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短編小説(ホラー)

くらげも骨に会う

作者: 三羽高明

「う……うう……」


 うめき声を上げながら、みづきは体をのっそりと起こした。


 髪がバラバラと顔にかかり、服はびしょ濡れ。ひどい有り様だった。這うようにして下半身を川から引き上げる。惨めな気持ちで辺りを見回した。


 なんの変哲もないただの河原だ。みづきの住む街にも、こういうところがある。


 だが、彼女には分かっていた。ここはもう自分の知る場所ではない。自分はまったく違う世界に来てしまったのだ、と。



 ****



 ――ほらぁ、早くしなさいよ!


 事の発端はいつものいじめだった。


 ――この財布、返してほしくないわけ?


 莉子りこがみづきの財布を顔の横で振る。その後ろでは、彼女の取り巻きの少女たちがクスクス笑っていた。


 ――あんたが落としたのをわざわざ拾ってあげたのよ! 感謝のしるしにあたしの頼みくらい、聞いてくれたっていいでしょう?


 随分と恩着せがましいことを言うものだ。みづきが財布を落としたのは、購買で昼食を買おうとしていたところを莉子に突き飛ばされたからなのに。


 けれど、気弱なみづきは何も言い返せない。


 ――あたしはただ、「ことくに川」を渡って向こう岸に行けって言ってるの。簡単でしょう?


 莉子が目の前を流れる河川の反対側の河原を指す。そこは別に恐ろしい場所ではなかったが、みづきは身震いした。


 みづきは昔溺れたことがあり、そのせいで川が苦手だったのである。さらさらと水が流れる音を聞いているだけで緊張で体が強ばってくる。莉子はそのことをきちんと知っているのだ。


 だが、みづきが莉子の命令にたじろいだのはほかにも理由があった。


 ――どうしても渡らないといけないなら、別の川にしない?


 みづきはダメ元で交渉する。


 ――だって、ことくに川に入ると別の世界に連れて行かれちゃう、っておばあちゃんが……。


 ――きゃははは! 別の世界だって! 


 莉子や取り巻きが爆笑する。


 ――中三にもなってそんなあり得ない話、まだ信じてるの?


 ――で、でも……。


 ――どうせボケたババアのたわごとでしょう? ……で、あんたのおばあちゃん、元気?


 また莉子たちが笑い転げる。みづきの祖母はとっくに他界しているということも、彼女たちはちゃんと知っているのだ。


 ――ほら、早く渡んなさいよ、くらげちゃん!


 大嫌いなあだ名で呼ばれ、みづきは顔をしかめた。みづきの名前は漢字で「海月」と書くのだ。それが「くらげ」とも読めるため、いつもいじめっ子たちに「くらげちゃん」と呼ばれてからかわれていた。


 ――渡れ、渡れ!


 取り巻きたちが声を揃えてはやし立てる。こうなってしまえば、もうどうすることもできない。どうして自分はいつも何かを諦めてばかりなのだろうと嘆きながら、みづきは渋々水に足を浸した。


 途端に、体をぞくぞくとした震えが駆け抜ける。水の中で息ができなくなったときの記憶が蘇った。


 ――渡れ、渡れ!


 それでも莉子たちは容赦ない。


 みづきは息も絶え絶えになりつつも、靴下を濡らしながら川の中に入っていった。嫌な思い出がどんどん鮮明になっていく。彼女が溺れたのは、ほかならぬこの川にいるときのことだった。


 ふと、体がガクンとのけぞる。足が深みにはまってしまったらしい。


 急いで引き抜こうとしたが、すでに手遅れだった。みづきの体はどんどん水中に沈んでいく。まるで蟻地獄に入り込んだ虫のようだ。


 腰、胸、首と来て、ついにみづきは頭まで水に浸かってしまった。


 そして、次に目を開けたときにはこの河原にうずくまっていたのである。


(ここがおばあちゃんの言ってた「別の世界」なのかな……?)


 先ほどまで一緒だった莉子たちは姿が見えなくなっている。こんな状況では、いじめっ子でもいないよりはマシだ。みづきは心細い気持ちできょろきょろと周囲を見渡した。すると、少し離れた場所に人影が見える。


 後ろ姿なので人相は分からないが、体格のよい男性のようだ。みづきはほっとしながら「すみませーん!」と言って男性の元へ駆け寄った。


 呼びかけに反応し、男性が振り向く。途端にみづきは凍りついた。


 男性の顔には目も鼻もなかった。あるのはただ、顔の真ん中に真一文字に走る巨大な口だけだ。


 男性が巨体を揺らしながらこちらにやって来る。恐怖のあまり、みづきはその場に根が生えたように立ち竦んだ。


「お前、美味そうな気をまとってるなぁ」


 化け物は大きな口を開けてニタリと笑った。そこから覗くギザギザの歯とヌメヌメした舌に、みづきは戦慄する。


「味見させてくれよ、なぁ……?」


 化け物が大きく口を開いた。逃げ出したいのに体が言うことを聞かない。みづきは頭の片隅で死を覚悟した。


「みづき!」


 不意に名前を呼ばれた。化け物の頭に大きな石が命中する。それが飛んで来たほうを見ると、土手に険しい顔をした青年が立っていた。


 こんな状況でなければ、みづきは彼に見とれていただろう。腰まである艶やかな黒髪の美男子だ。華奢な体つきをしており、どことなく女性的な雰囲気の持ち主である。


 土手を駆け下りてきた青年がみづきの手を引いた。後頭部を押さえてうずくまる化け物には目もくれず、一目散に駆け出す。


「お前の気は覚えたからなぁ!」


 背後からは化け物がそう叫ぶ声が聞こえてきた。



 ****



 青年は川の近くの竹林にみづきを連れていった。


「少し休もう」


 ありがたいことに青年がそう提案した。すっかり息が上がっていたみづきは、ハアハアと肩を上下させながらその場に座り込む。


「みづき……」


 みづきが助けてくれてありがとう、とお礼を言おうとすると、青年がこちらに近づいてきた。


「俺に会いにきてくれたんだな!」


 青年に思い切り抱きしめられ、みづきは固まった。


「みづき……本当に久しぶりだ……。こんなに大きくなって……」


 青年は感動しているのか声を震わせていた。だが、みづきは何が何だかさっぱり分からない。


「あ……あの……」


 みづきは赤くなって狼狽えた。


「誰……ですか……?」


 青年がみづきから離れていく。端正な顔からゆっくりと表情が抜け落ちていった。「嘘だろう……?」と呟くのが聞こえてくる。


「みづき……俺が分からないのか?」

「……はい」


 あからさまにショックを受ける青年に申し訳なさを覚えつつも、みづきは頷いた。青年ががっくりとうなだれる。


「ひどい……。俺のことなどどうでもいいのか? 俺を捨てるのか? 俺はずっとお前のことばかり考えていたのに……」


「え……あの……」


「もういい、分かった! どこへなりとも行ってしまえ!」


 青年がしっしと手のひらを振る。


 先ほどまで大歓迎されていたのに、なぜ急にこんなにも邪険に扱われなければならないのかと、みづきは釈然としない気持ちになった。「それじゃあ……」と言って青年の元から去ろうとする。


 だが、数歩も行かないうちに進行方向に回り込まれてしまった。青年は愕然とした顔をしている。


「本当に行く奴があるか! お前は自分が置かれている状況を何も分かって……」


 サクサクと地面に落ちた笹を踏む音がした。こちらに近づいてくる巨体が見える。


「ここにいたかぁ」


 青年がみづきの腕をつかんだのと、相手がこちらに気づいたのが同時だった。河原で遭遇した巨大な口の化け物だ。


「走れ!」


 青年に命じられずとも、みづきはすでに駆け出していた。青年に腕をつかまれたまま、必死になって竹林を疾走する。


 幸いにも、あの化け物はあまり足が速くないようだった。竹林の奥深くまで来る頃には、相手の姿はすっかり見えなくなっている。


「何!? 何なの、あれ!?」


 みづきは軽いパニックに陥っていた。


「何で目がないのに、私のいるところが分かったの!?」

「あれは一口鬼だ。どんな獲物でも一口で丸呑みにしてしまう妖怪だな」


 青年がみづきをなだめるように肩に手を置いた。


「奴は目ではなく、生き物が持つ気で……要するに気配のようなものでその居所を探れるんだ。しかもひどく執念深い。一度食べると決めた相手は、どこまでも追いかけ続ける」


 みづきは真っ青になる。動揺のあまり、青年が「行くぞ」と言いながらまたみづきの手を引っ張ったのにも気づかなかったほどだ。


(私、食べられちゃうの……?)


 一口鬼の鋭い歯を思い出してみづきは鳥肌を立てた。やはりここは化け物が住む世界なのだ。こんなところにはもう一秒たりともいたくない。早く脱出しなければ。


(それに、この人だって信用できるか分からないし……)


 みづきは、美しい黒髪を揺らしながら自分の前をずんずん歩いていく青年を上目遣いで見つめる。


(知り合いだなんて絶対に嘘だ。もしかして……私を助けるふりをして、油断したところを食べようとしているとか……?)


 嫌な想像をしてしまい、みづきはぞっとなった。青年の手を振り払って安全なところへ避難したほうがいいだろうかと考え始める。


 けれど、安全なところなんてどこにあるのだろう? みづきはこの世界のことを何も知らないのだ。どうすれば帰れるのかさえ、皆目見当がつかないのである。


「ひとまずはここに隠れよう」


 青年から声をかけられ、我に返る。


 みづきは竹林に建つ小屋の前にいた。青年が戸を開ける。どうやら中に入れと言いたいらしい。


(ひょっとして何かの罠……?)


 みづきが警戒してぐずぐずと躊躇っていると、青年が焦れたように背中を押してきた。仕方なく中に入る。


「適当にその辺に座れ」


 屋内は案外普通の内装だった。あえて言うなら囲炉裏があったりござが敷いてあったりと少々古めかしいような気もするが、特に危ないものが置いてあるわけでもない。これが罠だというのは考えすぎだったようだ。


 青年は奥へ入っていった。みづきは、ござの上にちょこんと正座する。


「ここに住んでるの?」

「これは仮の住まいだ。俺が本当にいるべきなのは……」


 戻ってきた青年は意味深長な目でみづきを見つめた。傍らには手ぬぐいを携えている。


「これで体を拭け。着替えはこっちだ」


 青年が手ぬぐいを渡してきたので、ありがたく使わせてもらうことにした。初夏だから濡れた服を着ていても寒くはなかったが、制服の布地が体に張りついて気持ち悪かったのだ。


 替えの着物は青年のものらしく大きさが合わなかったけれど、この際贅沢なことは言っていられない。乾いた服に袖を通し終わったみづきは、髪をゴシゴシと手ぬぐいでこすった。


「おい、やめないか」


 青年が不快そうな顔になった。


「そんなことをしたら髪が傷む。もっと丁重に扱え」


 青年が手ぬぐいで髪を挟み、上からポンポンと叩きながら水気を取る。慣れた手つきだ。彼が美しい黒髪をどのようにキープしているのかが分かった気がした。


「枝毛だらけじゃないか、まったく……」


 青年がブツブツと文句を言う。


「もっときちんと手入れをしないとだめだろう。かしてやるからじっとしていろ」


 青年が近くの棚の中から小さな箱を取りだした。その中に入っているものを目にしたみづきは息を呑む。


「これ、おばあちゃんのクシ!」


 半月型でツタ植物が巻きついた木の絵が描かれている品だ。みづきはクシを手に取ってしげしげと眺める。


「何でこんなところにあるの? まさか……あのとき、ここまで流されちゃったとか?」


 ――おばあちゃんのクシ、いいなぁ。みづきも欲しいよ~。どこで買ったの?


 小さい頃、祖母が持っていたこのクシはみづきの憧れだった。祖母が鏡台の前で髪をくしけずる度、キラキラした目で眺めていたものだ。


 ――これはね、おばあちゃんのお母さんからもらったものなの。みづきちゃんのひいおばあちゃんね。


 祖母はニコニコ笑いながら、みづきの髪も梳いてくれた。


 ――ひいおばあちゃん? 今はどこにいるの?

 ――みづきちゃんが生まれる前に亡くなったわ。


 祖母は「ああ、そうだ」と何かを思いついたような声を上げた。


 ――おばあちゃんが死んじゃったら、このクシをみづきちゃんにあげようね。


 ――そんなのずぅっと先のことじゃん!


 みづきは不満に思ったが、その予測は外れた。それから一年もたたないうちに、祖母は帰らぬ人となったのだ。


 葬儀が終わったあと、みづきは呆然としながら近所を歩いていた。その手の中には、例のクシが握られている。


 憧れていたものが手に入った。けれど、ちっとも嬉しくない。ただただ、大好きな祖母の不在に胸を痛めていた。


 ――あれぇ、くらげちゃんじゃない!


 そんなみづきを見つけたのが莉子だった。ちょうど、ことくに川にかかる橋の上でのことだった。


 当時からいじめっ子だった莉子は、落ち込むみづきを見てバカにしたような顔になる。


 ――ねぇ、何持ってるの? 見せて!

 ――……嫌。


 莉子にものを取られたら最後、返ってくることなどない。みづきはとっさにクシを隠そうとした。


 けれど、莉子のほうが早かった。みづきの手から無理やりクシを奪い取る。


 ――きゃはは! 何これ! 

 ――返してよ! それはおばあちゃんのクシなの!


 みづきの必死の形相があまりにもおかしかったのか、莉子は「そんなに大事なものなの?」と嫌な笑いを浮かべる。


 ――じゃあ、早く取ってきなさいよ!


 莉子がクシを橋の欄干から投げ捨てた。クシはそのまま落下していき、川に落ちて見えなくなる。


 ――そんな……!


 みづきは慌てて橋を渡り、土手を駆け下りて川に入った。


 祖母からことくに川にまつわる恐ろしい話は聞かされていたが、そんなことに構っている余裕はなかった。ただ、大切なクシを取り戻そうと必死だったのだ。


 だが、川の中程まで来たときに、みづきは深みにはまり込んでしまった。小さな体がブクブクと沈んでいく。


 息ができなくなったみづきは水中で懸命にもがいた。けれど、状況はちっともよくならない。そのうちに視界が暗転し始め、みづきは死が身近に迫っているのを感じた。


 助かったのは、通りかかった近所の人が水から引き上げてくれたからだ。その頃には、莉子はとっくにいなくなっていた。


 意識がはっきりしてきたみづきは散々に泣いた。


 恐怖のせいではない。あのクシが永遠に失われてしまったのだと悟ったからだ。祖母とクシ。自分は大事なものを二つもなくしてしまった。そのことが悔しくて、でも、どうにもできなくて泣き喚いた。


 それからだ。みづきが莉子のいじめを淡々と受け入れ、何事にも諦めの姿勢で臨むようになったのは。


 だが、もう戻ってこないはずのクシが、今はみづきの手元にある。これは一体どういうことなのだろう。


「クシのこと、きちんと覚えていたのか」


 青年がみづきの手からクシを取り上げた。みづきは思わず、「返して!」と叫ぶ。


 予想よりも大きな声が出たことに、みづきだけでなく青年も驚いたようだった。気まずそうに「別に取り上げるつもりはない」と言って、みづきの後ろに回る。


「クシは覚えているのに、俺が誰かは知らないというのか」

「だって会ったことないし……」

「会ったことがなくても分かるだろう。俺はお前が誰かすぐに気づいたぞ」


 青年がみづきの髪を梳かし始める。なんだか祖母に髪を手入れしてもらったときのことを思い出して、泣きそうになった。


(もしかしてこの人、おばあちゃんの生まれ変わりとか……?)


 性別も違うし、顔も祖母には似ていないが。けれど、ここは妖怪のいる世界なのだ。そういうこともあるのかもしれない。


(……あれ? そういえば、おばあちゃんが妖怪のことで何か言ってなかったっけ?)


 みづきは頭をひねった。だが、思い出せない。


 それでも、一つだけ確信したことがある。


(この人は敵じゃない。信じても大丈夫……)


 ただの直感だが、そう言い切ることができた。青年のクシを扱う手つきが優しいからかもしれない。


(おばあちゃんも、ものには魂が宿るから大切にしないとだめって言ってたもんね。……あれ? 魂……?)


 みづきの頭の中で何かが弾ける。


(ひょっとしてこの人……)


「ほら、できたぞ」


 青年に声をかけられ、みづきの物思いは断ち切られた。髪に触れると、心なしか先ほどよりツヤツヤしている気がする。


「これはお前が持っていろ」


 青年がみづきにクシを渡す。


「ものは使う人がいてこそだ。俺が持っていたって何の価値もない」

「ねぇ、あなた……」

「それからこれだな」


 青年は部屋の隅に置いてあった羽織をみづきの頭に被せた。


「こうしていれば、お前の気を俺の気で上書きすることができる。ただし、あくまで一時しのぎだ。こんな小細工にいつまでも騙されるほど、あの一口鬼は甘くない……」


 ドンドンドン


 戸を思い切り叩く音がして、青年は話を中断した。「誰だ、この忙しいときに」と顔をしかめて席を立つ。


(一口鬼……)


 みづきは改めて自分の境遇に想いを馳せた。生きるか死ぬかの瀬戸際にいると思うと、嫌でも心臓の鼓動が早くなる。


「みづき! 逃げろ!」


 切羽詰まったような声が聞こえてきた。顔を上げたみづきは息が止まりそうになる。青年が戸口のところでもみ合っていたのは、あの一口鬼だった。


「飯ぃ、俺の飯ぃ!」


 一口鬼は狂ったように叫んでいた。みづきは羽織をしっかりと被り直し、窓から転げ落ちるようにして小屋から脱出した。


「止まるな、みづき!」


 一口鬼をどうにか押しのけたらしく、青年があとを追ってくる。


「いいか、よく聞け。今からお前が元の世界に帰る方法を教える」


「帰る方法……?」


「ことくに川だ。あれは二つの世界にまたがってかかる川。つまり、境界線なんだ。だから、世界を繋ぐ通路もあそこにある。通路が出現する場所はその時々によって違うが、探せば必ず出口が見つかるはずだ」


「でも、あいつも追いかけてくるんじゃ……」


 二人は竹林の外に出た。目の前にはこちらの窮状をあざ笑うかのように、ことくに川がゆったりと流れている。


 青年は立ち止まり、「心配いらない」と言ってみづきを慰めた。


「妖怪はあちらの世界では実体を保てないんだ。通路を渡ってしまえば、奴はみづきに手出しできなくなる」


「そっか……」


 よかった、と喜ぶべきなのだろう。だが、みづきは恐怖を覚えていた。


「川の中に入らないとだめなんだね……」

「どうした?」

「私……水が苦手なの」


 命がかかっているというのにこんなワガママ、呆れられるだろうかと思ったが、青年は申し訳なさそうな顔になってみづきの背中をさすってくれた。


「昔溺れたせいか? 怖かったよな。何もしてやれなくて本当に悪かった」

「あなたが謝ることじゃ……」

「いや、俺のせいだ」


 青年はみづきをそっと抱きしめる。


「だが、あのときとは違う。今の俺にはこの体がある。体があれば、みづきの髪をかしてやることもできるし、抱きしめることだって……。それだけじゃなく、お前を守ってやることもできるんだ」


「守ってくれるの? あなたが?」


 青年はみづきの手の中にあったクシに絡まる髪を抜き取り、自分の手首に巻きつけた。


「髪には大量の気が宿りやすい。一本だけなのは心許ないが、どうせ時間稼ぎだ。これでも問題ないだろう」


「……時間稼ぎ?」


「俺がおとりになる、と言っているんだ」


 青年は険しい顔で断言した。


「俺が一口鬼をおびき寄せるから、その隙にお前は通路を探すんだ。それで、元の世界に帰れ」


「で、でも、あなたがそんなことをする必要は……」


「みづきのためじゃなきゃ、こんなことはしない。たとえお前が俺を忘れても、俺はお前を覚えているから」


 ガサガサと竹林の中から騒がしい音がする。現われた一口鬼に向かって、青年は「こっちだ!」と叫んだ。


「待てぇ!」


 一口鬼は青年を追いかけて土手を走り去っていく。あれほどみづきに執着していたというのに、すぐ傍に彼女がいたことに気づく素振りもなかった。青年の作戦は成功したようだ。


 みづきは土手を下り、河原を渡る。川が流れる光景に目眩のようなものを覚えたが、勇気を振り絞って水の中に入った。


(あの人は……どうなるんだろう……)


 水の中をデタラメに歩きながら、みづきは青年のことを想う。


(一口鬼は……あの人のことも食べちゃうのかな……?)


 可能性がないとは言えなかった。彼がみづきを逃がしたと知れば、鬼は怒り狂って青年に危害を加えようとするかもしれない。


(でも、彼なら上手く逃げることだってできるはず……)


 いや、本当にそうなのだろうか。あの鬼の執念深さをみづきは嫌というほど知っていた。もし一口鬼がターゲットを青年に切り替えた場合はどうなるのだろう。


 みづきは足を止める。川のせせらぎが彼女に決意を促しているように聞こえた。


 昔のことを思い出す。大好きだった祖母と、橋から投げ捨てられたクシ。そして、絶望のあまり泣くことしかできなかった自分。


 それでも、クシはきちんとみづきの手元に戻ってきた。……いや、本当に「戻ってきた」といえるのだろうか。


 このままでは、このクシは魂を宿さない抜け殻になってしまうかもしれないのに。


(私……こんなところにいちゃだめだ……!)


 一人で生き延びるなんてできない。彼と一緒でなければ。大切なものが永遠に失われるのはもうたくさんだ。


 みづきは川から上がると、青年が走っていったほうに向けて駆け出した。祖母と交わした会話が蘇ってくる。


 ――ものにはね、長く使っていると魂が宿るのよ。

 ――生き物になるの?

 ――そう。付喪神っていうのよ。このクシも、もしかしたら……ね?


 祖母はおかしそうに笑った。


 憧れのクシが生きているかもしれないと言われ、みづきは興奮で顔を輝かせる。


 ――お名前は? なんていうの?

 ――そうねぇ……。みづきちゃんがつけてあげたら?

 ――ううんと……。


 みづきはクシをジロジロと眺める。どうせだから、素敵な名前をつけてあげたかったのだ。


 ――クシに描いてあるのは何の木?


 ――名前までは分からないわねぇ。でも、巻きついているツル草は「たまかずら」ともいうわね。


 祖母は紙に「玉葛」と漢字で書き記した。


 ――それにね、「たまかずら」っていうのはこういう字もあるの。


 今度は「玉鬘」と書く。


 ――こっちは女性の綺麗な髪ってことね。クシにはぴったりだわ。

 ――じゃあ、この子の名前は「たまかずら」! たまかずらのたまちゃん!


 名前が決まり、みづきは嬉しくてぴょんぴょん駆け回る。クシに頬ずりした。


 ――みづきがたまちゃんをもらったら、いっぱい使って大切にしてあげるからね!


「たまちゃん!」


 青年はみづきがいた場所から少し離れた土手で一口鬼と対峙していた。


 みづきが頭から被っていた羽織を脱ぎ捨てると、一口鬼がこちらを振り向いた。青年が目を見開く。


「みづき! 何をしているんだ! 早く逃げろと……」


「たまちゃんを置いていけないもん! 私だけが逃げたら、本当の意味であなたを捨てたことになっちゃう!」


 鬼が突進してきた。避ける暇もなく、みづきは化け物に一口で飲み込まれる。


 鬼の口内は最悪だった。ベタベタしていて気持ち悪いことこの上ない。みづきの足元で舌が不気味にうごめく。彼女を胃に収めようというのだろう。


(あなたの思い通りになんかならないんだから……!)


 みづきは握りしめていたクシを一口鬼の舌に思い切り突き刺した。痛みのあまり鬼が体を揺らすのが感じられる。


 容赦なく、みづきは口の中のあちこちをクシで攻撃していく。たまりかねた一口鬼は、ついにみづきを吐き出した。


「みづき!」


 鬼の口から飛び出してきたみづきを、たまかずらが抱き留めた。悶絶する鬼を尻目に、みづきは「たまちゃん! 行こう!」と彼の手を引く。


 二人は土手を下り、河原を横切って川に入る。


 まだ恐怖心はあったが、一口鬼の体液でべたつく体を清めてくれると思えば、水を掻き分けて進むこともそこまで悪くないような気がした。


「俺を思い出したんだな?」


 元の世界への通路を探しながら、たまかずらが尋ねてきた。みづきは「うん」と頷く。


「たまちゃんの言うとおりだね。どうしてあなたのことが分からなかったんだろう。見た目は違っても、たまちゃんはたまちゃんなのに。私の宝物だよ」


「みづき……」


「もう手放したりしないからね。約束する」


「ありがとう、みづき。俺もお前のことが何より大切だよ。……ほら、道があったぞ」


 たまかずらの体がゆっくりと水中に消えていく。みづきは彼に寄り添った。


 たまかずらに抱えられて、みづきも水の中に沈む。不思議と怖いとは思わなかった。まるで、たまかずらがみづきの恐怖を吸い取っていったようだ。


 頭まで川の中に潜り込んだみづきは、たまかずらの体の感触が消えるのを感じた。妖怪は人間の世界では実体を保てないからだろう。肺が空気で満たされていくのを感じた。元いた世界に帰ってこられたのだ。


「俺は見たんだ!」


 河原には怒声が響いていた。


「この人殺し! よくもみづきちゃんを死なせたな! 昔あの子が川に落ちたときも、どうせお前たちが一枚噛んでいたんだろう! 警察に全部話すからな!」


 怒りの声を上げていたのは、近所に住む男性だった。昔、ことくに川で溺れていたみづきを助けてくれた人だ。


 男性に怒鳴られて、莉子や取り巻きたちはすっかり縮み上がっている。人殺しなどと罵られているのだから、無理もないだろう。


「あっ、くらげちゃん!」


 莉子がみづきに気づいた。顔中に安堵が広がっていく。


「くらげちゃん! 心配したんだよ!」


 莉子が駆け寄ってきて、大げさな仕草でみづきを抱擁した。


「あたしたちはただ遊んでただけなのに、警察を呼ぶなんてひどいよねぇ? くらげちゃんも何か言ってやってよ! あたしたち、友だちでしょう?」


 被害者ぶった声を出す莉子に、みづきは心底呆れ返ってしまった。自分たちが友だちだったことなど、一度もないというのに。


 それでも、以前のみづきなら莉子の話に調子を合わせていただろう。そうと分かっているから、莉子もこんなことを言っているのだ。気弱な「くらげちゃん」が反抗することなどあり得ない、と。


 だが、みづきはもうかつての彼女とは違う。今のみづきには覚悟があった。徹底的に戦って勝利をもぎ取るという覚悟が。


 みづきは指先で手の中のクシの感触を確かめる。もう人の姿を取ることはないけれど、たまかずらはきっとみづきを見守って、応援してくれているだろう。そう思うと、どこからともなく力が湧いてくるようだった。


「離してよ」


 みづきは体にまとわりついてくる莉子を乱暴に引き剥がした。取られていた財布をその手から奪い返す。


「遊びだなんて思ってるのはそっちだけだよ。こんなのただのいじめじゃん。あと、私のこと、くらげちゃんって呼ぶのはやめて」


 みづきは莉子たちを叱っていた男性に一礼すると、さっさと土手を上がってその場を離れた。思わぬ反撃を食らった莉子は、最後まで間抜けに口を開けたままだった。


「なんだ……莉子ちゃんなんか、鬼と比べたらちっとも怖くないじゃん。……ね、たまちゃん?」


 みづきはクシに向かって笑いかける。きっとたまかずらなら、「今頃気づいたのか?」と言うだろうと思いながら。

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― 新着の感想 ―
 みづき の不遇の全ては、潰し目的に被害者面する 莉子 の利己心によって生み出されたようなものですね。  心の成長に繋がる恐怖体験は、“クシザシ”にするにも中々に骨のある相手で、気を読む辺りが空気を読…
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