お巡りさん日和・その2
異世界の朝はかつての日本に比べ、なにかと世話しなく人の気配が往来していた。
まだ日の出からいくらかの時分だというのに、すでにいくつかの屋台の先には鼻をくすぐる良い香りが並べられている。
丸い深めの鉄皿、そこに満たされたカレェ汁の上に黄身のぷっくりとした目玉焼きが乗せられたものがいくつも。
そこに香ばしい麦餅も並び、明け方飯としてはなんとも豪勢な組み合わせである。
もちろん、それらは帝都・桜国の標準的な朝餉ではない。
夜勤明けの空腹どもを狙ったメニューである。
栄虎にも世話になった覚えが何度もあるが、異世界でスパイスの精製に違いがあるのか、香りも味もかつての日本とは段違いに強い。
一晩の仕事のあとに口にすると、なるほどそれは実に美味いのであるが……。
「おぅ、百弥のボンズか。今日も朝の散歩かい? ホレ、少しつまんでいくかね」
「あ、おはようございます。いえ、さすがに今日は遠慮しておきますよ。これから初出勤ですからね。カレーの匂いを撒き散らすのも……アレですし」
「んん? あぁ、そういえばもう学徒殿ではなくなったんだっけな。たしかにたしかに! そりゃ食えねぇわな! まぁいいや。そのうち夕方どきにでも店を訪ねてくれや。虎徹の嬢ちゃんもまたヨロシクな?」
「はいッ! そのときはカレェ、ごちそうになりますッ!」
これから腹を満たして布団に潜り込むだけならばともかく、なにせ歯磨きをもう一度済ませて口をすすいでも、そもそも食べてるうちに服にも匂いが移るので、普通は朝食には選べない。
(異世界で普通にカレー食えるとは思わなかったよなぁ。そもそも実家の料理屋がアレな。普通に中華料理とか出してたもんな。食事系はわりと覚悟してたんだけど……嬉しい誤算だったな)
転生前の自分もそれなりに料理はできていたが、よくあるライトノベルの主人公たちのようにマヨネーズなど1度も作った試しがない。
それ以外、各種調味料はもちろん、あまり凝ったような料理……たとえばホワイトシチューやら、あとはケーキのような菓子関連についても諦めていた。
が、いざ新生活を始めてみればどういうことか、食に関しては前世とあまり変わらないという素晴らしいオマケが付いてきた。
多少の文化のズレはもちろんあったが、おおむね許容範囲として納得できるものであったのも幸いだろう。
「料理、料理かぁ。宿舎の調理場、けっこう揃ってたなぁ。日曜……じゃねぇや。陽花の祝日とか、ご飯出ないって言ってたし、またなにか作るかぁ」
「はいッ! 虎徹は主殿の料理も大好きですッ! とくにカツレツは是非とも、是非とも……ッ!」
「ハハッ、目ぇキラキラし過ぎだってば。うん、そうだな。次の休みはとんかつ作るかぁ」
前世の知識と、料理屋の倅として手伝いの日々。
加えて娯楽が―――あくまで前世と比べての、栄虎の価値観によっての話だが―――少ないこの日之本では料理の時間は楽しみのひとつであった。
本人には自覚は無いだろうが、栄虎の手料理をご馳走とする学友はそこそこの人数に届き……召還してからここまで、なにかと口にする機会の多い虎徹はしっかりと虜にされていた。
「まぁ、それも仕事次第だろうなぁ。バイトで用心棒ゴッコするのとは責任も違うし……疲れて料理どころじゃなくなるかもしれないし」
「そのときは虎徹がお手伝いしますッ!」
「料理はする前提なのね? 正直なのはキライじゃないけどさ。さて、もう少しフラフラしたっていいかな……と、あれは」
◇◇◇
疑わしきは、といったところか。
おそらくは夜通しで酒を浴びていたのだろう、いかにも乱暴な押し出しの3人組が堂々と歩いている。
それだけならば無害なのだが、やはり充分に酔いが回っているせいか、どこか目付きが暴力的であった。
もちろん周囲の民衆は心得たもので、触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに遠慮して道を譲っている。
だが、不運というものはどうにも起きるモノである。
「あぁん? テメェ、オレに文句でも言いてぇのかッ!?」
「え? あ、あの、手前は別になにも」
「んだとッ!?」
「テメェが兄貴にガンつけたんだろうがッ!」
「先に喧嘩売っといてよぉ、別になにも、じゃねぇだろうがッ!」
憐れなことに、どこかの小間物屋の店先でホウキを握っていた丁稚がさっそく巻き込まれていた。
「主殿」
「うん、まぁ……春だからね、暖かくなったからね。こういう連中もボチボチ増えるんだろうね……イヤな風物詩だなぁ」
交通機関がまだまだ発展途上なこの世界では、移動が楽になる雪解けのあとにこうして厄介な揉め事を起こす輩が増えやすかった。
大抵は他所から転がり込んできた連中で、残りは権力を振るいたがりの俗物である。
身なりからして前者であることは一目でわかるが、こういう連中についても普段は見廻組が取り締まるのが早い。
今日は間の悪い日だったのか、それとも。
「あー、お兄さんがた。それくらいで勘弁してもらえませんですかね? お兄さんたちみたいな立派なガタイの人に凄まれたんじゃ、それだけで参ってしまいますよ?」
「あぁん? テメェ、オレに文句でも言いてぇのかッ!?」
(あ、これダメなパターンだわ)
幸いにしてターゲットが丁稚から自分に向き直したのは良いのだが、これはどう話が転がっても穏便には済まないだろう。
経験則からすでに栄虎はこのあとの展開について諦めることにした。
こうなると、あとはこの破落戸どもの背後に誰がいるかだが。
「このクソガキ、天下の萩腹屋の抱えであるオレらぁに喧嘩売ったんだ、覚悟ぁできてんだろうなッ! あぁッ!?」
「萩腹屋さん……またあそこか……まぁいいか。それなら遠慮しなくてもいいもんな。評価が上がらなくて済むし」
「なにブツブツいってやがるッ!! テメェ、死んだぞコラァッ!!」
ひとりが、兄貴と呼ばれていた男が懐からついに刃物を抜く。
それに釣られるように、取り巻きふたりも同じように匕首を取り出した。
もしも。
もしも彼らが素面であったなら、もしかしたなら異変に気がつけたかもしれない。
ひとり、いや後ろに控える虎徹を合わせればふたりなのだが、とにかく少年に刃物を向けて囲んでいる光景を見ているのに、周囲の反応はかなり鈍い。
もちろんそれは、民衆が心無いからではない。
彼らは知っている、ただそれだけのことだ。
「……まぁ、条件は満たさないよな、うん。仕方ない、普通に済ませよう」
「くたばれやクソガ―――げぼぉッ!?」
兄貴が匕首を突き立てるよりも速く、栄虎の仕込み杖が鳩尾に深々と突き刺さる。
もちろん本当に肉を破る勢いではなく、しっかりと手加減をしているので致命傷には程遠い。
が、完全に油断しているところへの一撃である。
夕べの飲み食いを吐き戻しこそしなかったが、この世の終わりのような顔で転げる様である。立ち上がることは難儀だろう。
目の前の光景に一気に酔いが覚めたのか、やはり取り巻きふたりも別の意味で顔色が悪い。
だからといって手心を加えてやるほど、いまの栄虎はかつて日本にいたときほど惚けたようなことはない。
一言も許す間もなく、やはり的の大きい鳩尾に拳の一撃を。
もうひとりについては慣れた様子の虎徹が、こちらは手刀で胃袋を突き上げ破るかという勢いであった。
「が……びゃ…あ、あ、ぃあ……て、テメェ、オレらぁ、萩腹屋の抱え…だ、ぞ……ッ!? 萩腹屋の後ろ楯にゃあ……なぁ……ッ!!」
「知ってるよ。桜国軍の偉い人がご贔屓なんだろう? だからこそお兄さんたちには遠慮は必要ないだろうってことね」
「な、にぃ……?」
前回にも少し触れたかもしれないが、この栄虎、異世界に飛ばされたからといって出世欲が出てきたりなどということはなかった。
彼が嗜んでいた娯楽―――ゲームやらマンガやら、時代の流行りというものか、どうにも英雄というのは面倒事ばかりで楽しいモノではなさそうだ、と。そういう手合いである。
だからこそ、こうした後ろ楯を持つ連中を遠慮なく叩きのめすことができると考えていた。
なにせどれだけ派手にやらかしても、襟章の豪華な面々が恥じ隠しのために握り潰してくれるのだから。
「さてさて。このままじゃあ往来の邪魔だな。ちょうど雪解けで川も水かさあるし……あとはまぁ、頑張ってね?」
「は? ま、まさか……テメェッ!? ふざけんな―――のぉあッ!?」
「もひと~つ、そぉい」
「ちょ、おまッ!?」
「それでは私も」
「まてッ! オレらが悪かった―――どあぇッ!?」
ボチャンボチャン、もひとつボチャン。
酒が入っているだけでも危険だというのに、さらには倒れるほどの打撃を打ち込まれた身である。
いくら川の水も多少の温みがあるとはいえ、下手をすれば命を落としかねない。―――前世の日本であれば。
この世界では魔力と霊気と、そしてついでに妖気なども存在するだけあって、人もなかなかどうして頑丈なものだ。
人間同士の戦いでは別として、この程度では簡単には人死には出ないことを栄虎は知っている。故に遠慮はまったくないのだ。
「んー、なんだか散歩って気分じゃなくなっちゃったな。よし、帰るか。まだ朝ごはんには早いけど、お茶でも飲んでのんびりしようか」
「はいッ! 帰ったら虎徹がすぐに整えますねッ!」
「うんうん、元気で働き者だね~虎徹は。でも急須の中で茶葉をかき混ぜるのは止めてね?」
◆◆◆
「相変わらず手際よかったな」
「本当にな。まったく、捨てる神あれば拾う神ありってのは、こういうことなんだろうな」
たったいま目の前で荒事が起きていたとは思えないほど、住民たちは当たり前の日常に戻っていた。
いや、何人かはそうでもないらしい。
絡まれていた丁稚などは、いったい何事だったのだろうかとすっかり呆けてしまっている。
「あ、あのぉ……旦那様、さっきの人は……」
「ん? あぁ、お前は春の頭に奉公にきたばかりでしたね。えぇ、先ほどの……いまですと少尉殿にご昇進なされたのかな? とにかく、百弥少尉殿ですよ。熱心に見廻りをしてくだすっている、えぇまぁ、頼りになる軍人さんです」
「軍人さん……でも、着物でしたけど」
「どうにも少尉殿はそういう格好が好みのようでしてね。サーブルの代わりに刀を携えるくらいには古風を好むようで。お陰様でウチの店にも紬の良いところをお求めにきてくださることもありますので、お前も覚えておきなさい」
「は、はぁ……っていうか、大丈夫なんですか? その、助けてもらっておいてなんですけど、その、あの人もそうですし……ウチの店も……」
「本来なら大変なことになるのでしょうが……この場合は大丈夫ですよ。言ったでしょう? 頼りになる軍人さんだと」
栄虎に英雄願望はないが、後ろめたさもなく誰かを見捨てることができるほど薄情者でもない。
生きるために邪魔になるような倫理観は封じ込めこそしたが、そこにたどり着かないような価値観については前世に近いままだからだ。
故に、人助けについて、暴力沙汰でも躊躇わない。
彼の抱える特殊な事情から、仮に義父より刀の扱いを教わらなかったとしても、そのスタンスは変わらなかっただろう。
そして、栄虎は目の前の争いを黙らせるだけで終わりにはしないようにしている。
暴れている連中を懲らしめたところで、大概はそれは一時的なモノでしかなく、自分が離れれば性懲りもなく繰り返すだろうと考えているからだ。
それはいわゆる、物語の主人公が“良かれと思って”動いたものの、後々に……というヤツである。
そんなことがあれば寝覚めが悪い。
故に、徹底的に締め上げる。それこそ、2度とおいたができぬように。
知られなければそれでよし、あるいは手柄になるようなことになったとしても、握り潰されるか横取りされるか―――いや、してくれるから安心できると考えている。
と、栄虎は彼なりに人情と打算を塩梅良く加減しての人助けのつもりなのだが……そんな事情など、助けられる側が知るはずもなく。
「ひとつ間違えば辻斬り紛い……あぁ、紛いというかそのものだったこともありますが。もちろん葬儀屋や坊主を呼ぶようなことはいまのところありませんがね。まぁ、正義がと聞かれれば難しいところでしょうが、帝都で少尉殿に助けられている者は大勢いるでしょう」
「偉い人が相手でもお構い無し、ですか。なんというか……そんな、絵巻とか演劇の主人公みたいな人、本当にいるもんなんですね」
「えぇ、まったくです。まぁ、そういうことですから、お前も少尉殿については軽々しく言いふらすマネは控えるようにしなさいね? 沈黙は金、少尉殿が不自由になれば不埒な連中も元気を取り戻しますからね……」
上手に立ち回れていると思っているのは本人だけ、である。
軍内部の評価はある程度は想定通りだが、民衆の中の評価はすこぶる好調なのであった。
一応、栄虎なりに衆目というものについて、そこまで蔑ろにしていたワケではない。
刀の代わりに鉄芯の仕込み杖を持ち歩いたり、軍服よりも羽織袴での出歩きを好むのも、人々に無駄な威圧感を与えないためである。趣味でもあるが。
言葉の使い方も堅苦しくないよう、偉ぶることのないように気を付けている。
が、当たり前だがそんなことをしたからといって人々の評価が下方向に修正されるワケがない。
昼間にこうして堂々と厄介者をぶちのめしている時点で手遅れに決まっている。
むしろ“普段は丁寧だがいざとなれば悪党どもを許さない頼れる軍人”として皆が認識しているくらいだ。
ちなみに栄虎は“丁寧な態度だがいまひとつ頼りない若い軍人”のつもりである。本気で。
SNSも個人単位の通話装置も無い世界だが、今日もまた、百弥栄虎の武勇伝は民衆に広がるだろう。
モブ軍人のひとりとして生きる予定の本人の思惑を完全に置いてきぼりにして、である。