1.2 ひふみ神示の見解
【お嬢様 悪治物語】は天使で、いえ、あくまで五十界が舞台の、架空とされるお話です(ᐢ ᵕ ᐢ)。
ひふみ神示の見解もプラトンの見解と同じスタンスの様です。
「_の人民がいくら集まって相談すればとて、すればする程ヤミとなるのぢゃ、行き詰って【あげもおろしも】出来んことになるのぢゃぞ、総てを数だけで決めようとするから悪平等となるのぢゃ、_をいくら並べてみても何もならん、早う改心せよ、新しきタマの選挙があるでないか」
上記の文の_の箇所は昔ながらの表現がされています。盲目や目が利かない者等に置き換えてお読み下さい。
_の人民とは、プラトンの見解での「国家の船」の比喩の総括、「元々選ぶための知識(目利き・審美眼)がない」者だと思います。
「悪の仕組通り、悪平等、悪公平の選挙でえらび出すのざから、出るものは悪にきまっているでないか、悪もよいなれど、悪も神の用きであるなれど、悪が表に出ること相成らん」
「平等とか公平とか申すのは悪魔のワナであるぞ、天地をよくみよ、人民の申す如き平等も公平もないであろうがな、一寸のびる草もあれば一尺のびる草もあるぞ、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。これが公平であり平等と申すもの。人民は選挙と申すマヤクに酔ってゐるぞ、選挙すればする程、本質から遠ざかるぞ。他に方法がないと定めてかかるから、悪魔に魅入られてゐるから判らんことになるぞ。世は立体であるのに平面選挙していては相成らんぞ。平面の数で定めてはならん、立体の数に入れよ。」
「一寸のびる草もあれば一尺のびる草もあるぞ」とありますが、これは人それぞれという事の比喩なのだと思います。
一寸のびる草が目利きの出来ない者、一尺のびる草が目利きの出来る者です。
それらをごっちゃにするから「悪平等、悪公平」となり、「悪平等、悪公平の選挙でえらび出すのざから、出るものは悪にきまっているでないか」→「選挙すればする程、本質から遠ざかるぞ」となる訳です。
「世は立体であるのに平面選挙していては相成らんぞ。平面の数で定めてはならん、立体の数に入れよ」
これは最初の文の「新しきタマの選挙があるでないか」と関連していると思います。
タマとは魂のことだと思われますが、人も中心の中心には神様が宿ると云いますので、おそらく神様を意味しているのだと思います、
また、ひふみ神示では人を横軸、神(ご先祖様、神様、大神様等)を縦軸としています(→世は立体)。
人(横軸)だけの平面ではなく、神(縦軸)も含めた立体でという事なのだと思います。
これが、本作のあらすじで述べた「神に通じる心(霊)を取り戻すこと」を想起させる為のものか、新しい集計方法(立体の数をカウント?)を提示しているのかは、今の所、全く解りません(ᐢ ᵕ ᐢ)。
以上が、ひふみ神示の見解になります。
ひふみ神示は「七ないし八通りに読める」、「身魂相当に読める」ものらしいので解釈も人それぞれになります。
よって、今示したものが正解かは判りません。また、正解であってもそれが一つとは限りません。
また、ひふみ神示には「此の方 悪神とも見えると申してあらうがな」とあります。
これは、読む人によっては『ひふみ神示』の神様を悪神の様に感じる事を示唆しています。
私はひふみ神示を良く解釈する様に努めていますが、それはひふみ神示の神様を悪神にさせたくないからです。
えぇ、絶対に!!(ᐢ ᵕ ᐢ)。
いつまでも、私の好きな(信じるではなく)神様でいて欲しいのです。
※『ひふみ神示』は、Web検索で「 ひふみ神示 全文 」で見つかると思います。