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水の記憶

作者: 小乃 夜

梅雨明け宣言が出されたというのに、今年の夏は異常なほど雨が降った。降り続く雨は、アスファルトを叩き、窓を濡らし、そして、私の記憶の底に沈んでいた、ある「音」を呼び覚ました。

それは、たぽん、たぽん、と、どこかから水が滴るような音だった。

その音は、私が幼い頃に住んでいた古い木造アパートの廊下で、夜中によく聞こえていた。隣の部屋の水道管が老朽化しているせいだと、母は言っていた。だが、その音には、いつも奇妙な不気味さがまとわりついていた。まるで、誰かがゆっくりと、それでいて確実に、水の中に沈んでいくような、そんな錯覚にとらわれたものだ。

ある晩、激しい雨の音に混じって、その水滴の音がいつもより近くに聞こえた。耳を澄ますと、それは壁の向こうからではなく、私の部屋の、ベッドの下から聞こえているようだった。心臓が跳ね上がった。子供ながらに、何か尋常でないことが起きていると直感した。

布団を頭までかぶり、震えながら朝を待った。朝日が昇り、雨音もようやく小降りになった頃、私は恐る恐るベッドの下を覗き込んだ。何もなかった。ただ、古びたフローリングがあるだけだ。安堵と同時に、言いようのない失望のような感情が湧き上がったのを覚えている。なぜなら、その出来事は、私の中でずっと解決されないまま、小さな棘のように刺さっていたからだ。

そして、今、あの頃と同じような、途切れることのない雨の音が、私のアパートの窓を叩いている。たぽん、たぽん、という音も、また聞こえ始めた。

最初は気のせいだと思った。だが、音が徐々に、そして確実に大きくなっている。まるで、あの時の音が、長い時を経て、より鮮明に、より生々しく、私の現実を侵食し始めたかのようだ。

私は恐る恐る、音のする方へ耳を傾けた。それは、洗面所の、蛇口からだ。

洗面台に近づくと、蛇口からは一滴も水は出ていない。だが、それでも、たぽん、たぽん、と水が滴る音がする。まるで、蛇口の奥の、壁の向こうから、脈を打つように響いているかのようだ。

私は、息を殺して蛇口に手を伸ばした。ひねる。水は出ない。しかし、音は止まない。それどころか、音が急に激しくなった。

たぽん、たぽん、たぽん、たぽん!

まるで、何かが、蛇口の奥で、必死に壁を叩いているかのような音だ。そして、次の瞬間、蛇口から、一筋の黒い水が、勢いよく噴き出した。それは、どろりとした、まるで墨汁のような液体で、洗面台の白い陶器を瞬く間に染め上げた。

その黒い水の中から、何かが、ゆらりと現れた。それは、人の手の形をしていた。指の関節が、ぐにゃりと曲がり、まるで水中で溺れているかのように、ゆらゆらと揺れている。

そして、その指が、私の足首を、ひやりと、冷たく、掴んだ。


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