悲劇
2022年 4月
平和を謳うここ日本で、今年十二歳になった少年が金曜日の朝を迎えていた。
雲一つない空に浮かぶヒマワリのような太陽は、今日も人々を、作物たちを明るく元気に照らしている。
猫のようにボーっとした顔を浮かべる少年、鴨橋 蓮は母親が呼ぶ声で起きて、猫のように目を擦りながらリビングへと顔を覗かせた。
「おはよう」
「おはよう、蓮」
朝の挨拶を済ませて、食卓に並ぶみそ汁や目玉焼き。母の作るご飯の香りによって口の中には唾液が生まれ、お腹がグーッと、犬が唸るような大きな音が鳴る。
「いつも鳴らすね、それ」
親とは別に蓮の隣で落ち着いた視線を向ける少女、エヴァリーナがボソッと呟いた。
彼女は蓮と同級生でエヴァの親が故郷のアメリカと日本をよく行き来する事と、それから親同士が仲良い事もあって幼い頃から良く泊まりに来ている。
言ってしまえば、家族のような存在だ。
彼女の光輝く金髪はいつ見ても美しく、まさに女神のような容姿であり、そんなエヴァの碧眼は海のように澄んでいる。まるでサファイアのようにキラキラと輝いているのだ。
エヴァは沈着冷静で、バタバタと落ち着きのない蓮の言わば手綱を握る役割を担っている。
「早く食べなさい。学校遅れるわよ」
ニッコリと笑う母と、新聞と睨めっこする父とエヴァと蓮。食卓を囲んでいつもの光景が時を進めた。
「蓮、エヴァ早く!!」
学校を終えて二人よりも数メートル先に立ち、ヒマワリのように元気良く手を振る少女はまさに太陽の擬人化のように眩しい。
彼女の無垢な笑顔は近所でも有名で、学校一の人気者だ。
「お前、いつも元気で良く飽きないな」
「蓮も変わらないよ」
「変わるわ!」
「変わらない」
「はーやーくー!!」
蓮とエヴァの小さな言い合い何て知ったこっちゃない。と言わんばかりに更に大きな声で少女が叫んだ。
「ちょっと待てよ、一夏」
「一夏は眩しい。相変わらず」
「えへへへ! てか二人が遅いんじゃん!」
照れくさそうな笑顔の次の瞬間には少しばかり不服そうな顔を浮かべるその様子は、まるで表情を切り替えるスイッチがあるかのようにキッパリとしている。
彼女の名前は、一条 一夏。近所に住む二人の同級生で、蓮たちの幼馴染でもある。
穢れの知らない純粋な感情を見せて真っすぐな瞳は様々な人を笑顔にするとても明るくお転婆少女なのだ。
そんな一夏が、ワクワクさせて向かう先は蓮の家だ。
四月と言う事で進級した事によって毎日学校生活では新鮮な出来事が起きている。
人懐っこい子犬みたいな性格の一夏は、色々な出来事を自分の親同然のように慕っている蓮の親に話したくて仕方が無いらしい。
一夏の速足に否応にも従った事で、いつもよりも早く家に到着する。
「ただいま」
「おばさん、おばさん。ね! ね!」
「ちょ、一夏!」
玄関をくぐるなり蓮を押し避け、靴を乱雑に脱ぎ捨てた一夏が誰よりも先にリビングへと向かって行く。
そんなお転婆少女の後姿を見て、蓮は一つのため息を零す。
「ったく」
静かな空間に響くのは一夏の足音と蓮の小さなため息の音。
「ねえ、静かすぎじゃない?」
静寂に対して疑問を抱いたヱヴァがボソッと隣の蓮に言う。
「母さん、寝ているんだろう」
ヱヴァにそう答えた蓮であったが、確かに違和感を抱いていた。
静か過ぎる、と。
先に向かっていった一夏の声も何一つ聴こえない。
無意識にも二人は顔を見合わせ、その歩幅が大きくなっていく。
廊下を抜けてリビングに顔を覗かせる。
『たった今、政府から発表がありました』
突如としてテレビの電源が入り、画面の奥にて戸惑いを隠せないニュースキャスターが読み上げていく。
しかし、そんな言葉なんて蓮たちには届いていなかったのだ。
目の前には幽霊を見て腰を抜かせたかのように、一夏が尻餅をついており、尻の位置にリモコンがある事からテレビが点いた理由が分かった。
『去年末頃から政府にて突如として海外に対する完全な情報の遮断が発表されてから約五か月。またしても突然な発表がありました』
「どうした、一夏」
そう口にした蓮であったが、答えを聞くまでもない。
蓮の視界の先、数メートル先には全身血まみれの姿で操り人形のように天井から糸で吊るされている母の姿があったのだから。
一夏は涙を流すことなく膠着し、蓮もまたその現実を認識するのに今しがた時間が必要の様子。
『去年末、アメリカ合衆国が何者かの陰謀によって滅亡しましたと首相から発表がありました。唐突の出来事であり、未だ詳細等は確認中でありますので情報が入り次第、追って報道したいと思います』
「え――」
二人の時間が氷のように凍ってしまっている中、ただ一人、エヴァだけがテレビへ視線を向けて抜け殻から漏れ出るような声が口から転び落ちた。
エヴァの故郷はアメリカだ。
目の前で起きた異常で有り得ない出来事に蓮や一夏のように凍り付いていたのだが、しかしテレビから漏れ出た故郷の名にいち早くエヴァは反応した。
「パパ、ママ」
ガシャン!!
テレビ越しに聞こえるアナウンサーの声とは別に、リビングの奥、つまりはキッチンから何かが落ちる甲高い音が響く。
「母さん。母さん――」
しかし蓮は変わり果てた母の事で頭がいっぱいだ。
空虚な瞳で見据える先に映る無残な姿と化してしまった母を抱きしめるように、抜け殻となったふらふらした足取りで蓮は一歩、また一歩と母に歩んでそしてすがった。
「母さん!! なあ、なあ!! 何とか言ってよ、母さん!」
エプロンを思いっきり握りしめて、母の顔を拝む。
血まみれの顔には絶望が刻まれている。今まで見てきた母の顔とはまるで別人である。
蓮は叫んだ。心の底から泣き叫んだのだ。
「おばさん、何で、なんで!!」
蓮の嘆きが、一夏を動かした。
小鹿のように震えながら目の前で起きた現実を必死に否定しながらも、しっかりと呑み込もうとしている結果、そんな悲鳴を腹の底から吐き出す。。
ガシャン!
そしてもう一度、キッチンから同じ音が響く。
「……に、げ、て」
「え?」
「蓮!!!!!」
母が最期に振り絞った言葉の直後、蓮はエヴァによって吹き飛ばされる。
「蓮! エヴァ!」
「な、何が起きてんだよ!?」
エヴァと一緒に起き上がった蓮。どうやらエヴァが蓮を庇った様子だ。
何かが勢いよく押し寄せたのか。リビングには一夏と蓮たちを境に、大きな亀裂が地面を裂いていた。
コロンっと状況が追い付かない中、蓮の手元に何かが転がって来る。
「かあ、さん――!!!!」
それは母だった。
先ほどまで吊るされていた母が、首から上だけとなって蓮の前に転がって来たのだ。
何かによって切断され、迫って来た衝撃波のようなモノが母に直撃したのだ。
「誰か、いるよ」
エヴァがボソリとキッチンを見据えてそう呟く。
母を切り裂いた衝撃によって僅かに自我を取り戻した二人がキッチンを見据えると、タン、タンっとゆっくりとした足並みで何者かが顔を覗かせる。
成人男性よりも少し小さな身長に、少しばかりやせ細った容姿。両手を前でプランプランとしている手は手長猿のように長い。そして全身は繭のように真っ白であった。
何よりも特徴的だったのは尖った耳である。両耳ともに三センチ近く尖っている耳は間違いなく人ではない何かを指していた。
「人間を殺す」
ぼそりと呟いた何かは、無垢な子供である三人でもハッキリと感じ取る事が出来る殺意を帯びており、エヴァと一夏は言葉を失ってウサギのように小さく丸まった。
ただ一人を除いて――
「お前が、お前が母さんを殺したのかッ!」
母を殺された悲しみや、憎しみ、それから怒りが混ざり、化学変化を起こした結果、争いを知らなかったどこにでもいる子供であった蓮は、鬼神のような形相で謎の者に殺意をぶつけるべき、立ち上がった。
「蓮!!!」
エヴァが叫ぶが異様すぎる空間と突然すぎる日常の崩壊にエヴァの足は動かない。
一夏も同様に、生まれたての小鹿のようにただ震えている。
「死ねえええ!!!」
「邪魔だ。ガキ」
獣に挑む小動物のように、無謀で無茶な勝負は一瞬も立たずに決着が付く。
誰もが予想をしていた通りの結果、蓮の怒りがどれほど強大であり、それが身体を動かす発火剤となったとしても所詮は子供だ。
近づくなり思いっきり腹を蹴り飛ばされて壁に背中を強打し、意識がローソクの炎のように揺らいだ。
「……さん、かあ、さん」
意識が朦朧とする中、亡者となった母の顔を見て、涙が頬を伝う。
俺は――無力だ。
腹を蹴り飛ばされた事で胃が凹んだのか。今は息をするのでいっぱいいっぱいだ。
「ガキか、殺すか?」
尖った耳の奴は蓮たちを見渡して、少しばかり考えるように首を傾げる。
「まあ、いいか」
しかし数秒足らずで考える事を辞め、答えを出した様子。
尖った耳の奴が最初に選んだのは一番の瀕死である蓮だった。
尖った耳の奴の視線は蓮に向けられ、死神の魔の手が差し掛かろうとしている。
「ふざけんじゃないわよ! あんた、あんた!」
「ん?」
聞いた事も無い大きな声。
普段冷静沈着で蓮のような活発さも、一夏のような明るさも持たないヱヴァから発せられた声だった。
尖った耳の奴よりも、彼女をよーく知っている二人の方こそ驚いた表情を浮かべる。
「なんだ、お前」
エヴァは覚悟を決めた顔を浮かべ、地面に転がっていたリモコンやハサミを尖った耳の奴に投げつけたのだ。
奴にとって所詮は子供の悪あがきだ。そんなの痛手になる訳がない。
蚊が飛び回っているぐらいの鬱陶しさぐらいにしか思っていないだろうけれど、それが蓮の命を繋ぐ一瞬の時間を作り出したのだ。
バタンッと、遠くで扉が開く音が聴こえると共にダダダダっと駆ける音が一つ。
「お前、何やってんだ!」
目の前で尖った耳の奴が誰かによってタックルされて吹き飛ばされた。
「蓮、エヴァ、それから一夏、オイ、生きているか!?」
野太い男の声。
その声が聴こえると、胸の奥が急激に暖かくなる。
恐怖や不安が沈静化するように、心の中でざわついていた風が少しずつ弱まって行く。
先ほど流した涙とはまるで違う意味を持つ涙が蓮の頬を再度伝った。
「父さん!」
朦朧とする意識の中、確かに父が目の前に立っていた。
辺りを見渡して状況を確認した父は、再び野太い声で三人の名前を叫んで安堵感を与える。
そして父は即座に、蓮を担いでエヴァと一夏の手を握って声を上げた。
「行くぞ、走れ!!」
父は走った。玄関まで、全力で。
「大丈夫か、蓮!」
「おじさん、何でここに。お仕事は?」
「後で話す。ただ、今は逃げる事を考えるんだ。今、この国では何かが大きく動き始めている」
エヴァの質問に汗を垂らしながら答えた父は、大泣きをする一夏に声を何度も掛けながら走り続ける。
「いいか、このまま走り続けるんだ。安全な場所まで」
一体何が起きているのか。全くもって蓮を含めた三人とも頭が追い付かない。
つい、数十分前までは日常がそこにあったのに、まるで別世界にタイムスリップしたかのように日常だった場所はまるで別のモノへと変化を遂げている。
「逃がさない」
「うっ!!!」
何かが父の足に絡みつき、父は態勢を崩してしまう。
その勢いと父の行動によって蓮は投げ飛ばされてしまうのだが、何とかエヴァと一夏が蓮を庇った。
「平気、蓮!?」
一夏の言葉にコクリと頷いた蓮。
少しばかり呼吸が落ち着き、何とか動けるぐらいには回復したようだ。
「父さん!!」
態勢を崩した父の足には透明な糸が何重にも巻き付かれており、さながら蜘蛛の巣に捕まった蝶のようだ。
「逃げろッ!!!!」
普段は物静かな父の魂の叫びは、蓮たちの心に訴えかけて来る。
「父さん!!!」
ズルズルと父の身体が引きずられて行く。
真っすぐと走り抜けて来た蓮たちの我が家から。
言うまでもなくあの化け物だ。そして父は奴に捕まり、死神の元へ連れ戻されようとしていた。
「待って、蓮!!」
「離せ、エヴァ!! 父さんが、父さんが!!」
「いいから走れ、お前たち。俺はもう――だめだ!」
「やだ、やだよ!」
「蓮、後は頼んだぞ。お前は俺の子だ。立派に生きろ!」
涙を堪える父は最後に満面の笑みで蓮の瞳を見つめた。
父は自分の最期を受け止めたんだ。
何も出来ない子供が三人。近くの大人を呼んだとしてもあの化け物に勝てるわけがない。そんなの十二歳の子供の知能でも解る。
それはつまり父を見捨て、背中を向けて逃げる選択肢を取れと言う事でもある。
覚悟をしないといけない。決意を行動に移さないと行けない。
なにがなんだか分からないけど、そればかりは今、やらなければならない事なのは確かだ。
蓮は下唇を噛み締めて、大粒の涙を拭って、大きく深呼吸をする。
「走るぞ、二人とも!!」
背後の二人に声を掛けて、小さく謝罪を口にした蓮は足に力を入れて走り去った。
そう、父を置いて。
自分の無力さを呪いながら、あの瞬間からの悲劇に憤怒しながら、そして生きる為に、蓮は走り続けたのだ。
「蓮、置いてかないでくれ――」
父から零れ出た最期の言葉は、自らの手で口を覆った事によって蓮たちには聴こえなかった。