではない」


「やりすぎではない。今まで与えすぎていただけだ」


——あ。この顔は、もう止まらない顔だ。


怒りで動いているなら止められる。でもパピーはもう怒ってない。判断している。この人が、冷徹に、淡々と。「もう世話をする理由がなくなった」——それだけ。


「おじぃにも伝えるの?」


ふと口をついて出た言葉に、父が一瞬だけ動きを止めた。


「……いずれ」


「おじぃが知ったら怒るかなぁ」


わたしは焼き林檎を一つ摘まみながら、呟いた。


「——いや、おじぃが知ったら、パピーよりやばいから。……パピーが先に片付けちゃった方がいいかもね」


父の口元が、ほんの一瞬——引きつった。おじぃの怒りを想像したんだろう。


「父上には、我から報告する。——余計なことは言うな」


「はーい」


 * * *


森が落ち着きを取り戻しはじめている。精霊たちの光が安定し、葉擦れの音が穏やかに流れる。さっきまでの張り詰めた空気が、少しずつ解けていく。


父がわたしの隣に戻ってきた。


「明日から、精霊への指示を段階的に縮小する。王宮の結界。国境防壁。交易路の安全保障。——順次、終了する」


淡々と。まるで明日の天気を告げるように。


「ミレーゼ、お前は何もしなくてよい。何も——考えなくてよい」


「……わたしだって、何もしないなんてやだよ」


でも父は聞いていない。続けた。


「お前は森で、好きに暮らしなさい。菓子を食べて、精霊と遊んで、昼寝をして。——お前が笑っていれば、それでよい」


その手が——わたしの頭に触れたまま、止まっている。指先に、ほんのわずかな力がこもっていた。


さっき「維持を停止する」と宣言した時は微動だにしなかったのに。娘の頭に触れる時だけ、力の入れ方を間違える。——ずるい。こういうの、ずるいよ。


わたしは父の腕にしがみついた。足元に置いた紙袋から、まだ甘い匂いがする。


こうやってしがみつくのは、何百年ぶりだろう。百年前に人間の友達が死んだ時以来かもしれない。あの子の名前——覚えてる。全部覚えてる。エルフだから。忘れられないのは、祝福じゃなくて呪いに近い。


「……パピーのぶん、あげる」


紙袋を差し出す。父がそっと受け取って、一つ口に含んだ。


「……甘いな」


「でしょ! 蜜花堂(みつはなどう)のは特別なの! 外がぱりっとしてて——」


「ああ。……美味い」


万年の公爵が、焼き林檎を噛んで「美味い」と言っている。さっき森を震わせた人と同じ人には、とても見えない。


——でも、それでいい。これがわたしの家族。


遠くで、精霊たちが静かに移動している。王宮の方角から、森へ向かって。帰ってきている。


父が指示を出したわけじゃない。まだ。でも精霊たちは、もう感じ取っている。エルフの公爵の怒りを。あの自責の沈黙を。——この森が、もう人間の国を守る気がないことを。


遠くで、精霊伝令の光が一つ、森の外へ飛んでいった。


父の判断。グランリーデン王宮に届く最後の精霊——「同盟の見直し」を通告する、静かな火の粉。


人間は気づいているだろうか。精霊が、一つずつ帰ってきていることに。


わたしは目を閉じる。パピーの腕はあったかい。森の空気は甘い。焼き林檎の余韻が口の中に残っている。


——でも。


焔は、まだ消えていない。


お菓子を食べても、森に帰っても、パピーにしがみついても。あの言葉が、まだ耳の奥に残っている。


べつにいいって言ったのに。気にしてないって言ったのに。


——嘘つき。父の言う通り。気にしてないなら、白焔は出ない。


ふと——帰ってきた精霊の一つが、わたしの指先に止まった。


いつもなら温かい光なのに。この子の色が——おかしい。淡い金色のはずが、端の方だけ灰がかっている。まるで何かに触れて、色が()せたみたいに。


「……どうしたの? その色」


精霊は答えない。ただ、来た方角——王宮のある方を振り返って、ぶるり、と身を震わせた。形が一瞬歪んで、元に戻る。


——精霊の色が変わるなんて、千年生きて初めて見る。


その瞬間、消えたはずの焔がちりっと疼いた。あの大広間で燃えた時とは違う。もっと冷たくて、もっと深いところから。


パピーの腕の温もりが、急に遠く感じた。


——わたしが、見に行かなきゃ。

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